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江戸川駄筆のサッカー日誌
2000-2001/第4節

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ところで


……という活動があります。興味のある方は、「芝生スピリット神戸」にお立ち寄り下さい。

8月14日(月)16:20 p.m.
 またMacがクラッシュ。もうイヤだ。再々インストールをしても起動しない。カスタマーセンターに相談すると、ハードディスクを初期化する際に、「ゼロ書き込み」(1時間ぐらいかかる)をしたほうがよいとのこと。よくわからんが、言われるままやってみた。1時間半たっても、処理状況を示すステータスバーがピクリとも動かない。四苦八苦してやり直すと、こんどは「初期化できません」と言われた。頭が真っ白になった。しょうがないので、通常の初期化(これはできた)、再インストール、クラッシュ、初期化、インストール、クラッシュ、初期化、インストール、クラッシュ……というパターンをやけっぱちで何度か繰り返しているうちに、どういうわけか使えるようになった。そうなるまでに、自分が何をどういう手順でやったのか、ぜんぜん覚えていない。インターネットの設定、プリンタの設定、各種アプリケーションのインストール等々を終えて、いまは午後4時である。また半日潰れた。くたびれて、原稿を書く気分にならない。いったい何をやっておるのだ。嗚呼。今日はこのまま使えたとしても、どうせ一夜明けたらまたクラッシュするに違いない。毎日、システムのインストールから始めなきゃいかんのか? いっそのこと、このまま電源入れっぱなしにしとくか。


8月13日(日)
 Macクラッシュによる遅れを挽回するため仕事しようと思っていたのだが、どうも気力・体力ともに減退気味で、終日家でごろごろ。世の中がお盆休みだと思うと、なぜかこっちまで休暇モードになってしまう。


8月12日(土)
 東京湾花火大会を遠目に見物。いやー、豪快豪快。スケール、技術、アイデア、想像力など、あらゆる点で神宮外苑を凌いでいる。神宮は日刊スポーツ、東京湾は朝日新聞の主催なのだが。


8月11日(金)9:50 a.m.
 Macが大クラッシュを起こしたのである。きのう、この日誌を更新した直後のことだ。画面がフリーズしたのでリスタートをかけると、Macユーザーにはおなじみのハテナマークが点滅。「?」じゃねーだろ、トボけたツラしてないで何とかせんか。てなことを思いつつ何度かリスタートを試みたが、どうしても起動しない。しょうがないので、「OSのCD−ROMから起動」というやつを初めてやってみた。ふだんからマシンの不具合に祟られている愚妻にきくと、CD−ROMから立ち上げて修復ソフトを走らせればいいらしい。マニュアルには、「ハードディスクが現れるように祈りましょう」と書いてあるという。パソコンの仕組みはわからないが、祈るぐらいなら俺にもできる。勇気づけられた。

 さてOS8のCD−ROMを入れて立ち上げると、たしかにDisk First Aidなるソフトがある。アイコンは疾走する救急車の絵柄だ。頼もしい。いざ、ハードディスクを「検証」させてみた。ほら直せ、やれ直せ。ところが検証を終えて出てきたメッセージは、こんなものだった。「テスト完了。問題が見つかりましたが、Disk First Aidは問題を修復できません」。役人かおまえは。んで、「問題」の項目をみると、「ノード・ストラクチャに誤り」と書いてある。そうか。ノード・ストラクチャに誤りがあるのか。ノード・ストラクチャって何だ。一応、リスタートをかけてハードディスクが現れるよう祈ったが、ダメだった。

 どうにもお手上げなので、アップルのカスタマーセンターのようなところに初めて電話をしてみた。ああいうところに電話をするのは、外国のホテルでフロントに電話をするのと同じくらいドキドキする。言葉が通じるかどうか、相手の言ってることが理解できるかどうか不安だからだ。20代とおぼしき男性に、たどたどしく事情を説明すると、「システムの再インストールをおすすめしまぁす」と明るい声で言われた。あんまりあっさり言われたのでうっかり安心しそうになったのだが、それ、もしかして今まで作ったファイルがきれいさっぱり消えてなくなるってことだよねぇ。そう質問すると、「さようでございまぁす」と爽やかに言い切られた。だからそれじゃ困るんだってば。もう少し気の毒そうに言ってくれ。あんたにゃ「情」ってもんがないのか。なんだかダイアローグ・ボックスと話をしてるみたいだ。どう粘っても再インストール以外の選択肢を与えてくれそうもないので、電話を切った。

 困り果てて、やはりMacを使っている友人のYに電話をしてみた。「30分ぐらい放っておくと立ち上がることもあるぞ。ただし運が良ければ」と言われた。放っておく。マシンの機嫌が直るのを待つ。運を天に任せる。うーむ。なんて素敵な解決法なんだ。俺はマシンの電源を落とし、待つことにした。Macよ、いまこそ自然治癒力を発揮するのじゃ。そばでオーナーに見張られていてはMacもリラックスできないだろうと思い、俺は昼飯を食いに出かけた。ストレスは病気の元である。一人にしてやるから、ゆっくり治せ。30分後、そろそろいいかと思って電源を入れた。ハテナマークが出た。ちぇっ。もしかして、あっためたり冷やしたりしてやったほうがよかったんだろうか。

 何でもいいからやってみようと思い、なぜか手元にあった漢字トーク7.5のCD−ROMで起動させてみた。Disk First Aidで検証した。「問題を修復できません」と言われた。やはりダメかとため息をついたのだが、ふと見るとデスクトップにハードディスクのアイコンが出現していた。おお。そんなところにいたのか。なぜOS8で出てこなかったものが、漢字トークで出てくるんだろう。ちょっとした奇跡、だったのかもしれない。ともあれ、俺のファイルたちはそこで生きていた。とりあえず、バックアップを取っていなかったファイルをフロッピィ5枚に落とすことができた。

 しかし、相変わらずハードディスクは自ら立ち上がろうとはしなかった。もう、いい。諦めた俺は、システムの再インストールを敢行した。生まれ変わったハードディスクに、「DAPITSU」と命名した。いままでは本名を名乗らせていたのだが、同じ名前ではなんだか縁起が悪いように感じたからだ。それからがまた大変だった。インターネットの設定をしようと思うのだが、IPアドレスやらDNSアドレスやらPOPアカウントやらSMTPホストやら何やらかんやらを書いたメモが見つからない。どうして、いつも設定し直すたびにあれを探してるんだ俺は。ようやく発見して、慎重に必要事項をタイプした。しかし、つながらない。つながらないので、リムネットに電話をした。接続先の電話番号が間違っていた。そうなのだ。数ヶ月前に、リムネットはアクセスナンバーが変わったのだ。メモが古かった。それにしても、こういう場合、間違っているのはたいがい電話番号である。次に、プリンタを試した。動かない。取扱説明書を見た。そうか。ソフトをインストールしなきゃいけないのか。ソフトソフトっていちいち面倒なキカイだ。ケーブルつないで電源入れたら動けよ。などと文句垂れててもしょうがないので、プリンタのソフトを探した。ない。30分かけて仕事場中を探した挙げ句、それを目の前の机の上で発見したときは、自分を殴りつけたくなった。さらに引き出しの中をひっくり返して3年も前に買った雑誌付録のCD−ROMを探し出し、エディタやらFetchやら解凍ソフトやら何やらかんやらをインストールした。とりあえず使えるようになった頃には、すっかり疲労困憊していた。パソコンの再インストールは、引っ越しと同じぐらい疲れる。

 ショックだったのは、Eudoraの受信簿やアドレス帳が真っ白けになっていたことである。フォルダごとコピーしたので大丈夫だろうと思っていたのだが、ダメだった。アドレスは自宅のMacにもあるから何とかなるが、消えたメールは戻ってこない。嗚呼。最近、何かと励みになるメールを友人知人から何通かもらっていたのに。デジタル・データの儚さよ。

 一夜明けた今朝、生まれ変わったはずのMacはまた起動しなかった。顔面蒼白。しかしCD−ROMから起動すると、こんどはうまくいった。でも、このマシン、もうダメなのかも。もし明日以降、更新がしばらく途絶えることがあったら、またトラブルに見舞われたのだと思っていただきたい。

 結論。壊れたパソコンに、祈りは通じない。


8月10日(木)9:50 a.m.
 瓢箪から駒、棚からぼた餅。いずれも、どちらかといえばラッキーな事態を指す言葉だと思われるが、コーン缶から爬虫類、トマトジュースから昆虫、せんべいから針金、空から魚(これは英国の話)というのはあんまりラッキーじゃないんである。体長7センチのオオクワガタでも出てくりゃ話は別だけど。世の中、どこでどんな不幸に出会うかわからない。しかしまあ、爬虫類や昆虫もたしかにキモチ悪いけれど、いちばん怖くてキモチ悪いのはやはりニンゲンだと思う最近の俺なのであった。マスメディアに限らず、われわれの主観世界というのはいろいろな「思い込み」に支配されている。その「思い込み」のいくつかを何らかの形で共有している相手とは友達や仲間になれたりするのだが、「思い込み」にズレがある相手のことはひどくキモチ悪く感じるのである。とりわけ、しばらくつきあった後でそんな「ズレ」に突如として気づいたときは、キモチ悪さも倍増するのであった。缶のフタを開けるのも怖いが、ニンゲンのフタを開けるのも怖い。そして電子メディアには、「ニンゲンの缶切り」になりやすい性質があるように思う。話が抽象的にすぎるが、そんなことを考えている。

*

 きのうの札幌南×PL学園(全国高等学校野球選手権1回戦)は、7-0でPLの勝ち。親戚に札幌南OBがいることもあって、肩入れ度もふだん以上だったのだが、まあ、予想以上でも以下でもない負け方ではあった。北海道の野球は、いつまでたっても強くならない。このままだと、道内ではサッカーのほうがメジャー・スポーツになるのかも。いや、まあ、それ以前にスキー&スケートという超メジャーがあるわけだが。

*

 それにしても甲子園である。今年もやってるなぁ。うん、やってるやってる。というぐらいの感想しかない。どこが優勝候補なのかも知らないし、どんなスター候補生がいるのかもまるで知らない。ならば放っておけばよいのだが、どういうわけか放っておけないのが甲子園である。だから甲子園が始まると「ああ、甲子園かぁ」と意味もなく呟いてしまう。そう呟いた瞬間、すでに俺は甲子園に取り込まれているのである。甲子園を放っておけないのは俺だけじゃない。なにしろサッカーの掲示板サイトでさえ、甲子園に対する賛否両論で盛り上がっていたぐらいだ。何の賛否だかよくわからないが、この際、そんなことはどうでもよろしい。とにかく賛否両論なのである。人は甲子園を語りたいのだ。賛成の人も反対の人も野球の人もサッカーの人も、語りたくて語りたくてウズウズしちゃうのだ。

 俺もガキの頃は、スコアブックをつけながら観戦するぐらい熱中していた。桜美林に菊池太陽という名前の選手がいた頃の話だ。俺と同世代の人間なら誰もが、
 菊池太陽がいた、あの夏。
……の風景を昨日のことのように思い出せるはずである。菊池だ。太陽だ。サヨナラ2ベースだ。どうだ。その名前を目にしただけで、あのとき耳にしたセミの声が幻聴のように蘇ってきただろ。思い知ったか菊池太陽の威力を。元気かな、菊池太陽。それより、桜美林は元気なのか。桜美林は、オベリンだかオーベリンだかという名前の外国人がつくった学校である。だから桜美林だ。つくったのがオフェルマルスやグリエルミンピエトロじゃなくて良かった。ちなみにPL学園はパオロ・ロペスさんがつくったわけではなく、パーフェクト・リバティの頭文字である。人それぞれだ。それぞれの意味、それぞれの歴史。それぞれの汗、それぞれの涙。それぞれの夏休み、それぞれの菊池太陽。甲子園はそれぞれだ。それぞれなのが甲子園だ。それぞれだから賛否両論だ。何が言いたいんだ。しかし人それぞれとはいえ、明大中野八王子、という名称はどうかと思う。吉祥寺や武蔵小金井から、どっち方面の中央線に乗ればいいのか迷うじゃないか。うっかり井の頭線で明大前に行っちゃったりしたらどうしてくれる。なんで明大八王子じゃダメなんだ。中野に借りでもあるのか。どうでもいいか、そんなこと。明大中野八王子は甲子園に出られなかったみたいだし。

 何の話だっけ。甲子園は放っておけないという話だ。今年のセンバツ優勝校すら覚えていないぐらい無関心なのに、なぜか放っておけない。春高バレーは放っておけるのに、甲子園は放っておけないのである。こんなふうに「放っておけないもの」が他にあるだろうか。甲子園ほど我々を否応なく巻き込むものが、他にあるだろうか。もしかするとバルセロナの人々も、こんなふうにサッカーに巻き込まれているのかもしれない。


 

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