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シュレディンガーの猫
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第三回

藤沢周平の描いた本能寺の変

― 2003年1月 ―


 藤沢周平の『逆軍の旗』(文春文庫)を読んだ。

 『逆軍の旗』は、戦国時代から江戸時代にかけての歴史的事件に取材した時代小説の短編四作品を収めた小説集である。どの小説も人の暗澹たる運命を描いた作品だ。一発逆転のハッピーエンドなどということはけっして起こらない。一発逆転が描かれるとしたら、さらにやりきれないほうに暗転するばかりである。それでも読後感が陰々滅々たるものにはならない。作品によっては、読み終わった後に、雨と嵐が過ぎ去って晴れ間がのぞくような感じを残すものもある。これが作者の持ち味であり、巧さなのだろう(なお、高橋敏夫さんによる藤沢周平論の評を載せているので、よろしかったらこちらもご参照ください

 この四作品のうち、小説集のタイトルになっている「逆軍の旗」は明智光秀を主人公にしている。光秀が本能寺への進撃を決意してから、山崎合戦で勝算のないまま羽柴(豊臣)秀吉軍を迎え撃つ直前までの心の動きを描いたものだ。

 「逆軍の旗」で印象に残ったのは、明智光秀や織田信長の人物の描きかたである。

 この小説で描かれる織田信長は、不合理な因襲にとらわれない合理的な改革者ではない。狂気の独裁者である。といっても、見るからに凶暴な独裁者というわけではない。ただ、自分以外のところに少しでも「権力」が存在することを許せず、それがどんなに小さな「権力」であってもいつかは潰さずにはいられない。そして、その「権力」を潰すときには非常に残酷な方法をとる。そんな人物として描かれている。自分の外の「権力」が許せないという不合理な情念からけっして自由になることができず、そこから来る残忍で破壊的な情動に身を委ねてしまう独裁者が、藤沢周平が「逆軍の旗」で描く信長像なのだ。

 では、明智光秀は、その狂気の独裁者から世を救うために立ち上がった英雄なのかというと、そうではない。藤沢周平は、よく光秀が信長への叛意を託したと解釈される「時はいま雨がしたしるさつきかな」という発句(後世の俳句)についても、そういう解釈をしない。この句自体は採り上げているけれども、それに含まれている叛意の実体には光秀自身も気づいていないというのが藤沢周平の描きかただ。「雨がしたしる」を「天が下()る」に通じるとして「天下を支配する」と読み替えるような通俗的解釈ではなく、「連歌の発句としては調子が強すぎる」と解して見せるところなど、自らも俳句をたしなんだ作家らしい物語運びである。

 光秀は鉄砲の名手だった。その鉄砲で撃ち抜いて打ち倒すように織田信長を倒してみたいという衝動が光秀を動かした。きっかけとしては、「狂気の独裁者」信長が次には自分を潰しにかかるという情勢判断がある。その信長がほぼ無防備なまま京都にいる。それを、その一瞬の隙を逃さずに鉄砲で撃ち抜くようにみごとに倒してみたいという衝動が光秀を本能寺の変に駆り立てた。それが「天下を取る」ことを意味するとは、その決意の後で気がつく。そういう物語になっている。

 本能寺の変は、自分の外に少しでも「権力」が存在することをどうしても許せない「狂気の独裁者」信長の情動がきっかけになって、その「狂気の独裁者」を一撃で倒してみたいという衝動に負けた光秀が起こした事件として描かれているのだ。合理的な計算の結果ではない、情念とか情動とか衝動とかいう非合理的な心の動きのぶつかり合いの結果として本能寺の変は起こったというのが藤沢周平の解釈なのである。

 こういう解釈が正しいのかどうかは知らない。けれども、織田信長は旧体制の不合理を見抜いてその徹底的改革を志向する改革者で、明智光秀はその改革についていけない旧体制擁護者であり「抵抗勢力」の代表であるというような見かたよりも、私はこの藤沢周平の解釈のほうにずっと強い魅力を感じる。

 藤沢周平の描きかたのほうが「ありそう」なのである。

 いっさいの因襲にとらわれない合理的精神の持ち主の改革者など、現実の世界に存在するようには思えない。そういう人間は学者の議論の中にしか存在しないように思うのだ。もちろん、織田信長の行ったことの革新性を否定するつもりはない。だが、それを信長の行動を決めた「本質」の部分、人間を動かした根底の部分として解釈することにどうにも抵抗を感じるのである。歴史 の議論ならばそういう割り切りも必要なのだろう。けれども歴史 小説 がそれにつきあう必要はないと思う。

 それに対して、自分の外に「権力」が存在するのを不愉快に感じる人間なら、現実にいくらでもいそうである。そういう情念がとりわけ強く、自分の外の「権力」を抹殺せずにはいられないという情動を抑えきれない人間だっているだろう。それでも普通はそういう情動に従うことは自分の破滅を意味するので、その情動に従って行動する者はまれだ。けれども、天下の覇者だったら、何がその情動を抑制するのか? 権力者が人間であることの恐ろしさを藤沢周平の筆はさりげなく伝えているように感じられた。

 この小説は明智光秀の山崎合戦での敗北の直前で終わる。しかし、人間の情念の動きの暗い深みをのぞきこむような物語のあと、やはり読後には陰惨なばかりではない印象が残る。それがやっぱり救いなんだろうかと私は思った。


―― おわり ――




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