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江戸川駄筆のサッカー日誌
2000-2001/第7節

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9月5日(火)10:15 a.m.
BGM/Miki Imai "retour"

 最近、業界の先輩でフリー編集者のG氏もHPでしばしば仕事の愚痴をこぼしてらっしゃる。同じ会社で働いていた頃、その仕事の手際のよさに感服していた先輩が愚痴っているのを見ると、辛いのはぼくだけじゃないんだ!と妙に安心。安心してる場合じゃないけど。ごめんなさい。
<何とかなる、どうしよう、何とかなる、どうしよう、何とかなる。花占いをしている場合ではない。>
というG先輩の呟きに、へらへら笑いつつ大いに共感。そうそう。「何とかなる」と開き直るところで終わっているあたりがリアルである。……なんだか、サイバースペースが終業後の赤提灯状態になっている。

*

 昨夜は、ハンガリー×イタリア(W杯欧州予選グループ8)を前半の前半と後半の後半だけキセル観戦。前半の後半から後半の前半にかけて何をしていたかというと、セガレを寝かしつけていたのである。両親そろってないと寝ない習慣、なんとかならんか。トラパットーニ新監督率いるアズーリは、3-5-1-2。あれ、これじゃ1人多いか。3-4-1-2だ。デルピッポの2トップ下にトッティを置き、その後ろにフィオーレが控えているという攻撃型布陣である。これって、もしかして戦艦化? それが功を奏したのか、ピッポの2ゴールで1-2とリードしたものの、最後は足が止まって同点弾を浴び、2-2のドロー。カテナチオをこじ開けたというよりは、漬け物石か何かを投げつけてがちゃがちゃ壊したような感じの、ドタバタした同点ゴールだった。沈没とまではいかなかったけれど、戦艦アズーリ、前途多難の船出である。それにしてもデル・ピエーロは、ほんとうに点が取れない。このまま終わってしまう恐れがなきにしもあらず、という気がする。たぶん、ビエリが戻ってきたら出番はあるまい。そうでなくても、トッティとのコンビネーション優先でデルベッキオ起用、もありそうだ。

 その後、ブラジル×ボリビア(W杯南米予選第8節)を見始めたのだが、復活ロマーリオが先制PKを決めたところまでで、睡魔に負ける。どうやらロマーリオはハットトリックの大爆発だったらしい。漫画だな。漫画のように活躍する選手はえらい。復帰初戦が弱小ボリビア相手だったのは幸運だったとはいえ、全国民の期待に応えて「伝家の宝刀」ぶりを見せつけるあたりの肝っ玉の太さはさすがである。時代劇のヒーローみたいだ。黒沢映画に出してみたかった。なんちゅうか、やっぱ彼がいると絵的に締まる感じ。「絵的に締まる」って、何いってんのかようわからんけど。



9月4日(月)11:45 a.m.
BGM/Tania Maria "Forbidden Colors"

 W杯欧州予選がスタート。オランダ×アイルランド(W杯欧州予選グループ3)は、期待に違わぬ好ゲームであった。ダビッツ、スタム、ゼンデン、オフェルマルスなど主力を欠いたオランダに対して、アイルランドは両キーン、カー、ハート、クインなどが顔を揃えており、タレントの面ではそう見劣りしない。ロビー・キーンの目の覚めるようなヘディング・シュートで先制すると、65分にも追加点を奪って0-2。ファン・ハールを青ざめさせた。しかしオランダも大したもので、71分にタランのゴールで1点差に詰め寄り、さらに84分にファン・ブロンクホルストのスーパーなミドルシュートで同点。2-2のドローであった。惜しかったなぁ、アイルランド。アウエーでドローは御の字の結果とはいえ、ここで勝ち点3をゲットできれば、今後の戦い方がきわめて有利になったはずなのに。ゴルフでは、「300ヤードのティーショットも10センチのパットも同じ1打」などと言われるが、緒戦の勝ちも最終戦の勝ちも同じ勝ち点3である。もったいない。

 ボスニア・ヘルツェゴビナ×スペイン(W杯欧州予選グループ7)は1-2でスペイン。ボスニア・ヘルツェゴビナは、なかなか素敵なサッカーをしていた。ひたむきで、気が利いている。わりに楽なグループだから、ひょっとするとひょっとするかも。スペインのほうは、勝ったとはいえ凡庸。いったい、ラウールはどこで何をしていたのであるか。前から思っていたのだが、スペインって、どうも一つの「チーム」に見えない。昔、日米野球でよく「巨人−阪急連合軍」みたいなものが作られていたが、スペインも「代表チーム」というよりは「連合軍」のような感じである。スペイン人にとって、「ないと困る」ほどの存在ではないのかもしれない。巨人と阪急の連合軍って、いったい誰が本気で応援していたんだろう。

 ドイツ×ギリシャ(W杯欧州予選グループ9)も後半途中から見た。前半にダイスラーのゴールでドイツが先制したようだ。さらに75分には相手のオウンゴールで追加点を挙げ、2-0。こうしてドイツはなんとなく勝っていくんだろう。試合の解説は、ドイツでコーチングを学んだ湯浅某。なんだか教育テレビで「サッカー教室」を見ているみたいで、ぜんぜん楽しくない。



9月3日(日)
BGM/Hot Session "GRAND SLAM" S.Mukai,F.Itabashi,M.Furuno,R.Furusawa

 昨夜は、日本×クウェート(五輪壮行試合)を観戦。コータ吉原の大活躍で6-0。やってくれるよなー。補欠の意地。西なんか要らんから、コータを使えコータを。怪我とかじゃなくても入れ替え可能なんだろ? やっぱ短期決戦では、ああいう妙な星を持ってる奴を使ったほうがいいってば。それに引き替え、柳沢って……。何がよくないって、顔がいかん、顔が。「Number」五輪プレビュー号のどアップ写真、ありゃいったい何なんだ。ヤナギ嫌いで有名なY夫人なんか、あれ見て吐いてるんじゃないかと心配だ。デザイナーもデザイナーだよなー。あの写真、使うかね。ウナギイヌかと思った。ウナギ沢だ。ヌルヌルだ。



9月2日(土)11:40 a.m.
BGM/Berg "String Quartet Op.3" Weller Quartet
Now Reading/中沢正夫『患者のカルテに見た自分』(情報センター出版局)

 大学時代に所属していた音楽サークルのOB会ならびに現役幹事長から、存亡の危機を伝える手紙が来た。これまで利用していた練習場が使えなくなり、流浪の民と化しているらしい。同時に機材・楽器の保管場所も失ったため、賃貸アパートを倉庫代わりに借りるハメになり、財政的にもかなり逼迫しているようだ。まったくもってケシカラン話なのだが、すでにサークルから離脱する部員もあるという。学内に活動拠点を持てぬ弱小サークルゆえの苦悩である。しかし弱小とはいえ創立から30年という歴史もあるわけで、なくなってしまうのはいかにも勿体ない。何とかしてあげたい、と思う。これまでOB会費もろくに払わぬ不熱心なOBであった自分を反省した。失いそうになって初めて、それが自分にとって大切なものだったことに気づき、慌てる。あらゆることに共通する人間の愚かさである。「30畳程度のスペースのある東西線・山手線沿線のスタジオ」を探しているということなので、高校の吹奏楽部のMLや友人の音楽プロデューサーに情報提供を求めるメールを出した。寄付金も、振り込もうと思う。もし本誌読者でそういうスタジオをご存じの方がいらっしゃいましたら、情報をお寄せください。もっとも、読者の大半はそのサークルの関係者なのであるが。……大丈夫かなぁ。リドール、なくなっちゃうのかなぁ。

*

 高校の同級生で某硝子メーカーに勤める女性とメールをやりとりしていたら、「江戸川くんの文章って、個性的だよね。署名がなくても誰からのメールかわかるような気がする」と言われた。そうかなぁ。以前、彼女から、その硝子メーカーの工場では内線電話に出るとき、「もしもし」でも「はい」でもなく、必ず「ご安全に!」と言うことになっているという話を聞いたことがある。そっちのほうが、よっぽど個性的だと思う。いきなり「ご安全に!」だぜ。電話した用件を忘れちゃいそうである。

 それにしても「個性」というのはなかなか面倒な言葉で、とくにいま仕事で教育論みたいなものを書いていることもあって、つい考え込んでしまうのであった。仕事柄、「個性を大切にする教育を!」なんぞという紋切り型も書かなきゃいかんわけで、これがまたストレスになるんである。個性なんて、大切にしようがしまいが誰にでもあるもんだと俺は思う。要は「個体の性質」のことなんだから。あらゆる個体には、その種に共通する性質と、個体特有の性質がある。ただ、それだけのこと。たぶんミジンコにだって個性はあるに違いない。どうも「個性」というと、「創造性」やら「才能」やらと近い意味で使われることが多いけれど、そんな大層なもんだけが個性じゃないだろう。背が高いとか低いとか、太りやすいとか、短気で癇癪持ちだとか、何時間でもボーっとできるとか、髭が謎の中国人みたいに生えるとか、眉毛がつながっているとか、金魚鉢に似ているとか、そういうことだって個性である。そんなもん大切にしてどうする。

 そういう意味では、「身体障害はその人の個性だ」という言い方は正しい。ただし、すべての個性が「よきもの」だと言いたいなら、それは疑問だ。「こんな個性はいらん!」と本人が感じる個性もあるからである。しかし、本人が望むと望まざるとに関わらず滲み出てきてしまうのが個性というもので、周囲の親や教師が懸命に探したり引き出したり伸ばそうとしたりしなきゃ出てこないような個性は、どのみち大したもんじゃないと思う。むしろ、周囲や本人が抑えたり隠そうとしたりしても、否応なく出てきてしまう個性こそパワフルなんじゃなかろうか。もちろん、正のパワーもあれば負のパワーもあるだろう。何でも伸ばせばいいってもんでもない。

 それに、これは友人の編集者が言っていたことの受け売りだが、個性の大きさは人によってまちまちだ。偉大な「個」もあれば、矮小な「個」もある。たとえ小さな個性でも、それを生かしてそれなりの幸福を得られればいいわけだが、世の中には「すべての個性は偉大だ」などとオメデタイことを言いたがる人も少なくない。そんなこと言って子供に過大な期待(とプレッシャー)をかけるより、「個性の大きさは人によってまちまちだ」ということを認識できる客観性とバランス感覚を身につけさせたほうが本人のためだと思うのだが、どうだろうか。悲観的すぎるだろうか。でも、「個性幻想」がもたらしたと思われる勘違いによって、ハタから見れば妥当性を欠く不平不満(「いまの私は本当の私じゃない!」に代表されるやつ)ばかり抱き、不幸な思いをしている人間を、俺は何人も知っている。

 ところで、「個性」の対義語って何なんですか。共通性? 集団性? 類似性? 公共性? 社会性? よくわからない。よくわからないけど、それが「個性」より価値の低いものだとは思えないのであった。

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 コロンビア×ウルグアイ(W杯南米予選第7節)を後半だけ見る。1-0でコロンビア。レコバとモンテーロのいないウルグアイは、いまひとつ魅力に欠ける。ポジェはどうして代表に呼ばれないんだろう。



9月1日(金)11:45 a.m.
BGM/Paul Simon "Still Crazy After All These Years"
Now Reading/春日武彦『私はなぜ狂わずにいるのか』(大和書房)

 最近サボり気味なのだが、少し前から、美容と健康(!)のためになるべく歩くようにしている。帰宅時に、通常なら徒歩20分弱のところを、遠回りして小1時間かけて歩くのである。歩いていると、たまに見知らぬ民家から音楽が聞こえてくることがある。これが、なんか、いいんですよ。開け放された窓から流れてくる音楽というのは、どうして魅力的に聞こえるのだろうか。厳重にセコムされた南荻窪あたりの邸宅から微かに聞こえてくるオペラも、高井戸あたりの小汚いアパートの2階から放出されるヘヴィ・メタルも、ふだん自分で買ったり聴いたりすることはないのに、人が聴いているのを横から聴くとなぜかグッとくるものがあるのだ。つまりは「盗み聞き」みたいなもんだから、のぞき趣味が満たされるような面もあるのかもしれない。危ない人だと思われるから、ピンポンして「それ、誰の何という曲ですか」とは訊かないけれど。

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 仕事からの逃避にもいろいろなパターンがあるものだが、このごろは四畳半の書庫に逃げ込んで「立ち読み」をすることが多い。大半が未読なので、選ぶのには困らない。購入時期も購買動機も不明な本がたくさんあって、上記の本もそうなのであった。先日、同じ著者の『不幸になりたがる人々』(文春新書)を読んだせいもあって、手に取ったのである。『不幸に……』も好著だったが、こちらも凡庸なタイトルのわりに、なかなか面白い。立ち読みが座り読みになるのに、そう時間はかからなかった。狂気が紡ぎ出す物語の陳腐さと、陳腐であるがゆえの切なさ。狂いたくない、と思った。精神科医というのは、総じて文章が達者だ。「知」と「情」のバランスがいいからかもしれない。



8月31日(木)10:30 a.m.
BGM/J.S.Bach "Suites For Unaccompanied Cello" played by Lynn Harrell

 やれやれ。呪われている。祟られている。こんどはファックスに不具合が発生した。紙が途中で引っかかってしまい、どうしても送信できない。おまえも間接喫煙の犠牲者なのか。ヤニが詰まっちゃってるのか。それとも、もしかして摩擦ジレンマ? あーあ。そういや、このキカイも何年か前に中古屋で買ったんだった。Macのほうは大丈夫なんだろうか。すでに10日間の保証期間は過ぎているわけだが。買って帰るとき、中古屋のおっちゃんが、しきりに「すみません、すみません」と済まなそうな調子で頭を下げていたのが気になる。「(こんなもん買わせちゃって)すみません」と言っていたような気がしてならない。不安だ。

*

 ドトールで朝飯を食っていたら、隣に座っていた人待ち顔の兄ちゃんの携帯電話が鳴り、しばし話した兄ちゃんは電話を切るとすぐに店から出ていった。兄ちゃんの前には、「みなさまが気持ちよくお過ごしになれるよう、携帯電話の使用はご遠慮ください」という張り紙があった。この場合、ルールを破ったのは兄ちゃんだが、間違っているのは張り紙だと思う。ドトールは駅前にあるんである。しかも久我山のドトールは改札口の真正面にあるんである。待ち合わせに最適なんである。待ち合わせに最適な場所でケータイを規制したんじゃ、何のためにケータイを発明したのかわからんじゃないか。とりすましたレストランじゃあるまいし。俺自身は滅多に使用しないから、どこで規制されても大勢に影響はないけれど、どうも嫌煙権ならぬ「嫌携帯権」みたいなもの(ペースメーカー云々は別にして)が行き過ぎになりつつあるような気がしてならない。もう、ケータイの話し声に慣れてしまった人のほうが多いんじゃなかろうか。それに、すでに普及率は「お互い様レベル」だと思うのだが。

 ついでに言うと、(すでに死語なのかもしれんが)「嫌煙権」の「嫌」という文字は喫煙者にとってかなりイヤな感じである。間接喫煙が健康に(キカイにも)悪いことはわかってるし、そうじゃなくても煙を煙たがる人がいるのは字義からしても当然だからマナーは守らなきゃいかんと思うけど、だからって、人が好きで吸ってるものに対してそんなに胸を張って「嫌い!」って言わなくたっていいじゃないか。こういうところに好き嫌いの感情を持ち込むから話がややこしくなるのだ。嫌煙権なんて知ったことか、という喫煙者も出てくるのだ。人は嫌われるとひねくれるのである。じゃあ何といえばいいかというとなかなか難しく、「拒煙権」とか「避煙権」とか言ってもニュアンスは変わらなかったりするわけで、なんか他にもっと穏やかで愛のある言いようはないものかと思う。

 だいたい、「嫌いなものを拒絶する権利」なんか認め始めたら、キリがないぞ。考えてもみてほしい。煙草やケータイだけで済んでるうちはまだいいが、「近くで読書されるのは嫌い」「目の前にネクタイがぶら下がってると虫酸が走る」「まばたきされるのはイヤ」「眉毛がつながってるなんてチョー信じらんない」「水玉模様を見るとマジ死にたくなる」「ヘッドホンでブラームスを聴くなよバカ」「体重80キロ以上の男を見るとくしゃみが止まらなくなる」「くしゃみが止まらない人を見ると体重が80キロになってしまう」「くしゃみが止まらない人を見ると体重が80キロになってしまう人を見ると目眩がする(それは俺もすると思うけど)」「私は金魚鉢が嫌い」「お父さんも嫌い」なんて主張がまかり通るようになったら、えらいことになってしまう。駅や飲食店内に、喫煙コーナーだけでなく、読書コーナー、ネクタイ着用者コーナー、まばたきコーナー、眉毛つながりコーナー、水玉模様コーナー、ブラームス・コーナー、体重80キロ・コーナー、くしゃみコーナー、金魚鉢コーナー、父親コーナーと、あらゆる嫌われ者隔離コーナーを設けるハメになってもいいのか。それはいじめではないのか。サベツではないのか。そんなことをしたら、ぼくたち日本人はバラバラになってしまうじゃないか。それに、ネクタイ着用者はネクタイ着用者コーナーに行って何をすればいいのだ。放心するしかないじゃないか。放心させてどうする。さらに眉毛つながりコーナーを覗いてみると、眉毛のつながった人間が7人ばかりたむろして放心してるんだぞ。怖いじゃないか。入りたくないじゃないか。いや、眉毛がつながっているだけの人はまだいい。水玉模様のネクタイをしてる読書とブラームスの好きな体重80キロの煙草を吸う眉毛つながりの金魚鉢みたいなお父さんは、どこに行けばいいのだ。どこで放心しろというのだ。「私はいったい、どの嫌われ者なんだ?」と途方に暮れている金魚鉢みたいなお父さんほど哀れなものがあろうか。アイデンティティ・クライシスだ。どうしてくれるんだ。

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 サウサンプトン×リバプール(プレミア第3節)を見る。オーウェンの2ゴールもあり、途中まではリバプールが0-3でリード。ペナルティ・エリアに侵入してから一瞬でマーカーを置き去りにする切れとスピードは、さすがオーウェンと言うしかない。しかしリバプールは一体どうなっておるのか。なぜこの試合が3-3のドローになってしまうんだ? 後半途中に1-3とされると、85分から連続失点。覇気がない。ひたむきさがない。たぶん、最後の5試合で勝ち点2しか取れず、確実視されていたCL出場権を逃してしまった昨季終盤の悪いムードを、いまだに払拭できていないんだと思う。ぜんぜん魅力的じゃない。ツィーゲが来るとか来ないとか言ってるけど、それでどうにかなる問題なんだろうか。もっとも、0-3から追いついたサウサンプトンが立派だといえばそれまでである。グレン・ホドル、大喜び。俺、サウサンプトンが3-3で引き分けるのを見たのは3度目のような気がする。つい、サンサンプトン、って書きたくなっちゃうじゃないか。もう書いてるけど。



8月30日(水)14:30 a.m.
BGM/J.S.Bach "The Goldberg Variations" played by Glenn Gould in 1981

 きのうから日付の下にBGMを記載しているのは、格別の理由があるわけではなく、知り合いがHPの書評欄でタイトルの下にBGMを書いているのを見て、なんだか意味ありげでかっこいいなぁと思って真似してみただけである。べつにサディスティック・ミカ・バンドやグレン・グールドを聴きながら読むことを強要しているわけではない。当たり前だけど。ま、江戸川は最近こんなの聴いてるよ、ということで。そんなもん知ったところでどうなるもんでもないのだが、そんなこと言い始めたら、この日誌自体が読んでどうなるもんでもない。でもグレン・グールドは素敵だ。ピアノの上手い下手なんて俺にはわからんが、なんちゅうかこう、バッハをplayしているというよりも、バッハの譜面をanalyzeしてるような感じ。あらゆる演奏にはそういう側面があるのかもしれないけれど。それにしても、何だろう、この切迫感は。へらへらして「スランプかも」なんぞとほざいてないで、頭を使え、神経を研ぎ澄ませろ、そして働け、と言われているような気がする。集中しなければ何も生まれない。

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 Macのトラブル以来、あんまりいいことがなかったのだが、きのうはグッドニュース2つ。一つは、来週、3日間ぶっ通しで予定されていた口述が著者の都合でキャンセルになったこと。この3日を執筆にあてられれば、なんとか五輪開幕までに脱稿できるかもしれない。もう一つは、ちょうど1年前に出て初版止まりだった文庫の重版が決まったこと。大した額にはならないけれど、とっくに諦めていただけに嬉しい。よくわからないが、売り方をちょっと工夫したら売れたそうだ。ありがとう営業の人。でも、もっと早く工夫してくれ。

 重版を通知してくれたG舎のS氏と久しぶりに長電話。長電話というもの自体が久しぶりで、この前の長電話もたぶん相手は彼だった。なぜ俺はいま原稿が書けないかということについて、だらだらと愚痴を聞いてもらう。「手ぇ抜いて流せばいいじゃん」と言われた。手ぇ抜いて流そうとすると一行も進まないから困っているわけだが、それでもひととおり愚痴を聞いてもらったら、少し気楽になって書けそうな気がしてきた。他社の仕事まで書けるように仕向けてくれるのだから、プロの編集者はえらい。

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 エクアドル×ボリビア(W杯南米予選第7節)を見る。アウエーの(というか低地での)ボリビアはとても弱い。デルガドの2ゴールで2-0。低レベルなゲームだったが、それでもちゃんと娯楽番組に仕立ててしまう倉敷アナは、やはりえらいと思う。「うわ、このキーパー、ダメだわ〜」とか言われると、観戦モチベーションはいやが上にも高まるのであった。後半は試合そっちのけで、粕谷編集長と雑学合戦。テーマは、帰化動物による在来動物の駆逐。ガラパゴス諸島がエクアドル領だという話から発展したのである。日本でもミドリガメがゾウガメなどを駆逐してしまったらしいが、なんでそんなこと知ってるんだ倉敷さん。勉強になるぞ。

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 試合終了後、もう寝ようと思いながらもテレビのチャンネルを回していたら、NHKスペシャルが始まり、めっぽう面白くてつい最後まで見てしまった。たまたま見たNスペが面白かったときほど儲けた気になるものはない。自動車の無段変速機を日本の技術者が世界で初めて実用化するまでの物語。タイトルは、「摩擦の壁を乗り越えろ」。「突き破れ」だったかな。ま、どっちでもいいや。とにかく、摩擦なのである。キカイは「摩擦ジレンマ」との戦いなのである。動力を伝えるのに不可欠な摩擦が、キカイそのものを破壊してしまう。知らなかった。摩擦がそんなに大変な問題だったなんて。きっと、「貿易摩擦」なんて言葉を技術者たちが聞いたら、「んなナマっちょろい摩擦でガタガタ言ってんじゃねーよ」とイライラすることだろう。キカイの摩擦は政治や会議や話し合いで解決するようなものではないからである。

 で、摩擦ジレンマを解決するカギはアブラなのであった。この番組を見るかぎり、今回の実用化でいちばんえらかったのは潤滑油を作った出光の人である。滑らずに動力を伝え、しかも鉄を保護するアブラ。細かいことは覚えてないが、研究室の壁にかかっていた作業着のマジックテープを見て、新しい潤滑油のヒントを得たというのだから感動的じゃありませんか。ニュートンのリンゴを持ち出すまでもなく、発明発見物語には、こういう「ふつうは見逃す些細な日常風景から重要なヒントをつかむ瞬間」が欠かせない。しかし、「マジックテープみたいなアブラ」を作ろうと思うもんだろうか人間って。そこには、「カブトムシみたいな本棚」や「ランボーの詩みたいな電卓」や「餃子みたいな歯ブラシ」や「お父さんみたいな金魚鉢」や「金魚鉢みたいなお父さん」を作ろうと思うのと同じぐらい飛躍があるような気がする。飛躍する技術者はえらい。プロジェクトのリーダーである日本精工の人は、21年7ヶ月もこの仕事に取り組んできたという。21年だ。始めたときに子供が生まれたとしたら、その子が大学3年生になるまで無段変速機の実用化のことだけを考え続けたのだ。シンプルでリニアな人生は力強い。そして、金魚鉢みたいなお父さんにはなりたくない。



8月29日(火)10:40 a.m.
BGM/Sadistic Mika Band "HOT! MENU"

 嗚呼。これがスランプというやつなんだろうか。よく「未熟者にスランプなんかない」と言われるし、俺も文筆業者として「まだまだ修行が足りんなぁ」と嘆く日々なのであるが、これぐれいの年になれば、たまには「スランプ」を言い訳にしても許してもらえるんじゃないかな、なんて思うのはやはり他力人間ゆえの甘えなんでしょうね、きっと。ま、何であれ、書けないものは書けない。書きたい、という気持ちにならない。この日誌はこんなに書けるのに。キーボード上に両手の指を浮かせたまま、画面上で点滅するカーソルを1時間もじーっと睨みつつ、「うー」とか「はー」とか「たりらりらん」とか唸っていると、やがて「旅に出たい」という思いが頭を過ぎるのであった。人はなぜ煮詰まると旅に出たくなるのでしょうか。

*

 ミラン×ユベントス(ベルルスコーニ杯)を観戦。どういう意味合いの試合なのかよくわからないが、開幕までまだ1ヶ月もあるというのに、どちらもやけにホンキだった。メンバーも、レドンドとダビッツの姿がないぐらいで、有名どころはみんな顔を揃えている。ジダンもボバンもほぼ全力のプレイぶり。だもんで、すげー面白かった。これまで見たプレミアのどの試合よりも面白かったかも。プレミアとセリエって、なんでこんなに雰囲気が違うんだろう。キックオフ前のスタジアムの様子が映っただけで、「ああ、セリエってこうだよなぁ」と胸のあたりが苦しくなる。ひとことで言って、セリエは、濃い。そして、重い。うまくいえないけれど、なんだか「のっぴきならない」というか「抜き差しならない」というか、そんな感じである。たぶん、選手一人ひとりに背負わされているものが、プレミアにくらべて格段にネガティヴな色彩を帯びているんだろうと思う。辛かろう。苦しかろう。これにくらべると、プレミアはけっこう脳天気だ。

 さて新戦力としては、ミランがトリノからフランチェス・コココ、ブラジルからホッキ・ジュニオールを補強。ユーベのほうは、モナコからトレセゲ、カリアリからオニール、ボローニャから何とかというディフェンダー、えーと、あとは忘れた。フランチェス・コココは77番というとてつもない背番号をつけていた。コココじゃねーよ。正しくは、フランチェスコ・ココですね。イタリア五輪代表だ。そう言われてみれば、ミラン顔をした好青年である。ところで77番という背番号を見て無条件に打撃の神様を思い出すのは、昭和何年生まれまでだろう。V9時代のジャイアンツを知る人間にとっては、かなりトクベツな数字だよな。

 そんなことはどうでもよろしい。試合のほうは、ビアホフのラストパスをホセマリが決めてミランが先制。トレセゲの不細工なゴールで同点。シェフチェンコのPKでミラン勝ち越し。後半、インザーギのヘッドでまた同点、という激しい点の取り合いであった。得点後の喜び方を見て、ピッポ君ってほんとにゴールが欲しくて欲しくて仕方ない人なんだなぁ、と思った。典型的な「勝利よりもゴール」のストライカーかも。

 そんなわけで、90分を終えて2-2。ドローかと思ったら、なんとPK戦をやるという。ああ、一応、これってカップ戦なのね。きっとお金持ちの元イタリア首相からけっこうな賞金が出て、だからみんなホンキだったのね。んで、みんなニタニタしている最高に緊張感を欠いたPK戦は、1人目のシェフチェンコとジダン、5人目のボバンとインザーギがそれぞれ失敗して、サドンデスへ。ご苦労さんである。ファン・デル・サールが枠内に飛んだPKを止めるのを、俺は初めて見たような気がする。そんなことなかったっけ。ともあれ、ミランは7人目のマルディーニが外し、その後に蹴ったフェラーラが決めてユベントスの優勝。優勝って言わないのか。でもカップを囲んで記念写真撮ってたんだから優勝だよな。おめでとう、ユベントス。あいかわらず、良いチームである。


 

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