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1. Dedicated to the One I Love
2. Ooh Baby Baby
3. And When I Die
4. Save the Country
5. Wedding Bell Blues
6. Walk on By
7. Let It Be Me
8. Light a Flame (The Animal Rights Song)
9. Louise's Church
10. Woman of the World

平成十九年五月三十日(水)午前十時五十分
BGM : Live In Japan / Laura Nyro

 きのうは午前中に日誌を更新し、その後も午後2時すぎまで何度か加筆したので、加筆が終わる前に読んだ人には意味が通じないところもあるだろうが、かまわずにきのうの続きから始めると、ここで最大の謎なのは、ヤマグチを名乗る男が、中国女の「主演」による第1幕(NTT編)の電話を私が嘘だと判断していることを知りながら、あえて私に第2幕(千代田警察編)の電話をかけてきたことである。

 もし、ターゲットが「NTT」と「千代田警察」の両方を本物だと信じなければ詐欺のシナリオが成立しないのであれば、私が中国女をテキトーにあしらって偽の電話番号を聞き出した時点でNTT編は失敗しているのだから、当然このオペレーションはそこで「中止」だ。第2幕はない。ところがヤマグチは、「続行」を選んだ。なんでだ。やはり、あえてターゲットに「NTTを名乗る中国女が自分を騙そうとした」と思わせることが第2幕の布石になっている(つまり第1幕は詐欺師が詐欺師を演じた)のだろうか。

 しかし、「NTTからの催促」が本物だと思わせなければ、NTTが被害届を出したという架空の犯罪が成立しないことがバレる(NTTは警察に被害届を出す前に利用者に滞納料金を催促するはずだ)から、それはあり得ない。だとすれば、もしかするとヤマグチは第1幕が成功したと思い込んでいたのだろうか。自分の失敗を認めたくない中国女が、共犯者のヤマグチに対して、「うまいこと騙したアルヨー。あの男、頭悪いネー。アタシの言うこと信じて慌ててたヨー」などと嘘の報告をしたのかもしれない。うんうん、あり得るあり得る。その場合、なにしろ「詐欺の共犯者を騙す」なのだから、図太いんだかバカなんだかよくわからないが。

 しかしよく考えてみると、何者かが私の個人情報を悪用して携帯電話を契約したのなら、NTTから滞納料金の催促が来る以前に、利用料金の請求書が私のところに何通も届いているはずである。それが届いていない以上、たとえ私が「中国女の催促」をNTTからの催促だと信じた(つまり第1幕が成功した)としても、第2幕でヤマグチが話した架空の「犯行」が真実だと信じさせることはできない。第1幕の電話があろうがなかろうが、ターゲットが「請求書が来ていない」ことに気づいただけで嘘がバレるのである。

 もし、その「不正契約」における請求書の宛先が私の住所とは別の場所だという「設定」になっているのであれば、請求書や催促が私のところに来ていなくても「犯行」が嘘だという証明にはならないが、その場合は、中国女に電話をさせる必要がない。電話すると、かえって話がおかしくなってしまう。つまり、どっちにしても中国女の出番は不要で、つーことは「NTT編」と「千代田警察編」は別々の詐欺電話だってことか? うーむ。

 たぶんこの文章は読むのがとても面倒臭いものになっているはずだし、私自身すでに書きながら何が何だかわからなくなりつつあるので、もうやめる。こういうのは苦手だ。ミステリを読んでいても、この手の説明はたいがい放心しながら読み飛ばしている。しかしシナリオの「結末」は知りたい。こんど電話が来たら、お金を振り込む限界ギリギリのところまでつきあうとするか。って、いったい彼らに何を期待しているのだ私は。その筋書きに感動したいとでもいうのか。

 それにしても、この手の「劇団詐欺」には人間の根源的な不安のようなものを掻き立てるものがある。たとえば、それこそ自宅のポストに投げ込まれた近隣住民からのクレームだって、今回の詐欺の布石ではないかと疑おうと思えば疑えるわけで、そうやって、あのセールス電話もこの迷惑メールもすべて詐欺劇団がシナリオどおりにやっていることではないのかと思い始めたら、それはやがて、周囲の人間が全員劇団の一員としてシナリオにしたがいながら自分を騙しているのではないかという妄想にまで発展しかねないのだった。いや、実際そうなのかもしれない。みんなで神のシナリオにしたがって劇団詐欺を遂行しているのが人間社会の本質である……という思想をもっともらしくデッチ上げるのは、そう難しいことではないような気もする。人は皆、騙されているとも知らずにせっせと働かされ、稼いだ金をせっせと何かに貢がされているのだ!的な例のアレですね。

 例のアレが具体的に何を指すのかは不明だが、しかし騙されていると知らなければ、本人はべつに不幸でもない。銀座のクラブで散財している人たちのことを思い浮かべればわかるように、稼いだ金を使うことはむしろ気持ちよかったりもする。銀座のクラブと詐欺師劇団の何がどう本質的に違うのか、わかるといえばわかるが、わからんといえばわからん。錯覚であろうが何だろうが幸福感は人を幸福にするのであって幸福が幸福感を生むわけではないのだ!

 などと言い出すとますます何のことやらわからないが、いずれそのうち、騙された者が金を振り込むことに喜びを感じるほど感動的なシナリオを次々と発表する詐欺集団が現れるかもしれない。たとえば、警官や弁護士から始まったかと思ったら、やがてCIAやらモサドやらのインテリジェンス・オフィサーなどが入れ替わり立ち替わり電話口に現れて極秘指令を囁き、時には勢いに任せて米国大統領なんかも登場したりなんかして、気づいたときには秘密結社の一員として行動することを余儀なくされ、しかもダブル・スパイになっちゃってにっちもさっちもいかず、あたかもジェットコースタームービーのごときスリルとサスペンスに満ちた波瀾万丈の運命に翻弄された挙げ句、最終的には「北朝鮮の核ミサイル発射を食い止めるために三井住友銀行日本橋支店に50万円振り込め」という壮大なシナリオを信じ込ませてくれるなら、けっこうな幸福感が得られそうだ。50万で世界を滅亡から救った英雄になれるなら安いかも。……などと書いているうちに、それと似たような仕掛けで信者から金品を巻き上げている宗教団体は、昔からいくらでもあるような気がしてきた。信仰の自由。騙される自由。自由ってすばらしい。詐欺って、なんて人間らしいんだろう!

 話がすっかりめちゃくちゃなことになってしまった。このところ何だかいろいろなことがありすぎて仕事に集中できず、そのせいで日誌を書きすぎている。「そのせいで」というところに論理の飛躍があることは指摘してはいけない。

 しかも、こんなときにかぎって、家ではセガレが「塾に行きたい」などと言い出すのだからお父さんは大変である。近所の学習塾が実施した無料の実力テストみたいなものに参加したら、試験後の解説授業がめっぽう面白かったらしい。そりゃあ、敵もプロだからタダでテストを受けに来た子供を逃しはしないだろう。広〜い意味の詐欺に引っかかったようなもんだと言えなくもない。術中にはまっているのが癪に障る。それに私は、夜の街をへらへらとなぜか勝ち誇ったような態度で歩いている塾帰りのガキ共の佇まいが、どうしても好きになれない。ワケもなく説教したくなる。

 なので、初めてセガレに対して「うむ。考えとく」というもったいぶった返事をして結論をいったん先延ばしにしていたのだが、しかしまあ、自分から勉強したいという子供にダメだとも言えない。行きたい理由が「みんな行ってるから」だったら断固として却下するところだが、そうではなかった。地理的な事情で、その塾に学校の友達はほとんど行っていないらしい。塾側の「思う壺」なのは腹立たしいが、逆にいえば、短時間の解説授業一発で「行きたい」と思わせた連中の腕前は大したものだ。少なくとも中国女やヤマグチよりはプロとしてはるかにレベルが高い。そんなわけで、「学校の宿題をおろそかにしない」「勉強はあくまでも自分でやり方を考えるものだということを忘れない」「帰りにコンビニには絶対に入らない」等の条件を与えて、塾通いを許可してやった。が、親としては、何か大きな一歩を踏み出してしまったような気分。実はここがルビコン川だったのではないか。中学受験を当然と考える世界観にセガレが染まりかねないのが怖い。







1. Angel in the Dark
2. Triple Goddess Twilight
3. Will You Love Me Tomorrow
4. He Was Too Good to Me
5. Sweet Dream Fade
6. Serious Playground
7. Be Aware
8. Let It Be Me
9. Gardenia Talk
10. Ooo Baby Baby
11. Embraceable You
12. La-La (Means I Love You)
13. Walk on By
14. Animal Grace
15. Don't Hurt Child
16. Coda

平成十九年五月二十九日(火)午後二時五分(加筆)
BGM : Angel In The Dark / Laura Nyro

 きのうの朝、私の仕事場に、千代田警察のヤマグチさんから電話がかかってきた。ほほう、ケーサツか。これは一大事。電話セールスと違って、しっかり話を聞かねばならぬ。

 ヤマグチさんはまず080で始まる携帯電話の番号を告げ、それが私の番号かどうかを訊ねた。これは答えても問題ないと判断した私が「違う」と言うと、「あなたの名前でその番号の携帯電話を契約している者がいます」と言う。おお、それは大変だ。さらにヤマグチさんは、私が三井住友銀行の日本橋支店に口座を持っているかどうかを問うてきた。「持っていない」と答えると、「あなたの名前で口座を開いている者がおり、料金滞納でNTTから被害届が出ている」と言う。わーお! 大事件じゃないか! 私の個人情報がだだ漏れじゃないか! だったらまず私のところにNTTから催促が来るんじゃないかと思うけど、そんなことはともかくとして話の続きを聞きたいじゃないか!

 ヤマグチは、最近、免許証や保険証などを紛失したことはないかと訊いた。「ない」と答えたが、その銀行以外でもあなたの名前で開かれた口座がいくつかあり、警察としてはこれからそれを凍結することになると言う。で、その場合、あなたが自分で開いた口座も使えなくなってしまうので、それはお困りでしょうから、あなたが使っている口座の銀行名と支店名を教えて欲しい、と言うのだった。なるほど、いろんなことを言うものである。その先のシナリオがどうなっているのか知りたいので残念ではあるが、愉快なお喋りはここまでだ。

 私は「オハナシはよくわかりました。しかし、たいへん失礼ながら、こういうご時世ですから、あなたが本当に警察の方がどうか信用しかねます。こちらから折り返し連絡しますので、電話番号を教えてみろ」と言った。千代田警察のヤマグチを名乗る男は0110(110番)で終わる番号を私に告げ、「では、待機しております」と言って電話を切った。一応その番号にかけると、女の声が「現在使われておりません」と告げた。当然である。警視庁に千代田署なんて存在しない。しかし、シナリオのレベルは低いもののヤマグチの演技力はけっこうなもので(偽の電話番号を告げるところまで投げ出さずに演じきるのはなかなかのプロ根性だ)、正直なところ、ちょっと不安になったのもたしかでした。嗚呼、現代ニッポンに生きている私。自分がこの世にちゃんと巻き込まれていることが実感できたのが、ちょっと嬉しかったりなんかするのはどうしてだ。テレビに知り合いが映ると自慢したくなる心理と同じだろうか、違うだろうか。

 実は数日前にも、妙な電話があった。「NTTですが、先月分の携帯電話料金が未払いになっているようです」と言うのだ。ヤマグチもそうだったが、携帯電話なら「NTT」ではなく「NTTドコモ」だろう。それに、最近は(としか言えないのが情けないが)銀行口座にちゃんとお金があるので料金は間違いなく引き落とされている。しかも、たいがいの料金未納通知は電話ではなく書面で届くものだから(それを知っているのが情けないが)、きわめて怪しい。それ以前に、電話をかけてきた女はめちゃくちゃ日本語のヘタクソな中国人の女だった。ハナっから「私は詐欺師です」と宣言しているようなものである。私は苦笑しながら「どうせならマトモに日本語を話せる人を使いなさいよ」などと説教しつつ、いちおう相手の電話番号を聞き出してから電話を切ったが、0120で始まるその番号にかけると「ポピー、キュルルルルー」というファックス音が聞こえた。

 ちなみに愚妻によれば、その日は同じような時間帯に同じような女から同じような内容の電話が自宅にもかかってきたという。それが千代田警察との連携プレイなのかどうかは、わからない。しかしヤマグチの話を聞きながら、即座に中国女のことが頭に浮かんだのは事実だ。中国女のほうは、明らかに嘘だとわかることに「布石」としての意味があるのかもしれない。そっちは詐欺だと思った人が、千代田警察のほうは本物だと信じた場合、詐欺の恐怖に怯えているその人は、警察という「救世主」に対して「そういえば先日、NTTを名乗る怪しい電話がありましたが、それも今回の事件と何か関係があるのでしょうか」などと言う可能性が高い。そこからどういうシナリオでお金をむしり取ればいいのか、犯罪センスのない私には見当がつかないけれど、自分から能動的に情報提供をして「協力者」になった瞬間に、人は詐欺師の思う壺にはまってしまうような気もする。(※文末に追記あり)

 ともあれ、前に書いた近隣住民の件といい、一連の詐欺電話といい、なんとも身辺が不穏な今日この頃である。仕事のほうでも、具体的には書けないが「戦友」とも呼べる仲間たちがかなり深刻なトラブルに見舞われており、私にはどうすることもできない問題だとはいえ、私もその仕事の当事者のひとりではあるので気持ちが落ち着かない。詳細はわからないが、そちらも、おそらくは「面子」のようなものをめぐる属人的な問題が根っこにあるように思われる。人間って厄介な生き物だ。ハトのほうがよっぽど楽だったよ。

 いま聴いている「Angel In The Dark」は、ちょうど10年前の1997年4月に卵巣癌でこの世を去ったローラ・ニーロ(享年49歳)が、おそらくは最後の作品となることを半ば覚悟しながら(彼女は94年に癌の診断を受けている)、94年から95年にかけてレコーディングを重ね、死後の2001年に発表されたアルバムである。最高傑作。だと私は思っている。すべての歌がうつくしい。とくにキャロル・キングの名曲「Will You Love Me Tomorrow」のカバーは絶品としか言いようがない。世の中には、このような宝物を置き土産にして逝く人もあれば、不本意な嘘だけを人々の記憶に残して自死する者もいる。詐欺師よりはある意味で実直だったかもしれないナントカという政治家のことはともかくとして、きのう東京で亡くなった女性歌手が、癌との闘病中に何かひとつでも「渾身の音源」を残す機会を得られていたらよいのだが。



※電話に関する追記

 あ、そっか! 自分で「だったらまず私のところにNTTから催促が来るんじゃないか」と書いていながら、どうして気づかなかったんだろう! 数日前の中国女からの電話が、まさに「NTTからの催促」だったじゃないか! やっぱり布石だったのだ。千代田警察に「料金滞納でNTTから被害届が」と言われたときに、こっちが「そういえばNTTから身に覚えのない催促があった」と思うことでリアリティが高まるという仕組みなのだろう。いや、でも、だったらやっぱり中国女じゃダメだよ。嘘だって丸わかりだもんな。よくわかんないな。








ディスク:1
1. Oh Yeah, Maybe Baby
2. Dedicated to the One I Love
3. Wind
4. Lite a Flame (The Animal Rights Song)
5. Walk the Dog and Light the Light (Song of the Road)
6. To a Child
7. And When I Die
8. Japanese Restaurant Song
9. My Innocence/Sophia
10. Wedding Bell Blues
11. Art of Love
12. Emmie
13. Let It Be Me

ディスク:2
1. Angel in the Dark
2. Gardenia Talk
3. Save the Country
4. Louise's Church
5. Wild World
6. A Woman of the World
7. The Descent of Luna Rose
8. Broken Rainbow
9. Blowin' Away/Wedding Bell Blues
10. Trees of the Ages/Emmie
11. Ooh Baby, Baby

平成十九年五月二十七日(日)午後四時五十分
BGM : Live : The Loom's Desire / Laura Nyro

 それについてここで書き始めると間違いなく長くなり、仕事に支障を来すことは明らかだと承知しながらもすでに書き始めてしまったわけだが、きのう、下記のような文言を18ポイント程度の明朝体で印字した差出人不明の紙片が、自宅のポストに投げ込まれていた。


楽器演奏は、防音装置設置場所内で
行うのが、常識でありマナーである。


 これが、その紙片に記載されたことの全てである。ものすごく薄気味悪い。近隣住民へのメッセージを挨拶抜きの「である調」で書き、自分の身元はおろか筆跡まで隠蔽する形で、こちらの宛名も書かず封筒にも入れずに突きつけてくるような輩に、「常識」だの「マナー」だのについて語ってほしくない。もし、この文書が何らかの常識やマナーに基づいているとすれば、それは「脅迫状の常識」であり「無法者のマナー」であろう。

 ともあれ、差出人がわからない以上、これを書いた者が「近隣住民」かどうかもわからないわけで、しかもこの文面は、私たちに何も要求していない。もちろん、それこそ「常識」で判断すれば「ピアノの音がうるさいからやめろ」と言いたいのだろうということはわかる。だが、それはかなり好意的な読み方だ。字義どおり素直に読めば、単に一般論としての「意見」が書いてあるにすぎない。もしかしたら、通りすがりの変人が、あちこちに同じものを投函して自分の意見を表明しているだけかもしれないのである。ならば、「ああ、そうですか。それで何か?」という話だ。「それで何か?」と問い返すべき相手がわからないのだから、論理的に考えれば、私たちは何もする必要がない。どこかの誰かがそういう「意見」を持っていることはわかったが、こっちはこっちで「ある程度の雑音はお互いさまだから許容し合うのが常識でありマナーである」という「意見」を持っている。それだけのことである。実際、うちの近所にはキャンキャン吠えて静寂を乱す犬を飼っている家が何軒かあるが、私たちがそれに文句をつけたことはない。同じ集合住宅のなかにも、深夜に床の上で何かを転がしているような謎の音を立てる者がいるが、それにも文句をつけたことはない。

 ともかく表向きは何も要求されていない以上、論理的には何ら行動を起こす必要がないのであるが、しかし論理的に間違っていない行動さえしていれば平穏な日常を送ることができるというわけではない、というのも世の常だ。あの文面は、理屈を越えたところで、明らかに何かを要求している。それも、いきなり脅迫状テイストの文体で攻めてきたということは、この書き手の頭の中では、私たち家族が「他人の迷惑をいっさい省みない非常識きわまりない極悪人」としてイメージされているに違いない。しかも「下手にクレームをつけたら逆ギレして何をするかわからない奴ら」だと思っているから、玄関でピンポン(卓球のことじゃないからね)することもできず、自分の身元を明かすこともしないのだろう。事件は現場ではなく、相手の妄想世界で起きているのだ。

 以前、「属人的思考」と「属事的思考」についてちょっと書いたが、こうした妄想も属人的思考から芽生えるのだと思う。私たちは何らかの「迷惑行為」に直面したとき、それを偶発的な出来事だと考えず、それを引き起こした当事者のことを「いつも周囲に迷惑をかける人」だと思い込んでしまう傾向がある。「一事が万事」「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」である。ふだんから緊密な人間関係を築いていれば属事的に考えることもできる(いい人なのにピアノのことは気づかなかったのかな?などと思える)のだろうが、いまさら、そんなご近所づきあいを不可能にした地域社会の崩壊を嘆いてもしょうがない。現代社会における「近隣住民」は、潜在的に「正体不明のモンスター」という属性を背負わされているのである。

 私自身、この差出人のことをすでにモンスター扱いしている。放っておけば、「やっぱりあいつらは非常識な極悪人だ」と相手の妄想に裏付けを与え、それを拡大再生産してしまうことになるだろう。したがって当然の成り行きとして、攻撃がエスカレートする可能性が高い。では、どうするか。もちろん、こっちはこっちで自分たちが「常識の範囲内」と考える音量や時間帯を選んでピアノを弾かせているわけだが、ここで「何が常識か」を議論しても意味がない。こちらは「人間社会には周囲の好意に甘えてもよいことがいくらかはある」という常識を前提にしている。悪意で満たされている相手の妄想世界に、それが受け入れられる余地はないと考えるべきだろう。だいたい、誰に受け入れてもらえばいいのかもわからないのだ。

 こういう場合、もっとも教科書的な対応は、「公平な第三者にルールを設定してもらう」である。大家の代理人である不動産管理会社に事態を報告し、ピアノ演奏可能な時間帯や音量などを決めてもらうわけだ。向こうは「防音装置設置場所内」(なんともこなれない日本語だ)を条件にしているから音量や時間帯の問題ではないのだろうが、私たちの住んでいる集合住宅では以前アップライトピアノを思い切り弾く住人がいたこともある。かなり迷惑だった。これを既成事実と考えれば、それよりも明らかに控え目な音量で弾いているセガレの電子ピアノを「全面禁止」にはできない。「条件付きで演奏可」になる公算が大だ。それがイヤなら引っ越しなさい、という話である。

 しかし私は、一見すると合理的に見えるこの手のもっともらしい解決法をあまり信用していない。ルールというのは基本的に、トラブルを未然に防止するためではなく、トラブルが起きた後で「どちらに非があるか」をジャッジするために存在するものだと思っているからである。もちろんルールには多少の抑止力があるけれど、それによって事件や事故を完全に防ぐことはできない。信号機があっても、交通事故は起きる。起きてしまった後で信号を守らなかった側が罰せられるわけで、その判定基準としてルールが必要なのである。今回のような事態の場合、ルールを作って私たちがそれを守ったからといって、相手の被害者意識や妄想が消えるわけではない。それによって私たちが何か危害を加えられたとき、ルールのおかげでこちらには非がないと判定されたとしても、その時すでに平穏な生活は台無しになっている。だいたい、ルールのない現状で何か事が起きたとしても、なにしろ「論理的に考えれば何もする必要がない」のだから、こっちに非があるという判定にはならないだろう。だって何も要求されていないのだ。しかし事はそういう問題ではない。何か事が起きてからでは遅いから困っているのである。

 現実的には、「ヘッドホンを着用して弾く」「音量をものすごく絞って弾く」というのが至極まっとうな対応ではある。だが、小学生の耳にヘッドホンが悪影響を与えやしないか心配だし、それなりにしっかりした音量で弾かないと上達しない面もあるだろう。ピアノはピアノらしい音量で弾かれるべきだ。そもそも、私の経験則や信念体系に照らせば、住宅街でのピアノ演奏はある程度まで許容されているはずである。にもかかわらず、このような下劣で無礼で非常識な人間の脅迫めいた文書に屈するのは、じつに腹立たしい。

 それに、「なるほど、こいつらは文句をつければ何でもかんでも唯々諾々と従うんだな。ふへへへ」などと属人的に判断されたら、次に何を要求されるかわかったもんじゃない。ここでは私もまるっきり属人的思考に陥っているわけだが、そうなる可能性はある。それより何より、こんな「ブキミちゃん」が近所に住んでいるかと思うと、それだけで大変なストレスだ。うーむ。どうしてくれよう。

 結論は出ないが、どう対応するにせよ、もはや問題自体が楽器演奏をめぐる属事的なものではなく、相手の人格をめぐる属人的なものになっていることを肝に銘じておくべきだ。表面的には「ピアノの音を止めさせる」ことが相手の目的だが、心理的には「自分が立派な常識の持ち主であることをバカ共(私たちのことだ)に認めさせる」が目的になっていると考えたほうがいい。「ピアノがうるさいから腹が立つ」のではなく、「オレ様の立派な常識が通用しない人間が存在することが許せないから腹が立つ」なのである。おそらく、私たちが何らかの形で(それが社会正義に適った手法だとしても)相手の自己愛を傷つけたときに、事態は最悪の展開を見せる。

 しかし逆にいえば、相手が「立派な常識の持ち主」であることを認めて自己愛を満たしてやりさえすれば、ピアノ演奏を認めさせることも可能だということかもしれない。とにかく相手が誰だかわからないのだから難しいが、何かうまい心理戦はないものだろうか。たとえば、すべての近隣家庭を菓子折持参で訪問して「すみませ〜ん、なんかピアノでみなさんにご迷惑をおかけしてしまったようなんで、こうして町内をお詫びして回ってる次第ですぅ。いや、もう、ほんとにヘタクソなんでうるさいとは思うんですけども、まあ、うちのセガレも一生懸命やってるものですから、なるべく小さい音で弾かせますし、1日1時間程度のことですんで、なんとか大目に見ていただけませんかねえ〜」と笑顔で頭を下げる、という作戦を思いついたが、それは死ぬほど面倒臭い。







1. Oh Yeah Maybe Baby (The Heebie Jeebies)
2. My Innocence
3. To a Child
4. And When I Die
5. Let It Be Me/The Christmas Song
6. Roll of the Ocean
7. Lite a Flame
8. Emmie
9. Japanese Restaurant
10. I'm So Proud/Dedicated to the One I Love

平成十九年五月二十五日(金)午前十時四十五分
BGM : Live From Mountain Stage / Laura Nyro

 ゆうべは、ミラン×リバプール(欧州CL決勝)をビデオ観戦。たいして興味ないし目も疲れるので、べつに見なくてもいいんだけどなぁという消極的な気分だったのだが、ピッポさんのワンマンショーみたいな試合だったので見てヨカッタ。なにしろ、ピルロのFKが決まったのになんでピッポがスタンドに向かって全力疾走してんだ?と思ったら、彼の腕に当たってから入っていたのである。胴体に密着していたからハンドではないということなのだろうか。神の二の腕。この大舞台であんな面白ゴールを決められる人は彼しかいない。あんな面白ゴールであそこまで狂喜できる人も彼しかいない。あらためて「狂喜する能力」の高さを感じた。狂喜する能力は、人生を必要以上にダイナミックなものにしてくれる。2点目は、まったく疑惑のないオンサイドからの飛び出しでGKとの1対1に勝利。彼にとっては理想的な得点であろう。アレがやりたくてサッカーをやっているのが、フィリッポ・インザーギという選手だ。それがCLの決勝で実現したのだから、こんなにめでたいことはない。おめでたいぞインザーギ。2-1でミランの優勝。

 ところで、終盤にジラルディーノと交替し、ベンチの前でいてもたってもいられない様子で戦況を見守っていたインザーギの後ろ姿に、妙に共感するものがあった。私もふだん、原稿を仕上げて編集者に渡したところでベンチに下がり、ピッチに残った著者や編集者やデザイナーが本を完成させてくれるのを黙って待っている。野球でいえば岡島だ。先発投手(著者)が作った試合の流れ(口述)を整えて後ろにつなぐのが、ゴーストライターの役割である。つまり「フィニッシュの喜び」からは常に疎外されているわけなので、いわば抑えのエースのように颯爽と登場して本を完成させる装丁家のことが、ちょっと羨ましい。やはり、たまには先発完投型の仕事もしたいと思う。

 そのために、『地球の歩き方(21)ブラジル・ベネズエラ』を買ってきた。まだ確定ではないが、視覚障害者スポーツの国際大会の取材で、夏にサンパウロへ行くつもりなのだ。いや、正しくは「夏に冬のサンパウロへ行く」である。7〜8月のサンパウロは平均気温が17度前後であるらしい。なぜかわれわれは「ブラジルは暑い」と思い込んでいるフシがあるが、寒いブラジルもあるんである。フライト時間は最短で24時間半。ブエノスアイレスよりちょっとだけ近い。ちょっとしか近くない。というか遠い。日本が夏休みの真っ直中なので、航空運賃も割高になりそうだ。あと、『地球の歩き方』に載っている写真を見るかぎり、ブラジルは料理がとても不味そう。どれもなんかドロドロしている。そして全体に茶色い。しかし先発完投型の仕事をするには、寒いとか遠いとか高いとか不味いとか茶色いとか言ってられないのである。著者になるのは大変だ。みんなそれなりに苦労してネタを仕込んでいるのだから、ゲラの上で四死球を連発して試合の流れを壊しているぐらいのことで文句を言ってはいけない。のかもしれない。







1. Oh Yeah Maybe Baby (The Heebie Jeebies)
2. Woman of the World
3. Descent of Luna Ros
4. Art of Love
5. Lite a Flame (The Animal Rights Song)
6. Louise's Church
7. Broken Rainbow
8. Walk the Dog & Light the Light (Song of the Road)
9. To a Child
10. I'm So Proud/Dedicated to the One I Love

平成十九年五月二十四日(木)午後三時二十分
BGM : Walk The Dog & Light The Light / Laura Nyro

 きのうはSAPIOの仕事で永田町に行き、衆議院第2議員会館で某女性代議士のインタビュー。青空をバックにそびえる国会議事堂の周辺は、ヒマそうな日教組の方々(平日の午後3時に全国から集まってたけど学校の授業はないんだろうか)が座り込んで拡声器を手に何かにハンタイしていたり、先頭にノボリを立てた何かの集団がニヤニヤしながらぞろぞろ歩いていたり、妖怪のごとき容貌の老人がうろうろしていたりと、まるでテーマパークみたいな賑やかさと呑気さの漂うハレの空間であった。いや、ある意味テーマパークなのか。

 さらに本日は朝9時から祥伝社で単行本の口述取材。そうやって、書くべき材料が次から次へとどんどん溜まっていく。溜まる速度を減る速度が上回ることは絶対にない。

 しかし手を動かして減らしていかないとしょうがないのであって、いまは、2年前に8割ほど原稿を仕上げたにもかかわらず著者の怠慢(および傲慢?)によって仕上げが先送りされていた本の原稿に取り組んでいる。それはいい(よくない)のだが、ものすごくイヤなのは、追加取材した後半部分を書く上で、全体の整合性を保つために、私の原稿に著者が手を入れた前半部分のゲラを読まなければならないことだ。キモチ悪くて仕方がない。どんな本も著者の加筆部分と私の原稿のあいだには(たぶん私にしかわからない)微妙なトーンの違いがあり、したがって私には木に竹を接いだようなヘンテコな文章に見えてしまう(だから私は完成した本をめったに通読しない)のだが、ここまで前後のリズムや脈絡を無視した加筆もめずらしい。その文章がどこに向かって何を運ぼうとしているかまったく読めておらず、その場の思いつきでホイホイと話を挿入しているから、私の練り上げた構成やレトリックがあちらこちらで木っ端微塵にフンサイされているのだった。ぶう。本人がそんな文章を世に出して恥ずかしくないのなら別に構わないとはいえ、ひどくバカバカしい気分。直していいんなら真っ赤っかにして返してやるが、ライターにその権限は与えられていない、というのが私の基本的な解釈。文責を負わずに原稿を書くのは、楽でもあり苦でもある。







1. I Met Him On A Sunday
2. The Bells
3. Monkey Time/Dancing In The Street
4. Desiree
5. You've Really Got A Hold On Me
6. Spanish Harlem
7. Jimmy Mack
8. The Wind
9. Nowhere To Run
10. It's Gonna Take A Miracle
11. Ain't Nothing Like The Real Thing
12. (You Make Me Feel Like) A Natural Woman
13. O-o-h Child
14. Up On The Roof

平成十九年五月二十三日(水)午前十一時二十五分
BGM : Gonna Take A Miracle / Laura Nyro & Labelle

 笛仲間のひとりとして(もちろん仕事上でも間接的に)日頃からお世話になっている装丁家の鈴木成一さんがご登場ということで、ゆうべ放送されたNHK『プロフェッショナル』を見た。番組冒頭、びっしりと並べられた夥しい本のなかに、自分がゴーストした本を2冊発見。まったく売れなかった本なのにやけに目立つところに置いてあったような気がしたので、ひょっとして鈴木さんのご配慮だろうかなどと勝手に想像する。私がこれまで関わった本の約15パーセントは鈴木さんが装丁を手がけているので、ビデオを静止画にして探せばもっと見つかるかもしれない。それだけ同じ本で「ご一緒」しているにもかかわらず、ライターと装丁家は仕事で顔を合わせる機会が皆無なので、お互いに笛を吹いている姿(およびメシ食ったり酒飲んだりしている姿)しか知らないというのがおもしろいところだ。

 番組には幻冬舎のシギーや講談社のM木さんなど顔見知りの編集者も登場していたが、そんなことはともかくとして(人はなぜテレビに知り合いが映ると自慢したくなるのか……というタイトルの新書はどうか)私がシビれたのは、新聞のテレビ欄にあった「締めきりより内容だ」との言葉だ。ご本人が番組内でそのままの台詞を口にしていたわけではないものの、まあ、そういうことである。「締めきりを守るのがプロ」というご意見もあろうが、それは一般プロの基本であって、プロ中のプロともなると、仕事を発注した側は「あの人に頼んだんだからしょうがねえよな」と腹をくくらなければならない。できることなら私もそんな立場になってみたいものだと思わないでもないが、実はそっちのほうが苦しいのだということも容易に想像がつく。「締めきり」をブッちぎって「内容」を追求する職人には、尋常ならざる精神的プレッシャーがかかるんである。編集者に「あれだけ人を待たせといてコレかよオイ」と思われたら、二度と声はかからない。誰の目にも明らかなスバラシサが必要になるわけで、そんなものを作るのはとても難しいことだから、私の場合はソコソコ締めきりを守りながらソコソコの内容に仕上げているのだった。ということが、この番組を見てあらためてよくわかりました。なんて無難な私。イヤになるよまったく。

 とはいえ、そもそもライターの原稿と装丁家のデザインとでは、編集者が期待するものが違う。装丁は読者が「見てから買う」のに対して、文章は「買ってから読む」のだから、どちらが本の売れ行きを大きく左右するかは明白だ。「原稿なんかソコソコ読みやすけりゃいいから早く寄越せ」が編集者の本音だと思うから、私もその期待に応えたいと思うのである。そういえば昨夜の番組でも、「期待にこたえる」「頼まれるからやる」がキーワードになっていた。私も数日前にここで「期待や信頼を裏切りたくない」というようなことを書いたばかりなので、激しく共感。鈴木さんが「向いていない仕事は次の依頼が来ない」「自分に何が向いているかは人が決める」というようなことをおっしゃっているのを聞き、やっぱりそれでいいんだよな、と安心した。

 というわけでなかなか良い番組だったのだが、鈴木さんがリコーダーを練習しているシーンがなかったのは残念。めっちゃ上手いのになぁ。もっとも、それを映すと「締めきりより笛かよ!」と突っ込まれかねないのでマズかったのかもしれんが。あ、いや、いまのは冗談です。このあいだの練習も、鈴木さんは仕事のためにお休みしておられました。ぼくも締めきりの前は練習をお休みしようとおもいます。







1. Sexy Mama
2. Children of the Junks
3. Money
4. I Am the Blues
5. Stormy Love
6. Cat Song
7. Midnite Blue
8. Smile

平成十九年五月二十二日(火)午前十時十分
BGM : Smile / Laura Nyro

 セガレの誕生日である。10歳になった。つまり私も父親を10年やってきたということだ。だから何だということもないけれど、十年ひと昔という意味では、ひとつの節目ではある。おもしろい10年だった。これまでで一番おもしろい10年だったかもしれない。「こんな風景がまさか自分の人生の中にあるとは思ってなかったよ」という驚きと刺激に溢れた10年だった。とくに親を心配させるようなこともせずにすくすくと育っていろいろと愉快な思いをさせてくれるセガレと、うまいこと育ててくれている愚妻と、自分では結構うまいこと育てているつもりの私に感謝だ。ありがとう私たち。

 しかし難しそうなのはこれからである。この短かった10年をもう一度くり返しただけで20歳、二度くり返せば30歳、三度くり返せば今の私とほぼ同じ年代になるというのだから、月日の流れとはおそろしい。ぼやぼやしていると、あっという間に18歳になって、憲法改正の国民投票に間に合ってしまうかもしれないぐらいの勢いだ。あと8年でそんな思考力や判断力が身につくとは思えないので18歳に投票権を与えることには賛成しかねるところもあるが、考えてみれば43歳の私だってどう判断すればいいのか確信を持てずにいるのだから、これは年齢の問題ではありませんね。

 そんなことはともかく、これからは短い時間のなかでいろいろと大きな決断をしなければならないのである。数年後には、親ではなくセガレ本人がたいがいのことを自分で決断するようになるとはいえ、なんだか焦る。たぶん、私自身がまだ人生を決断し切れていないから焦るんだろうと思う。というか、私の場合は何かを決断しながら生きてきたという実感があんまりない。なにしろ「成るように成る」が基本方針なのである。「基本放心」といってもよい。しかし我が子には、放心が基本の人生を送ってほしくないのだった。もっともセガレの場合は、どちらかというと「為せば成る」のタイプみたいだから、さほど心配はしていないのだが。まあ、成るように成る。成りたいように為せ。







1. マネー
2. スウィート・ラヴィン・ベイビー
3. アンド・ホェン・アイ・ダイ
4. モーニング・ニュース
5. アップステアーズ・バイ・ア・チャイニーズ・ランプ
6. 私はブルース
7. 自由な私をあんたが捕えようとした頃
8. キャプテン・セント・ルーシファー
9. スマイル
10. マーズ
11. スウィート・ブラインドネス
12. ネコの唄
13. エミー
14. 懴悔
15. タイマー
16. ミッドナイト・ブルー

平成十九年五月二十一日(月)午前十時五十五分
BGM : Season of Lights / Laura Nyro

 土曜日はブラインドサッカー日本代表チームの合宿練習を取材するため、筑波技術大学春日キャンパスのグラウンドへ。筑波技術大学は視覚障害者と聴覚障害者のための国立大学で、ブラインドサッカー業界ではFCアヴァンツァーレというクラブチームの拠点として知られている場所である。秋葉原からつくばエクスプレス(快速)で45分。近いといえば近いし、遠いといえば遠い。

 グラウンドの隅には、ついに関東でも完成したフェンス(これまでは関西と新潟にしかなかった)が積まれていた。幅約2メートル、高さ約1.2メートルのものが40枚。これをピッチの両サイドに20枚ずつ並べるのである。300万円ぐらいするらしい。1セットしかないので、リーグ戦や代表合宿などで使用する場所にいちいちトラックで運搬している。その運送費用が1日あたり7万円。大変なことである。「競技場」ごと移動しなければならないスポーツって、あんまりないと思う。いわばプロレス団体がリングを持ち歩いて巡業しているようなものか。しかしそれでも、フェンスができたことは大きな一歩。去年の関東での代表合宿は「人壁」でやっていた。あれではロープなしでプロレスの練習をするのと同じである。フェンスのセット数が増えれば増えるほど、それに比例して競技レベルも向上するに違いない。

 先日の選考会で選ばれた代表選手はFP12名、GK4名。ブラジルの国際大会(8月)にはその中から(GK1〜2名を含む)9名が選ばれる予定だが、すでに仕事の都合などで不参加が決まっている選手が4名ほどいた。職場で、「休むのは、8月のブラジルか10月の韓国(パラリンピック予選)かどっちか1回にしろ」と言われたというGKもいる。強化のために不足しているのは、お金だけではないのである。ひとことで言えば、「人気」が足りない。世間から注目される人気スポーツならば、職場の仲間が代表選手として活躍するのは名誉なことだし宣伝にもなるから、喜んで送り出すだろう。お金だって集まるかもしれない。その意味ではメディアの役割が大きく、私も一生懸命やらんといかんなぁと思うわけだが、前回の代表選考会も今回の代表合宿も、取材に来ている人間は私ひとりだった。去年の世界選手権前は、テレビの人や新聞の人もけっこう来ていたのだが、いまは全然いない。私にしても、取材したからといってすぐにどこかのメディアで記事を書くというわけでもない。世間の「注目」は選手や関係者のモチベーション向上にも有効だと思うので、10月のアジア予選に向けて何か手を打ちたいものである。このままだと、「北京行き」はちょっと楽観できない感じ。

 きのうの日曜日は、午前中、池袋の某所でゴーストする単行本のための取材。ほんとうは合宿2日目も取材したかったのだが、食べていくためにはしょうがない。というか、今後もブラインドサッカーの取材を続けるためには、「本業」のほうでしっかり取材費を稼がなければいけないのだった。ブラインドサッカーのほうは「仕事」ではあるが「商売」ではないのである。ともあれ、こうして週末も何だーかんだーと仕事が入る。慌ただしい。そうこうしているうちに、FAカップ決勝の録画を(生中継・再放送ともに)忘れた。次の再放送は6月16日だというのだから茫然とする。その前に、チェルシーTVとかMUTVとかで放送するんだろうか。それまで結果を知りたくない。

 帰宅後は晩飯の用意。明日22日で10歳になるセガレの誕生パーティを、4人の祖父母を招いて開くためである。これが年に一度、愚妻と私の両親が顔を合わせる貴重な機会になっている。作ったのは、シーザーサラダ、ポルチーニ茸と牛挽肉のクリームパスタ(フジッリ)、豚ロースの串焼きの3品。どれも初めて手がける料理なので心配だったが、セガレが「うまいうまい」と言ってもりもり食っていたのでヨカッタ。うちのセガレはとても食わせ甲斐のある男なのだ。食わせ甲斐があることは、男が世を渡っていく上で大切な資質のひとつ。ところで、フジッリ(バネっぽい形状の螺旋状パスタ)と挽肉はとても相性が良い。こんどはトマトでやってみよう。

 ご覧のとおり、最近はローラ・ニーロを集めている。以前、『ニューヨーク・テンダベリー』を聴いたときはちょい苦手な感じもあったのだが、この『光の季節』を聴いて印象が激変した。ローラ・ニーロはライブ盤がとくに良いと思う。『光の季節』は、いわゆるフュージョンサウンドに傾いた時期の傑作。なにしろ、ローラ・ニーロによるメンバー紹介までが美しい。こんなに芸術的なメンバー紹介は聴いたことがない。ちなみにジャケットの絵はなぜか谷内六郎画伯によるもの。谷内六郎はローラ・ニーロに会ったのだろうか?







1. Wedding Bell Blues
2. Billy's Blues
3. California Shoeshine Boys
4. Lazy Susan
5. Goodbye Joe
6. Flim Flam Man
7. Stoney End
8. I Never Meant to Hurt You
9. He's a Runner
10. Buy and Sell
11. And When I Die
12. Blowin' Away

平成十九年五月十八日(金)午後六時五十五分
BGM : The First Songs / Laura Nyro

 朝から家で確定申告書の作成に取り組み、さっきやっと終わった。期限を平然と(それも2ヶ月以上)破る人間が言うことではないが、確定申告ってほんとうに面倒臭い。なんだってこんなこと毎年やらなきゃいけないんだろう。3年に一度ぐらいでいいんじゃないの? それで何か困ることでもあるのか? ちなみに、「私にお金をたくさん支払ってくれた出版社ランキング2006」の上位は、1位文藝春秋、2位幻冬舎、3位小学館。こんなこと公表して何になるのかわからんが、なんとなく勢いで書いてしまった。差し障りがあることに気づいたらあとで消す。書類に「文藝春秋」と手書きするのが面倒臭くて「文芸春秋」と記入したのだが、まずかっただろうか。たくさんお金くれたのにゴメンナサイ。それにしても、Amazonの領収書はどうしてあんなにデカイのだ。扱いづらいったらないし、やたら目立つじゃないか。大半のCDをこっそり仕事場で受け取っていたのに、じつは山ほど買っていたことが愚妻にバレバレじゃないか。っていうか買いすぎだよおまえ。ライターのくせに、本や雑誌の2倍もCD買ってどうすんだよ。ちょっと反省したほうがいいよ。はーい。じゃあ、今年はもっと本を買うようにしまーす。







1. Brown Earth
2. When I Was a Freeport and
You Were the Main Drag
3. Blackpatch
4. Been on a Train
5. Up on the Roof
6. Upstairs by a Chinese Lamp
7. Map to the Treasure
8. Beads of Sweat
9. Christmas in My Soul

平成十九年五月十七日(木)午後一時十分
BGM : Christmas and The Beads of Sweat / Laura Nyro

 朝は雨だったので、徒歩ではなく井の頭線で出勤。三鷹台駅で降りようとしたら、ホームで待っていた中年のサラリーマンがズカズカと私の真正面から乗り込んできたので、「降りるまで待たんかボケ」と小声で(しかし確実に聞こえるように)呟きながら蹴散らした。「降りる人が先」というルールが空文化してから久しいが、こういうバカは若者だけでなく、中年以降の世代にも多い。ルールがそこそこ正常に機能していた時代から生きているにもかかわらず、「電車が来たらドアの脇に避けて待つ」という無意識の身体作法が備わっていないのがじつに不思議である。最初から身についていなかったのだろうか。それとも、どこかで一度リセットされてしまったのか?

 たぶん後者なんだろうなぁ、と思う。これにかぎらず、「譲る」という動作はいまや絶滅危惧種みたいなものである。これはもう、老若男女を問わず、譲らない。みんな、あたかも「譲る」が「負ける」の同義語だと思い込んでいるかのようだ。いや、おそらくそうなのだろう。譲ると負ける世の中になったのだ。何かを譲ったところで、それに対する見返りはない。ひとたび何かを譲ればそこにつけ込まれ、譲りたくないものまで譲らざるを得ない立場に追い込まれる。つまり今は「情けは人のためにしかならぬ」なのであって、そんな世の中に過剰適応した結果が、「降りる人を待たない身体」なのではないか。

 電車内で空席を真っ先に確保した人の態度も、昔とは違う。「降りる人を待たない」といえば、その代表格は「絶対に座っちゃる」とマナジリを決して前傾姿勢で突っ込んでくるおばさんたちだが、連中が無事に座席をゲットしたときの表情はじつに晴れやかで、勝ち誇ってさえいる。周囲に頭を下げて恐縮しながら申し訳なさそうに座る人は百人に一人ぐらいしかいない。どいつもこいつも、まるで自らの「努力」によって「得」をしたことを立派な行為だと思っているかのようだ。自分の「得」が、座れなかった他人の「損」の上に成立していることに対する「忸怩たる思い」ってヤツがそこにはない。きっと、座れなかった者は「努力」を怠ったのだから報われなくて当然の負け組下流人間だとでも思っているのだろう。しかも、それは決して、恥知らずな席取り合戦を演じた自分の醜さを糊塗するための屁理屈ではない。どうやら本気でそう思っている。「みっともないことをしなさんな」などと非難されれば、「空いている席に座るのは悪いことですか?」と村上某のように涙ぐんでみせるかもしれない。

 そこで起きているのは、いわば「努力」のインフレであり、「羞恥心」のデフレである。スピードや狡知で他人を出し抜くみっともない「工夫」までが「努力」と呼ばれている。「努力した者が報われる社会」ではなく、「恥知らずな手法を厭わない者が得をする社会」だ。そこでは、他人からの「軽蔑」が心理的なブレーキとして機能しない。そもそも、得をした本人は自分が軽蔑されていると思っていない。たぶん、「嫉妬」されていると思っている。「手法への軽蔑」が、彼らの頭の中では「結果への嫉妬」に変換されてしまうわけである。

 だから何なのだろうか。仕事があるのでそろそろ収拾をつけたいのだが、何が言いたいのかよくわからない。単に降りる客を待たない中年男に腹を立てただけだったのに、話があらぬ方向に進んでしまった。空席めがけてダッシュするおばさんには明確な目的意識があるが、どう見ても座れないラッシュ時の電車に誰よりも早く乗ろうとしたサラリーマンの場合、そんなことをしても何の「得」もないので、ますます理解できない。嫉妬されるような結果も出せないまま、見知らぬフリーライターに軽蔑されただけだ。気の毒である。弱肉強食という競争社会の淘汰圧によって「譲れない身体」を持ってしまった、時代の被害者ということだろうか。なんか大袈裟すぎるな。そんなんじゃなくて、単にうっかりしてただけかもしれないよな。だいたい、こういうケースで腹を立てるのは「こいつはいつもこんなことをしているに違いない」という属人的思考に陥っているからで、属事的に考えれば「たまたま今日にかぎって失敗したに違いない」と思えるのでさほど腹は立たないものなのだが、それはまた別の話である。







1. Luckie
2. Lu
3. Sweet Blindness
4. Poverty Train
5. Lonely Women
6. Eli's Coming
7. Timer
8. Stoned Soul Picnic
9. Emmie
10. Woman's Blues
11. Once It Was Alright Now (Farmer Joe)
12. December's Boudoir
13. Confession

平成十九年五月十六日(水)午後十二時三十五分
BGM : Eli And The Thirteenth Confession / Laura Nyro

 きのうは午後から九段下の祥伝社へ。最近、この古巣に行く用事が多い。その会社を「3年で辞めた(かつての)若者」としては、ちょっぴり気詰まりなところがないわけでもない。要は「元給料泥棒」だもんな。エレベーター付近で、在職時にけっこう仲良くしてもらっていた先輩ふたりとすれ違ったが、髪型とか眼鏡とかヒゲとか容貌がかなり変わったせいか、ふたりとも私が17年前に辞めた後輩だとは気づかなかった。気づかれなかったことが面白くて、無礼だとは思いながらも声をかけず含み笑いをしながらスルー。イケナイことです。

 6階に上がり、まずは初顔合わせのK原嬢およびT田部長と打ち合わせ。金曜日の電話で煮え切らない受け答えをしたことを詫び、頼まれた仕事を有り難く引き受けた。どんな分野の仕事だろうが、ツベコベ言わないでやることにしたのである。「興味のないことを書く」によるストレスや罪悪感より、「人の信頼や期待を裏切る」によるストレスや罪悪感のほうが、どう考えても大きい。だから、これまでそうやって生きてきたんじゃないか。だったら、これからもそうやって生きていけ。そもそも私のようなタイプのライターは、編集者に「選ばれる」側の人間だ。こっちが仕事を選んでどうする。

 打ち合わせ後、同じ会議室でS宮さん担当の仕事の口述取材3時間。これを含めて、4本の口述作業が同時進行することになってしまった。それ以外に、すでに取材を終えている書籍が2.5本。年内に6冊半ぐらい書くってことだ。それだけで済むとも思えない。どうせまた千駄ヶ谷方面から腰を抜かすような日程の飛び込み仕事があるだろう。興味がどうこうという以前に、頭ん中を整理するだけで精一杯な感じ。でもね、おれはやるよ。何だって書いてやる。なにしろ働き盛りはヤケクソなのだ。「ヤケクソ力」は不可能を可能にするのだ。







1. 前奏曲とフーガ第9番ホ長調 BWV854
2. 前奏曲とフーガ第9番ホ長調 BWV854
3. 前奏曲とフーガ第10番ホ短調 BWV855
4. 前奏曲とフーガ第10番ホ短調 BWV855
5. 前奏曲とフーガ第11番ヘ長調 BWV856
6. 前奏曲とフーガ第11番ヘ長調 BWV856
7. 前奏曲とフーガ第12番ヘ短調 BWV857
8. 前奏曲とフーガ第12番ヘ短調 BWV857
9. 前奏曲とフーガ第13番嬰ヘ長調 BWV858
10.前奏曲とフーガ第13番嬰ヘ長調 BWV858
11.前奏曲とフーガ第14番嬰ヘ短調 BWV859
12. 前奏曲とフーガ第14番嬰ヘ短調 BWV859
13. 前奏曲とフーガ第15番ト長調 BWV860
14. 前奏曲とフーガ第15番ト長調 BWV860
15. 前奏曲とフーガ第16番ト短調 BWV861
16. 前奏曲とフーガ第16番ト短調 BWV861

平成十九年五月十一日(金)午後七時
BGM : J. S. バッハ 平均律クラヴィーア曲集第1巻 第2集(第9番〜16番) / Glenn Gould

 現在の「ヘトヘト」で「トホホ」な感じを、左の曲名リストで表現してみた。タテ読みすると「トホホ」じゃなくて「ホヘヘ」だけどね。ほへへ。ちょっと楽しそうだ。ほへへ♪ ほへへ♪

 ヘトヘトなのは、言うまでもなく忙しかったからである。かつてゴーストした本の文庫化に伴う加筆修正作業が、さっきようやく終わった。親本が1冊だったのを文庫では上下2分冊にするので、下巻で上巻を踏まえて「前述したとおり」などと書いてあるところをいちいち説明し直さなければいけないという、たいへん面倒臭い作業だ。面倒臭いって言うなよ仕事なんだから。はーい。

 一方、トホホなのは電話セールスである。昨日と今日の2日間で10本ぐらいかかってきた。こんなに多いのは珍しい。そういう季節なのか? 風が吹くと、最近は桶屋ではなく電話会社が儲かるのか? 30分ほど前にも、「もしもしタカハシ畳店ですが!」「畳ありません!」「わかりました!」というタタミかけるようにスピーディな会話を交わしたばかりだ。その5分後にまた電話が鳴ったので「はあ?」と不機嫌な声で出たら祥伝社の人だったので申し訳ないことになったじゃないか。新規の仕事を発注しようとしている女性編集者に向かって何という口の利き方をしとるんだおまえは。欧米か。ちがいます。

 欧米だと「ヘトヘト」は「FGFG」、「トホホ」は「GEE」だ。「ふがふが」「げー」とも読めるので、当たらずといえども遠からず。

 で、新規の発注だが、なんだか煮え切らない受け答えをしてしまって反省している。煮え切らないというのは、つまり、引き受けるんだかそうじゃないんだかよくわからないということだ。フリーランスの職業人としてはあるまじき態度である。なぜそんな態度を取ってしまったかというと、これまで基本的に日程と条件さえ合えば何でも引き受けてきたのだが、数日前から「少しは仕事を選ぶべきではないのか」という考えが頭をもたげており、それについての結論が出ていないところにあまり得意でない分野の企画が持ち込まれたために、頭の中がふがふが状態になって、よく考えないままに意味のよくわからないことをいろいろと口走ってしまったのだった。私の場合、ライターとしての得意分野は一切ないが、不得意分野はあるのだ。

 いや、正確に言うと、それは不得意分野というより「まったく興味の湧かない分野」である。興味のストライクゾーンは人並み以上に広い(ただし探求心はきわめて浅い)つもりだし、だからこの商売をやってられるわけだが、やはりボール球はある。どの分野かは書くと差し障りがあるので書かないけれど、私にはそれがたった一つだけあるのだ。ほかにもあるかもしれないが、いまのところ自分で気づいているのは一つだけである。その分野の原稿でもこれまでは引き受けて書いていたわけだが、何かの拍子に「そんなことをしていていいのか」と思ってしまったために、「仕事を選ぶ」という考えが浮かんだのである。まったく興味の湧かない分野について200枚も300枚も書くのは(とくにこれぐらいの年齢になると)とても大変なことだし、著者やその本にとっても良いことではないのではないかと思うんですよ。

 でも、「それはおれ、あんまり興味がわかないなぁ」などと言って仕事を断るのも、何様のつもりだという話である。こちらの筆力を買って任せてくれる編集者がいる以上、ツベコベ言わずに有り難くお引き受けするのがライター道の基本だ。その仕事に私が適任かどうかを決めるのは私ではない。だいたい、たまたま今は受注過多だから「仕事を選ぶ」などという強気なことも言ってられるが、ひとたびヒマになったらてのひらを返して何でもかんでも引き受けるんじゃないのかおまえは。そうだそうだきっとそうに違いない。でもなぁ。「まるで興味のないことを300枚書く」って、どう考えても不自然だと思うんだよなぁ。不自然というより、「不謹慎」なような気もする。ツベコベツベコベ。なんだろう「ツベコベ」って。「あべこべ」と関係あるのかな。ないよな。







1. Return to Forever
2. Crystal Silence
3. What Game Shall We Play Today ?
4. Sometime Ago/La Fiesta

平成十九年五月八日(火)午後十二時十分
BGM : Return to Forever / Chick Corea

 私はそもそも鳥という生き物が嫌いなのである。とくにヒッチコックの映画を観て以降は、ひたすら恐怖の対象でしかない。なにしろ、鳥は空を飛ぶ。固い嘴を持つ生き物が飛ぶのは、とても怖い。そんな生き物が天敵のいない都市部の空中を自由に飛び回っているのは、文明社会にとって大いなる脅威である。

 だから私は、公園でハトにエサなんかやっている人間がいれば、背後から思い切り憎悪と侮蔑の視線を投げかけてきた。ベランダのハトに対しても、当初は憎しみの感情だけを抱き、ちょっとどうかと思われるほどの虐待行為をくり返していたのだ。そんな私が、自分のベランダで2羽の新しい個体が育つことを黙認してやったのだから、もういいだろう。ハトが人間にもたらすさまざまな害悪を考えれば、良識ある市民として、これ以上その増殖に手を貸すことはできない。

 けさ仕事場に出勤すると、私のベランダにハトはいなかった。私がきのうの日誌を書いたあと、おもむろに立ち上がった何者かがベランダの戸を開け、壊れて本体から取れていた洗濯機の蓋を、主が留守にしている巣の上にそっと置いたのである。ふたつの卵も、その下に隠れた。その後、出かけていたハトたちは何度かベランダの手すりに戻り、かつて自分たちの巣だった場所を見下ろして首をかしげては、また飛び去っていった。

 卵を隠した何者かが、そのたびに心の痛みを感じたことは言うまでもない。でも、仕方がないのだ。仕方がないのだ。仕方がないのだ。何者かは、自分にそう言い聞かせながら心痛に耐えた。ひょっとしたら3羽で力を合わせて蓋を動かして巣を奪還するのではないかという、不安とも期待ともつかない心境にもなったが、ハトたちは蓋のところに降りてくることさえなかった。そして今日は、もはや様子を見に来ることさえやめてしまったようだ。何者かの思惑どおり、親子でどこかに引っ越してくれたのだろう。引っ越し先はまたどこかのベランダかもしれないが、そこの住人が次の産卵を阻止する知恵の持ち主であることを願うばかりだ。

 そんなわけで、この日誌でベランダのハトに言及するのも、おそらく今日でおしまいである。蓋の下にはまだ卵が存在するわけだが、その将来についてはあまり考えたくないし、考えた末に実行したとしてもここには書きたくない。

 しかし、果たして本当にこれでよかったのか? と、いまも何者かは悩んでいる。私としては、蛮勇をふるって産卵と育雛の連鎖を断ち切ってくれた何者かに感謝したい気持ちなのだが、悩むのもわからなくはない。こうして、ある種の超越性に踏み込んでしまったとき、人はふと宗教にすがりたくなったりするのかもしれない、とも思う。いや、私じゃなくて何者かが思ってるわけだが。人はどうして、雑草を引き抜いたり蚊を叩き潰したり害虫の卵を駆除したりするのは平気なのに、鳥や獣が相手だと畏れを抱くのだろうか。毛が生えているからだろうか。そんなに毛が大事なのか。

 ベランダにハトがいない。
 私のベランダに、ハトがいない。
 私の大嫌いな、ハトがいない。







01. パパ
作詞:寺岡呼人
作曲:寺岡呼人

02.COLOR
作詞:寺岡呼人
作曲:寺岡呼人

03.返信
作詞:岩里祐穂・寺岡呼人
作曲:寺岡呼人

04.アイサレ
作詞:岩里祐穂
作曲:寺岡呼人

05.Good Time
作詞:仲井戸麗市
作曲:仲井戸麗市

06.窓
作詞:さだまさし
作曲:寺岡呼人

平成十九年五月七日(月)午前十時四十分
BGM : BIRTH / 矢野真紀

 以下、連休中の行状を覚えているかぎりダラダラと。


5月2日

●欧州CL準決勝第2戦、リバプール×チェルシーを観る。ダニエル・カールみたいな顔のナントカというデンマーク人に決められてagg.1-1、PK戦はPK職人として投入されたはずの連中が失敗を重ねてリバプールの勝ち上がり。こんな重圧のかかる試合でPKだけ蹴るために終盤に出場させるのはちょっと気の毒だよなと思ってたら、案の定だった。このゴールデンウィークでもっとも不愉快な2時間。しかしファウラーってまだいたのかー。そうかー。


5月3日

●セガレが「自転車であちこち行きたい」というので、3年間放置していた自転車を引っ張り出して磨く。幼稚園の送迎用に買ったもので、セガレが小学校に入ってからは使っていなかったのだ。かつて毎日にようにセガレを乗せていた荷台を取り外したら、ちょっと寂しかった。後輪がパンクしていたので、自転車店に持っていって修理してもらう。

●家族3人で自転車を漕ぎ、富士見ヶ丘のNHKグラウンドへ。芝生を敷き詰めた広大なグラウンドが、最近になって区民に開放されたのだ。市民メディア・インターネット新聞JANJANによれば、「NHKが閉鎖を決め、東京都により将来公園にされることが決定されていますが、進展が見られません。杉並区はNHKと契約し、3年間は無償で区の公園として使用されることになっています。しかし、NHKグラウンドは放射5号線に面しており、道路ができればとても便利になるので企業の手が伸びることが心配されて」いるらしい。ふうん。「企業の手が伸びる」という暗黙の敵意をはらんだ言葉遣いがいかにも「市民メディア」らしくて微笑ましい。ちょっとした物言いが文章のニュアンスを大きく左右することを物語る好例。企業がサッカー専用スタジアムでも建設してくれたら、それはそれで結構なことだと思いますけども。ともあれ、よく晴れた青空の下、久しぶりにセガレとボール蹴りやフリスビーなどで汗を流した。

●いったん帰宅してシャワーを浴びてから、ふたたび自転車に乗って吉祥寺へ。伊勢丹でおじいちゃんにプレゼントする傘を買う。誕生日から3週間以上過ぎているが、忙しくて会いに行く暇がなかった。その後、スポーツ用品店でセガレのサッカーパンツと「キーてぶ」(GKグローブのことをそう呼ぶらしい)を買い、西友の無印良品でセガレのベッドを注文し、サンロードにある「ねぎし」で焼肉定食を食う。初めて入ったが、食べ盛りの男の子がいる家族にはもってこいの店だった。食後、丸井から井の頭公園へ向かう通り(あの通りって何か名前があるんだろうか)を散歩。私は「TOP to TOP」で靴を買い、愚妻はどこかそのへんの店で着る物を買っていた。スターバックスに入り、3人ともホワイトホットチョコレートのアイス(ホットなのにアイスもあるのだ)なるものを飲む。あれは一体、アイスミルクと何がどう違うというのだろう。二度と注文しないと思う。

●欧州CL準決勝第2戦、ミラン×マンチェスターUを観る。ネスタとオッドとファバッリ(こんなところにいたのか!)のいるチームが決勝進出。オッドがクロスを蹴るたびに指をさして笑うのがミラン戦を観る楽しみ。

●翌日の昼食に小金井の両親を招いているので、夜中に料理。朝からフルに遊んで疲労した体に、ミネストローネ作りはかなり堪える。


5月4日

●朝9時からセガレのサッカーを見物。SFCというクラブと20分ハーフの練習試合を3本。前日にNHKグラウンドでキャッチングの練習をし、アディダスのキーてぶを買ったセガレは、自ら希望して最初の2試合でGKを務めやがった。親として、これほど心臓に悪いものがほかにあるだろうか。いや、ない。たしかに「前に出るのを怖がるな」とは教えたが、敵がバイタルエリアまで攻め込んで来たときにゴールマウスを留守にしていいとは言ってないっつうの。見ていられません。しかしそれが功を奏して早めに攻撃の芽を摘んだ部分もあり、1試合目は2-0で完封勝利。結果オーライである。敵の足元に飛び込んでシュートブロックする勇敢でカッコイイ場面もあった。2試合目は2ゴールを許したもののGKのミスではなかったし、チームが3点取ってくれたおかげで連勝。3試合目はGKジャージをべつの子に譲り、後半から中盤の左サイドで出場して、そう間違ってはいないパスを4本か5本出していた。相手ペナルティエリアでは、セガレの蹴ったボールがDFのハンドを誘発してPKをゲット。自分では蹴らせてもらえなかった(あとで聞いたら自分のキックでPKをもらったこともわかっていなかった)が、たいへんなお手柄である。フィールドプレイヤーとしてのセガレは、基本的に、ボールが来ると一歩もドリブルすることなくツータッチで即座に味方に渡す堅実なプレイスタイル。本人は「だってボールのほうが速いから」などと映画『GOAL!』で聞いた監督の台詞を受け売りしていたが、まあ、自分の走力と技術をよくわかっているのであろう。クレバーといえばクレバー、地味といえば地味。「GK固定」への道をまっしぐらに突き進んでいるように見えて仕方がない。チームはこの試合も6-4の逆転勝利(前半1-3)を収めて3連勝。ちょっと見ないあいだに、とても良いチームになっていて驚いた。みんなでボールをつなごうとする意識が強く、最後まで諦めないガッツもあって、好感度大。4年生ともなると、かなり見応えのあるサッカーをするものだ。

●いっしょにサッカーを観戦していたおじいちゃんとおばあちゃんを家に招いて、ミネストローネとほうれん草パスタで昼食。前日に伊勢丹で買った傘を渡したが、私の父はどういうわけか昔からプレゼントをもらっても絶対にその場で開けないので、いまひとつ盛り上がらないのが困りものである。昭和ヒトケタの男って、みんなそうなのだろうか。そんなことないよな。食後はセガレがピアノの腕前を披露。「すごいすごい」と感心しきりだった。こういうのが何よりのプレゼントなのである。

●夜、WOWOWで録画してあった映画『アンジェラ』(リュック・ベッソン監督)を観る。主人公の男が右手をずっとポケットに入れている理由がわからなくて悩む。


5月5日

●やや無謀かと思いながら、小金井公園まで一家3人でサイクリング。1時間強で到着し、意外に近い感じだったが、尻が痛い。ボールを蹴り、フリスビーを投げ、ヤキソバやタコヤキやスペアリブやホタテ焼きやソフトクリームやマンナンアイスなどを食った。マンナンアイスは、コンニャクを使った棒状のアイスキャンデーである。おどろくべき不味さ。この連休中に、スタバのホワイトホットチョコレートよりロクでもない飲食物を口にするとは思わなかった。夕方まで遊び、久我山駅前のさぼてんで弁当を買って帰宅。往復で2時間半ぐらい自転車を漕いだので、ものすごく疲れた。脳内エステIQサプリ2時間スペシャルを観てから、10時半に倒れるように就寝。


5月6日

●無印良品で注文していたセガレの新しいベッドが届く。図体もでかくなったし、ガラクタの収納スペースもないので、下に引き出しのついたものに買い替えたのである。その引き出し(3つ)を組み立てるのは、私の担当。ドライバーを握るのは、自分のCDラックを組み立てたとき以来かもしれない。一度も部材の裏表を間違えたりすることなく、ノーミスで組み立て終えたのは奇跡に近い。

●吉祥寺の大龍門で晩飯。食後、タワーレコードで矢野真紀の新譜と爆風スランプの『シングルス』を買う。……爆風スランプ? なんだか知らないが、セガレの学校で『Runner』が流行っており、「全部ちゃんと聞きたい」というので買ってやったのである。名曲『無理だ!』も入っていたのでセガレといっしょに聴いたのだが、「ワニの腕立て」や「亀の腹筋」と並んで「人魚のセックス」という歌詞があるのを迂闊にも忘れており、冷や汗をかいた。「どういう意味?」とは質問されなかったのでよかったが、『リゾ・ラバ』とかもけっこう困る。

●30歳になった(!)矢野真紀の6曲入りライト・アルバム『BIRTH』は、プロデューサーがまた寺岡呼人なので買うのを躊躇ったことは言うまでもないが、仲井戸麗市がスライドギターを弾いたり、さだまさしがバイオリンを弾いたりしていることもあって、内心ちょっと期待していたのも事実である。でも、やっぱりダメだった。端的にいって、凡庸。「もういちど聴きたい」と思う歌がひとつもない。寺岡の書く詞はいつもそうだが陳腐すぎて聞いてらんないよ。私は矢野真紀のことをあくまでも「シンガー/ソングライター」だと思っているのだが、どうして自分で曲を書かないんだろう。書けないなら書けるまで2年でも3年でも待ってあげるのに。無駄にレパートリーを増やしているように思えてならない。有線で『アンスー』に出会ったときの輝きがどんどん薄まっていくのが淋しい。家で聴き終え、「このアルバムで一番いいのはジャケット」と悪態をついたら、愚妻が「二の腕プルプルしてないもんね」となぜか不愉快そうに呟いた。いったい何が気に入らないんだ?

●そんなこんなで、GW前半は寝てばかりいたが、後半は何だかいろんなことをした。結果、腰が痛い。何のための休みだったのかわからない。


5月7日

●5日ぶりに仕事場に来てみたら、ベランダにイチ太郎の姿がなかった。抱卵している母ハトの隣に、ユウ子しかいない。1羽だけ巣立ったのか?と思っていたら、やがてイチ太郎がどこかから帰ってきた。おお、やはり飛べるようになったのか! その後、親子で飛ぶ練習をする決定的瞬間をとらえたのが以下の写真である。


親子で手すりまでジャンプ(中央が母ハト)。



まず母ハトがお手本。この後、右側のイチ太郎が飛んだ。



しばし躊躇したのち、ついにユウ子が!


 何を興奮しているのかよくわからないが、3羽はまず隣のビルの屋上まで飛び、その後どこかへ飛び去っていって、いまはベランダに誰もいない。つまり、もう「引っ越し」が可能になったということである。ただし、放置されている2個の卵さえなければ、だ。どうしよう。処分するのに、これ以上のチャンスはないよな。引っ越しを決意させるには、卵を諦めさせるしかない。どうしよう。どうしよう。



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