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シュレディンガーの猫
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第二回

「民主主義と押井作品」をめぐって

― 2002年12月 ―


 今回、『WWF』シリーズ(WWFのホームページはこちら)の新刊「押井学会」では、「民主主義」というテーマで議論を書いてみた。昨年の「押井学会」の岩田憲明さんの文章「“虚像”の民主主義」に刺激を受けて書いたものだ。この機会に、「民主主義」の考えかたについての歴史を調べなおして、自分でまとめを作ってみたかった。その上で、岩田さんの問題提起に応えるかたちで、それと押井守作品の関連を跡づけてみたかったのである。

 結果は、「みたかった」を連発したとおり、何もしないまま締切を迎え、締切まぎわに手もとの資料やあやふやな知識を寄せ集めて書くハメになってしまった。とくに、押井守作品との関連の検証は、思いつきの域を出ていないと自分でも思う。

 民主主義についての私の現在のとらえ方は、基本的に、それが現在の工業化社会に適応している政治の仕組みであり、だから、工業化の進んだ世界にその仕組みが広がっているのだ、というものである。「仕組み」というのは、政治制度から文化まで、全体を含んだものとして言っている。

 もちろん、現在の民主主義は、古代ギリシア起源のものが近代西ヨーロッパで再解釈されて定着し、西ヨーロッパ勢力の世界制覇とともに世界に広がったものである。したがって、それを受け入れやすい文化とそうでない文化とが存在するだろう。しかし、日本の村に「寄合」のような古典的民主主義に近い制度があったことを考えると、西ヨーロッパ的な文化を持たない国や地域・文化圏には民主主義は根づかないとは必ずしも言えないように思う。

 逆に、西ヨーロッパでも民主主義は19世紀までは一部の人にしか支持されず、全体的には「危険思想」視されていた。だから、西ヨーロッパの文化が必ずしも民主主義に適合的な文化とも言えないように思う。とくに、キリスト教の信仰との関係を問題にすると、キリスト教が「神」をあらゆる分野での最高の存在と考える以上、それは人民(の代表)の決定が最高決定であるとする人民主権とかならず衝突する。いまイスラム圏ではまさにこの衝突が問題になっている。じつは、同様に、キリスト教も「原理主義」的に突き詰めれば同じ問題が発生しうるのだ。

 また、工業化の進んだ社会が民主主義を受け入れやすいと言っても、工業化が進んでいなくても民主主義を受け入れるばあいも現在の社会では多いと思う。とくに冷戦後は、ともかくも民主主義体制をとっていれば国際的な支援も得やすく、民主主義的でない体制であれば逆に制裁を受けかねないという国際的な状況がある。それに対応するために、工業化の進んでいない社会を抱える国家でも民主主義体制が行われるばあいもあるだろう。

 こういった「但し書き」の議論をしようとすると、数限りなく「ただし」という例外が出てくる。だいいち、工業化と民主主義が関連しているというのは、「なんとなく確からしい」というレベルでは言えると思うが、ほんとうに関連しているのかという論証が私にできるかというと、その論証をやり遂げる自信はない。

 理論的には、工業化が均質な国民を作り出し、その均質な国民が対等に政治参加を要求するから、幅広い国民が自由な意見をもって政治に参加するという民主主義の仕組みが最適なんだということになるんだろう。

 しかし、均質な国民がほんとうに政治への参加を求めるのだろうかというところからして、すでに疑問がある。「いつも求めない」とは言い切れないけれども、「求めないばあいもある」ということは言える。1933年のドイツで、国民社会主義政権、つまりいわゆるナチス政権が成立したときに、当時のドイツ国民は、それまでの民主主義体制が想定するようなかたちでは政治への参加を求めなかったのである。現在のアメリカ合衆国の国民にしたところで、どうだろうか、という疑問はある。

 しかし、考えなければならないのは、1933年のドイツで国民社会主義(ナチス)政権が成立したのは、それ以前のドイツが十分に民主的な社会だったからである。そうでなければ、選挙によって独裁者が政権を獲得するというかたちをとることはなかっただろう。ナチスにある種の民主主義の完成を見ることも可能なのだ。

 「押井学会3」に寄稿する原稿ではそのあたりの問題を詰めようと思ったのだが、けっきょく時間切れとなってしまった。引きつづき考えていきたい問題である。

 ただ、私は、今回、この問題を議論するときに、民主主義が、どのような時代のどのような人にとっても最善のものなのだという価値判断を、少なくともいったん留保しようとした。とりあえず、人類史の一段階に出現した社会の「仕組み」なのだという位置づけで話をしてみたかったのだ。

 その点から押井作品を考えてみると、押井作品は、民主主義とか独裁とか権威主義とかいう政治のレベルよりは、少なくとも一段階は深い階層で政治について捉えているように思えてきた。その点について思い至ったのは、今回の「押井学会3」への執筆作業の一つの収穫ではあった。


―― おわり ――




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