平成十八年三月二日(木)
午前十時
BGM : I OFTEN DREAM OF TRAINS / ROBYN HITCHCOCK
朝から憂鬱な出来事に遭遇してしまった。自宅を出て仕事場へ向かう途中のことである。住宅街の路地で、老いた女性が小学生の男の子を持てあましていた。一見したところ祖母と孫だと思われ、実際あとでそうだとわかったのだが、大暴れしている男の子はうちのセガレより体がだいぶ大きかったが声変わりはしていなかったから、小学校四年生ぐらいだろうか。彼はランドセルを放り出し、路上に座り込んだり寝そべったりして、「ほら、ダメよ、学校に行かなくちゃ」と言って腕を引っ張る祖母に「うぉお」とか何とか叫びながら抵抗していた。狭い路地で、車も通るので、見ていて危なくてしょうがない。老女はどうしたらいいかわからないという表情で途方に暮れていた。
「大丈夫ですか?」
思わず声をかけた。べつに何か手助けしようと思ったわけではない。手助けできることがあると思ったわけでもない。黙って通りすぎるには状況があまりにもヘヴィだったというだけのことだ。何が起きているのか知りたいという野次馬的好奇心もあったかもしれない。いずれにしろ私は「いえ、何でもありませんから」という答えを予想していた。たぶん彼と彼女にとっては「いつものこと」なのだろう。
「あの、携帯電話をお持ちでしたら、お貸しいただけないでしょうか」
意外なことに、老女はとても具体的な頼み事をしてきたのだった。携帯電話が必要だということは、本人にとっても非日常的な緊急事態だということだ。
学校に電話をしたいのだという老女から番号を聞きながら数字を押していると、その間も男の子は「があ」とか「ぐわあ」とか言いながら暴れている。やがて老女の「痛い痛い」という声が聞こえてきた。見ると、男の子が老女の腕に噛みついている。電話をかけている場合ではない。
「こら、やめなさい! おばあちゃんに向かって何てことするんだ!」
男の子を力ずくで老女から引きはがしながら、近隣に聞こえるような大声で怒鳴りつけたのは、わさわさ人が出てくれば私にかかる負担が少しは軽くなるような気がしたからかもしれない。それぐらい「手に負えない感じ」だったのだ。でも、誰も出てこなかった。立ち止まる通行人もいなかった。私だって、朝の忙しい時間帯にいちいち家から出て行ったりはしないだろう。まあ、立ち止まりはしたわけだが。
「すみません。わたしが電話しますから」
老女がそう言うので「かけ方わかりますか?」と言いながら携帯電話を渡した。すると、その隙に男の子が走って逃げ出したのだから参るじゃないか。逃げたら誰か追わなきゃダメじゃないか。老女は電話してるから私しかいないじゃないか。
走った。「待ちなさい!」と叫びながら人を追いかけたのは生まれて初めての経験かもしれない。警察官にでもならないかぎり、人は「待ちなさい!」と言いながら人を追いかけたりしないものだ。路地を右に行ったり左に行ったりしながら、百メートルぐらい走っただろうか。たまに振り返ったが、老女の姿は見えない。このままはぐれたらどうしよう、と猛烈に不安になった。おれの携帯電話はどうなるのだ。ああ、しかしそうか、誰かに携帯電話を借りて電話をすれば連絡はつくよな。
などとアレコレ考えながら、ようやく私が追いつくと、男の子はまた路上に寝そべって「いやだ、いやだ」とか「さよなら、さよなら」などと言った。語彙が極端に少ない。ほとんど幼児語である。こういう子供のことをどう表現すべきなのかよくわからないが、まあ、要するに、年齢にふさわしくない知性を持つ一群の子供たちの一人なのかな、という印象だった。でも、「あの人はおばあちゃん? お母さん?」と訊くと、「おばあちゃん」と素直に即答するから、まったくコミュニケーションが成り立たないわけではないらしい。
しかし、私が「そんなところに寝てちゃダメだ。おばあちゃんのところに戻ろう」と言うと、また「さよなら、さよなら」と手を振って私を追い返そうとする。私だってさよならできるものならしたいが、行きがかり上そういうわけにはいかない。車も通るから、轢かれたりしたら大変だ。
しばらく押し問答していると、学校への電話を終えた老女がモタモタとした足どりでやって来て、「○○先生が来てくれるって」と孫に向かって言った。
「どうもありがとうございました。あの、お金はいかほどお支払いすればよろしいでしょうか」
私に携帯電話を返しながらそう言うので、「いや、それはお気になさらないでください。そんなことより、お孫さんを追いかけないと」と答えた。また男の子が逃げ出していたからだ。追いかけようかとも思ったが、なんとなく、これ以上は関わるべきではないような気もした。老女も、感謝の言葉を口にする一方で、あまり関わってほしくなさそうな表情をしているように見える。それに、学校はそう遠くないだろうから、先生が到着するまで大して時間はかからないだろう。男の子も、私が怖くて逃げていただけで、見知らぬ大人がもういないとわかれば逃げないかもしれない。
孫の後を追う老女の背中を見送りながら、ではこれで失礼しますと言って歩き出そうとしたときに、自分が見たことのない風景の中にいることに気づいて、こんどは私のほうが途方に暮れた。どこだここは。毎日通っている通勤ルートなのに、ほんの百メートル逸れただけで、右も左もわからない街になってしまうのである。夢中で追いかけたので、どこをどう曲がったのかも思い出せない。ヤマカンでうろうろしているうちに、なんとか見慣れた通りに出ることができたが、なんだか、とても遠いところまで出かけてきたような気分だ。