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江戸川駄筆のサッカー日誌
1999-2000/vol.34

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Readers' Mail No.097(4/27)

胸のつかえが取れる試合を見たい・個人的偏見話

by ジダンユベウルトラマン


 どうも、最近、近頃、私の応援する(買ってる?)チームはよい試合を見せてくれない(応援チームの一つがセリエAで首位を走ってるだけでも御の字か?)。

 そして、日本代表の話しですが、前の会社の後輩と韓国対日本の後半をVTR観戦したが彼はMF出身だけあってFWへの評価が厳しい。柳沢はなんで選ばれたのかわからないし(私もわからん)、中山のこの数年間も落第点らしい(クレスポが補欠の国とはレベルが違いすぎて比較自体が無意味と思うが)。

 そしておきまりのトルシェでは勝てんの話し。今までのトルシェを切り口を分けて整理してみると、DFは松田・宮本と中心選手はかわってもよくわからんフラット3だが徹底度は感じる。FW・MFというか攻撃陣ついては全く意図はわからないし、おまえは世界選抜の監督かと聞きたいくらい個々の選手のスキルまかせで戦術と呼べるものは見当たらない(相手に見え見えでもよいから攻撃をする型が必要な気がするが)。

 年代別で考えると、オリンピック代表・U19の戦績と内容は合格点であろう(単にこの年代に優秀な選手がたまたま多くいるだけか、監督の手腕かわからんが)。フル代表はフレンドリーマッチとコパなどのどれをとっても満足できる試合が1試合もない。これは少なくともW杯最終予選までは満足度の高い試合を続けた加茂監督と比較すると驚くべき事実である。加茂がよい戦績を残したのはホームでの強豪相手のフレンドリーマッチであるとの声が聞こえてきそうだが、その通りである。しかし、トルシェはそのホームゲームですら全く結果を出せない(おそらくこんな結果で首がつながってるのは世界でライカ−ルトとトルシェぐらいだろう)。アウエー戦を望む姿勢だけは評価するし、是非そうあってもらいたいが...。

 ファンタジーうんぬんの中国戦にしても、確かにあの試合だけを見ればよい内容だろうが、連続した時の経過(前後の数試合の意味)的に考えると、「連勝しているチームで引き分けが勝ちに等しい状況」と「連敗していて降格(脱落)しそうなチームの引き分け」とは評価を変えるべきと考えます。

 ダイレクトに言えば、若い選手の発掘(平瀬・宮本・中田アントラ)実績は評価するのでオリンピックで有終の美を飾って、W杯はホームアドバンテージを最大限に引き出せる勝負師の監督が望ましいです。トルシェのサクセスストリーとしては、オリンピックでよい成績を残してW杯のフル代表11人中8名位をオリンピック世代が占めるしか道がないのでは? 稲本と中田ア・高原・平瀬・松田たちに二周りくらい化けて(成長して)もらうしかW杯本戦の予選G突破はないということか? 当然この世代の成長を私も期待するが...中村と小野の扱いは難しい?

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5月3日(水)9:50 a.m.
 スコットランド×フランス(国際親善試合)をビデオ観戦。0-2でフランスの勝ち。前半はスコットランドが目を疑うような美しい攻撃を見せていたが、後半、ヴィルトールを投入してからはフランスのペースであった。ヴィルトール、なかなかのもの。ジダン(このゲームは欠場)と両立するのかどうかわからんが、そうだとしたら、やはりフランスはつおい。オランダはホームでスコットランドと引き分けた。フランスはアウエーで同じ相手に勝った。論理的に言って、オランダよりフランスのほうが強いのである。ま、スコットランドの場合は、自ら勝ちに行くホームゲームのほうが負けやすいわけだけど。なんにしても、このフランスとあのオランダがグループリーグで当たるってのは楽しみな話である。

 デシャンやヘンドリーを見ていてふと思ったんだけど、いま日本に足りないのは「キャプテン」なんじゃないだろうか。サッカーは監督も大事だけど、キャプテンもそれと同じぐらい大事だと思う。このところ日本代表は、試合によってキャプテンがころころ変わってるが、それでいいのか。また精神論かと眉を顰められるかもしれないが、結局、最後はハートの勝負になる面がサッカーには間違いなくある。もちろん、キャプテンの存在価値は「精神的支柱」だけではない。戦術的にも、その力量がゲームを大きく左右する。先日ある人から、野球は陸軍的でサッカーやラグビーは海軍的な競技だという話を聞いた。陸軍の戦争は総司令官が戦況を俯瞰できるから従順な「兵隊」がいればいいが、海軍の戦争は現場で何が起きているのか総司令官が把握できないから、各艦のリーダーが臨機応変に判断を下さなければならない。だから上意下達の組織ではダメだし、将棋の駒のように従順な兵隊だけではやっていけないというわけだ。海軍のほうがプライドの高い人間が多いような印象があるのも、そのせいかもしれない。サッカーも同じである。フィールドは海のようなものだから、いったん選手をそこに送り出したら、監督はほとんど手を出せない。プライドと責任感と主体性が選手になければ、臨機応変に動くことはできないのである。時には監督の戦略や戦術を無視することも必要になるわけだ。その判断を主に下すのがキャプテンである。だからキャプテンは大事だ。強いハートとプライドを持ったキャプテンが欲しい。いまの中田に何か足りないものがあるとすれば、それかもしれないとも思う。彼にハートがないとは言わない。でも、たぶんトッティほどの強い気持ちはない。そこが彼にとって、一つの壁になっているんじゃないか。キャプテンシーのようなものを身につけたとき、中田は本当にビッグなフットボーラーになるような気がするのである。そして、彼が腕にキャプテンマークを巻くことを厭わなくなったとき、日本代表は変わるかもしれない。

5月2日(火)10:20 a.m.
 いちいち不確実な報道(うわさ)を追うのもどうかと思うが、ベンゲルは2002年6月までアーセナルとの契約をまっとうするつもりらしい。するってぇと何かい、トルシエか日本人監督(西野 or 山本)かって二択しかねぇってことなのかい? いや〜ん、ばか。こうなったら協会幹部を総入れ替えしてネルシーニョと仲直りするってのはどうだ。

 昨夜はまた高校の同級生と集まったためサッカー観戦なし。赴任先の広島から出てきた友人と11年ぶりに会ってとても楽しかった。奴と最後に会ったのは、忘れもしない慈恵医大周辺である。89年の夏、そこには恋人の部屋で自殺未遂をした女性歌手が入院していた。芸能雑誌の編集部員だった俺はその動向を見守るために張り込んでいたのである。そこに、昼メシ帰りのサラリーマン集団が通りかかった。その一人が俺の名を呼んだ。「江戸川ぁ、おまえ、そんなとこで何やってんだよぅ」……それが奴だった。高校を卒業してから、奴と会ったのはそれが初めてだった。事情を説明すると、「は、張り込みぃ?」と呆れられた。かなり恥ずかしかった。それから11年、お互い、まったく連絡を取り合っていなかった。俺はその半年後に会社を辞めてフリーになり、何やかやといろいろあったわけだが、そんなことをいちいち説明しなくても、「こいつは俺のことを知らない」などと少しも思わずに話ができるというのが不思議といえば不思議である。36年の人生のうち、奴と同じ場所で過ごしたのはたった3年だというのに。どうせなら、また10年ぐらい音信不通でいたほうが面白いかもしれない。もっとも、これだけメールのやり取りが盛んになると、そうもいかないだろうけど。ここ数年、ずっと疎遠だった高校の同級生と会う機会が増えたのは、明らかにインターネットのお陰である。アドレスを所持したとたんに、「行方不明者」が「生きてたよ〜ん」と現れる。ということは、みんなネット上に「居場所」を持っているいまどきの学生さんの場合、卒業後に「行方不明」になる奴が少ないのかもしれんな。それはそれでいいことなんだろうけど、「あいつ、どこで何やってんだろう」的な思いがなくなっていくとしたら、ちょっとつまらないかもしれない。

5月1日(月)10:20 a.m.
 ユーベが負けた!
 ユーベが負けた!!
 ユーベが負けたぁぁぁ!!!

 ラツィオ×ベネチア(セリエA第32節)は、3-2でラツィオの勝ち。前半をシメオネ(いまやポイントゲッターは彼である)のダイビングヘッドとシモーネ君のごっつぁんの2-0で終えたところでチャンネルをベローナ×ユベントス(セリエA第32節)に切り替えると、ロスタイムにカンマラータの先制ゴールが決まって狂喜乱舞。うおお。さらに後半10分すぎ、「ピンポ〜ン」の音の後にオリンピコを異様などよめきが包んだので何事かと再びベローナに切り替えると、またまたカンマラータが仲間にもみくちゃにされていた。がおお。これで少なくとも2つはユーベが勝ち点を落とすに違いないと安心しつつ、オリンピコに戻る。1点返されてドキドキしたが、ミハイロのCKをマニエロが見事なバックヘッドで決めてくれて3-1。ベネチア降格を決定づける文字どおりの自殺点であった。ラツィオの勝利を確信してベローナに切り替えると、まだ2-0。ユーベにはまるで勢いがなく、スクデットへの執念みたいなものが感じられない。そのままベローナが守りきって残留を決めたのであった。いやはや、いまのベローナは世界一つおいな。ぐらっちぇ、ぐらっちぇ。しかし、晴れやかな気分でオリンピコに戻ると、ロスタイムに名波のラストパスを受けたガンツがゴールを決めて1点差に。名波のセンスと技術が凝縮されたようなパスだった。おいおい、これ引き分けたらシャレにならんぞと固唾を呑んで見守った俺だったが、なんとか無事に試合終了。やったー。やったー。2ポイント差に肉薄である。奇跡の予感。高まる期待。「選手層の厚さ」対「完成度」(要は「量」対「質」ってことか)の戦いは、どちらが勝つのだろうか。前者を応援している自分にちっとばかし忸怩たる思いはあるものの、がんばれパルマ。来週は、どんな卑劣な手段を講じてもいいからユーベと引き分けてくれぇ。

4月30日(日)
 ゆうべは、チェルシー×リバプール(プレミア第35節)をライブ観戦。妙に出来のいいチェルシーが妙に出来の悪いリバプールを圧倒して、2-0。ウェア絶好調、オーウェン絶不調。試合と関係ないのだが、このごろ我が家ではKアナの評判が悪い。世間的には「昔から世界のサッカーを紹介してきた大ベテランのグッド・アナウンサー」として通っているようだが、俺はあの人、ちょっとボキャ貧になってるんじゃないかと思う。何でもかんでも「すごい!」で片付けすぎ。「すごい」をいろんな言葉で表現するのが実況者の仕事でしょう。それに、ゴール前に上がったクロスはぜんぶ「ピンポイント!」だし、DFラインの裏を狙ったパスはゴールラインを越えようがGKに取られようがぜんぶ「いいボールだ!」である。ま、サッカーへの愛情は人一倍持ってらっしゃる方だからいいんだけど、いささか鼻白むことが少なくないのであった。

 エバートン×アーセナル(プレミア第35節)は、オフェルマルスのゴールを守りきったアーセナルの0-1。ベルカンプ、オフェルマルス、カヌというアタッカー陣はやはり魅力的である。リバプールとチェルシーにとっては目の上のたんこぶ的存在なのだが、これを見るとアーセナルも捨てがたい。これで、試合消化数の少ないアーセナルが2位浮上。3つめの椅子はリバプールとリーズの一騎打ちって感じだろうか。消化数が1つ多くて5位のチェルシーは、ほぼノー・チャンスになってしまった。先週、優勝を決めたばかりでモチベーションが低いはずのユナイテッドに負けたのが痛い。プレミアのCL枠、なんとか4つにしてもらえんもんか。セリエのを1つあげてもいいぞ。そのほうがパルマ(32節を終えて3位のミランと2ポイント差)のモチベーションも上がるだろうし。

4月29日(土)10:50 a.m.
 世間では今日からゴールデンウィークに突入するわけだが、わしゃ今日もコツコツ働くのである。あー。バリ行ってから1年かぁ。クタのレストランで会ったラツィアーレは元気だろうか。元気なわけねーか。あのとき一緒に撮った写真、ちゃんとアルバムに貼ってあるのかなー。

 ユナイテッドのファン・ニステルローイ獲得が白紙に。ドミノ倒しのように動こうとしていたストライカー市場に与える影響はかなり大きいに違いない。一方、ラツィオがバティ獲得に名乗りをあげたとか。あのね。これから果てしなく南米予選が続くってときに、そんなにアルゼンチン人ばっか増やしてどーすんだっちゅうのよ。さらに監督候補にはクーペルやビアリ(!)の名前も。ビアリは俺も好きだからいいとして、クーペルはねーだろクーペルは。あんだけ豪華なタレント揃えておいて、マジョルカやバレンシアみたいなカウンター・サッカーやろうってのか?

 ラ・コルーニャ×レアル・ソシエダ(リーガ第34節)を観戦。序盤はパスミスが多くて堅くなっている感じだったが、フランとマカーイのコンビで先制(その前にタッチライン割ってたけどな)、ジャウミーニャのFKをセザールがヘッドで決めて追加点。もっとかっぱいで欲しかったけど、まぁ、楽勝だった。ジャウミーニャってのは、まことにエキセントリックなプレイヤーである。たぶん「ヘンなことをする」が彼の基本方針なんだと思う。俺は好きだ。サ・ピントが頭を丸めていてびっくり。誰かと思った。あれじゃジョージ・ハリスンに見えなくてつまらない。

 ベネズエラ×アルゼンチン(W杯南米予選第2節)をビデオ観戦。アジャラ、オルテガ、オルテガ、クレスポで0-4。ヴェーロンもシメオネもセンシーニもフル出場させられていた。嫌がらせかよ、おい。オルテガなんか、どーせイタリアに戻ったって出番ねーんだから途中で引っ込めるこたぁねぇじゃんか。完敗はしたものの、ホームのベネズエラは見違えるほど頑張っていた。どうでもいいが、ベネズエラという国名が「小さいベネチア」という意味だと初めて知った。へーえ。

似てる人シリーズ

#101
ソシエダのクレメンテ監督とマッケンロー。(妻)

#102
ラ・コルーニャの会長と高木ブー。

4月28日(金)13:30 p.m.
 千葉すず問題もトルシエ問題も、要するに「評価の基準」ってのが明確にできるもんなのかどうかということがモンダイなのである。ジダンユベウルトラマン氏の投稿(No.097)を拝読しながら、そんなことを考えた。

 ○か×かを決めるとき、いちばんわかりやすい基準は「結果」である。だから、日本でいちばん速く200メートルを泳ぐという「結果」を出した千葉すずを落選させた水泳連盟の決定はわかりにくく見える。どうやら別の基準があるようだが、それが何なのかはあまりクリアになっていない。トルシエはどうかというと、ユース準優勝と五輪出場権獲得という「結果」は出した。しかしフル代表では何も「結果」を出していない。だから更迭するにしても留任させるにしても、その決定はわかりやすいものにはまずならない。Z・J氏のおっしゃるとおり、「五輪で有終の美」がいちばん「わかりやすい」(つまり合理的な)決着のつけ方かもしれないけれど、それでも何かしら「?」は残る。その五輪代表が2002年の主力になるとしたら、トルシエは「未来のフル代表」に関して「結果」を出したことになるからである。2002年の本大会でベスト16に残ることがトルシエに課せられた最終的なミッションであるならば、留任という決断にも整合性があるといえるわけだ。しかし、じゃあユース準優勝と五輪出場権獲得という「結果」はトルシエの手柄なのかというと、これも実は定かではない。Z・J氏がおっしゃっているように、「単にこの年代に優秀な選手がたまたま多くいるだけか、監督の手腕かわからん」のである。

 このように、一見すると絶対的に思える「結果」という基準も、実際には相対的なものである。千葉すずが出した「結果」も、少なくとも水泳連盟に言わせれば相対的なものでしかないということになるのだろう。彼らが求めていた「結果」は「日本でいちばん速く泳ぐ」ことではなく、「世界に通用するタイムを出す」ことだったらしいからである(もっとも、そういうタイムを出しても落選させた可能性はあるんだろうけど)。いずれにせよ、いちばんわかりやすいはずの「結果」でさえ、常に相対化されて明確な判断基準になり得ない。だから議論は堂々巡りをするのである。

 むろん、○か×かの明確な基準を事前に提示しておけば、そんなことにはならない。今朝のスポーツ紙を見ると、千葉すず自身もそこに文句をつけているようだ。それをしないから、水泳連盟もサッカー協会も批判される。「総合的な判断」という名の暗闇の中ですべてが処理されることが、外野には我慢ならないわけだ。永田町の密室政治を批判する文脈と同じである。情報公開、ガラス張りの議論、わかりやすい合理的な結論。この国にそういったものが欠落しているという指摘は、今に始まったことではない。そして、それを求めることは、たぶん善である。

 しかし、と俺は考える。事前に「これをクリアすればオーケー」という基準を示し、それに対して結果を出した者を○、結果を出せなかった者を×とするのは、たしかにわかりやすい。でも、その決定が「わかりやすい」ことと、「正しい」ことは、実は別問題である。まず、最初に提示された基準が正しいものだったかどうかが疑わしい。それが正しいものだったとしても、結果を出すまでの過程が正しいものだったかどうかが疑わしい。過程に問題がなかったとしても、出した結果が本人の能力と直結しているのかどうかが疑わしい。本人の能力と直結していたとしても、その能力が次も(五輪やW杯などの本番でも)同じように発揮されるかどうかが疑わしい。数日前の日誌に、「わかりやすさの背後にはウソが隠れている」というようなことを書いた。それはつまり、そういう疑わしさを一刀両断に切り捨てたときに「わかりやすさ」が現出するということである。そして、そういう疑わしさを切り捨てずに物事を決めようとすると、「総合的な判断」というわかりにくいやり方をせざるを得なくなってしまう。

 だからといって、水泳連盟やサッカー協会を弁護しようという気は毛頭ない。報道を見るかぎり、彼らの判断過程には馬鹿馬鹿しい夾雑物が入り込んでいるように見えるからである。要するに彼らは、千葉すずやトルシエが「嫌い」なんだろう。それは「和を乱す存在だから」というよりは、早い話、「自分たちのことをバカにしているように感じる」からではないかと俺は決めつける。アマチュアというよりは、ガキなんである。ガキというよりは、バカなんである。だから、彼らが「協調性ばかり大事にして個性を排除する日本人の悪いところを体現している」といった批判があるとすれば、それが的を射たものだとは俺には思えない。そんなレベルではないんである。

 まぁ、バカは言い過ぎだとしても、彼らに「総合的な判断」を下せるほどのポテンシャルがないことは明らかだろう。誰もが納得する「総合的な判断」を下すことができるのは、豊富な知識と経験と人徳と明晰な頭脳と……何やかやを持ち合わせた「えらい人」だけである。でも、そんな「えらい人」は滅多にいない。そんな人がたくさんいたら、民主主義はいらないと言う人もいるぐらいである。多数決が民主主義の本質かどうかは知らないけれど、「総合的な判断」なんて誰にもできないからわかりやすく数で決めちゃえ、というのが民主主義だと言ってもいいのかもしれない。それは実に「わかりやすい」システムだけれど、そこで下された判断が「正しい」かどうかはまた別の話である。

 また話がどんどん横滑りしている。なんでトルシエの話が民主主義の話になるのかよくわからない。それでおまえはトルシエをどうすればいいと言うのだと訊かれても困る。わかりません、と言うしかない。ただ、現実問題としてトルシエ更迭は既定路線になっているようだし、「次」をどうするかという点では、「ホームアドバンテージを最大限に引き出せる勝負師の監督が望ましい」というZ・J氏の意見に賛成である。さらに言えば、「運」を持ってる人がいいな。いきなりアバウトなこと言うようだけど、トルシエって「運」を持ってるように見えないよね。

 報道によれば、「2001年6月からベンゲル、それまでは日本人監督でつなぐ」という流れが固まりつつあるようである。一方で、協会内には「自国開催のW杯は日本人監督で」という声も高まっているらしい。はあ。たぶん彼らは、W杯を「勝負の場」としてとらえていないんだと思う。プロのコンサートではなく、ピアノの発表会みたいなもんだと思ってるんじゃなかろうか。要するに、「思い出づくり」である。勝つことを最優先の課題として考えていたら、「日本人監督で」などということが前提になるわけがない。勝つために選んだ監督が結果的に日本人だった、というなら話はわかる。でも「日本人監督で勝とう」というのは、本末が転倒した話だ。彼らがそんな意識を持っているとしたら、ファンの意識との間には深くて暗い川があるとしか言いようがない。どんなに舟を漕いでも、この川は渡れないと思う。そんな協会に「総合的な判断」をさせるよりは、ファンの投票で民主的に決めたほうが「正しい」結論が出るかもしれない、などと思ったりもするのであった。

*

 ゆうべは、オランダ×スコットランド(国際親善試合)をビデオ観戦。ベルカンプ登場。しかし前半は、オフェルマルスと組んだAセット(アーセナル・セット)が不発で0-0。後半はこの2人がクライファート&ゼンデンのBセット(バルサ・セット)に代わったが、これも不発でスコアレスドローである。スコットランドに速攻から決定機を作られたのも一度や二度ではなかった。「0」と「1」の間に横たわる川は、日本ほど深くも暗くもないけれど、大丈夫なのかオランダ。たぶん「本番で本気になりゃ俺たちがいちばん強い」と思ってんだろうけどさ。

4月27日(木)9:30 a.m.
 似てる人シリーズにダブりがあった。「ニコラス・ケイジとモルフェオ」である。#84で愚妻の作として掲載していたのに、#99でこんどは自分の作としてまた書いてしまった。なんだか、すごく恥ずかしい。無意識のうちに盗作をしてしまった作曲家のような気分である。総集編では訂正しておきましたが、今後もあるかもしれないので、気づいた人は教えてください。

 韓国×日本(国際親善試合)は、河の「黄金の一発」で韓国の1-0。得点力不足とか決定力不足とか言うけど、韓国だって後半たった1本のシュートでたった1点取って勝っただけである。サッカーってのはわずか3点ぐらいでも「大量点」になるわけで、そもそもが得点力不足な競技なのだ。だから得点力なんか不足してて当たり前なのだが、しかしそうはいっても「0」と「1」との間には深くて暗い川がある。それでもやっぱり勝ちたくて、えんやこら今夜もパスを出すのである。振り返るな、ロウ、ロウ。それにしても、また10人の相手にやられた。チャンスを迎えたとたんに精神的ピンチに追い込まれてしまうメンタリティは何とかならんもんか。「ああ、フリーになっちゃった。決めなきゃ怒られる。どうしようどうしよう」「ああ、数的優位になっちゃった。勝たなきゃ怒られる。どうしようどうしよう」……選手がそんなふうに思っているかどうかは知らないが、見ている俺はそんなふうに思っている。あなたはそんなことありませんか。前にも書いたと思うけれど、日本代表を見ていて辛いのは自分を見ているような気がするからである。嗚呼。中国戦のファンタジーは、要するに中田が比較的自由に動けたから生まれたというだけのことだったんでしょうかしら。んで、トルシエはどうなんの? 結局のところ、あの人は「教師」であって「勝負師」ではなかったということなんだろうか。少なくともゲーム中の采配に関しては、手を打つのが遅いような気がするし、いかにも場当たり的に見えてしょうがない。もしかして、常に「0-0」の状況を想定した練習しかしてないんじゃないのか? チームも監督も、力量が問われるのは先制したりされたりしてからどう戦うか、というところのような気がする。要するに、現場での「駆け引き」というやつである。そして、それはたぶん多くの真剣勝負を積み重ねることでしか上達しない。しかし宿命的にそれが少ないのがナショナル・チームである。だとしたら、各国代表を渡り歩いているトルシエのような人物よりも、クラブチームの監督として経験を積んだ人物を登用したほうがいいのかもしれん。でも、ミルチノビッチみたいな人もいるしなー。それはともかく、この期に及んでも次期監督候補としてベンゲルの名前しか出てこない協会ってのは、いくら何でも怠慢すぎやしないか。トルシエをクビにした場合の選択肢について、この2年間、どれだけ考えてきたってゆーんだ参議院議員。それとも、あっと驚く隠し玉でもあんのか?

4月26日(水)14:30 p.m.
 ゆうべは神田で高校の同級生と飲んでいたため、サッカー観戦なし。6人で集まったのだが、そのうち3人までがポストペットにハマっていた。「ポスペ」と略して呼ぶことを初めて知った。「江戸川くんもやりなよー」と盛んに勧められた。やらないってば。あの何とかいうクマのキャラクターを、みんな「かわいい」というけれど、俺にはそんなにかわいいと思えないぞ。べつに醜いとは言わない。ごくフツーのクマの絵だと思う。レコバのほうが、よっぽどかわいいじゃん。ま、レコバがメールを運んでくれたらポスペをやるのかといえば、それはまたべつの話ではあるけれど。

 各国代表(主にオランダ)に主力を持ってかれて選手が払底したバルサが、日程変更の要求を却下されたために、スペイン杯のアトレチコ戦(準決勝第2戦)を棄権したんだとか。ピッチに並んだアトレチコの面々にグアルディオラが握手を求めて「ほな、さいなら」とばかりに帰っていったというから、ずいぶん思い切ったことをするものである。映像で見たい。ライカールトが召集を少し遅らせれば何とかなったかもしれないが、それ以前にバルサのほうにやる気がなかったのかもしれんな。11人そろわなかったわけでもないみたいだし。第1戦、3-0で惨敗してなくても棄権したんだろうか。ラツィオやチェルシーにとっても、他人事ではない話である。

 あらためて読んでみると、きのうの日誌はひどい。ひどすぎる。書きゃいいってもんじゃないぞ江戸川。でも、デタラメな文章というのは書くのが楽しい。たぶん、仕事の反動だろう。「脈絡のあるわかりやすい文章」を書くのに疲れているのである。だったら文章なんか書かないで体操でもしたほうが気分転換になろうというものだが、そうならないのが不思議なところである。そういえば昔、たばこ会社でテイスティング(味見)の仕事をしている人が、1日中たばこを味わって仕事を終えた瞬間に、自分のポケットからたばこを取りだして一服つける、というシーンをテレビで見たことがある。そういうものである。文章を書くことで溜まった憂さは、べつの文章を書くことで晴らす。それがこの日誌の存在理由なのかもしれんな。だから忙しいほど日誌も長くなるんである。しかし、たしかに気分的には少しばかりガス抜きができるものの、気の毒なのは俺の目なのであった。書いている文章の内容や質にかかわらず、目は常にモニターをにらんで酷使されているからである。しかも仕事を終えて家に帰れば、テレビでサッカーばかり見ているのだからたまらない。最近、めっきり視力が低下してきたような気がする。がんばれ、目。

4月25日(火)10:15 a.m.
 千葉すずのことは、好きでも嫌いでもない。そもそも水泳という競技にさほど関心がないから、どのくらい凄い選手なのかもよくわからない。いったん引退した後、子供に水泳を教えて泳ぐことの楽しさを再認識したというようなエピソードを聞いて、なんだかわかりやすすぎてつまらない話だと思ったことはある。こういう話はしばしば「日本人好み」と形容されるけれど、本当にそうだろうか。そこからまた五輪を目指すという展開は、むしろハリウッド映画やハーレクインロマンス風の紋切り型である。アメリカナイズされた彼女には当然の流れということか。

 まぁ、そんなことはどうでもよろしい。あんまり茶化すとファンに怒られる。新聞を読むかぎり、彼女は日本でいちばん速く200メートルを泳ぐ女性であるらしい。しかしシドニー五輪には出場させてもらえないのだという。気の毒な話である。日本はアメリカではなかったのである。「情」を排して合理的なジャッジを下す社会ではなかったのである。ハリウッド的なサクセス・ストーリーの実現に手を貸してくれるような社会ではなかったのである。ハリウッド的メンタリティとアメリカ的合理主義のあいだには、何か相関関係があるのだろうか。なんでそういう話になるのか、われながらよくわからない。わからないが、そういうことを考える。

 ハリウッドと合理主義の共通点は「わかりやすさ」である。わかりやすいことは、たぶん善である。俺も仕事で書いた原稿が「わかりやすい」と言われると安心する。でも、わかりやすい話には必ずネグレクトされた部分がある。わかりにくい部分を端折らないと、話はわかりやすくならない。「わかりやすさ」の背後には、多少なりとも「ウソ」が隠れていると言ってもいい。事実、ハリウッド映画はウソつきである。もちろんあらゆるフィクションはウソつきなわけだが、やっぱりハリウッドがいちばんの大ウソつきじゃないかと思う。合理主義も、ときどきウソをつく。あいにく良い例が思い浮かばないが、たとえば統計の読み方なんかにしても、客観的なように見えて実は主観でどうにでもなる部分がある。だから、「わかりやすさ」だけを信用しているとまずいことになる。マスコミ報道もそうである。テレビ局も視聴者も「わかりやすいニュース」を求めているような風潮があるけれど、わかりやすいニュースほど信用ならないものもない。

 話がどんどん横滑りしている。千葉すずと何の関係があるのか全然わからない。結論を用意せずに文章を書いていると、こういうことになる。しかし、あらかじめ用意した結論に都合のいい材料ばかり集めることで「わかりやすいニュース」が作られていくことも事実なのである。たとえば中学生5000万円恐喝事件や都知事の「三国人」(おお、変換された)発言をめぐる新聞報道にもそういう面があったようだが、そんな話を始めると仕事をする時間がなくなるのでやめておく。以上、千葉すずと関係のある結論を何ら見出せないまま、この項、終わり。いろいろ考えさせる千葉すずはえらい。なんだそれ。

 バルセロナ×セビージャ(リーガ第34節)を観戦。クライファートとリトマネンのゴールで2-0。序盤のバルサは、チェルシー戦を終えた安堵感が抜けていないようで、ひどい出来映えだった。最近、プジョールという右SBに注目している。今季の途中からチャンスを与えられた若手だが、砂に水がしみこむようにいろいろなスキルを身につけ、めきめき上達していく姿を見るのが楽しい。チェルシー戦では、慣れない3バックもしっかりこなしていた。このごろは、「攻撃参加練習中」と教習車のようなプレートをくっつけてプレイしているように見える。この試合でも、「こっちに走ればいいんですね、グアルディオラ先生!」とでも言いたげな様子でペナに走り込んだりしていた。ほほえましい。

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