edogawa's diary on 2002-2003 season #01.
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7月9日(火)10:20 a.m.

 暑いぞ。セガレを幼稚園に送り届けた時点で汗だくだくだ。上から読んでも、だくだくだ。下から読んでも、だくだくだ。なので、いっちょ爽やか系にしてみんべぇと思い、トップページにちょいと色づけしてみたら、軒先にペパーミントキャンディを並べたお菓子屋さんみたいになってしまった。涼味というより甘味。見てるだけで虫歯になりそう。本文の芸風とデザインが噛み合っていないような気もするが、まあ、いいや。基調となっているのは、一応ラツィオとオランダの色ですね。ビミョーに違ふ!とかマニアックなクレームつけないように。あんがい難しいんだよ、HTMLの色作りは。苦労するわりに、マシンやブラウザーによって色味が違ったりするしね。昔、ヒマに任せて数百色の「色見本」を作ったことがあるのだが、あのファイル、どこ行っちゃったかなぁ。ところでオランダで思い出したんだけど、ダビッツってほんとうにローマ入りしたの? 頼むから嘘だと言ってほしい。ほんとうなら、入団3ヶ月後にトッティをブン殴って退団、という悪魔のシナリオ希望。

 ムサシ隊員の太陽くんが記者会見をしたらしい。ファイトいっぱつ系に成り下がるどころか、かえって好感度アップしそうな雲行き。人生万事塞翁が馬である。この紋切り型、こういう使い方でいいんだっけ。ちがう? 人生万事じゃなくて人間万事かな。どっちでもいいや。どっちでもよくない。そんなこんなで、コスモスのリスタートも検討されているようだ。しかし未放送分を編集した総集編を放送してしまったため、話が後ろ前になってしまうという間抜けな事態になっているとか。急いては事をし損じるのである。迅速と拙速は紙一重なんですね。原稿も、あんまり慌てて書かないほうがよろしい。ウソです。慌てます。こんなに日誌たくさん書いてる場合じゃないです。ともかく、コスモスが再開されるのはいいとして、そうなると忘れてはならないのは、せっかく始まったネオスが理不尽に打ち切られるということなのだった。楽しみにし始めた子供に、なんて説明すればいいんだっ。

 ペルージャが山瀬に触手を伸ばしているとの噂。ほほー。ええ話やないか。札幌人初のセリエAプレイヤーになってみろ。しかしそんなことになると、今季のセリエ生中継はヤリが降ろうとカニが降ろうとパルマ、レッジーナ、ペルージャ最優先、次いでユーベ、ローマ、インテル好き好き大好き状態になって、ラツィオごときの入る余地はなくなるのだった。それは困るなぁ。WOWOWとかで、ラツィオ戦の生中継権だけバラで買ってくれないだろうか。あり得ない話をするのはとても虚しい。やっぱ、誰か日本人に入ってもらうしかないのか。しかしラツィオにそんな動きはなく、ユナイテッドとのあいだで「ソリン+ピオホ=ベーロン」の交換トレードが画策されているという噂があるとかないとか。ソリンとピオホがスタムの移籍金代わりになるって話もあるけど。おいおい、まだ払ってないのかよ。そんなにカネがないのに、どうしてソリンを買えるのかがよくわからない。ふつうはソリンを買うカネをスタム代にすると思う。っていうか、ソリン代もまだ払ってないんだろうな、きっと。じゃあ、ソリン代はどうやって捻出するんだ? ネスタを売ればすべて解決するのだった。あっちょんぶりっけ。どうでもいいけど、アルゼンチン人のローテーション補強以外に策はないんだろうか、あのチーム。ないのかもな。ところで、カストロマンはまだラツィオのモノなの? パンカロはまだ処刑……いや処分してないの? ミハイロ翁はレギュラーなの? どうなっとるんか、ようわからん。いざ始まってみたら、相変わらずガイスカ君とフィオーレ君がベンチでタバコ吸ってたりしないだろうな。タバコは吸ってなかったですねタバコは。でも、吸ってたような印象。吸うなよ。

 読者のS嬢より、「このところ段落間に張りついてる、あのカニに似た赤いものは何じゃらほい」というご質問をいただきました。これはカニに似たものではなくて、カニです。生まれ故郷はキッドピクスです。6年ほど前に密輸しました。けっこう長いつきあいです。いくらでも増殖します。


   


 ほらね。名前は「山本芳子」っていいます。ウソです。ほんとうは「段落ガニ」っていう名前です。たったいま、そう名付けました。あんまり旨そうじゃないですね。よかったら、コピーしてあなたのサイトでも使ってやってください。で、なんでカニかというと、わざわざ説明するほどの大した意味はないのですが、このへんを見ると、「なんだ、そんなことか。つまらん」という程度には納得できると思われます。けっこう、蠢いてます。見方によっちゃ、気味悪いです。



7月8日(月)12:30 p.m.

 W杯でイングランドやブラジルやイタリアのユニフォームを着て応援する日本人は、サッカーがまだわかっていない----と言う評論家がいる。サッカーが「見るスポーツ」にとどまっていて、「戦い」になっていないということらしい。けれど、もし日本人が日本代表チームの試合だけに熱狂してブラジルやイングランドやイタリアに関心を持たなくなったら、その評論家はたぶんこう言うだろう。「世界には魅力的なサッカーがたくさんあるのに、自国にしか興味を持たない偏狭な日本人は、まだまだサッカーがわかっていない」と。日本でサッカーの啓蒙をナリワイとしている人にとって、日本人はいつまでも「サッカーがわかっていない未熟な存在」でなければ困るのである。商売上、どんな屁理屈をつけてでも、「日本人はサッカーがわかっていない」ことにしておきたいわけだ。

 だけどね、日本人だってバカじゃないんだから、わかってるよ、サッカーのことぐらい。欧州や南米の人のようにはわかっていないかもしれないが、日本人のようにはわかっている。ブラジル人はセレソン以外のチームをW杯で応援しないんだろうけど、それが幸福なことなのか不幸なことなのかなんて、誰にも決められない。本人が幸福ならそれでいい、というだけの話だ。だいたい、自国以外を応援するべきではないなんて、応援というものの見方が一面的にすぎる。日本代表を応援しているときの日本人の心情と、ブラジルを応援しているときの日本人の心情が、同じであるわけがないじゃありませんか。それはまた別の話。戦いは戦い、娯楽は娯楽である。

 たしかに今回、日本が負けた時点で一時的に私の観戦モチベーションは落ち、「W杯は娯楽たり得ないのかもしれない」とも思ったが、少なくとも準決勝以降の4試合は十分に娯楽として堪能できた。EUROの予選が始まれば、また「頼むぜオランダ」になるだろう。私が思うに、応援には「絶対応援」と「相対応援」の二種類があるのだ。私たち日本人は、たぶん甲子園の高校野球を通じて、その二種類を両立させる術を身につけてきたのだ。そういうフトコロの深いカルチャーの中で育まれるサッカーだって、あるんじゃなかろうか。選手の技術や戦術はともかく、見る側の態度や価値観まで「欧南米に追いつき追い越せ」を標榜するのは、もうやめませんか? 私はやめたい。私は私のようにしかサッカーを見られない。それが外国人の目に奇異に映ったからといって、何がいけないというんだろう。大事なのは、奇異に見えないように振る舞うことではなく、奇異に思われないように説明することだ。「私はあなたではない」ということを理解させるための努力だ。

 日本×南アフリカ(ツーロン国際ユース)を後半から観戦。前半1分に松井のゴールで日本が先制し、1-0で後半を迎えていた。その日本は後半から、何者かに代えて田原を投入。後半15分、その田原からのパスを松井がリバウド並みのスルー、受けたコンサドーレ山瀬のドリブルシュートはGKに弾かれたが、これを松井がロナウドのように詰めて2-0となった。ブラジルが決勝で奪った2ゴールを一度にまとめてやったような、かっちょいいゴールだった。さらに終盤にも、松井が左から上げたクロスを山瀬が絶妙のトラップでコントロールして楽々ゲット。ドイツと引き分けた南アを3-0で粉砕だ。なかなかなやるじゃないか若者ども! 世界ユースのときも書いたような気がするが、私はこのチームがあんがい好きである。地味な顔ぶれだけど、逞しい。「それでも俺、サッカー続けてみるよ」的なすがすがしい向上心を感じる。それこそ、なんだか放っておけない感じ。2006年、山瀬が(森島+柳沢)×0.7ぐらいの存在感を放っていることをきぼんぬ。



7月7日(日)13:50 p.m.

 長く放置されていた二つの散策先が、久々に訪れたらサクサク更新されていて、驚くやら嬉しいやら。倉敷さんのサイトはいつの間にやらフレームばしばしの大改造ですぐには読み切れないほどのコンテンツ急増だわ御著書をめぐるてんやわんやはあるわで賑やかだわ、沖縄在住の政治学者であり文豪でもあるソウマエ先生の雑感はリハビリと言いながらえらく笑かしてくれるわ私のことを岡田呼ばわりしていやがるわ何やかんやだわで、そりゃあもう大騒ぎですわ。私ばっかり毎日毎日更新してるとまるで自分だけヒマみたいでヤなので、今後もがんがん更新されることを希望します。あ、こういうときは「きぼんぬ」って言うんだっけ、近頃は。がんがん更新きぼんぬ。こうして「きぼんぬ」と書いてみると、それだけで何かを免責されたような気分になるから不思議だ。何を免責されているのかよくわからないけれど、なんちゅうか、何を言っても「冗談冗談」と半笑いを浮かべてしまえば許されるような感じ。なんだそれ。そんなわけで、ふと思い立ち、自分の散歩コースをこのへんに整理してみました。ヒマじゃないのに。

 昨日から、『ウルトラマンネオス』の放映が始まった。ご案内のとおり、ムサシ隊員がようわからん昔の容疑でタイホされてしまったせいで、コスモスはうやむやのうちに打ち切られたのだった。このあいだ、おじいちゃんに隊員セットを買ってもらったばっかりなのに。フブキ隊員とかドイガキ隊員とか、アッタマ来てんだろうなぁ。結構いい芝居してただけに残念だ。打ち切りに関してセガレには、「なんかねぇ、終わっちゃうみたい」としか説明しなかったが、セガレは「雑誌に載ってた怪獣たち、どうするんだよぉ」と心配した(オンエア前に打ち切りになっちまって気の毒、ということ)だけで、とくに理由を問いただすこともなく、「でもネオスが始まるならいいや」とあっさり気持ちを切り替えていた。「毎週楽しみにしてた子供たちにどう説明すればいいんですかっ」とオトナが食ってかかるほどの大問題ではないのである。世の中、何でも子供が理解できるように説明できるほど単純ではない。理不尽なことはいくらでもある。理不尽なことがあるという現実を学べばそれでよろしい。起訴猶予になったムサシ隊員の今後について愚妻は、「何年かたったら、リポビタンDのCMに拾われてたりするんじゃない?」と、好意的なのか残酷なのかよくわからない見通しを口にしていた。ファイトぉ、いっぱぁつ。で、ネオスはウルトラマンのカラーリングに青や金が入るより前の時代に作られたビデオ作品であるらしい。クラシックだがチープ。隊員のユニフォームがジャージみたいだった。だけど隊長は嶋田久作だ。嶋田久作ばっかり見てしまう。



7月6日(土)

 それにつけても気になるのは「小部屋」だ。私は昨日から、小部屋のことばかり考えている。試しに「の小部屋」で検索したら、ヤフーの登録サイトだけで78室、ページ検索だと約64700室もあった。

 さらに「の部屋」をキーワードにしてみると、これは凄い。驚く。なんと、ヤフー登録サイトだけで1359室、ページ検索だと約1690000室だ。ひゃくろくじゅうきゅうまんしつ。むろん、「の部屋」という言葉はページのタイトルだけでなく、文中にだって含まれているだろう(例文:きのう、お母さんに命令されておじいちゃんの部屋を掃除していたら、額縁の裏に100万円札が隠されていました)。それも含めての1690000室である。だが、少なくとも最初に表示された20室の中にその手のものはなく、すべてページのタイトルが「○○の部屋」となっておった。世の中、部屋だらけだ。ちなみに100万円札というのはありません。

 われわれ人間には共同幻想とか集合無意識とかそういうものがあるらしいし、カタチやオモサやテザワリのないデジタル情報をリアルに認識するには具体性を喚起するレトリックが不可欠なので、個人のウェブページ(紙でもないのに私たちはこれを当たり前のように「ページ」と呼ぶ!)を作るときに、多くの人がついそれを「部屋」と名付けてしまうのは、まあ、しょうがない。ブラウザーの画面は四角いからね。四角いものといえば部屋だ。もちろん豆腐も四角いが、だからって、個人サイトを立ち上げたばかりの山本芳子さん(37歳・主婦・練馬区)が、それを

「芳子の豆腐」

 と名付けてしまうことは滅多にない。そりゃあ、やっぱり「芳子の部屋」だわよね。だって、ここはアタシの場所だもの。誰にも邪魔されずに素顔の自分と向き合える、ヨシコだけのパラダイス。でも、ヨシコ、ちょおっとだけ誰かに覗いてほしいんだ。カーテンの隙間から、ちょおっとだけね。だから誰なんだよおまえ。でも、ヨシコ、じゃないだろ37にもなって。誰も呼んでないんだよ。ストーカーみたいに急に現れないでくれよ。自分の部屋に帰れよ。

 ともあれ、他人のウェブページを見て「どこが豆腐やねん」と違和感を表明する人はいても、「これ、部屋とちゃうやん」と文句を言う人はあまりいないのだった。誰もがそれを「部屋」だと認識し、納得する。集合無意識の威力である。あと、つい「部屋」と呼んでしまうもう一つの要因は、もちろん引きこもりのイメージだ。ネット相手にお喋りするのは、私たち引きこもりの特徴だからね。どうしたって、そこは「部屋」にならざるを得ないのである。

 だけど、そうは言っても「小部屋」ってのはどうかなぁ。謙虚なのはいいけど、もうちょっと開放的になってもいいと思うよ。うんうん。賛成賛成。あっ、このあいだから誰が相槌打ってんのかと思ったら、芳子、おまえか、まだそんなところにいたのか。うんうん。いたいた。まぁ、いいや。とにかく「小部屋」はちょっと閉鎖的にすぎる。たとえば、こんなタイトルのサイトがあったらと考えてみれば、「小部屋」の閉鎖性は誰の目にも明らかになるはずだ。

「熊田一郎太の大部屋」

 ああ、なんて風通しがいいんだろう。彼の渾名は、もちろん「くまたろう」だ。くまたろうに大部屋を構えられた日には、個人サイト特有のあの「もわっとした感じ」が微塵もない。同じ部屋でも、大をつけたとたんにこの始末だ。ぜんぜん引きこもっていない。むしろ豪放磊落だ。来る者拒まずだ。この部屋、床はぜったい畳だよな。そして床の間には壺と掛け軸だ。ここに立ち寄ったとたん、思わず背負い投げをしたくなってしまうのも、私だけではあるまい。

 で、「の大部屋」で検索してみたら、登録サイトは3室、ページ検索では6620室ヒットした。小部屋と大部屋は10:1の比で存在していることがわかった。大部屋もあんがい多い。これは意外だった。私のように「小部屋ってのはどうもなぁ」と思う人が結構いるということだ。さて、そのページ検索のリザルト画面の中でとりわけ目を引くのは、こんなページである。

「世界のワタナベの大部屋」

 恐れ入りました、と言うしかない。タイトルを見ただけで、土俵際まで押し込まれてしまう。なにしろ「世界」で「大部屋」だ。向かうところ敵なしである。そこでは、ワタナベさんの屈強な手下どもが50人ぐらい待機していそうじゃないか。どうなると彼らが一斉に行動を開始するのかわからないが、とにかく待機だ。いざというときまで、とりあえず待機。テレビ見たりメシ食ったり麻雀やったりしててよろしい。さすが世界のワタナベさんである。懐の深さが違う。

 やはり、小部屋よりも大部屋だ。小部屋について考えるよりも、大部屋について考えたほうが、生きるのが楽になるような気がする。



7月5日(金)10:45 a.m.

 人はあんがい人名表記に無頓着なので、試しに「深川俊太郎」で検索してみたら、無頓着な人はひとりしかいなかった。ヒットした5件中4件は、深川医院の深川俊太郎先生だ。更年期障害についてお書きになっている深川俊太郎先生は、どうやら群馬県にお住まいらしい。私も実兄が医者なので何だか他人のような気がしないが、赤の他人である。御迷惑をおかけしていないとよいが。山ヘンにしておいたのがせめてもの救いだ。

 引き続き、書名に無頓着な人もいるだろうと思って、試しに「キャプテン翼の勝利学」をキーワードにしてみたら、こんなページがヒットした。「いなしんの小部屋 日々のつぶやき」と題されたページだ。URLを見るかぎり、名古屋大学の人のようだ。「いなだ しんいち」とか「いなもと しんざぶろう」とか「いなば しんのすけ」とか、そういう名前の人なのかもしれない。あるいは、「田舎信用金庫」だろうか。ボーナスは「いなしん」にお任せ! それにしても、「小部屋」で「つぶやき」だ。人は小部屋でつぶやくのだ。大部屋では走り回るのだ。それはうちのセガレだ。いったい、ネット上にはいくつの「小部屋」があり、何人分の「つぶやき」が洩れているのだろう。ブツブツ。ブツブツ。ブツブツ。セカイはブツブツで出来ている。キモチ悪いこと言うなよな。さて、いなしん君の小部屋にはこんなブツブツがあった。5月27日のつぶやきだ。


 昼休みに「キャプテン翼の勝利学」(だったっけ?)というハードカバーの本を立ち読みしてました。なかなかおもしろい視点で書いてあって、楽しめました。200ページ位なのですが、このような本を立ち読みで読破してしまったのは初めてでした。

 読み切ったか。読み切っちゃったのか。そこでフィニッシュするなよなー。頼むよ。それも昼休みに。私の本は『笑っていいとも!』か。しかし、ある意味すごいよね、いなしん君。昼休みって、最大限使っても1時間ぐらいだろ。いい根性をしている。ともあれ、この手の情報窃盗を罰せられないのが、現行刑法の弱点だ。本は「モノ」だからね。モノとして持ち去らなければドロボーしたことにはならないのだった。一日も早く店頭読破禁止法を制定して、書店内に「立ち読みは、犯罪です。」っていうポスターを貼ってもらいたいものです。ところで彼、ちゃんとお昼ご飯は食べたんだろうか。心配だ。

 ゆうべ、テキトーにチャンネルをいじっていたら、ドイツ×南アフリカ(ツーロン国際ユース)をやっていた。後半20分ぐらいだった。W杯が終わる頃、「しばらくサッカーはいいよね」などと愚妻と話していたのだが、いきなり引き込まれてしまった。ジョバンニ・レクターのせいだ。南アフリカのアタッカーだ。この青年のアクロバティックなドリブルは、一瞬で見る者を釘付けにする魅力がある。こいつはバケるね、ぜったい。私が保証する。名前がいいよ名前が。イタリア人なのかブラジル人なのか人喰い博士なのか判らないところがいい。正解は南アフリカ人ですが。そのレクターのゴールで南アフリカが先制したが、ドイツもセットプレイから力づくでねじ込んで1-1。ドイツ人がゴールすると何故か「力づく」に見えてしまうあたり、実に感受性が紋切り型である。でも、ドイツ人はデカい。ユース年代でもデカい。



7月4日(木)12:50 p.m.

 W杯終了以来、毎日とても長い時間、机に向かっている。机に向かっているだけでは働いたことにならないのが、この商売の厄介なところだ。原稿は、アサリの散歩ぐらいのペースでしか進まないのだった。働きたくない。働きたくないのでボーっと書棚を眺めていたら、働くことがイヤな人のための本があった。『働くことがイヤな人のための本』(中島義道・日本経済新聞社)という本だ。誰だよ、こんな本買ってきたのは。私か。私が買ったのか。いつ何のために買ったのか記憶がない。きっと、そのときも働くことがイヤだったんだろう。ふらふらと手に取ってテキトーに開くと、74ページだった。偶然である。べつに、今日の日付に合わせたわけではない。そこには、こんなことが書かれていた。

 わが国で一日に出版される新刊本は二〇〇冊とも言われている。そのほとんどは、棚に並ぶこともない。大型書店に二、三日置かれただけで、倉庫から倉庫へと葬り去られるのだ。(中略)ほとんどの「まともな」職業に就いている者には、一つの救いがある。それは、その仕事が社会的に何らかの役に立っているということだ。しかし、こんなにおもしろい書物があふれているのに、自分がいまさら一冊の本を書いて何になろう? 自分は自分のために書きたい。だが、誰にも望まれていない作品を書いて何になろう? 「無駄だ!」という叫びが、自分の身体を押しつぶす。その圧力にめげず創作すること……それは並大抵のことではないのだよ。
 ないのだよ、って言われてもなぁ。これじゃ、『働くことがもっとイヤになる本』じゃないか。はあ。200冊ですか。2、3日ですか。倉庫から倉庫ですか。葬り去られるですか。役立たずですか。無駄ですか。風に頼んでも無駄ですか。振り返るのは嫌いですか。どこにもあるようなことですか。わたし髪を切りました。あなたに借りた鴎外も読み終えていないのに。おいおい『追伸』(グレープ)なんか歌ってる場合ではないのだよ。まあ、貸した本ってのはたいがい返ってこないもんだから、そんなに気にしなくてもいいと思うけどね。っていうか、新潮文庫ぐらい借りてないで買えよ。安いんだから。しかしまあ、図書館とかで借りてしか本を読まない人もけしからんが、1日に200冊出すほうもどうかと思うよな。そんなに本、必要ないもんな。うちの本棚だけでも、読み切れないくらいあるんだもんな。紙がもったいないよな。しかもゴーストの場合、書くのは「自分のため」ですらないのだった。こっちのほうが並大抵じゃないのだよ。圧力になんか、負けて当然だよな。ってことは、書かなくてもいいのかもなぁ……………あぁ…………………

 …………あ。図書館で思い出したぞ。私は怒っているんだった。というのも、せっかく私の本を買う気になっている奥さんに向かって、「図書館で借りればぁ?」とヘラヘラ言った奴がいるそうなのだ。しかもそれが私の高校時代の先輩(しかも同じ吹奏楽部で同じ楽器を吹いていた)なんだから哀しいじゃないか。同じ釜のメシ食ったっつうの? 旦那にそう言われたことを、私の目にも入るMLで愉快そうに報告する奥さん(そっちも高校の先輩)の無邪気さにもウンザリしちゃうけどね。おもしろいかよ、それ。おれは少しもおもしろくないよ。不愉快だよ。世の中には、いちいち報告しなくてもいいことがあるんだよ。まあ、べつに買ってくれなくたって、書いたものを読んでもらえるならありがたいですよ。でも、そこに漂っている「もったいない」の気分が不快だ。「図書館で借りればぁ?」の前に(明らかに)含まれている、「そんなモン」のニュアンスが私にケンカを売っている。つまり、その男は「江戸川ごときの書いた本にカネなんか出すのはバカらしい」と言い、その奥さんは「うちの旦那が江戸川君のことをバカにしていまーす。うふ」と私を含めたOBOG数百人に伝えたのである。当人たちの意図はともかく、少なくとも私にはそのように伝わった。こういう行為のことを、世間ではふつう侮辱という。人の冷や汗と涙と苦悩と肩凝りと腰痛の結晶にカネを払うことを「もったいない」と思う奴になんか、読んでほしくない。買って読んだ後で、「つまんなかったから、カネ返せよ」と言われたほうが、よっぽど爽やかだ。返さないけどね。その本がつまらないということを知るのも、本から得られる情報の一部(つまり、お代のうち)だ。本って、そういうものだ。怒るついでに開き直ってどうする。

 そんなことよりジーコだ。ジーコなのか。ふうん。なんだか新鮮味がないけど、なにしろ神様だからね。元Jリーガーだけど、神様。サッカーの神様は良いことも悪いこともするということが今回のW杯でわかったわけだが、何であれ神様はえらい。神様がえらくなくてどうする。でも、「ジーコ監督」と口にしたときの、この音の響きの手応えのなさ加減といったらどうだ。ジーコカントク。

「なんだか、こう、ポカンとした読後感が残るわよね」

 と、練馬区にお住まいの山本芳子さん(37歳・主婦)なら言うかもしれない。ポカン、だ。そんな山本さんの感想がいちばん妥当なような気がするのは私だけだろうか。だいたい、「ジーコ」がよくわからない。新聞によれば、「ジーコ」とは「ちゃん」のことであるらしい。大五郎の父親のことではなく、しゅんちゃんとかシュワちゃんとかの「ちゃん」だ。こんなに非常識なニックネームがあるだろうか。「さん付け」で呼んでいいのかどうか迷うじゃないか。「ちゃんさん」じゃ、どこにも名前がないじゃないか。で、監督になった日にゃこういうことだ。

 監督ちゃん

 おまえはテレビ局の人か。監督ちゃん監督ちゃん、最近どうよ。そんな呼ばれ方をする奴に率いられたチームが強くなるものだろうか。ま、「総監督ちゃん」に率いられた鹿島は強くなったわけですが。ともあれ、一つだけ確実に言えるのは、「ジーコを呼び捨てにするのは不可能」ということなのであった。山本芳子さんって誰だ。



7月3日(水)12:20 p.m.

 きのう、仕事から逃避して検索遊びをしていたら、かの有名なサポティスタという所で、このサイトが「キャプテン翼勝利学の作者の日誌」という言われ方で紹介され、リンクを張られていた。まあ、そりゃあそうなんだけどよぉ、いちおう表向きは別人のフリしてボケ芝居かましてんだからさぁ、ちょっとつき合ってくれたっていいじゃんかよぉ。私だって、どこに潜んでいるかバレバレなのに、本人は完璧に隠れていると信じて疑っていないセガレのカクレンボに、「あれぇ、どこだぁ?」なんて言いながらつき合ってるぞ。それが愛ってもんじゃないの?

 というわけで、外堀を埋められてしまった感じだし、書名や著者名で検索してここにたどり着き、最初からそういうもんとして読んでらっしゃる読者もおられることなので、もうリバウド並みの猿芝居はやめる。おらぁ、江戸川で深川だ。でも虎視郎というフザケた名前には飽きてきたので、新シーズン突入で模様替えしたドサクサに紛れて、今日から下の名前を春太郎(しゅんたろう)にした。「春」の字は敬愛する向井滋春さん(世界最高のトロンボーン・プレイヤー)から無断で戴きました。「虎さま」なんて呼んでくれてた女性読者もいたんでアレなんですけどね。これからは、しゅんちゃん、って呼んでくれてもいいぞ。ふう。何だろうなぁ、こういうのって。自意識過剰っちゃ自意識過剰なんだよな。だけど物書きなんてぇものは、多かれ少なかれ自意識過剰じゃなきゃやってらんないところもあるしな。まあ、いいや。とにかくそういうことだ。どうでもいいんですけどね。

 で。初めての著作物を世に問うてから、早いもので3ヶ月が過ぎた。発売当初は、評判が気になって怖くて怖くてたまらなかったけれど、天才的にホメ上手な心やさしい友人知人たちが面白がってくれたので、セルフイメージが縮小することはなかった。あらためて、ご厚情に感謝申し上げまする。いろいろ気ぃ遣わせてすんませんでした。よせばいいのに書名で検索をかけ、ネット上に散在する悪評・いちゃもん・揚げ足取りもいくつか目にしたけれど、友人たちのお陰で怖いモンなしになってたので、それで落ち込むようなことはなかったっすね。万人に共感される本なんてあり得ないし、あり得たとしても面白くない、と単純に思えた。この世界、よほど売れないかぎり、そんなに非道い叩かれ方はしないもんだけどさ。ふん。大きなお世話だ。こんなことを言うと版元に叱られるかもしれないけど、まずは売れることより、お金出して買ってくれたお客さん一人ひとりの満足度が大切なのさ。うんうん。賛成賛成。物は考えようである。でも、もっと売れろ。

 しかしまあ、世の物書きたちはみんなやってんだろうな、オウン検索。そんで、雑然とした仕事場で一人パソコンに向かいながら、「なんで12件しかヒットしねえんだよ」とか「ぜんぶ本屋じゃねーか」とか「こいつ、ちゃんと読んでないんじゃないの?」とか「おお、この人は私にとって最高の読者だ。電波が届いているに違いない」とか「逝ってよし」とか「うー」とか「むう」とかブツブツ呟いているのだった。暗いよなぁ。もう、その風景からして暗い。真っ暗。人を寄せ付けない、ただならぬ妖気が漂っている。なんて孤独で可哀想な人たちなんだろう。ともあれ、私も本誌で他人様の本のことをとやかく論(あげつら)ってきたが、そういうのは「著者本人が見る。しかも即座にメールでケンカできる」ことを覚悟してやんなきゃいけません。いや、あたしゃケンカなんかしませんけどね。うー。





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