edogawa's diary on 2002-2003 season #02.
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7月16日(火)10:45 a.m.

 ネタにつまったらよそのサイトにいけ、はHPの鉄則だ。そう教わったことがあるので、よそのサイトに行ってみた。すると藪から棒に、「それであなたはナニをしたいわけ?」と来るんだから、油断も隙もあったもんじゃない。いや、あの、ちょっと散歩がてらネタでも拾おうかと思って。そうじゃない。私に訊いてない。『マネーの虎』の話だ。しかし私はその番組を二度しか見たことがないので、このキメゼリフを聞いたことがないのだった。たぶん私が見た志願者たちは、いずれも「それであなたはナニをしたいわけ?」といじめられる以前のレベルだったのだろう。実際、ぜんぜんダメな感じだった。そりゃあ、「わたしには……わたしには人脈があります!」って胸張ってる奴にカネなんか出せんわなぁ。

 ところで、私のように成り行きまかせ風まかせで他力本願に日々を生きている者にとって、「それであなたはナニをしたいわけ?」という質問はかなり痛い。なにしろ私の場合、「得意分野は何だね」と訊かれても、「私にそんなものはない!」と威張っているくらいだ。ナニをしたいって訊かれてもですねぇ……えーと、つまり、あのう、ナニをさせてもらえるのかこっちが訊きたいんですけど。これじゃあ、いつまでたっても虎にはなれそうもない。就職も無理だろう。しないけど。

 そういえば、20代半ばでフリーになりたての頃、いわゆるゴールデン街系おやじ編集者に、似たような質問をされた記憶がある。べつにこっちが身の上相談を持ちかけたワケでもなく、むしろ無理やり飲みに連れて行かれただけの席で、「で、キミは本当のところナニが書きたいんだね?」って訊かれたら、いったい何て答えりゃいいんだ? 「いや、まあ、テキトーに」とか「そんな大事なこと、おまえなんかに教えてあげない」とか「カネになる原稿です」といった至極まっとうな答え方を許さない空気がそこにはあるのだった。「僕は……僕は僕らしく生きたいだけっす」とか「でっかく生きてえんだよ俺はよお」とか言えば喜んでもらえたのだろうか。質問の答えになってませんが。むしろ殴られるか。ともあれ、どんな答え方をしようが説教可能、というのがこの手の質問のミソなのである。ゴールデン街的空間においては、「ンなこと訊いてんじゃねぇんだよ俺はぁ!」の一言ですべてがひっくり返るのだった。イヤな空間である。だいたいあのおやじは、私に興味があったわけじゃない。説教を通してテメエのろくでもない世界観を表明したかっただけなのだ。なので、薄ら笑いを浮かべながら黙っていた私であった。うまく答えたからって、そいつがカネ貸してくれるわけじゃないしね。そんな人とは、仕事だって一緒にしたくない。ろくでもない世界観を表明したかったら、自分でHPでも作りやがれ。

 関係あるような無いような話だが、このあいだ『ER』を見ていたら、学生の面接をしている医師たちが、どいつもこいつも「人を助けたいんです!」というステレオタイプな志望動機ばかり口にすることにウンザリ、というシーンがあった。どうして、人は人の志望動機なんか聞きたがるんだろう。殺人や自殺や結婚(!)もそうだけど、人の動機なんて本人にもよくわかってないことが多いもんだと私は思っている。「いや、まあ、なんとなく他の仕事よりは向いてるかなぁ、と思って。まあ、そりゃ、やってみなきゃわかんないっすけど」が本音でしょう、たいがいの人は。これをちょっぴり気取って言うと、「……志望動機? ふっ。こっちが訊きたいね。あえて言うなら、私は自分がこの仕事を志望する本当の理由を知るために、ここで働きたいんだよ。仕事って、つまりは自分自身と向き合うってことじゃないかな。旅に似てるよね。ふっ。おっさん、背中が煤けてるぜ」ということになるわけですが。そのうち暗殺されるぞおまえ。

 ともかく、実際に働き始める前に、その仕事が与えてくれる充実感とか達成感とかやり甲斐とかわかるわけないんじゃないかしらね。それをわかってるように語る若造なんかと、一緒に働きたいかなぁ。ERの医師たちだって、「人を助けたいって、そりゃあそうだけど、あんたが思ってるような仕事じゃないんだよ、これ」と思うからウンザリするわけだ。人を助けられる仕事って、ほかにいくらでもあるしね。ゴーストライターだって、けっこう著者を助けている。人を助けない仕事って、ラツィオの会長職ぐらいしか思いつかない。ネスタ売るなよ。

 思えば私も出版社に就職したことがあるのだが、あのとき面接で志望動機なんか訊かれたっけなぁ。訊かれたんだろうな、きっと。どう答えたのかぜんぜん覚えていない。いったい、私はナニがしたかったんだろう。どうして出版業界に入りたかったのか。正解は、たぶん「ほかに思いつかなかったから」だと思うけど。これ、あんがい最強の志望動機だったりするような気がするんだけどダメ?



7月15日(月)10:10 a.m.

 人はビデオテープを待ち構える。どうしたって、待ち構えずにはいられない。ビデオデッキからテープを取り出すときの話だ。「取り出し」と書かれたボタンを押すやいなや、親指を上に向けた利き手をテープの出口に差し出さずにいられる人は少ない。そして人は、利き手を差し出しながら、内心でこんなふうに呟いている。

「おらおら、間髪入れずに掴み出してやっから、いつでも出て来いよこの野郎」

 どういうわけか、えらく勝ち誇っているのだった。
 勝ち誇る理由は、私の見たところ次の三つだ。


1)ビデオテープの厚みを知っており、その厚みに合わせて手の形を準備している。敵のことを知り尽くし、それに対する準備を終えたとき、人は勝ち誇る。競合他社の入札価格をあらかじめ知っているようなものだ。

2)ビデオテープがそこから出てくることを確信している。敵の行動パターンをあらかじめ察知していると確信が持てたとき、人は勝ち誇る。必ず成功する「待ち伏せ」ほど人を勝ち誇らせるものはない。

3)出てきたあかつきには、ビデオテープをさっさと「片付ける」ことが明らかだ。少なくとも、ビデオテープに自分が片付けられることはない。敵を一方的に片付けられるとわかっているとき、人は勝ち誇る。


 だが、そんな私たちの勝ち誇った態度を嘲笑うかのように、ビデオテープはわりと人を待たせやがるのだった。あれは瞬時に飛び出すわけではなく、あんがい時間がかかるのだ。だから人は、ボタンを押すやいなや「待ちの姿勢」を取った自分の行動を、ちょっぴり反省したりする。「そんなに慌てるこたあねぇよなぁ。出てきてから手ぇ出しても遅かねえよなぁ」などと自分を責めながら、それでも出した手を引っ込められずに待ち続ける人は少なくない。文字どおり、引っ込みがつかなくなっているのである。人はいったん勝ち誇ると、途中で退却するのが難しい。一昨日の市原も、それで名古屋に逆転されてしまったのではないだろうか。試合は見ていないが。

 サッカーの話はともかく、そうやってビデオテープを待ち構えている姿はけっこう間抜けだ。勝ち誇っているくせに、スキだらけ。そのスキの多さときたら、ほとんど裸の王様レベルだ。裸の王様は、かなり恥ずかしい。

 どれぐらい間抜けで恥ずかしいかというと、たとえばこんな具合だ。私の家は、ビデオデッキが床とほぼ同じ高さに設置されている。そのため私は、ビデオテープを待ち構えるとき、膝をついて背中を丸めながら右手を差し出すことになる。その様子を遠くから眺める者がいたとしたら、どう思うか。きっと彼は、私が「お控えなすって、お控えなすって」と言っていると思うに違いない。手前生国と発しますところ北海道は旭川でござんす。ござんす、じゃあないだろう。ビデオデッキに向かって自己紹介してどうする。間抜けとしか言いようがない。

 また、もし私の前にいるのがビデオデッキではなく犬だったらどうか。その犬は、思わず「お手」をしてしまうかもしれない。こちらが望んでもいないのに、犬に思わず「お手」をされてしまうのは、人としてかなり情けないことだと思う。なにしろ、そのとき私は犬に褒美として与える肉片すら持ち合わせていないのだ。

 ところでビデオ以上に間抜けなのは、CDをCDプレイヤーから取り出すときの姿である。「OPEN」と書かれたボタンを押すやいなや、「わし掴み型」にした利き手を下に向けて、自分の胸の前に差し出す私たち。何かの儀式なのかそれは。それとも、念動力か何か送ろうとしているのか。不自然である。不自然でないと思うなら、試しに両手ともその型にして上に向けてみろ。まるで岡本太郎じゃないか。芸術は爆発じゃないか。何だかわからないじゃないか。

 ちなみに、私は昔から「わし掴み派」だが、「親指と人差し指だけ伸ばして下に向ける派」の人も多いと思う。俗にいう「マジックハンド派」である。この流派の人々は、CDの中央に空いた穴に、ものの見事に人差し指を突っ込んでやろうと、息を呑んでトレイが出てくるのを待ち構えているわけだ。機能美にこだわるタイプと言えるだろう。あの機能性を秘めた穴を、使わずに放っておくことができないのである。もしかしたら彼(または彼女)はそのとき、内心で「ウィ〜ン、ガシャン。ウィ〜ン、ガシャン」などと機械音を発しているかもしれない。いま彼(または彼女)は、機械と一体になりたいのである。いっしょに機能したいのである。たまにはちょっとロボットと化してみたいのである。そんなことに全神経を集中させている彼(または彼女)ほどスキだらけな人が、ほかにあるだろうか。

 しかし私たちは、それでもビデオテープを待ち構える。CDを待ち構える。待ち構えずにはいられない。先行き不透明な時代に、「あらかじめ約束されたこと」に出会えたのがそんなに嬉しいのだろうか。たぶんそういうことではないと思うが、いずれにせよ待ち構えずにはいられない以上、せめてスキだけは見せないようにしたいものだ。しかし、だからといって周囲をキョロキョロ見回しながら待ち構えていると、あたかも万引きを企てているように見えるので注意しなければいけない。

 今日も書くことが思い浮かばなかったので、試しに「人はビデオテープを待ち構える。」と以前から漠然と頭の片隅にあった一行を書いてみたら、思いがけず長い文章になってしまった。どうして仕事の原稿は、こういう具合にならないのだろう。私の原稿を待ち構えている編集者の指先が、そこに見えるようだ。おらおら、間髪入れずに読んでやっから、いつでも送って来いよこの野郎。待ち構えられるのはイヤだ。そこにはやはり敗北感がある。待ち構える人に私はなりたい。勝ち誇りたい。

 などと書いていたら、台湾在住の日本人男性から「愛読者カード」を頂戴した。台湾の読者からメールをいただくのは、これでお二人目だ。どうも本誌は、台湾とか沖縄とかそっちのほうに縁がありますね。あったかい土地と相性がいいのかもしれない。私は道産子だけど。台湾の紀伊国屋で拙著を注文してくださるとおっしゃっていた。拙著が国外に出るのは、私の知るかぎり2冊目である。1冊目は、友人が米国出張に連れていってくれた。これで私もいっぱしの国際人だ。そういうことじゃないのか。



7月14日(日)14:40 p.m.

 きのうは、父は仕事、母子は映画館でポケモン。映画終了後に合流し、吉祥寺伊勢丹のプチモンドというくだらない店で晩飯を食う(ファミレスのくせにハンバーグ切らしてるってどういうことだ)。セガレは、映画館で通常の4倍以上ある巨大なポケモンカードをもらってゴキゲンだった(※業務連絡:「おびちゃん=ヤマちゃん夫人のこと=に会ったら見せる」って言ってました)。さらにプチモンドでは、お子さまカレーの付録でチョウチョ型のバカげたサングラスをゲット。今朝、そのサングラスをかけたセガレは、両手を後頭部に当てた日光浴ポーズで床に仰向けになり、「バリ行きてー」とほざいていた。近頃のセガレを見ていると、行動パターンがどことなくクレヨンしんちゃん化しているような気がしないでもない。父ちゃ〜ん、オラたち今年はバリ行かねぇのかぁ? すまんが、今年は大磯ロングビーチで勘弁してくれ。さては稼ぎが悪りぃんだなぁ? はい、悪いです。



7月13日(土)12:40 p.m.

 黒い日傘ってのはどうもなぁ、と思う。夏の風景を損なうこと甚だしい。陽光をきらきらと弾く白い日傘こそ、夏を夏たらしめるのだ。見る者を爽やかな気分にさせるのだ。ところが、いまや黒の時代である。街を歩いていて、路地を曲がったとたんに黒い日傘に出くわしたとき、ふと「悪魔」という言葉を思い浮かべて不吉な心持ちになるのは私だけだろうか。黒い日傘をさして歩いている女は、どうしたって、何か邪悪な企みを胸に秘めているように見えるのだった。

 そもそも日焼けを防止する日傘というのは、詰まるところ「美しくありたい」という願望によって使用されるものである。だが、黒い日傘をさしている女はちっとも美しく見えない。むしろ不気味、いや怪異と言っても過言ではない。たしかに、「お肌レベル」では白よりも黒のほうが効果的だと、みのもんたの番組でもどこぞの学者が去年あたり言っていた。だが、たとえお肌の美しさが少しばかり保たれたからといって、それが何だというのだ。黒い日傘によって保たれる美しさと、黒い日傘によって損なわれる美しさと、どっちが大きいか考えてもみよ。だいたい、黒い日傘をさしている女にかぎって、肌が黒かろうが白かろうがシミがあろうがどうで(中略)イプが多い。

 おまけに手袋だ。えーい、暑苦しい。おまえは手タレか? 人が汗だくだくで歩いてるときに、手袋をするな手袋を。手袋を脱いだときだけ手が美しければそれでいいのか? 手袋をしているときのその醜悪な姿を不特定多数の目にさらすことは気にならないのか? 美しくなるためなら醜くてもかまわないと言うのか? 「健康のためなら死んでもいい」と同じじゃないか。美容フェチめ。



7月12日(金)11:30 a.m.

 書くことが何も思い浮かばない。なぜだろう。

 理由を考えているあいだに、いまさらのように気づいたのだが、私はかなり変化に乏しい毎日を送っている。8時頃に起床。9時にセガレを後ろに乗せて自転車で出発。幼稚園経由で仕事場へ。仕事場に着くと、いつも最初に矢野真紀のCD『たからもの』をかける。いつもだ。1曲目の『名前』という歌は、「いつもあなたの名前呼んでいるのよ 気づいてよ 此処に来て」という歌詞で始まる。わりと切ない。

 それから夕方までは、ハイライトを吸ったり、無糖の缶コーヒーを飲んだり、セガレと同じ内容の弁当を食ったり、聞茶を飲んだり、エアコンの風量調節をしたり、頭を掻きむしったり、「んがー」と言ってみたりする以外、パソコンに向かっているだけだ。パソコンでは、日誌を書いたり、メールを書いたり、原稿をちょっと書いたり、翌日の日誌の下書きをしたり、原稿を少し書いたり、メールを書いたりしている。書いてばっかり。「書く人」としか言いようがない。

 ナマコの散歩みたいなペースでしか進まない原稿にウンザリしつつ、帰宅してセガレと風呂に入る。晩飯を食う。セガレを寝かせる。テレビでサッカーをやっていればサッカーを見る。サッカーをやっていなければ、101回目のプロポーズとかを見る。寝る。そういう感じ。取材でもないかぎり、家族以外の人にはあんまり会わない。電話もあんまりかかってこない。「行ってきます」から「ただいま」まで、一言も喋らない日もある。「無言の人」としか言いようがない。最近、声帯がちょっと退化してきたように感じるぐらいだ。独身時代は「行ってきます」も「ただいま」もなかったのだから、いま考えると恐ろしい。よくもまあ、バスジャックとかクーデターとか噴火とか起こさないで生きてきたものだと思う。

 会議でもあればなぁ、と夢想することもある。編集者に電話して、「すいません、いま会議中なんですが、お急ぎですか?」と言われたとき、私の胸には言いようのない疎外感と嫉妬と羨望が渦巻くのだった。会議はすべてをはねつける。その排他性は、トルシエの非公開練習以上だ。そんな会議を中座させるほど緊急な用件が私にあるわけがない。会議はすべてに優先する。私もたまには、腕時計をちらりと見て顔をしかめながら、「すまん、おれ、これから会議なんだ」なんて言ってみたい。なにしろ会議には、人が大勢いる。人が大勢いて、お互いに魂と魂を触れ合わせながら、喋ったり笑ったり怒ったり泣いたりコケにしたりヘコんだりしている。いいよなぁ、会議。想像しただけでシビれるね。なんて人間らしいんだろう。それはまるで、ちいさなドラマのカタマリみたいじゃないか。2時間の会議で、日誌1週間分のネタが仕入れられそうだ。

 だが、私には会議がない。えてしてバカについて論じるきっかけを与えてくれる部下や上司もいない。移動もあんまりしないから、街の変化や人々のたたずまいを観察することもない。もちろん、「出会い」ってやつもない。そんな起伏に乏しい地味な毎日を送っている人間が、いったい何を日誌に書くというのだ。いままでこんなに大量の日誌を書いてきたこと自体がむしろ奇跡だと思わないかねヨシコ君。うんうん。思う思う。そうだろう。「奇跡の人」としか言いようがない。しかもサッカーがオフシーズンとなれば、書くことがないほうが当たり前なのだ。まさか今日もゆうべ見た101回目のプロポーズについて書くというわけにもいくまい。

 だから、今日はぜんぜん書くことがない。



7月11日(木)16:30 p.m.

 かれこれ十数年前の女性誌編集者時代、いっしょにエッチな記事ばっかり作っていた女性ライターSさんからメール。某ビジネス誌(某P社発行)のビジネス記事で深川の本を取り上げたいのだがよろしいか、とのことである。よろしいに決まっている。豪腕かつテクニシャンの彼女が、あの本とビジネスをどうコジツケて書いてくれるのか楽しみ。W杯も終わっちまったことだし、これからは書店でもビジネス書の棚に置いてもらおっかな。ムシがよすぎるのである。それにしてもそのビジネス記事、自分だったらどう書くだろう。「〆切が延びても油断するな」(第三章)ぐらいしか思いつかんな。それじゃビジネス・ハウツーじゃなくてライター講座ですね。

 ここ二晩、また性懲りもなくスカパーで『101回目のプロポーズ』を見ている。たぶん私は、このドラマがとても好きなんだと思う。そんなに堂々と言い放つことでもないけどよ。悪いか。ゆうべは、例の「僕は死にませんの巻」だった。不覚にも涙ぐんでしまった。涙ぐみやすいタチなのである。涙ぐみながら、放送当時、ウッチャンナンチャンがやっていたパロディ編を思い出した。私にも、ドラマやウッチャンナンチャンを一生懸命に見ていた時代があったのである。それは、武田役の内村が「僕は死にません! あなたが好きだから、僕は死にません! 僕が幸せにしますからぁ!」と訴えるのを聞いた浅野役の南原が慌てて振り向き、「見てなかった…………」と呟くというオチだった。こうして「内村が」「南原が」とお笑いタレントの名前を主語にして書いていると、それだけでバカになったような気がするから不思議だ。「きのう志村がさぁ〜」と『全員集合』の話で盛り上がっている小学生と同じである。しかし考えてみれば、「ゆうべシーマンがさぁ〜」も大差ないと言えば大差ない。私はこの四年間、この日誌でいったい何をやってきたのだろうか。



7月10日(水)10:55 a.m.

 W杯期間中、私のために(および自分の趣味で?)ネット上の情報を漁ってくれていたサッカー好き編集者H氏が、こんな記事を見つけて教えてくれた。


[ソフィア 29日 ロイター]
 イングランド・プレミアシップのマンチェスター・ユナイテッドが大好きなブルガリアのマリン・ズドラフコフさんは2年前、同クラブに敬意を表してマンチェスターに改名した。さらに姓も変えることを希望し、長い間の法廷闘争の末、晴れてマンチェスター・ユナイテッドになった。日刊スポーツ紙セブンデイズが明らかにした。38歳になるズドラフコフさんは、当初は地方裁判所で訴えを取り下げられたが、願いがかなうことになった。マンチェスター・ユナイテッドさんは、ブルガリア北部の小さな町スビシュトフで母親と猫のデビッド・ベッカムと一緒に暮らしている。
 私たちは往々にして、わずかな情報を頼りに人間を類型化しようとする。この短い記事を読んだだけで、マンチェスター・ユナイテッドさんの風貌や体型、ファッション・センス、好きな食べ物、友人の数、恋愛経験の有無、自分のウェブサイトを「小部屋」と名付けるかどうか、といったことがたちどころに想像できてしまうのは何故だろう。やはりこれも集合無意識のなせる業なのか。少なくとも、マンチェスター・ユナイテッドさんがシガニー・ウィーバーやジョディ・フォスターやメグ・ライアンや原節子などとはまったく異なるタイプの女性であることは断言してよい。それ以前に、私は「マリン」という昔の名前からマンチェスター・ユナイテッドさんが女性だと思い込んでいるのだが、違うのだろうか。

 ともあれ、マンチェスター・ユナイテッドさんだ。法廷闘争で勝つまでは「マンチェスター・ズドラフコフさん」という正体不明な名前だったのだから、姓も変えたくなるのは無理もないと思う。最初から「マンチェスターユナイテッド・ズドラフコフ」にしておけば話は早かったかもしれないが。それにしても、ブルガリア北部の小さな町でマンチェスター・ユナイテッドを名乗るのは、どんな気分だろう。かつてネットの片隅の小さなサイトで江戸川駄筆(エドガー・ダビッツ)を名乗っていた男と似たような気分かもしれない。

 それよりも気になるのは、ある日突然、娘がマンチェスター・ユナイテッドになってしまった母親の気分である。これはちょっと想像がつかない。もし、セガレがある日突然、「おれ、今日からロックマンエグゼだから」と言ったら私はどうするだろうか。黙ってグーで殴るかもしれない。私自身、本を出すときに、申し訳ないと思いながらも親のつけてくれた名前を使わなかったわけだが、これはけっこう気を遣った。気を遣った結果、両親の生まれ故郷の町の名を借りることにした。両親が生まれ育ったのが長万部ではなくて本当に良かったと思う。決めた筆名を教えると両親はとても嬉しそうだったので、私も嬉しかった。もし私が「伊太利屋埒男」という筆名にしていたら、両親はどんな顔をしただろうか。たぶん、とても渋い顔をしたと思う。

 しかし、本人が名前を変えるだけなら、さほど問題はない。私が心配しているのは、法廷闘争での勝利で自信を深めたマンチェスター・ユナイテッドさんが、次なる野望を抱いているのではないかということだ。次の野望。それは「母親の改名」以外にあり得ない。どう変えるのかといえば、もちろん「オールド・トラフォード」だ。だって夢の劇場なのよ、素敵な名前じゃないの、お母さん。薄汚れた背番号7のジャージに身を包み、丼に山盛りにしたアイスクリームを貪りながら、そんなふうに母親を説得しているマンチェスター・ユナイテッドさんの豊満この上ない巨体を、つい私は思い浮かべてしまうのだった。



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