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江戸川駄筆のサッカー日誌
2000-2001/第5節

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8月22日(火)11:20 a.m.
 甲子園が閉幕し、夏もそろそろ終わりである。が、原稿のほうは遅々としてはかどらない。Macの不調もあったが、俺自身の不調のほうが実は深刻なのであった。書けない。「8月いっぱいを目処に」なんて言われてるんだけど、ぜったい無理。笑っちゃうぐらい無理。無理なものは無理。しかし編集者のほうもノンビリしたもので、まだ1行も原稿を見せていないにもかかわらず、まったく連絡してこない。信用されているのか、はたまた「ま、急ぐ仕事じゃないし」と思っているのか。催促されるのは好きじゃないけれど、あんまり放っておかれるのも不気味である。

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 昨夜は、チリ×ブラジル(W杯南米予選第7節)を前半だけ観戦。結果はとっくに知っていた。3-0でチリが勝った試合である。前半は2-0。前節でアルゼンチンに快勝したブラジルだったが、やはり一過性のものだったか。アルゼンチン戦で2ゴールの好調バンペッタを出場停止で欠いただけで、元の木阿弥。復帰したアモローゾは何やってんのかわからんし、リバウドもあいかわらずセレソンでは存在感が薄い。とうとう次からはロマーリオが呼ばれるようだ。でも、ゆるゆるの最終ラインを何とかしないかぎり、安定した戦いはできないと思う。チリのほうは、サスペンション明けのサラスが全開バリバリ。ところで彼、10月からいったいどこでプレイするんでしょうか。

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 プレミア・ハイライトを見た。スーケルはウエストハムにいた。ゾラはチェルシーに残っていた。すばらしいFKを決めていた。安心安心。リバプールはユニフォームのデザインが変わり、ホーム用の赤いジャージに襟がついている。昨季までの丸首は似合わない選手が多かったけど、なくなるとちょっと寂しい。そういえばユナイテッドのほうは、逆に襟なしのVネックになっていた。なんだか貧相な感じだった。


8月21日(月)11:30 a.m.
 G先輩からメール。ハチのムサシは死んだのさは、平田隆夫とセルスターズの歌だとご教授いただきました。ありがとうございました。あと、喫煙者はHDの寿命が短いという説があり、わがMacの症状もそれに似ているんだとか。なるほど。間接喫煙の犠牲者だったわけであるか。気の毒に。と言いながら、いまも煙草を吸っている。いまどきの喫煙者は、キカイにまで気遣いせなあかんのやなぁ。

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 ゆうべ、プレミア中継が始まるまでのツナギに、K−1GPなるものを、たぶん、初めて見た。準決勝2試合と決勝戦の計3試合。1試合目は「耳が聞こえなくなった」と言って負け、2試合目は「目が見えなくなった」と言って負け、3試合目は「蹴られた足が痛い」と言って負けていた。見ザル、聞かザル、歩かザル。ぜんぜん、おもしろくない。ま、もともと格闘技と名の付くものにまるで関心がなく、楽しむために必要な情報もまったく持っていないのだから、つまんなくて当然である。それでもダラダラ見てしまったのは、リングサイドで観戦している人々の顔に興味を引かれたからなのであった。K−1を見るとき、人はなぜニタニタと薄笑いを浮かべるのであろうか。人間が見せる表情の中でも、あれはかなり下品な部類に入るだろうと思う。ありゃ、観衆の顔というよりは野次馬の顔だね。ところで、K−1とキックボクシングはどこがどう違うんですか。

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 マンチェスターU×ニューカッスル(プレミア第1節)を観戦。今季もGK以外に目立った補強のないユナイテッドだが、シーズン97ゴールもあげたチームをいじる必要もあんまりないんだろう。2-0で楽勝。序盤こそ可能性を感じさせるカウンターを何度か見せたニューカッスルだったが、前半に先制を許してからは太刀打ちできなかった感じである。再三にわたって超高速ドリブルを見せたギグスの充実ぶりが目を引いた。強いなぁ、ユナイテッド。粕谷編集長は「本命リバプール、対抗ユナイテッド」なんて言ってたけど、あの人の予想は「いろいろ言っといて、なんか一つでも当たりゃ儲けモン」という奴だから、ぜんぜんアテにならない。


8月20日(日)12:50 p.m.
 8/15の日誌を書いたときは知らなかったのだが、メグ・ライアンの新作、タイトルは『電話で抱きしめて』だそうだ。そうそう、そうでなくちゃ。きっとメグのファンから「邦題をつけよ」というクレームが殺到したに違いない。それにしても、電話で抱きしめてとは。期待を上回る、ダサダサ、軽率。きっと、とてつもない「得した感」が味わえることであろう。ビデオかテレビで見れば。

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 プレミアリーグが開幕。まだ誰がどこに移籍したのかようわからんが、とにかく始まった。一発目の生中継は、サンダーランド×アーセナル(プレミア第1節)である。サンダーランドは、フィリップス&クインの強力2トップが健在。アーセナルのほうは、マルセイユからピレス、マジョルカからラウレン(ローレン)を補強したが、どうやらプティとオフェルマルスの退団が決まっているようで、戦力ダウンは否めない。プティの穴を埋めんとしてヴィエラが鬼神のごとく走り回っていたが、試合終了間際に肘打ちで一発レッドを食らっていた。性格、ぜんぜん直ってないでやんの。

 試合のほうは、53分にクインのヘッドでサンダーランドが先制。GKシーマンの対応が緩慢だった。シーマンのことが、どうしても俺は好きになれない。べつに好きになる必要もないわけだが、なんか、そこにシーマンがいるだけで愉快じゃなくなる。そんな顔だ。シーマンに、何も罪はないと思うが。

 さて、ベルカンプ、ピレス、ローレンを次々と投入して追いかけるアーセナルだったが、あいかわらずペナ周辺で手間&時間かけすぎ。その元凶はカヌで、めちゃめちゃ巧いし調子も良さそうなんだけど、それがアダになって「持ちすぎ」になるのが難点である。あれで、たまにワンタッチでつなぐようなメリハリを身につけたら、ウルトラ・ファンタスティックなアタッカーになるんだろうけどねぇ。

 ともあれ、スロバキア代表の何とかという長身CB(もう名前を忘れた)の加入で分厚くなったサンダーランド守備陣を崩せないアーセナルは、最後までゴールが奪えない。1-0でサンダーランド。のっけから、プレミアらしい激しい攻防を堪能できた。今季もまた、シーズン序盤はプレミア、終盤はセリエが面白い、ということになるのかも。

 ところで、ミドルズブラに移籍したボクシッチがいきなり2ゴールをあげたらしい。何より何より。んで、相棒のスーケルは今どこに?


8月19日(土)14:30 p.m.
 昨夜(というか今朝まで)、六本木で、大学の語学クラスの同級生と数年ぶりで集まった。Y新聞記者、A新聞社員、教育系出版社G編集者、元公共放送プロデューサー、俺、の5人。俺以外は、全員、露文出身である。念のため言っておくと、露文とは露天文具店のことではなくロシア文学科のことだ。つまり俺も第二外国語はロシア語を選択していたのであった。いま思えば、なんでそんなもん選んだのか皆目わからない。もう、ロシア語の数詞さえ覚えとらんな。1って何ていうんだっけ。スパシーボとハラショーぐらいは覚えているが、大学で勉強しなくたってそれぐらいは誰でも知っているのである。2年間、週に4コマも授業を受けていて、この体たらく。しかしまあ、彼らと知り合えたというだけでも、ロシア語クラスに入った意味があるというものだ。人生は偶然に満ちている。

 元公共放送の男は、1年ほど前に退職してフリーの音楽プロデューサー&演出家になったという。もともと組織が似合うタイプでもないと思っていたので、さほど驚きはしなかった。独立の原因は、まあ、一言では言い尽くせないものがあるわけだが、つまりはもろもろの「停滞感」のようなものが積み重なって臨界点に達したんだろうと勝手に推察する。まだ仕事は軌道に乗っていないというけれど、気分は最高にフレッシュなんだろうなぁ。俺も、10年前に味わったすがすがしさを懐かしく思い出したりした。しかし長くやっていればフリーにもフリーの停滞感というものが生じるわけで、俺も初心に帰って奴に負けないように頑張らねば、などと殊勝なことを考える。

 ひとしきり飲んだ後、カラオケ屋へ。男5人で11時半から5時間も歌い続けた。どうかしている。俺が歌ったのは、かもめはかもめ(研ナオコ)、小春おばさん(井上陽水)、哀愁のシンフォニー(キャンディーズ)、追憶(沢田研二)、イミテーション・ゴールド(山口百恵)、ナオミの夢(ヘドバとダビデ)、ハチのムサシは死んだのさ(誰だっけ)、襟裳岬(森進一)、北の宿から(都はるみ)、時の過ぎゆくままに(沢田研二)、喝采(ちあきなおみ)、あずさ2号(狩人)、All My Loving(The Beatles)、追伸(グレープ)、あの唄はもう唄わないのですか(風)、あとは忘れた。「おまえカラオケ好きなんじゃん」と言われた。カラオケが好きなのか「昭和」が好きなのか、よくわからない。どうでもいいが、なんで俺はナオミの夢を歌うと自動的にハチのムサシは死んだのさを歌いたくなるんだろうか。


8月18日(金)16:15 p.m.
 およそ1週間におよぶ懸命の延命治療も虚しく、Macはご臨終を迎えたのであった。辛うじて唯一機能していたエディタも使用不能に陥ったのである。1文字タイプするたびにフリーズするのだから、どうしようもない。完全に死んだわけではないかもしれぬが、もう初期化や再インストールを行う気力もなく、俺としては彼に脳死判定を下す以外になかった。これ以上、希望のない手術をくり返してどうする? ただ苦痛を与えるだけじゃないか。楽にしてやりたい、と思った。彼自身、「もう、ふつうの箱に戻りたい!」と心の中で叫んでいたに違いない。そして俺は、あたかも生命維持装置を撤去する医師のごとく、彼を縛り付けていた各種ケーブルを静かに取り外し、愛機をただの箱にしてやったのであった。

 んで、さっき、秋葉原のマック市場という店に行って中古のPowerMac 7300/180を買ってきた。5万6800円。保証10日。こうなると、まさに文房具感覚である。電気スタンドの電球が切れたから買ってきた、みたいな感じ。たいがいキカイの購入には、たとえそれがただの電話機であっても何らかのコーフンが伴うものだが、今回は何の高揚感もない。ただ重たいだけである。システムをインストールし、各種アプリケーションを入れ、インターネットの設定をして、ようやくこうしてHPを更新できるところまでたどりついた。古くて新しいMacは、何事もなかったように働いている。もっと早く買いに行けばよかった。

 一応、G3とかG4とかi-BOOKとかi-Macとかそーゆーのに買い換えることも考えて、マックファンという雑誌も眺めてみたのだが、あんまりカネもないし、周辺機器の接続だ何だとかもろもろ勉強してる暇もないんで、とりあえず今回は緊急避難的に中古PMを選択。しかしまあ、Macの世界も知らないあいだに凄いことになってるんですね。なんだ、あの、灯油缶みたいなMacは。キューブっていうのか。なんか、灰皿と間違えて排気口に吸い殻を放り込んでしまいそうである。

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 昨夜は、アルゼンチン×パラグアイ(W杯南米予選第7節)を観戦。後半15分に、10番アクーニャのゴールでパラグアイが先制し、ブラジル戦に続く大物食いもあるかと思わせた。しかし、クレスポと見事な空中ワンツーを決めたアイマールが同点ゴール。さらにアルゼンチンの猛攻が続く。逆転も時間の問題かと思われた。しかし、パラグアイの守備といったら。ゴール前でシュートコースに入らせたら、イタリアと双璧である。撃っても撃っても入らない。チラベルト親分を出場停止で欠きながら、あの気迫と集中力は立派である。挙げ句の果てに、今期からローマ入りするサムエルが、「まっすぐ蹴れば入る」のごっつぁんチャンスで慌てふためき、罰金もののコントロールミス。結局、1-1で引き分けたのであった。この試合で、アルゼンチン期待の18歳ストライカー、サビオラ(リーベル)が代表デビュー。さしたるチャンスはなかったが、キビキビした動きを見せていた。バルサが獲得するとかしないとか言ってるようだが、どうなるんだろうか。


8月17日(木)
 きのうは、またMacのシステムを再インストール。「ねっ」は禁じ手だとわかっていながら、うっかり「ねっこ(根っこ)」と打った瞬間に画面が凍りつき、そのままシステムがダウンしてしまったのである。迂闊だった。「熱」の文字が入っていなかったので油断していた。でも、それまでは「辞書で扱えません」というだけで、フリーズはしなかったのになぁ。やれやれ。再インストール後、ATOKを変換神経症に陥らせていたトラウマは初期化でクリアされたらしく、「熱気球」も「熱血」も変換されるようになったが、こんどはメーラーやブラウザーをネットにつなげると必ずフリーズする。よって、仕事場でメールの送受信ができなくなってしまった。

 いよいよ修理かと思ってアップルに電話をすると、最低でも10日ぐらいかかるという。仕事の都合上、そんなに悠長なことは言ってられないので、諦めた。とりあえずエディターは使えるから仕事はできるし。それに、修理に出したところで直る保証はない。っていうか、たぶん直らない。俺の直観はそう告げている。仮に直ったとしても、i-Bookが一台買えるぐらいの料金がかかる可能性もあるらしい。マジで買い換えを考え始めている俺であった。このマシン(PowerMac 7300/166)、買ってからまだ2年ぐらいしか経ってないんだけどねぇ。Macは消耗品、と割り切るしかないか。原稿用紙や鉛筆ほど安くはないけれど。

 今回の再インストールでただ一つだけ嬉しかったのは、ATOKの設定をいじっているうちに、例の「ツッコミ」を消す方法がわかったことである。環境設定の「校正支援」というところに、切り替えスイッチがあった。なるほど。あれは校正支援という機能だったのであるか。さてはおまえサポーターだな。だからサポーターは嫌いだと言っておるのだ。支援なんか頼んだ覚えはないぞ。余計なおせっかい焼きやがって。だいたい誤字脱字のチェックもできないくせに、自ら「校正支援」などと名乗っているのが片腹痛い。プロの校正者が聞いたら何と思うか考えてもみろ。とにかく、切り替えスイッチを発見した俺は、迷わず「○○の指摘」という項目をぜーんぶ「しない」にしてやった。わはは、ざまあみろ。手も足も出まい。これでもう、<否定の連続>も<のの連続>も<ら抜き表現>も心おきなく思い切ってやれるのである。べつに思い切ってやるほどのことでもないが。

*

 昨夜は、日本×UAE(キリンなんとかカップ)を(BS−1で)観戦。久保がスタメンで10番をつけていた。味方の誰とも呼吸が合っていなかった。試合のほうは、3-1で日本の完勝。相手GKの素人テイストなミスなどもあったから、2-2で引き分けても不思議じゃなかったと思うけど。どうでもいいが、望月という選手がなぜいつも代表に呼ばれるのか俺にはよくわからない。眠たいぞ望月。

(目を細めて見れば)似てる人シリーズ

#118 鹿島の本山と小倉久寛。(妻)
#119 磐田の高原と伊達公子。
#120 磐田の奥と柔道の田村亮子。

8月16日(水)
 こんなことばかりここに書いていてもしょうがないのだが、Macは相変わらずひどい状態である。ブラウザーを立ち上げる度にフリーズするので、「こいつのせいだ!」と短気を起こし、うっかりMOにコピーもせずにネットスケープをゴミ箱行きにしてしまった。何ら状況は変わらなかったのだが、そんなわけで表示確認ができず、日誌はこうして書いているものの、更新できない。そんなこんなで、きのうは再インストールこそしなかったものの、「CD−ROMからの起動」を1回、「フリーズしてリスタート」を7回、「電源プラグの引っこ抜き」を3回ぐらいやった。端的に言って、壊れている。壊れているが、使えないことはない。使えないことはないが、壊れている。真の破滅を迎えるまでだましだまし使っていくべきか、それとも今のうちに何か手を打つべきか。うーむ。すでに仕事のほうは、1日たりとも無駄にできないところまで追いつめられているので、修理に出すのもなぁ。

 とりわけ奇妙な壊れ方をしているのが、ATOKである。「ねっききゅう(熱気球)」とタイプすると、「辞書で扱えません」と言って変換してくれない。1文字ずつ変換して「ねっききゅう」で単語登録してもダメだ。辞書で扱えません、だ。「辞書で扱う」ってどういう意味だよ。不可解に思い、試しに「ねっき(熱気)」「ねっせん(熱線・熱戦)」「ねったい(熱帯)」「ねっけつ(熱血)」などとタイプしてみたのだが、どれも「辞書で扱えません」という(ここで漢字になっているのは1文字ずつ変換したもの)。ちなみに、「ねっとう(熱闘・熱湯)」はダメだけど、「なっとう(納豆)」や「にっとう(日当)」はオーケーである。ついでに言えば、「葛藤」も「全う」も「執刀」も「別当」も変換した。そうかいそうかい、つまりは「ねっ」がダメなのだな。と思いきや、「あねったい(亜熱帯)」はちゃんと変換するから不思議だ。いったい、どこをどうすると、こんなケッタイな壊れ方するんだ? 変換神経症かおまえは。ひょっとしてトラウマでもあるのか。5歳のときに虐待されたのか。そのトラウマは初期化でクリアできないのか。

 そういえば昔、友人が「俺のMacは、<製薬会社>と打つと必ずフリーズする」と言っていたことがあった。どのMacにも、そういう「地雷」のようなキーワードが隠されているんだろうか。謎だ。隠すなそんなもん。ともかく、そんなふうに壊れているくせに、例によって<否定の連続>はしっかり指摘するATOKなのであった。ATOKめ。しまいにゃ、ことえりと入れ替えるぞこの野郎。……うそうそ、ことえりは死ぬほどバカだからイヤです。

*

 昨夜は、WOWOWで『タイタニック』を途中から見た。途中といっても最後の40〜50分ぐらいだろうか。英国人らしき老紳士が、「わしは紳士らしく正装のまま死ぬよ」と言って、すすめられた救命胴衣を断るシーンからだ。イギリスのしんしはえらいな、ぼくだったらきゅうめいどういをもらってじぶんだけたすかろうとしてしまうだろうな、とおもいました。夏休みの読書感想文かそれは。

 小学生にとって、「もし自分が主人公だったらあんなふうにはできない、だから主人公はえらい」は感想文の基本戦略である。定石である。王道である。ただし、高校生になっても「ぼくだったら」をやっていると、バカだと思われるから気をつけないといけない。高校生になったら、文庫本の解説だけ読んで書くのが基本だ。あれ、違うんですか。ぼくはそうしてました。文庫の解説を要約して高校生らしい平易な文章に直すと、原稿用紙5枚ぐらいは楽勝です。あら、それじゃ今の仕事とおんなじだ。なるほど。資料を剽窃とバレないようにリライトする技術は、高校時代に培われたものであったか。国語教育もまんざら捨てたもんじゃない。……ん? まんざら、って何だろう。試しに変換してみたら、満更、だそうだ。ふうん。

 剽窃といえば、きのう仕事の参考資料として著者H氏の近作を読んでいたら、どっかで見たことのある文章にお目にかかったので、3年前に自分がゴーストで書いたH氏の本を見たら、そっくりな文章があった。やられた。しかしこんなふうにすぐバレるようじゃ、まだまだ甘いなこのライターも。とは思ったものの、その剽窃をさらに剽窃しようとしていた自分が情けなくなった。同じ著者の本を何冊も書いていると、ときどきこういうことがある。著者本人から、「これ参考にして書いて」と、俺が前に書いてやった本を渡されたこともあったっけ。いったい、どうしろと言うのだ。

 そんなことはともかく、タイタニックである。途中から見てこんなこと言うのも何だが、カタルシスのない映画であるなぁ。なんであんなにヒットしたんだ? そんなにみんなデカプリオが好きなのか? だいたい、あのローズ(だったっけ?)って女、めちゃ感じ悪いじゃん。てめーだけ板の上で寝てねーで、デカプリオと15分交替にせんか、このたわけ者が。などという突っ込みはとっくの昔にどこかで誰かがしているのかもしれんが、とにかくつまらなかった。……ちなみに、この文章を書いているあいだにもMacは1回フリーズしたのである。ふう。このクソ暑いときに、いちいち凍りついてんじゃねーよ、ったく。今回は「ねて(寝て)」の2文字が「地雷」だったようだ。かんべんしてほしい。おっかなくって、おちおち歩けない。おちおち、って何だ。


8月15日(火)
 Macが立ち上がった。起動画面にアイコンが現れるまで、ものすごくドキドキした。気のせいか、胃が痛い。もう大丈夫なんだろうか。直ったんだろうか。とてもそうは思えないけれど。今まであまり深刻なトラブルには見舞われなかったので油断していたが、こんなに信用ならないキカイに依存して仕事してるってのもどうかと思う。どうかと思うが、もう引き返せないところまで来てしまっているのも事実なのであった。本気で危機管理しようと思ったら、パソコン自体のバックアップが必要である。カネが入ったら、i-Bookでも買うか。

*

 WOWOWで録画した『ユー・ガット・メール』を鑑賞。やっぱメグ・ライアンはこうでなくちゃ、ってとこでしょうか。メグ映画の王道。ライアン道、ここに極まれり。メグの道は一日にして成らず。この道はいつか来た道。どんな道だ。ともあれ、あろうことか最後にメグを死なせてしまった『シティ・オブ・エンジェル』(殺すならニコラス・ケイジを殺さんかバカタレ)とは勝負にもならない。ただし欲を言えば、タイトルが王道を踏み外している。ここまで恥も外聞もなくメグ道を邁進しているのだから、原題そのままじゃなくて、『恋のモデムにつなげたら』とか『恋は電話線に乗って』とか、そういうダサダサで軽率な邦題をつけてほしかった。まずは邦題で鼻白ませてこそのメグ・ライアンだ。鑑賞前の「なんじゃこりゃ」と、鑑賞後の「得した感」のギャップが、メグ映画の醍醐味だと俺は思うのである。

 それにしても、身につまされる映画ではあった。
 まず、タイトルバックが身につまされる。いきなり、Macとおぼしきパソコンのデスクトップを模した映像が出てきたもんで、いつ画面がフリーズするかとドキドキしちゃったよ俺は。ビデオは初期化も再インストールもできないからね。

 そんでもって、メグ・ライアンは本屋の経営者だ。同居している彼氏はコラムニストらしい。トム・ハンクスも本屋の経営者だ。同居している彼女は出版社を経営しているらしい。みーんな活字業界人である。身につまされる。どうしてそういう設定が選ばれたんだろう。トム・ハンクスの大規模ディスカウント書店が、メグ・ライアンの良心的児童書専門店を駆逐するというオハナシである。べつに本屋でもかまわないが、本屋じゃなくてもいい。オモチャ屋でも帽子屋でも鞄屋でも成立する(殺し屋や堺屋や松屋じゃだめだけど)物語だろうと思う。大規模な帽子屋、というわけにもいかんだろうが、ドンキホーテみたいな安売り屋にしとけば相手は何でも来いだ。

 しかし、最終的に選ばれたのは本屋だった。
 プロデューサーとか監督とか脚本家とかメグとかトムとかジェリーとかのあいだで、
「本屋かな」
「やっぱ、ここは本屋だろ」
「だな」
「うん、本屋本屋。ぜーったい本屋」
「そうか、時代は本屋か」
「時代はね」
「時代よね」
 ……という会話が交わされた結果、
「ほんじゃ、ま、今回は本屋ということで、ひとつ」
 ってな具合に落ち着いたわけだ。ジェリーは関係ないです。

 とにかく、そのへんのことが、よく判らない。なぜ時代は本屋なのか。べつにそんなことが判らなくてもこの映画を理解する上で何の障害にもならないのであるが、なにしろ身につまされるので考えてしまう。たしかアメリカには日本のような再販制度がないんだよなぁ、とか、だから新刊のディスカウント店が成り立つわけだよなぁ、とか、いくら安くたってあんなに客が本屋に集まるもんかなぁ、とか、たしかに本のこと知らない書店員が最近は多いよなぁ、とか、そういえばこのところ重版通知がどこからも来ないなぁ、とか、売れない本ばかり作るのは紙がモッタイナイなぁ、とか、いったい俺が書いた本は今までに何トンぐらい断裁されたのかなぁ、とか、いやいやさすがにトンまではいかんか、トンってこたねぇよなぁ、とか、余計なことばかり考えてしまうのであった。日常を忘れたいから映画を見るのに、忘れさせてくれなくて残念だった、ということが言いたいだけなのだが。

 しかしトム・ハンクス、おまえの店は、その後、大丈夫だったのか。1年後に、インターネット上(彼と彼女が出会った場所!)のオンライン書店に駆逐された、なんてことになっていたら皮肉である。そしてメグは、全てを失ってヘコんでいるトムに向かって、こう呟くのだ。
「やっぱ時代はインターネットよね。恋も本屋も」と。


 

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