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江戸川駄筆のサッカー日誌
2000-2001/第3節

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 本誌『愛と幻想のフットボール(FLF)』では、読者の皆様からの投稿を募集しております。原則としてテーマは問いません。h_okada@kt.rim.or.jpまで、どしどしお送りください。このページに関するご意見やご感想など、投稿以外のメールもお待ちしています。
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 ただし、掲載にあたっては(新聞・雑誌等の投稿欄と同様)、編集人の編集権が及ぶと思われる範囲内で加筆、修正、削除などの編集作業が加えられることがありますので、あらかじめご諒承ください。むろん、原則として届いた投稿はすべて原文に忠実に掲載いたしますし、編集人の主張と相反するからといって却下するようなことは絶対にいたしません。また、投稿はできるかぎり迅速に掲載させていただきますが、編集人の都合によっては到着から掲載まで数日かかることもありますのでご容赦ください。(編集人/江戸川駄筆)
ところで


……という活動があります。興味のある方は、「芝生スピリット神戸」にお立ち寄り下さい。

8月9日(水)11:30 a.m.
 昨夜は、愚妻が友人と食事に出かけたため、セガレと2人でお留守番。2人きりで夜を過ごすことなど滅多にないのでヘンに緊張した。いっしょにテレビでポケモンなど見ながら、淡々と時間をやり過ごす。セガレと2人でポケモンを見る夏の夜。そんなシーンが我が人生に挿入されていることに、いまさらのように驚いたりした。ゼニガメとかギャラドスとかフシギダネとかラプラスとかウソッキーとかメノクラゲとか、そんな名前を覚える気もなく覚えてしまう今日この頃である。そういえば3年前にセガレが生まれたとき、友人に「この子も、少し大きくなったらポケモンとか見るんだろうなぁ」と言われ、俺は「そのころには、もうポケモンも廃れてんじゃないのか」と言った覚えがあるのだが、どっこいポケモンは生き延びていたのであった。っていうか、すでにドラえもんレベルのスタンダードなのか。いや、海外でも人気だそうだから、ドラえもん以上のグローバル・スタンダードなのかもしれん。ポケモンおそるべし。ポケモンを見た後、ミニカーで遊んでやったのだが、一時は驚異的な勢いで覚えていたクルマの名前をセガレがすっかり忘れていることを知って愕然とした。あんなに好きだった「ベンツの郵便車」まで忘れているとは。ポケモンを覚えたぶん、クルマの知識が脳から追い出されているようだ。それじゃ俺と同じじゃねーか。3歳にして、脳味噌のスポンジ化。先が思いやられる。


8月8日(火)12:00 p.m.
 朝から気分が滅入るようなメールを受け取って、いささか落ち込んでいる。なんでそんなこと言われなきゃイカンのか理解できないのだが、まあ、きっと俺にも責任があるんだろう。その前に俺が出したメールが、意に反して相手の気分を滅入らせるようなものだったのかもしれない。そうでも思わないと不愉快になるばかりだから、とりあえず「悪いのは俺だ」ということにしておこう。やれやれ。だからメールはイヤなんだ。つきあいの浅い相手(つまり、行動や言動のパターンが読みにくい相手)のメールは「行間」や「口調」が読み取りにくいため誤解が生じやすいのだが、気楽に電話できるほど深いつきあいではないからこそメール主体のコミュニケーションになってしまうのが厄介なところである。ここでさらにメールのやり取りを続けても、たぶん話がこじれて難儀なことにしかならないと思うのだが、じゃあ電話する気になるかというと、それもなんだか気詰まりだ。どうしたものか。たぶん、しばらく時間をおいて頭を冷やしたほうがいいんだろう。

 こういうとき、一人で仕事をしていると気持ちを立て直すのが難しいのだが、さっき某社の編集者から元気の出る電話をもらって少しばかり気分が回復した。一緒に作った本を、ある作家が週刊誌の書評で取り上げていたという。この商売をしていると、そういう「反響」があったときがいちばん嬉しい。読んでくれた人がいる、というだけで励みになるものだ。先日も、何年かご無沙汰していた師匠が突然電話をくれて、ある本を「読んだぞ」と言ってくれた。たまたま書店で手に取ったら、構成者として俺の名前が記載されていたので、読んでくれたらしい。そういうリアクションが嬉しいのはこの日誌も同じで、このあいだも友人が感想を送ってくれてありがたかった。人間、やはり「無視」されるのが精神的にいちばん堪えるんじゃないだろうか。児童虐待も、殴る蹴るの暴行型より、親に放って置かれる「ネグレクト(遺棄)」のほうがトラウマが深いという説があるらしいし。だとすると、さっきのメールの件もあんまり長く放って置いちゃまずいのかなぁ。


8月5日(土)15:50 p.m.
 昨夜は、WOWOWで録画した『エイリアン4』を観賞。以前、似てる人シリーズで、「ラツィオのシメオネとWOWOW番組ガイド10月号の『エイリアン4』紹介記事で銃を構えている怪人」という愚妻のネタを発表したことがあるのだが、やはり似ていた。「ジョナー」という名の人物である。攻撃的な性格や「番頭さん」的ポジションまでそっくりだった。シメオネが好きで好きで大好きな俺が言うのだから間違いはない。最初から最後まで、シメオネにしか見えなかった。あれはシメオネではないのか。映画そのものは、まあ、「お約束のかたまり」ではあるけれど、それはそういうものである。商売として間違っていない。ホルマリン漬けにされた、リプリーの「クローン失敗作」という衝撃的メッセージもあったし。そうだよなぁ。失敗して奇形になっちゃったクローン人間、どうすりゃいいんだ。それは「ゴミ」なのか「命」なのか。

*

 きのう夕方のニュースを見ていたら、千葉すず関連の報道の中で、会見を終えて会場から立ち去ろうとする古橋会長に食い下がり、「あの基準は後からつけたものじゃないんですか?」と質問している女性記者がいた。「あの基準」とは当然「世界ランク8位以内」のことだろう。会長は無言のまま去っていった。なぜ、その質問を会見中にできないんだ? 途中で一方的に打ち切られたのかもしれないが、どう考えたって最初に投げかけられるべき質問じゃないか。「反省してるか」とか「責任を感じてるか」なんぞという眠たい心情論はどうでもよろしい。ホームルームの反省会じゃないんだからさ。まずは具体的な事実関係を問い質していくのが記者の役目だろうが。もちろん水連は、その選考基準が「あらかじめ決まっていた」と答えるだろう。しかし、そこで「では何故、事前に公表されなかったのか」「事前に決まっていたという証拠はあるのか」と問えば、厚顔な会長を絶句させ、うろたえる様子を見ることができたかもしれないのだ。そういう「表情」を撮ってこそ、テレビという映像メディアは威力を発揮するのではないか。ったく、何やってんだかなぁ。新聞も新聞で、今朝の『天声人語』には<スポーツ仲裁裁判所の裁定で、女子代表選考に当たって水連は「1999年世界ランキング8位以内の記録」という第三の基準を設けていた、と説明された。部外者には初耳だが、これに照らせば千葉選手はたしかに選外。しかし、これが選考前に公表されていれば、彼女はどんな泳ぎを見せただろう。じゃんけんの後出し。後味の悪い話だ。>などと書いてある。だったら、「後味の悪い話だ」なんてカッコつけて嘆息してないで、その不合理に目を向けないCASを批判する文章を書いたらどうなんだ。どうして誰もCASの裁定を疑問視しないんだ? そんなに偉いのかよCASって。

*

 きのうの午後、全国少年サッカー大会準決勝、江南南SS(埼玉代表)×浜松JFC(静岡代表)を見た。解説は原博美。「うわ、惜っしいなぁ、いまのシュート」って感じの本気の喋りだった。サッカーが好きなのか喋るのが好きなのか知らないが、よく働くおじさんだ。試合は後半ロスタイム、FKのチャンスを得た江南南が、FW藤倉の劇的なゴールで1-1の同点に追いつく。すばらしいクロス、すばらしいシュートだった。めちゃめちゃオトナな感じである。結局はPK戦で浜松が勝ち上がったのだが、この藤倉という選手は「買い」かも。まだ6年生だけど。引き続き、準決勝第2試合、札幌FC(北海道代表)×愛知FC(愛知代表)を観戦。スコアレスのまま延長戦に突入し、長身FW伊藤のヘディング・シュートで札幌が決勝点を上げた。やった。北海道勢としては初の決勝進出だそうだ。すごいじゃないか札幌。未来の道産子サッカーに栄光あれ。しかし今朝の決勝戦では0-2で浜松に負けてしまったようだ。残念。それにしても、日本の小学生はサッカーがうまい。きっちり攻撃を組み立てているのを見て、びっくりした。ただし、あまりにもお行儀がよすぎて心配な感じもある。出鱈目なイメージを持って出鱈目なプレイをする奴が一人もいない。たとえば『のど自慢』みたいな番組で、「めちゃめちゃ演歌のうまい子供」を見ると、感心すると同時に「こいつ大丈夫か」と思ったりするものだが、サッカー少年にもそれに似た危うさがあるのである。出来上がっている子供、は怖い。


8月4日(金)12:30 p.m.
 千葉すず問題が決着。実は「世界ランク8位以内」という基準があったから水連の選考は公平なものだった、しかしその基準を事前に伝えなかった点はまずかった、という話らしい。何のこっちゃ。「じゃあ、なんでその基準を事前に公表しなかったのか、そんなもん後付けの理屈ではないのか」という疑問が生じて然るべきだと思うのだが、新聞報道を見る限り、そのへんのことはあまり問題視されていないようなのが不思議である。古橋会長の会見で、それを質問した記者はいなかったのか? それに、CASは「日本水連が事前に選考基準を明確に選手へ告知していれば今回の提訴は避けられた」というが、「日本水連が事前に選考基準を明確に選手へ告知していれば、選考会での千葉のタイムも違っていたかも」という発想はないんだろうかしら。ここでは、「事前に選考基準を明確に選手へ告知すること」が「正義」なのである。で、水連が事前に告知していた選考基準は「選考会で1位か2位」と「世界で戦える選手であること」の2点だ。このうち「世界で戦える」には何ら客観性がない。意味もよくわからない。たとえばW杯で全敗したサッカー日本代表は「世界で戦える」チームだったのか? それが何とも答えようのない問題である以上、この基準には何の意味もないと思う。したがって実質的に基準として告知されていたのは「選考会で1位か2位」だけだ。ならば千葉に五輪出場権が与えられて当然。それが合理的な判断というものではないのか(仲裁人がアメリカ人だったら、そういう裁定になったような気もする)。なんだか、ちっともすっきりしない。敗訴した千葉は「CASが公平な判断を下した」と言うし、新聞にもCASを批判するような論調は見られないようだけど、そこに「国際機関の無謬性に対する盲信」はないのか。「ヨーロッパの人が下した判断なんだから合理的であるに決まってる」という思い込み(予断)のようなものが感じられるのは俺だけ? だいたい、CASの仲裁が「一審制」であることについて何か言うことはないのか朝日新聞。

 この件にかぎらず、日本のメディアは常に「予断」に支配されているように思えて仕方がない。中1男子の自殺をめぐる報道でも、それを感じた。校長が、自殺した生徒に対する「いじめ」があったことを認めた上で、いじめと自殺の関係について「わからない」とコメントしたそうだが、メディアはこれが気に入らないらしい。いじめがあって、その数日後に自殺したんだから、関係ないわけないだろう、と言いたいのだ。そんな乱暴な。人が自ら命を絶つ原因なんて、そう簡単に決めつけられるもんじゃないと俺は思う。したがって、ここは「わからない」と答えるのがいちばん誠実な態度なのだ。「いじめと自殺は関係ない」と言ったならともかく、わからないものを「わからない」と言って何が悪い。

 たとえば誤認逮捕や冤罪が発生したとき、メディアは「捜査当局に予断があった」と叩く。ところが彼らは、自分たちの「予断」には寛容だ。子供が自殺すれば「いじめ」があったはずだと思い込み、その事実が見つかれば「ほら見たことか」とばかりに原因を短絡的に決めつけるのである。ほかにも自殺につながる要因があったかもしれない、という想像力は少しも働かない。その報道によって、自殺した男子をいじめていた生徒たちに「冤罪」が降りかかる可能性があることを、考えられないのだ。

 どんなに調べたところで、本人が亡くなってしまった以上、自殺の原因をはっきりと特定することは不可能だろう。いや、仮に本人に尋ねることができたとしても、ほんとうの答えはわからないかもしれない。「いじめ」と「自殺」のあいだには、たぶん説明不能の「闇」のようなものが横たわっている。しかしメディアは、人間なら誰もが持っているはずの「闇」を認めない。「闇」を「闇」のまま放置すると、「わかりやすいニュース」にならないからだ。「いじめ自殺」という見出しがつけられれば、記事はたいへんわかりやすくなる。別の言い方をすれば、彼らはそのニュースを、「いじめ自殺」というジャンルに分類したいのだ。しかし、かつて『超整理法』の著者も指摘したように、分類には「その他」という名の落とし穴がある。どっちつかずのものを「その他」に投げ込んでいるうちに、「その他」が肥大して分類の意味がなくなってしまうのだ。つまり世の中の事象というのは「その他」が多くなるのが当たり前なのであって、だからこそ『超整理法』は分類を否定したのである。報道も、これに学ぶべきではないだろうか。「その他」として処理すべき事柄に、無理やりレッテルを貼って分類するのはきわめて危険だと思う。

 そもそも「いじめ」というコトバ自体が、一種のレッテルとなって、さまざまな予断を生む遠因になっているような気がする。いつのまにか子供の行動に「いじめ」というジャンルが設定され、何でもかんでもそこに投げ込まれるようになったのだ。「嫌がらせ」も「無視」も「暴行」も「傷害」も「恐喝」も「脅迫」も、みーんな「いじめ」である。そして、その言葉の定義も曖昧なまま、「いじめがあったか無かったか」というような言説が何の疑問もなく乱れ飛んでいる。定義が不明確なんだから、その有無を客観的に認定できるわけがない。「同級生に殴られていた」とか「持ち物を隠されていた」というのは客観的事実だが、「いじめがあった」は見る者の主観である。「客観報道」を標榜しながら、こんなに主観的で落ち着きの悪いコトバを平気で使える新聞記者の感覚というのが、俺には信じられない。

 だいたい、「(クラス内で)いじめがあった」とはなんと気色の悪い日本語だろうか。なぜ「(クラスメイトが)いじめていた」ではいけないのか。「いじめがあった」という場合、主語は「いじめ」である。「いじめていた」の場合、主語は特定の個人{加害者)だ。主語が違うということは、責任の所在が違うということだろう。「いじめていた」の場合は加害者が責任の主体だが、「いじめがあった」の場合、悪いのは「いじめ」だ。「いじめ」があるようなクラスが悪い、学校が悪い、社会が悪い、ということである。だからこそ、ある事件が発生したとき、「闇」に包まれた個別の事情から目を逸らし、何でもかんでも「教育制度」や「大人社会の歪み」といった社会問題にこじつけたがるメディアにとっては、「いじめ」というレッテルが便利なのかもしれない。

 ところで「いじめ」以外にも、動詞が名詞化して一人歩きする(独特の意味合いを獲得する)ことで胡散臭さが生じるコトバは少なくない。「癒し」もそうだ。「癒しの体験」と「癒される体験」では、圧倒的に前者のほうが胡散臭い。「気づき」なんてのもある。「こうした<気づき>を得ることが幸福への道なのです」なんて具合に使われることが多いようだ。ああキモチ悪い。それにしても、どうして俺は千葉すず問題を考えていると話があらぬ方向へ逸れてしまうのだろうか。


8月3日(木)11:20 a.m.
 昨夜は、神宮球場3塁側スタンドで花火を観賞。いまひとつバリエーションに欠けるきらいはあったものの、間近で見る打ち上げ花火はすごい。花火は芸術だ。芸術は爆発だ。芸術を爆発させる花火師はえらい。聞くところによると、日本の花火師たちは世界中のイベント会場を駆け回って仕事をしているらしい。まさにワールドクラスなのである。

 だが、せっかく花火がワールドクラスなのに、イベント自体の演出は溜め息が出るほど拙劣。濃紺の夜空に打ち上げられる雄大な瞬間芸術を4会場あわせて(たぶん)10万人を越える観客が観賞するという壮大なイベントの司会進行役がなぜ三遊亭楽太郎なのか。三遊亭である。楽太郎である。盛り上がらん。盛り上げようともしとらん。彼が出囃子と共に特設ステージに姿を現した瞬間、「芸術」は「余興」へと身をやつすのであった。さらに打ち上げ前の前座として、見たことも聞いたこともない女性演歌歌手、アホの坂田、「焼き肉ヨーデル」(これはそこそこ笑えた)を歌うバンド等々が登場するたびに、「余興度」はいやが上にも増していく。要するに巨大規模の「笑点」である。「余興度」って、もしかすると「鼻白み度」とイコールなのかもしれない。鼻白む10万大観衆。これから爆発しようってときに鼻白ませてどうする。この国の「芸能」が直面している危機を目の当たりにしたような気分である。

 たぶん、「前座」と「イントロダクション」は違うのであろう。メインディッシュに向けて徐々にテンションを高めていくような構成力は微塵も感じさせない。つまり、トータルな「ショウ」になっていない。2時間弱の「前座」のあいだに客席で高まったのは、花火への「飢餓感」だけである。この貧しさ。そこにファンタジーはあるのか。ロマンはあるのか。カタルシスはあるのか。必要なのは、「物語」なんだろうと思う。あるストーリーの中で花火を主役として位置づけるような「仕掛け」が欲しい。だからこそ「前座」ではなく「イントロ」が求められるのだ。その「仕掛け」の中で、見る者は花火の意味について、空について、美について、人間の偉大さと矮小さについて、そして人生について考える。いや、「考えたような錯覚」を味わえるだけでいい。そんな花火大会があってもいいだろうと思う。「芸術」と「余興」で何が違うかといえば、たぶんそれは「見る者に何かを考えさせるかどうか」だ。余興は人から思考を奪う。田舎の河川敷で行われる花火大会なら「余興」でもいいだろう。しかしこれは、首都トーキョーのど真ん中で開催されるイベントなのだ。もう少し気取ったっていいじゃないか。


8月2日(水)11:40 a.m.
 寝言シリーズ第?弾。愚妻によれば、俺は昨夜、やおら「うーむ、怪しい!」と呻ったんだそうである。そういうおまえがいちばん怪しい。ちなみに、それはまるで榎木津礼次郎(京極堂シリーズに登場する探偵)のような口調だったとか。なかなか愉快な寝言である。榎木津が活躍する京極夏彦『百鬼徒然袋』(講談社)は宮古島で読んだ。榎木津は最高だ。あらゆる意味で、最高、としか言いようがない人物である。

 そういえば宮古島では松本清張『点と線』(新潮社文庫)も読んだのであった。前にも読んだことがあるはずだし、何をいまごろ、なのであるが、なぜか羽田の売店で「これだな、やっぱり」と思って買ったのである。でも、あんまり面白くなかった。いまだったら、背景にある汚職事件のディテールをもっと書き込むなり何なりして、よりスペクタクルな(手に汗握る?)展開にしないと許されないのではないかと思った。しかし当時は、この程度でも「社会派」と呼ばれたんだなぁ。どうでもいいが、なし崩し的に読書日誌になろうとしているのかこのページは。

*

 さて。また怒ってるのかと呆れられるかもしれないが、世の中にはどういうわけか目にしただけで不快になる集団、というものがある。たとえば俺の場合、「昼飯を終えて会社に戻る途中のサラリーマンたち(3人以上)」というのがそれだ。理由はよくわからないし、自分もかつてはそうだったわけだが、目にしただけで「そうか。おまえらみんなでめし食ったのか。食ったんだなこの野郎」と思う。そんなこと思って何になるのか我ながらよくわからない。わからないが、そう思う。なんとも理不尽な感情である。

 休暇で訪れた宮古島でも、「目にしただけで不快になる集団」に遭遇した。「撮影隊」である。たぶん、写真集か何かの撮影だったんだろう。名前は知らぬがタレントらしきオッパイの大きな若い女、名前は知らぬがたぶん「先生」と呼ばれているであろうカメラマン、名前は知らぬがタレントやカメラマンの手下とおぼしき数名の男女というグループが、飛行機でも宿でも一緒だったのである。理由はよくわからないし、自分もかつては似たような立場にいたわけだが、そいつらがそこにいるだけで「さてはおまえら撮影隊だな。写真撮るんだなこの野郎」と思う。何だろうこれは。

 いや、不快感の原因はわかっている。彼らが「えらそう」だからだ。「勝ち誇っている」と言ってもいい。昼飯を終えて会社に戻る途中のサラリーマン集団も、南の島に出張してきた撮影隊も、俺の目にはとてもえらそうに映る。そして勝ち誇っている。いったいどこで何を負かしてきたんだあなた方は。

 とくにサラリーマンが集団になったときに見せる「ふん、めし食ってやったぜ」とでも言わんばかりのふんぞり返り方というのは、ありゃ何なんだろうか。一人だとうつむき加減にこそこそ歩いているのに、彼らは3人以上になると肩で風を切り、ふんぞり返るのである。これはもう、例外なしにふんぞり返る。どうしてなんだろう。もしかして爪楊枝のせいだろうか。俺は使い方がよくわからないので爪楊枝を口にしたことがたぶん一度もないが、ことによると人間の骨格は細長い木片を歯に挟むと自動的にふんぞり返るようにできているのかもしれない。

 さらに言えば、一人だと内股なのに、集団になると何故かガニマタで歩く奴が珍しくないことも不思議である。ウソだと思うなら、試しに昼時のオフィス街で観察してみるといい。5人以上の集団の場合、まず間違いなくそのうちの3人はガニマタだ。これも骨格の問題なのか。それとも集団心理って奴なのか。日本人の集合無意識には、「食後の集団」と「ガニマタ」を結びつけるファクターが隠れているのか。どうでもいいけど、めし食ったぐらいで威張るなよそんなに。

 しかし撮影隊の場合、めしを食った後でもないのにえらそうである。ガニマタではないがえらそうなことに変わりはない。「先生」と呼ばれているであろうカメラマン(フォトグラファーって呼ばないと怒られるのか?)がえらそうなのは百歩譲って仕方ないとして、手下とおぼしき数名の男女までがえらそうに見えるのはどういうわけだ。そう見えるだけではない。実際、宮古島の撮影隊はその言動もえらそうだった。

 午前中、われわれが家族3人でホテルのプールに行ったとき、そこではすでに撮影作業が始まっていた。プールの中で2人のスタッフがレフ板の角度を調整している。やがてタレントらしきオッパイの大きな若い女が水着姿でプールに入り、カメラマンが注文をつけ始めた。

 ところで、カメラマンが被写体に出す注文ほど、ハタで聞いていて恥ずかしいものもない。「うん、そのへんでいいよー。そこでアゴだけ水につけてみてくれる? そうそう。いいねーいいねー。じゃ、そうだなー、何か言い忘れた大事なことを思い出したみたいな感じで、ちょっと口を開けてみようかー」ってな具合である。おまえ、その「何か言い忘れた大事なことを思い出したみたいな感じ」っていう表現、今までに100回ぐらい使ってるだろ。と、内心で突っ込みを入れていた俺だったが、まあ、それはよろしい。それが彼の仕事である。俺だって、20回ぐらい使い回しているレトリックはきっとあると思う。問題は手下どもだ。

 セガレがプールに入りたくてウズウズしているので、俺はプールサイドに突っ立っているスタッフの一人に歩み寄り、「お仕事中に失礼するが、あっちの子供用プールで子供を遊ばせてもよろしいか」と訊いた。俺にしてみれば、尋常ならざる丁寧な対応である。ホテル側からは撮影に伴うプールの使用規制など何もなされていないのだから、本来なら宿泊客であるわれわれは子供用プールだろうと大人用プールだろうと自由に使えばいいのだ。シャッターを切る瞬間にビーチボールが背景を横切ろうが、タレントらしきオッパイの大きな若い女にセガレや俺が抱きつこうが、文句を言われる筋合いはない。俺が抱きついちゃまずいか。

 ともかく、俺は礼を尽くしてそう訊いたのである。「節を曲げた」と言ってもいいぐらいの譲歩だ。子供用プールは撮影で使用中の大人用プールとつながっているから、そこで遊べば多少なりとも波が立ったりして撮影に支障が出るのではないか、という実にきめ細かい配慮もあった。なんて気が利く男なんだ俺って奴は。ところが俺の問いかけに対して、手下は俺の顔を見ようともせず、タレントらしきオッパイの大きな若い女に視線を向けたまま、「いいですよ。あっちは関係ないから」と答えた。実にぞんざいな口のきき方である。そして暗に、「あっちはいいけど、こっちはダメ」と言っている。まるで、国家権力の手で立入禁止にされた殺人事件現場で立ち番をしている制服警官のような態度だ。いったい何様のつもりなんだろうか。

 俺に彼らの仕事を邪魔する権利がないのと同様、彼らに我が家の休暇を邪魔する権利はないのである。「ご迷惑をおかけして、すみません。すぐ終わりますから」ぐらいのことがなぜ言えぬ。せめて「いいですよ」ではなく「どうぞお使いください」と言いなさい。……なんぞと説教したい気持ちに駆られたが、せっかくの休暇を雰囲気の悪いものにするのも馬鹿馬鹿しいので、「そうですか」とだけ言ってセガレとプールに入った。手下め。あいつらの頭の中には、「タレントもカメラマンも誰もが羨むような職業である。したがってこの撮影は、何よりも優先されるべきトクベツな仕事なのだ。いまやプールはわれわれ撮影隊の支配する聖域となった。よってシモジモの一般人なんぞに文句を言われるわけがない」というような前提が自明のものとして刻まれているに違いない。半券署名運動でも感じたことだが、俺はこういう「そいつらだけが自明だと思い込んでいる前提」が気に入らないのである。タレントの撮影なんか、ちっともトクベツじゃない。仮にそのときプールで働いていたのが撮影隊ではなくペンキ職人だったとしても、あるいは無名の画学生がプールサイドにイーゼルを立て、絵筆を握りしめて水面をじっと睨んでいたのだとしても、俺は同じように「子供を遊ばせてもよろしいか」と訊いたことだろう。それは「仕事一般に対する気遣い」であって、「誰もが羨むような職業」に対する遠慮などでは決してないのである。勘違いすんなよ、手下ども。

 

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