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江戸川駄筆のサッカー日誌
2000-2001/第2節

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8月1日(火)11:00 a.m.
 きのうの朝日新聞夕刊は、素粒子理論に関する記事が1面トップだった。粒子と反粒子がビッグバンで破れたとか消失したとかそんなような話なのだが、あまりにも理解できなさすぎて笑ってしまった。「素粒子理論に関する記事」とアバウトなことしか書けないところが、理解していない証拠である。端から端まで、1行たりとも理解できない。いったい、あれを1面トップに持ってくる意味がどれほどあるのだろうか。それにしても、出版社在職中に「いちばんバカな読者にもわかるように書け」という教育を受け、いまもライターとしてひたすら「わかりやすさ」を要求されている俺から見ると、新聞記者ってのは実に羨ましいのであった。難解な話を難解に書いてもオーケーなんだもん。スペース上の制約はあるにしろ、あの記事からは「なるべく多くの読者に理解してもらおう」という努力が微塵も感じられない。ところで、素粒子の記事がトップを飾った日の夕刊から「素粒子」というコラムの筆者が代わったのは単なる偶然なのか?

 同じ夕刊の社会面には、16歳の新聞配達少年が母親をバットで殴り殺した事件が報じられていた。気になったのは、犯人のプロフィールについて書かれた一文である。記事が手元にないので引用は不正確だが、「少年は真面目な働きぶりで、携帯電話も持たず、質素な暮らしぶりだったという」というような内容だった。なぜここで携帯電話。「携帯電話の不携帯」が「真面目」や「質素」の象徴だということが自明の前提となっているからこその書き方なのであるが、それにしても唐突である。なぜ、「少年は真面目な働きぶりで、質素な暮らしぶりだったという」ではいけないのだろうか。どうしても「携帯電話の不携帯」に触れなければいけないってもんでもないだろう。与えられた字数も少ないんだし。携帯電話を持たないことが、彼の人格にとってそれほど重要な要素だったのか? 彼が「持っていなかったもの」は携帯電話だけなのか? 想像するに、たぶん周辺の聞き込み取材で、近所のおっさんかおばさんが「あの子は、ほんに真面目な子じゃったばい。携帯電話も持っちょらんかったしねぇ」(方言はでたらめ)などと「証言」したに違いない。その口振りに妙な説得力があったからこそ、記者はそれをそのまま記事にしたのではなかったか。携帯電話だったからまだよかったようなものの、証言者の価値観によっては、記事はますます奇異なものになったであろう。「少年は真面目な働きぶりで、髪の毛も染めず、質素な暮らしぶりだったという」ぐらいならまだしも、「少年は真面目な働きぶりで、エレキギターも弾かず、質素な暮らしぶりだったという」「少年は真面目な働きぶりで、ポテトチップも食べず、質素な暮らしぶりだったという」「少年は真面目な働きぶりで、ゲタもはかず、質素な暮らしぶりだったという」「少年は真面目な働きぶりで、プラモデルも作らず、質素な暮らしぶりだったという」なんてことになったら、何のことだかよくわからない。ゲタ? プラモ? やはり携帯電話なのだ。ここはケータイでなければいけない。「えっ、ケータイも持っていない少年が人殺しをするなんて!」……この記事に触れたわれわれは、そう驚かなければいけないのであった。

*

 欧州サッカーがオフシーズンに入っているため、このごろWOWOWで映画を見ることが多い。昨夜も、『アルマゲドン』『お受験』を続けて見た。アルマゲドンとお受験。ブルース・ウィリスと矢沢永吉。人間の世界はある意味えらいことになっておるな、と思わずにはいられない組み合わせである。べつに組み合わさってはいないですか。そうですか。続けて見ると、そら戦争にも負けるわな、と思ってしまうぐらいの圧倒的な物量差があるわけだが、しかし俺はどちらも手に汗を握りながら観賞したのであった。「手に汗」の理由は、どちらも同じである。「果たして彼は間に合うのか」だ。小惑星がゼロバリアーを越える前にブルース・ウィリスは核爆弾のスイッチを押せるのか。そして、お受験の面接が始まるまでに矢沢永吉は会場にたどり着けるのか。穴から這い上がりながらスイッチに手を伸ばすブルース・ウィリス。苦しげに喘ぎながら江ノ電の線路をひた走る矢沢永吉。もし彼らが間に合わなければ、たいへんなことになってしまう。人類は滅亡し、娘は小学校受験に失敗するのだ。手に汗を握らざるを得ないではないか。こんなときに手に汗を握らないで、いつ握るというのだ。間に合ってくれ。どうか間に合ってくれ。そして彼らは間に合った。よかった。この2本の映画から、われわれは人間にとって重要な真理を見出すことができる。人間は、間に合いたい生き物なのである。そしてわれわれは、間に合った者たちをヒーローと呼ぶ。

 ところでアルマゲドンの裏テーマの一つは、「職人vs役人」の対立、なのであった。あくまでも現場感覚で初期の目的を達成しようとする石油掘削職人と、杓子定規に大統領命令を遂行しようとするNASAの役人宇宙飛行士。この紋切り型の二項対立から、われわれは人間にとって重要な真理を見出すことができる。どこの国でも、役人は役人なのである。日本の役人にプライドと責任感がないからといって、卑下することはない。


7月31日(月)14:00 p.m.
 5年前、サンドケー出版という版元が倒産した。倒産する直前にその会社の仕事をした俺は、ギャラの一部を取りっぱぐれた。まあ、それはよろしい。フリーランスにはよくある話だ。許せなかったのは、そのときの担当編集者Nが俺の知らないあいだに退社していたことである。まだ会社が存立しているとき、ギャラの支払いについて問い合わせようと思って電話をしたら、「Nはすでに退社しております」と言われて唖然とした。連絡先もわからないという。猛烈に腹が立った。辞めるのはかまわない。しかし、ひとこと挨拶があってしかるべきだろう。ギャラの支払いが完了していない以上、その仕事はまだ終わっていないのだ。辞めるなら、せめて誰がその件を引き継ぐのかぐらい連絡してくるのが人の道というものである。それをせずに俺の前から忽然と姿を消したNは、俺にとって「逃亡者」以外の何者でもない。

 今頃こんな話をするのは、そのNから最近になって連絡が来たからである。夏休みで東京を離れているとき、留守電に「ご相談があるのでご連絡を」というメッセージが入っていた。驚いた。二度と接触してくることはあるまいと思っていたからだ。そして、忘れていた怒りが再びこみ上げてきた。いったい、どのツラ下げて俺に「相談」しようというのか。ともあれ、5年前にしたくてもできなかった罵倒をするチャンスを、向こうから与えてきたのだ。どんな依頼であれ仕事を引き受けるつもりなど毛頭なかったが、電話をした。留守電に連絡を受けてから数日後のことである。「江戸川です」と名乗ると、Nは、5年前のことを詫びる様子もなく、「あー、どーも、どーも」と明るく言った。そして、「急ぎの仕事があったんですが、すぐにご連絡いただけなかったんで、別のライターに振っちゃったんですよ」と言う。ブチ切れた。なぜ俺に用がなくなった時点で「用がなくなった」と連絡をしないのじゃ。構造的には5年前と同じパターンである。自分のほうに用がなくなると、相手は自分に用があるにも関わらず、連絡もせずに放っておく。「ちょっと待ちなさいよ。あんた、自分が5年前に何したか覚えてないわけじゃないでしょうね」と声を荒げた後、どんな罵詈雑言を吐いたのかよく覚えていない。急に殊勝な態度になったNは、「私もようやく今の会社(ナントカ経済新聞とかいう業界紙らしき会社)に落ち着いて、やっと江戸川さんにもご恩返しができるかと思いまして」などと言いくさった。恩返し? 嗤わせるじゃねーか。恩返しのつもりの仕事を、簡単に他人に振るのかおまえは。恩返しなどせんでいいから二度と俺のところに連絡してこないでくれ、あんたのような人間から仕事をもらうほど俺は困っていないと言って電話を切った。

 しかしまあ、よくもヌケヌケと「恩返し」などという言葉を口にできたものである。そんなつもりが本当にあるのなら、ナントカ経済新聞に入った時点で挨拶状の一つも寄越すのがオトナの礼儀ってもんだろ。若僧ならともかく、俺よりいくつか年上だから、もう40前後になっているはずだ。どうせそれまでは俺のことなんか忘れていたくせに、急に書き手が必要になって「便利に使えるライターはいないか」と昔の名刺入れをひっくり返したに違いない。おまえなんかに使われてたまるか。

 このNに限らず、「用がなくなると連絡してこない奴」は少なくない。仕事の依頼を受ける。スケジュールが合わないと答える。調整してまたご連絡します、と言われる。それっきり放っておかれる。どうなったのかと問い合わせる。他のライターにお願いしました、と言われる。二度とこいつと仕事なんかするものか、と思う。仕事ってのはパス交換の連続だ。「また連絡する」と言われたほうは、じっとパスを待っている。パスが来なければ次のプレイに移れないのである。ところがそういう奴に限って、自分がパスの受け手になったときはうるさかったりする。人を待たせるのは平気なくせに、原稿の〆切については厳しいことを言うんだから頭に来るじゃあありませんか。しかも、こっちが大慌てで〆切どおりパスを出しても、だらだら編集作業をして、忘れた頃に原稿の内容について問い合わせてきたりするのだ。どうせ何日も机の上で原稿を眠らせているに違いない。

 長い愚痴になってしまった。このごろ、知らない編集者や出版社から仕事を依頼されると、なんとなく億劫な気分になるのは、そういう輩とつきあうハメになるんじゃないかという不安が生じるせいかもしれない。それとも、トシを取ると誰でも「新しい出会い」が鬱陶しくなるもんなんだろうか。カネもないし、仕事する相手を選んでる場合でもないんだけど。イカンなぁ。ま、「ヤな奴と仕事しなくていい」がフリーの特権だとも言えるのであるが。ただし、行使しても少しも儲からないものが「特権」と呼べるのかという問題もあるのであった。


7月30日(日)
 このあいだ書いた森首相の「フー・アー・ユー話」が週刊文春に出ていた。俺が聞いた話は「ヒラリーの秘書」だったが、文春では「ヒラリーの夫」になっていた。このへんが噂の噂たる所以である。後者が真実だったら、ほんとにシャレにならんな。ミー・トゥーって、あんた、そりゃいったい。ま、どっちにしろ日本国民としては頭を抱えるしかない。いままでは正直な話、「総理なんて誰がやっても大差ない」という思いが頭のどこかにあったけれど、ありゃダメだ。「ダメ」という言葉を太らせてスーツを着せると森首相になるに違いない。たぶん、自分が何者だかわかってないんだと思う。これまでも常に「ミー・トゥー」で生きてきたんじゃないのかしらね。


7月29日(土)
 どうにも気になって仕方ないので、「カニトップ」をキーワードにgooというサーチエンジンで検索してみた。ヒットしたのは大半がサッカー関連のページで、それを見ると「仙台のユニフォーム・スポンサーで、競技場で流されるチープなCMが人々の嗤いを誘っているらしい」ということがわかる。うー、見たい。見たいぞそのCM。だが、それで何なんだカニトップ。

 そこで「フォトアーティスト・Uのページ」なるところへ行ってみると、「カニトップ」と題された写真が掲載されている。おおこれがカニトップかとやや興奮したのであるが、小さい上に画像が暗くて何が写っているのかわからない。「写真をクリックすると大きくなります」と書いてあるので、クリックしてみた。写真が大きくなった。「カニトップ」の看板を背景にしたスタジアムの観客席の写真だった。だからそれが何なのか知りたいんだってば。しかしあの看板、やはりアーティストのココロをくすぐる「何か」を持っているらしい。カニトップおそるべし。もっとも、写真そのものはちっともアートになっていなかったが。

 さらに項目を目で追っていくと、いかにも正解に近そうなページを発見。「薬剤型栄養食品の長所・欠点」というページである。行ってみると、でかい表組があり、その中の「糖尿病には好ましくないもの」の欄にあった。カニトップ。そうか。そうだったのか。薬剤型栄養食品だったのか。ちなみにその長所は「整腸・美容・癌予防?(ダイオキシン除去作用・抗菌作用あり)」で、短所は「効果不明・高価」だそうだ。それじゃ長所が長所かどうかわからんじゃないか。備考として、「キチン・キトサンはブドウ糖と同類」と書いてある。そうか。キチン・キトサンはブドウ糖と同類なのか。ところでキチン・キトサンって何だ。まあ、いいや。ともあれカニトップとはそういうものである。

 さらにさらに、その謎めいたタイトルに吸い寄せられて「日本誤研究協議会 訪問者の足跡」なるページに行ってみると、「e-ぱふ」という人が2000年 05月 07日 22時 24分 40秒 に、こんな書き込みをしていた。
<母から「カニトップ」という薬が、糖尿に良いと聞いたから買ってきてほしい。といわれ、販売店を探したところ、このサイトに辿り着きました。どう検索しても、サッカー関連のサイトしか見つからず、ジャパンヘルスなる会社の情報が分からなかったのですが、マルチだったとは・・・さっそく母には、変なものに頼らずに、食事療法をきちんとするように伝えました。また、この検索の際に「薬剤型健康食品の長所・短所」という、どうやら 医療関係者が開設していると思われるサイトでキチン・キトサンはブドウ糖と同じと書かれていました。まあ、だいたい、食品であって薬ではないわけですから薬効が有る分けないですよね。>
……なかなかの常識人であるなe-ぱふさんは。少なくともキチン・キトサンがブドウ糖と同じであることの意味を知っているらしいというだけでも、俺より常識人だ。

 んなことはともかく。「マルチ云々」については、このサイトのどこかに記述があるようだが、それ以上は面倒なので詮索しなかった。カニトップも胡散臭いが、こんな書き込みがある「日本誤研究協議会」もかなり胡散臭い。だってそのすぐ下には、「ねこ」という人が2000年 05月 05日 03時 26分 14秒 に、<カモメサービスが2005年で終了するって聞いたのですが、本当でしょうか? 始めてみようと思っていたのですが・・ >なんて書き込みしてるんだぜ。どういう脈絡があるんだこいつら。しかもカニの次はカモメだ。何の前置きもなくいきなり「カモメサービスが」って言われてもな。なんだなんだカモメサービスって。そして、この「始めてみようと思っていたのですが・・」から感じられるねこさんの微妙なためらいは何なんだ。何故これまで始めなかったんだねこさん! 何か危険を伴うサービスなのか。始めるには勇気が必要なのか。そもそもカモメサービスを「始める」とは、サービスを受けることなのか、それともサービスする側に身を置くことなのか。「カモメ」という呑気なネーミングとこの怪しさのあいだに横たわる不気味なギャップは何なのだ。知りたい。カモメサービスの真実をわたしは知りたい。


7月28日(金)11:40 a.m.
 W杯予選では初の対戦となった南米ダービーブラジル×アルゼンチン(W杯南米予選第6節)を観戦。いやはや、わからんもんである。前節までの出来不出来を考えりゃ誰が見たってアルゼンチン有利だったわけだが、眠れる王者ブラジルが危機感をバネについにお目覚め。タテへの意欲とスピードが突如として蘇り、3-1で世界一強いはずのアルゼンチンを粉砕しちまったのであった。しかし、これで次節以降のアルゼンチンが崩れるかというと、そんなことはないような気がする。負けてなお「強さ」を感じさせる部分も多かったし、好調に水を差さない程度の負け方を心得ているようにも見えた。ブラジルのほうは、3点取ったとはいえアルゼンチンGKの不出来に助けられた面が大きかったし、ボランチのバンペッタが2ゴールでは根本的な解決になっていないのではなかろうか。しかしまあ、何にせよ楽しいゲームではあった。汚いファウルもさほどなく、お互いに持てる技術を存分に見せ合ったという印象。ボールタッチや身のこなしの柔らかさは、欧州戦線ではあまり見られないものだったと思う。むろん選手の大半は欧州でプレイしているわけだが、やっぱ「くに」に帰ると違うんだなぁ。

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 なんとレドンドがミランへ移籍するらしい。ま、マドリーも高い買い物(フィーゴ)したから誰か売らなきゃやってけないんだろうけど。こうなると来季のラツィオ×ミラン戦は、シメオネ対レドンドの対決が見物であるな。一方、パルマはミロセビッチをゲットしたとか。アルメイダと猿知恵コンセイソンも入るようだし、なかなか悪くない補強をしている感じである。渋いところでは、オリーベがペルージャからボローニャへ。これって、出世なんだろうか。出世なんだろうな。肩書から「補佐」とか「代理」が取れたぐらいのもんかもしれんけど。

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 ローカルすぎて誰の役にも立たない情報だが、仕事場から徒歩30秒のところにあった「サンマルク」というベーカリーレストランが潰れた。どうやら、こんどは「函館市場」という回転系の寿司屋になるらしい。手っ取り早く昼飯を済ませられるようになるのは、たいへんありがたいことである。……と愚妻に報告したら、「あんな広いスペースで、どうやって回転寿司にするのかしら」と言われた。なるほど。たしかにそうだ。なにしろ、ふつうのファミレス程度のスペースがあるのである。空港で荷物を吐き出してくるベルトコンベアを置いても、まだ足りないかもしれない。だいたい、あのスペースを覆い尽くす回転装置を用意できたとしても、端から端まで運ばれているうちに、寿司だって乾くっちゅうねん。いったい、どんな店になるんだろう。来月の回転、いや開店が楽しみである。


7月27日(木)12:00 p.m.
 ベネズエラ×チリ(W杯南米予選第6節)を観戦。開始早々にPKを得たチリが優位に進めるかと思いきや、これをサモラーノが失敗して大苦戦であった。サラスが出場停止中のチリは、どうも冴えない。それでも後半25分にペルージャのタピアが先制ゴール、最後はサモラーノもダイビングヘッドを決めて0-2でチリがアウエー初勝利。たぶん退屈なゲームだったのだろうが、異常なローテンションの日本語実況に嫌気がさして、副音声で早口のスペイン語実況を聞いていたせいか、やけにスピーディな展開に見えた。向こうのアナウンサーって、いったい何をあんなにたくさん喋ってるんだろう。DFラインでたらたら横パスをつないでいるあいだも、ボールがタッチラインを割ってゲームが止まっているあいだも、まるで決定機が訪れたかのようなマシンガン・トークである。こういうのって、1試合分の実況&解説をそのまま翻訳しただけでも、けっこう面白い読み物になるかもしれない。たとえばEUROのオランダ×イタリアなんか、両国の実況を比較してみるだけで、下手なジャーナリストの観戦記よりもよっぽど楽しそうだ。アリーゴ・サッキの解説なんて、どんなこと言ってるのか知りたいじゃん。

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 なんでそんなCDがうちにあるのかよくわからないのだが、このごろ愚息は山口百恵の『プレイバックPart2』と『絶体絶命』がお気に入りである。「バカにしないでよ」だの「はっきりカタをつけてよ」だの、ろくでもない言葉ばかり覚えてくれて嬉しい。いや、困る。しかも空耳が激しく、「彼と」や「彼を」が「カネゴン」に聞こえるらしい。♪別れてほしいのカネゴン。そんなことはできないわ。愛しているのよカネゴン。それは私も同じこと♪


7月26日(水)13:00 p.m.
 昨夜は、本の刊行を記念して銀座で著者の大先生と会食。物凄く旨いものを食ったはずなのだが、そういうシチュエーションだと何を口にしてもゆっくり味わう余裕がなくてたいへん勿体ない。大先生をお見送りした後は、版元社長、部長、担当編集者らとクラブで二次会。銀座のクラブなんかに入ったのは、何年ぶりだろうか。日本語ぺらぺらのコロンビア人ホステスと、サッカーの話で盛り上がる。どこ行ってもサッカーなのである。コロンビアでは、かつてアルゼンチン戦でGKイギータが逆立ちして足でシュートをセーブしたシーンが何かのCMに使われているんだとか。6-0でコロンビアが勝った試合で、これがかの国では末代まで語り継がれる栄光になっているそうだ。そんなことがあったのか。見たい。関係ないが、彼女に「SMAPのシンゴ君に似てるね」と言われた。こんどからコロンビアを応援しよう、と思った。ところで店には、日本語のほとんどできないフィンランド人ホステスもいた。リトマネンを知ってるかと訊いたら、知ってると答えた。フィンランド・チーム・イズ・ノット・グッド、オンリー・リトマネン・イズ・グッド、だそうだ。アイ・シンク・ソー。

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 みんな知っているのかもしれないが、森首相がホワイトハウスでクリントンに初めて会ったとき、事前に外務省の役人から「最初にハウ・アー・ユーと言え。向こうがアイム・ファインと答えたら、ミー・トゥーと返せばよろしい」と言われていたのに、緊張のあまり会うなり「フー・アー・ユー」と言ってしまったという噂を聞いた。空前絶後の質問であろう。しかしさすがはクリントン、「おまえこそ何者だ」と声を荒げることもなく、それをジョークだと解して、「私はヒラリー・クリントンの秘書である」と答えたという。気が利いている。ところが気の利かない我らが総理は、ここで「ミー・トゥー」とにこやかに言い放ったんだとか。何者だおまえは。

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 半券署名運動は、どうやら実を結びつつあるようである。日本代表の試合にかぎって、Jサポーターと代表サポーターを優遇するという方向で話が進んでいるらしい。ま、それはそれでよろしい。日本サッカー界は公式に、「ファン」と「サポーター」を区別(差別?)するわけだな。上等じゃねーか。これについてJAWOCはいかなる論拠を示すのであろうか。たとえばヤクルトの社長は、原理原則を超えるだけの合理的根拠が見出せないがために古田の五輪派遣を断念したという。ま、「ファンからの要望」が多数あれば話は違ったようだから、「サポーターからの要望」でJAWOCが動いてもいいんだろうけど、それとこれとは話が別という気もする。ともあれ、納得のいく説明が聞きたいものだ。なし崩し、はイカン。仮にその決定が日本サッカーのために良きものだとしても、日本社会のためにはイカン、と思う。W杯というイベントは、そんなに矮小なものではない。あらゆる面で、日本人の器量が試される場だと考えるべきではないだろうか。

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 ところで二千円札である。まだ実物を見たことも触ったこともない。それはいいのだが、気になるのは自販機の対応である。二千円札オーケーの自販機をまだ見たことがない。これって、なんか日本人らしくないような気がする。昔なら、新札登場と同時に驚くべき機敏さで切り替わったんじゃなかろうか。少なくとも、銀行のキカイぐらいは一斉に新札対応に切り替えるのが、本来の「日本人らしい」対応だと思う。いいことなのか悪いことなのか判らないが、日本人の几帳面さや生真面目さは変質しているのかもしれない。いずれ列車の発着時刻なんかも、「遅れるのが当たり前」になるんだろうか。

7月25日(火)15:30 p.m.
 仙台×札幌(J2第24節)を観戦。2-0でコンサの勝ち。つおい。自信満々、である。途中からは高木も出ていた。彼が札幌にいることをすっかり忘れていた。一生懸命やっていた。仙台のほうでは、初めて財前クンのプレイを見た。中田がほめるだけあって、さすがにセンスは高そうだ。ところで、ピッチ脇に立っていた「カニトップ」という広告看板、ありゃ何ですか。カニトップ。商品名なのか社名なのかもわからん。食い物なんだろうか。愚妻は「カニカマみたいなもんじゃないの?」と言うが、そーゆー商品にカニトップなんて命名するかなぁ。もしかすると、2トップが横歩きしながらポジション・チェンジをくり返す戦術のことかも。カニトップ攻撃。そんなわけはないですね。謎である。気になるので誰か教えてくれ。

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 WOWOWで録画した映画『39 刑法第三十九条』を観賞。おもしろい。『12モンキーズ』におけるブラピなどに比べると、日本の役者は精神異常者を演じるのが下手だという印象を持っていたのだが、この堤真一はなかなかうまかった。ま、この映画の場合は「精神異常者を演じる人間を演じる」なのであるが。しかし、多重人格(今は「解離性アイデンティティ障害」と呼ばれることが多いらしい。「人格」ではなく「アイデンティティ」のビョーキなのだそうだ)って、刑法三十九条の対象になるんだろうか。アメリカでは、交代人格による犯罪でも、その人格に善悪の判断能力があれば責任能力アリとされると聞いたことがある。問題は、犯罪を犯したのが「少年」の人格だったときだそうだ。本人は成人でも、交代人格が10歳の子供だったりすると、刑事責任が問えないのではないかという議論があるというのである。ややこしい。また、精神鑑定というと殺人などの重大事件のときばかり話題になるが、実は窃盗などの軽微な犯罪を「責任能力なし」で片付けることで検察や裁判所の仕事量が減るという(司法関係者にとっての)メリットもあるんだとか。ふつう刑法第三十九条は「被告の人権」を守るためにあると思われているわけだが、そういう使われ方をするのはレアケースであって、実はむしろ権力側にとって便利な道具になっているという話である。なるほど。

*

 足繁くスタジアムに通っているサポーターにW杯チケットの優先的な割り当てを求める「半券署名運動」なるものがあるという。その気持ちはわからんではないけれど、そのホームページを見ても、説得力や論理性に欠ける主張だとしか思えない。少なくとも、「足繁くスタジアムに通っていないサッカーファン」を納得させられるレベルの話にはなっていないと思う。「Jリーグの半券を持っていること」と「W杯チケットを優先的に買えること」を結びつける「なるほど」が弱いのである。それも当然で、JリーグとW杯はどちらも「サッカーの試合である」という共通項があるだけで、基本的には何の関係もない。W杯は世界大会なんだからして、Jリーグにカネを使っている人間が優先的にチケットを買えるなら、一時はCSに2つも加入して欧州サッカーにカネを使っていた人間が優先的にチケットを買えたっていいじゃないか、と揚げ足を取りたくもなったりするのであった。「Jリーグは見たくないけどW杯は見たい」という人間だって大勢いるわけでしょ。そういう人間とJサポーターとのあいだに優劣をつける合理的根拠がどこにあるのか、俺にはよくわからない。ふだん好きなクラブを応援するためにスタジアムに足を運んでいる人間が、どうしてウルグアイ×カメルーン戦を優先的に観戦できるというのだろう。それに、サッカーの発展やファン層の拡大を考えるならば、むしろこうした動きこそが、サッカーというマーケットの閉鎖性を助長しかねないということを彼らサポーターは考えるべきだと思うのだがどうだろうか。この「運動」から透けて見えるのは、自らを「コアなファン」と呼ぶ人々が持っているいけすかない特権意識である。「ふだんサッカーなんか見ない奴らが、W杯のときだけサポーター面して盛り上がるのは不愉快だ」というのは、あまりにも貧困かつ狭量ではなかろうか。そうやって彼らサポーターがおのれの優位性を主張すればするほど、サッカーの「敷居」は高くなるのである。サポーター・ファッショ、みたいなことにならないよう願いたい。

 そんなことより気になったのは、かのHPに、<半券署名運動は「チケット寄越せ」運動ではなく、 「チケットの配分にスタジアムに足繁く通っているファンへの配慮」をアピールする運動です>というエクスキューズがなされていることなのであった。なんだこれ? なんと欺瞞に満ちた空疎な言葉なんだろう。何が言いたいのか俺にはぜんぜん判らない。だってタイトルに「I NEED TICKET」って書いてあるんだぜ。これが「チケット寄越せ運動」でなくて何だというのだ。なんで「チケット寄越せ運動ではない」などと弁明しなければいかんのだ。いいじゃないか、「チケット寄越せ運動」で。きれい事を言いなさんな。おのれの主張が説得力と論理性を欠いていることを自覚しているから、堂々と「チケット寄越せ」と言えないんじゃないのか、などと邪推したくもなる。どうも「おらたちの気持ちを汲んで、どうか一つご配慮くだせぇ」とお上におもねっているだけのように見えて仕方がない。それとも、「アピール」できればそれでいいのか? 気色悪いなぁ。いかにも学級会的な偽善、といったら言い過ぎか。もちろん俺はわざと意地悪な読み方をしているわけだが、たぶん意地悪な読み方をされることを想定していない彼らが、自らの「善意」や「正義」を自明のことと考えているように見えることが気持ち悪いのである。

 気持ち悪いといえば、そもそも「サポーター」なる言葉自体が俺には昔から気持ち悪くて仕方がないのであった。おまけに「署名運動」と名の付くものに生理的な嫌悪感があるのだから、この運動に反感を抱くのも当たり前なのである。両者に共通するのは、「善意を強いる同調圧力」だ。ああ、イヤだイヤだ。だいたい自分のことを「サポーター」などと呼ぶのは不遜ではないか。俺はサッカーをサポートなんかしないぞ。サッカーが俺をサポートしてくれればそれでいいのだ。

 

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