時論のページ

シュレディンガーの猫



自由を論じるための準備作業

 今回、「自由」という問題を採り上げたのは、『十兵衛ちゃん2』放映から一年が経ったからで……はない。

 いや〜、一年前には『十兵衛ちゃん2』を放映していたんだな〜とか感慨に浸っていたりして……いるばあいでもない。

 その一年前に書いた「自由の現在」には語り残したことがあった。この「自由の現在」では、「現在の問題としての自由」に関心を集中させ、「自由」を思想的・理論的に語ることはしなかった。だが、自由を思想的・理論的に語ることはやっぱり必要だろうと思う。

 また、昨年11月に「民主主義は有産者のものである」を書いたときには、民主主義について議論したが、自由については議論しなかった。だが、このとき、参考にと思って読んだ千葉眞さんの『ラディカル・デモクラシーの地平』(新評論、1995年)でリベラリズム(自由主義)について強く意識し、とくに井上達夫さんのリベラリズム論をていねいに批評している。これを読んで、やっぱり民主主義についての議論は自由についても論じないと完結しないのかなと強く感じた。

 じっさい、今日の民主主義政治で自由の持つ価値をほぼ全面的に否定することはまず考えられない。だから、民主主義について考えを進めるためには、自由や自由主義についても考えてみなければならないだろう。

 そういう「論じ残したこと」をここで論じてみようというのが今回の趣旨だ。


前回に論じたこととこれから論じること

 「自由の現在」では、人間がほんらい求める自由は「何でも自分の思いどおりにすること」だという前提で議論を進めた。そして、近代社会で実現した自由は「社会をコントロールするための原則としての自由」であって、それは「人間がほんらい求める自由」とは別のものだと論じた。だから、近代社会で実現した自由が、人間がほんらい求める自由を侵害することもあり得る。いや、そういうことがあって当然なのだ。

 「自由の現在」では、そこから「自由の優先度分け」という話に進んだ。けれども、今回は、そのときに十分に検討しなかった前提に立ち戻ってみようと思う。

 つまり、「人間がほんらい求める自由」は「何でも自分の思いどおりにすること」なのかという問題だ。


人間がほんらい求める自由とは?

 「自由の現在」では、「自由」という漢字語を「自」と「由」に分け、「自」が自分のこと、「由」が思いどおりにすることだから、「自由」で「自分の思いどおりにすること」という意味になるという説明をした。「時間が自由にならない」とか「身体の自由がきく」とかいうときに使う「自由」がこの意味だ。

 だが、この議論には、とうぜん異論があるだろう。たしかに「自由」はそういう意味で日本で昔から使われてきたかも知れない。しかし、「自由主義」とか「自由市場」とかいう使いかたをするときの「自由」は、西ヨーロッパから入ってきた liberty や freedom の系列のことばの翻訳語である。古来からの漢字語の「自由」とは意味の違いがあるのではないか? そういう異論である。

 また、ほんとうの「自由」は責任を伴うものであって、「何でも自分の思いどおりにする」のは「わがまま」ではあっても「自由」とは言えない。そんな考えもあるだろう。

 それでも、私は、人間がほんらい求める自由とは「何でも自分の思いどおりにする」ことだと考えている。人間はまず自分の身体を思いどおりに動かしたいと思うだろう。自由を求める気もちはそれと連続したものだ。そういう考えからである。べつに漢字語の「自由」がヨーロッパ語の liberty や freedom の系列のことばより人間のほんらい求めるものをよく表現していると考えるからではない。

 漢字語やラテン系・ゲルマン系のことばで概念として論じられる「自由」や、「真の自由には責任を伴う」というときの「自由」は、「何でも自分の思いどおりにする」という意味の「自由」が変形したり発展したりしたものだと私は位置づけたいと思う。


原型としての「自分の身体を思いどおりに動かすこと」

 人間は自分の身体を自分の思うとおりに動かそうと思う。それがある程度まで達成できたら、自分の身体以外のものも思うとおりに動かしたいと思う。それが人間が求める自由のいちばん最初のかたちだというのが私の考えの骨組みである。この言いかたは私の考えをかなり単純に表現したものだけれど、最初に示す骨組みとしてはこの程度の表現がいいだろう。

 人間の身体は、ある程度はとくに意識しなくても思いどおり動かすことができる(なお、ここでは、人間が意識によって直接にコントロールできない内臓の動きなどは考えから除外することにする)。また、逆に、動かしたいといくら意識しても、人間の身体の構造上、どうしてもできない動きもある。右手の親指で右手の手首に触れるとか、自分の身体の力だけで100メートルを3秒で走る(時速120キロ。新幹線以外の日本の鉄道の最高速ぐらいだ)とかいうのは、人間の身体ではまずできない動きだ。

 で、意識しなくても思いどおりにできる動きと、どうしてもできない動きの中間に、、「最初はできないけれど、訓練すれば動かすことができる」という動きがある。

 鉄棒の逆上がりとか、マット運動の前転とか後転とか、柔道の受け身とかがそれに当たるだろう。最初はだれでも自分の身体にそんな動きができるとはあまり思っていない。少なくとも私は思っていなかった。だれかがやっているのを見て、見よう見まねでいきなりやってみても、たいていは失敗する。だが、やり方を教えてもらったり、ほかの人がどうやっているかをじっくり観察したりして、自分の身体を訓練するうちに、ある程度までできるようになる。

 私は小学校1年生のときに体育で前転をやることになって、どうやったらあんな動きができるかわからずにパニックになった。それで心配した両親が近所の同級生を呼んできて、その同級生に指導してもらったことがある。前転はそれでできるようになった。でも逆上がりはついにできなかった。だから、どこまで身体を自分の思いどおりに動かすことができるかには個人差があるというのが私の実感だ。でもなぁ、「できるまで練習しなさい」以外に何か適当な指導をしてもらっていたら逆上がりもできたかも知れないなぁ。まあいまは腕力は落ちる一方で体重は増える一方だから、できないと思うけど。

 そんなことはどうでもいい。

 こういう「訓練すれば動かすことができるようになる」のは、べつに前転とか逆上がりとか「体育」的な動きに限らない。マッチで火をつけるとか、落として割らないように皿を洗うとか、大量の紙をすべてきれいに半分に折るとか、その紙を束ねてすぐに針詰まりを起こすホッチキスを使ってコピー本を作るとか、どれも見よう見まねですぐにできることではない(いや、けっこう難しいんですよ)。やり方を学ぶことも必要だが、身体の動きを訓練しなければできないことだ。

 自分の身体はもともとある程度までは自分の思いどおりに動く。思いどおりにできなかった動きも、ある程度までは身体を訓練することでできるようになる。だったら、自分の身体の外のものも自分の思いどおりに動かすことができるはずだ。自分の思いどおりに動かしたい。そういう欲求が、人間がほんらい持っている自由への欲求なのではないかと思う。

 こう考えたとき、またいくつか考えなければいけない問題が出てくる。それをとりあえず二つ挙げておこう。一つは、なぜ人間は自分の身体の外のものも自分の思いどおりに動かそうとするのか、その動機は何かという問題だ。もう一つは、人間は「自分の身体」と「自分の身体以外のもの」をほんとうに区別して感じているのかという問題だ。


なぜ思いどおり動かそうとするのか?

 まず、なぜ人間が自分の身体以外のものも自分の思いどおりに動かそうとするのか、ということから考えてみよう。

 その動機としては、まず、自分の身の安全を守るということが考えられる。

 これは自分の身体を自分の思いどおりに動かしたいと思う動機でもある。火に巻かれそうだとか、なだれに巻きこまれかけているとかいうときに、自分の身体を思いどおりに動かすことができないと、自分の生命を守ることができないからだ。そのことが恐怖感を生む。そしてその恐怖感が自分の身体を思いどおりに動かしたいという欲求を生み出すのだ。そういう心の動きがあるのだろうと思う。

 で、自分の身の安全を守るという目的のためには、自分の身体の外のものごとも自分の思いどおりに動かせたほうが何かと便利である。身に危険が及ぶほどに火が大きくなりそうだったら、その前に、桶に水を汲んできて火を消すとか、濡れた布をかぶせて火を消すとか、そういう動きがすばやくできるようにしておいたほうがいい。最初から危険なほどに大きくならないように、しかも火が消えてしまわないように、火をちょうどよい大きさにコントロールできればもっと便利だ。

 もう一つ考えられるのが、自分の思いどおりに動かなかったものを動かせるようになったときの達成感である。それは、少し違った角度から見れば、自分の外のものを自分の思いどおりに動かすことで、自分の力や能力を試してみたいという気もちだとも言える。

 うまく動かすことのできないものを、繰り返し訓練することで、思いどおりに動かせるようになることは、自分の身体で経験ずみだ。だったら、その同じことを、身体の外のことで試してみたい。そういう気もちになっても当然だろう。好奇心もその延長上にあると考えていい。また、自分の思いどおりに動かなかったものを思いどおりに動かせたら、何かの利益が得られるということもあるだろう。

 だから、人間が自由を求める動機は、一つは自分の身を守りたいという願いと、自分の身体や自分の身のまわりのものごとが自由にならないと自分の身を守れないのではないかという恐怖心である。もう一つは、自分の身体を動かすことができたとかに味わうことのできる達成感と好奇心である。とりあえずそう言っていいのではないかと思う。


自分の身体と身体の外の区別

 こうやって考えてみると、人間が「自分の思いどおりに動かしたい」と思うことについて、自分の身体と自分の身体の外という区別はあまり意味がないように思える。これがさっき掲げた二つめの問題――人間は「自分の身体」と「自分の身体以外のもの」を区別しているかという問いへの答えになる。

 実際に、自分の身体を動かすのと、自分の身体の外のものを動かすのにそれほど大きな区別を感じないことがある。とくに、木工職人の(のみ)とか(きり)とか(かんな)とか、野球やソフトボールの選手のバットなど、使い慣れた道具などのばあいはそうだろう。手で触るより錐や鉋を使っているときのほうが木の状態がよくわかる職人や、バットを瞬時にミリ単位でコントロールできる野球選手にとって、道具は自分の身体の一部と同じように感じられるだろう。ばあいによっては、道具のほうが、身体より鋭敏に感じ、コントロールすることのできる「自分の一部分」になっているかも知れない。

 その道具は別に人間の身体に直接に接していなくてもいい。たとえば、火星や木星の衛星なんかにいる探査機械を無線で動かしている技師は、操作に慣れてくれば、火星で動いている探査機械がぶつかったものの硬さや、探査機械が動いている場所の気候などを、職人が鉋を通じて木の状態を知るような感じで知ることができるかも知れない(やったことがないからほんとうはどうなのか知らないけど)。身体に接しているかどうかよりも、その道具を使い慣れているかどうかが重要なのである。

 だから、先に「人間は自分の身体をコントロールできる。次に、人間は身体の外のものもコントロールしたくなる」というような順番で説明したが、これは説明をかんたんにするためだ。実際には身体の外のものをコントロールできるようになってから、自分の身体をコントロールしたいと思うようになるかも知れない。ただ、そこで「自分の身体は訓練すれば自分の思うように動くようになることもある」という感覚が重要な役割を果たしているのは確かだと私は思う。だから私は「人間は自分の身体をコントロールできる」ということに重点を置いたのだ。

 人間は、さらに、自分の身体から離れているいろいろなものについて「自分の思いどおりに動かしたい」と思うようになる。人間は、自分の身体から離れているものも、自分の身体と同じように何か訓練のようなものを加えれば自分の思いどおりに動くようになるという実感を持つ。そして、極端にいえば、自分の外の世界のぜんぶが自分の思うとおりに動くようになるという感覚を持つようになる。

 その実感はたぶん子どもから育っていく過程で身につけるのだろう。

 赤ん坊のころは、周囲の人が自分に都合がいいように動いてくれなければ生命を維持できない。だから、その時期から、人間は「自分の外の世界も自分の思うように動いてくれる」という感覚を持つ。ほんとうは、赤ん坊の都合のよいように周囲の人びとが動かなければ、赤ん坊は生存できないから、結果として、自分の外の世界がいくらかでも自分の都合のよいように動いてくれた実感を持った人だけが大きくなることができる。その結果として、大きくなることができた人はみんな「自分の外の世界は自分の思うように動いてくれるものだ」という感覚をいくらかは持つ。そういう説明だ。

 もちろん、世のなか、子どものわがままがいつも通るようにはできていないわけで、育っていく過程で、自分の外の世界が自分の思うように動いてくれないばあいがあることに気づく。しかし、そのとき、「そうだよな、世界が自分に都合のいいように動くはずがないよな」と納得するわけではない。口ではそう言うかも知れない。けれども、心のなかでは、やっぱり世界は自分の思うように動くのであって、そうならないのは自分が自分を訓練していないからか、自分がその世界のほうを訓練していないからかに違いないと思っている。人間がほんらい持っている自由への欲求はそういうふうに広がっていく。自分の身体や自分の身近なものごとばかりではなく、極端にいえば全世界・全宇宙を自分の思いどおりに動かしたいというところまで伸びていく。


いま私がちょっとためらっていること

 じつは、ここの段落でいきなり「人間は子どものとき……」という説明を採ったことには、私自身があまり納得していない。子どものときの経験を基礎にして大人になってからの心の動きを説明しようとする心理学の一部の理論の発想を私自身があまり深く信じていない。「原体験」とか「トラウマ」とかの発想だ。もちろんそのすべてを否定する気はまったくないけれど、それがどんなばあいでも通用する発想だとも思っていない。

 子どものときにどんなことを感じていたかを完全に知ることは、大人になってからは絶対にできないからだ。大人になる過程で身につけてきたいろんなことをはぎ落としていっても、子どものときの感覚は回復できない。子どものときに持っていて、大人になる過程で失っていったものも多いはずだからだ。何かのものごとについて「子どもは単純だからこういうのは理解できないだろう」と推定したとしても、子どもは大人が思いもつかない方法でそのものごとを理解しているかも知れないのだ。大人から「引き算」で逆算した子ども像をもとに議論するのは危険だ。

 だがここでは他の説明を思いつかない。だから、自分の外の世界は自分の思うように動いてくれるという感じを子どものころに身につけ、その感じは大人になっても変わらず持続しているのだという推定の下に、ここの議論をつづけたいと思う。


自由への欲求を抑制する要素

 自分の外の世界を自分の思いどおりに動かそうとすると、自分の身体を動かすときとはくらべものにならない困難に出会う。

 自分の身体だって思いどおりに動くわけではないし、それに気づいてくやしい思いをすることもあるだろう。けれども、自分の身体がどう動かないかは身体の感覚でだいたいわかっている。無理に動かそうとすれば現実に痛みをはじめとする苦痛が伴う。身体の感覚で「これ以上はやばい」ことが感じられるから、断念するのにもわりと抵抗がない。

 抵抗があるばあいもある。自分の身体がよく動くと思って予定を立てていたら身体が動かなくて予定に間に合わなくなったとか、自分が100メートルを10秒で走れると思ってリレーの選手にエントリーしたのにじつは100メートル走るのに15秒かかってチームに迷惑をかけたとかいうばあいだ。それは、その身体を動かさなければならない事情が、自分の身体を自分の思いどおりに動かしたいという欲求のほかにもあるばあいだと言える。その多くは、他の人たちとのつきあいから来る社会的なもののばあいではないだろうか。自分の身体感覚だけを考えれば、苦痛を感じているのにその動きを止められないのは、手が痺れてきてもロープを握りつづけないと崖から落ちてしまうとかいう、よほどの極限状況以外は考えられないのではないか? (この議論もじつは私自身もしかすると穴があるのではないかと思っている。引きつづき考えてみたいが、とりあえずここはこのまま話を進める)。

 使い慣れた道具のばあいも、感覚は身体そのものを動かすばあいに似ている。道具をこれ以上動かしてもむだだとか、それ以上に無理をすると道具が壊れてしまうとかいう感覚を身体が直接に感じることができる。だから、自分の身体とその道具を使ってできる以上のことは、比較的かんたんに断念できる。

 「思いどおりに動かしたい」という気もちと、身体が感じる苦痛や違和感との関係は重要だ。身体が感じる苦痛や違和感は、「思いどおりに動かしたい」という気もちを抑制するもののうちでも大きな要素であろうと思う。


自分の外の世界のものごとについては?

 けれども、自分の身体とか身体になじんだ道具とか以外の世界のものごとは、どれだけ思いどおりに動くかわからない。しかも、身体への苦痛のようなフィードバックがきかない。思ったよりかんたんに動いてしまうかも知れない。しかし、逆に、かんたんに動くと思ったのにぜんぜん思ったように動いてくれないということもあるだろう。

 そのとき、何がその自由への欲求を抑制するのだろうか?

 一つは、自由への欲求を貫くばあいに必要な手間とか労力とかである。何か自分の外の世界のものごとを自分の思いどおりに動かせるとしても、それをするためにはとてつもない手間と労力が必要だとする。その手間と労力を払うぐらいならば、もっと別のことを自分の思いどおりにしたほうがいいと思えるならば、最初にやろうと思ったことよりもその別のことのほうを自分の思いどおりにすることを選ぶだろう。また、具体的にやりたい「別のこと」がなくても、その手間や労力があまりに大きいと、その手間や労力を払うときの苦痛を考えて、断念してしまうかも知れない。

 また、自分の自由への欲求を貫いたばあいに自分がさらされることになる危険も、その自由への欲求を抑制する要素になる。自分の外の世界のものごとを自分の思いどおりに動かそうとして、そのために自分の身がかえって危険にさらされるとしたら、人はやっぱり自分の外の世界を自分の思いどおりに動かすことをためらうだろう。自分の外の世界のものごとを思いどおりに動かせれば、それによって自分の身の安全がより確かなものになったり、自分がより大きな達成感を得たりすることができるとしても、それが成功しなければかえって自分の身が危険にさらされるばあいには、やはり人間は慎重になるだろうと思う。

 もう一つ、失敗したときの徒労感も自由への欲求を抑制する要素だ。成功したときにはこれ以上ないほどの達成感を得るとしても、もし失敗したばあいには「自分は何をやってるんだろう?」というむなしさや徒労感や自己嫌悪にとらわれるとしたらどうだろう? 「やっぱりやめておこう」ということになって、自分の外のものごとを自分の思いどおりに動かすのをためらうかも知れない。

 自分の外の世界のものごとについては直接に身体で感じる抑制は働かない。そのかわり、自由への欲求を実現するための自分の手間とか、そのために自分がさらされるかも知れない危険とか、失敗したときの徒労感とかが、自由への欲求を抑制する要素として働く。

 もう少しいえば、自分の外の世界で、自分の身体で苦痛や違和感を直接に感じることができないものごとについて、自由への欲求を抑制する要因として働くのは損得勘定だというまとめかたもできる。難しいことばでいえば、「費用 対 効果」の計算である。自分の身体の外のものごとを自分の思うとおりに動かそうとしたとき、それに必要な自分の側の手間や労力とか、それによって自分がさらされる危険とか、失敗したときの徒労感とか、そういう「損」や「費用」が抑制要因になる。しかし、その「損」や「費用」がどれぐらい自由への欲求を抑制するかは、「得」や「効果」との対比で決まる。自分の外のものごとを動かすことによって、自分の身の安全がより確かになるとか、達成感があるとか好奇心が満たされるとか、あと自分に何かの利益があるとか、そういう「得」や「効果」と「損」・「費用」と較べることで、それをやるかやめるかを決める。


必ず働く「予想」という要素

 ただ、このばあい、自由への欲求を貫くか抑制するかを決めるときに、「予想」という要素がかならず働く。あるものごとを自分の思いどおりにしようとするとめちゃくちゃに手間がかかるとか、自分の身がすごい危険にさらされるとかいうばあいでも、そのことを予想できなければ自由への欲求を貫こうとするだろう。まして、失敗したときにどれだけ徒労感を感じるかということなど、まさに失敗してみないとわからない。やってみたら何かむなしい思いだけが残ったということもあるだろうし、「失敗したらいやだな」と思って、やってみればそれほど困難でもないことを断念してしまうこともあるだろう。

 いずれにしても、自分の身体にすぐに苦痛や違和感としてはね返ってこないことについては、人間は予想に基づいて動く。そして、人間はその予想をすぐに修正するとは限らない。たとえ、事実の展開が予想とはまったく違った方向に進んでいても、人間は予想を修正しないかも知れない。予想とは違った方向に進んでいるのは何か別に原因があって、自分の予想はあくまで正しいのだと思いこんでしまうというのは、よくあることだ。

 したがって、自由への欲求の対象が自分の外の世界のものごとのばあい、その欲求を抑制したほうがいいばあいにも、長いあいだ抑制できないことが十分に起こりうる。もちろん、逆に、十分に実現できることを最初から抑制してしまって、あとで後悔するということも十分に起こりうるわけだが。

 この「予想のまちがい」に指導者の立場にいる人が気づかないとろくでもないことになる。経営に問題があるのに、自分の経営についての予想はまちがっていないと思いこんだりしたら、「業績が上がらないのは社員が働かないからだ」と経済誌のインタビューに答えて失笑を買うこともあるかも知れない。独裁者が自分の予想のまちがいに気づかなければ、自分の思ったとおりにいかないのはほかのだれかに問題があると思いこみ、大弾圧を展開して社会を破滅させてしまうかも知れない。

 このとき、適当でない予想を最初から立てないためには、「こうやればうまくいく」とか「こうやったら必ず失敗する」とかいうことを知っている必要がある。予想が裏切られてうまく行かなさそうになったときに、予想のまちがいにいちはやく気がつくためにも、やはりそれを知っている必要がある。そのためには経験を積んでいるほうがよい。他人の話をきいたり、本や資料を読んだりして知っているというのでもいいが、ただ知っているだけではなかなか自分の行動を修正するところまでつなげにくいものだと思う。自分が身をもって経験したことのように熟知していることが必要だ。ただし、知識や経験が多いことは、自分の知識・経験で対処できないことについても自分の予想に過剰な自信を持つことにもつながる。知識や経験があるだけではなく、それを自分の予想の修正に常に使える用意があること――熟慮する習慣が身についていることも必要になる。


いちおうここまでのまとめ

 ここでまとめを入れよう。

 人間は自分の身体を自分の思いどおりに動かそうと思う。自分の使い慣れた道具についても同じだ。それが自由への欲求である。なぜそのような欲求を持つかというと、自分の身の安全を守るためであり、また、それによって達成感を得たり好奇心を満足させたり、利益を得たりすることができるからでもある。このばあい、無理な動きをすれば、身体に苦痛や違和感を感じるので、無理な動きは抑制される。

 人間は、さらに自分の外の世界のものごとも自分の思いどおりに動かそうと思う。その動機は自分の身体のばあいと同じだ。だが、ここでは身体に直接に感じる苦痛や違和感がその欲求を抑制する要素として働かない。かわって、自分の思いを達するために必要な手間・労力や、そのために自分が引き受けなければならない危険、失敗したときの徒労感などへの予想が、それを抑制する要素として働く。けれども、それはあくまで予想であるため、常に適切に働くとは限らない。不具合が起こっているのに、まちがった予想に固執して行動を修正しないということが十分に起こりうる。


功利主義と原子論についての言いわけ

 ここでの議論がもとにしている人間観は、功利主義的であり、また原子論的であるという批判があるかも知れない。社会を構成している人間を一人ひとりに分解し、その一人ひとりの考えや動きの総計として社会を考えるのが功利主義の一つの方法である。その人間観は、他の人間といっしょに社会を構成している存在としての人間という面を完全に抜き去り、人間一人ひとりを完結したものとしてまず想定するという点で、それは「原子論」的である。「原子」というのはそれ以上に分けることのできない孤立した存在という意味だ。しかし、人間は他の人間と共同体や社会を構成するものだし、共同体や社会のなかでは、個人が一人ひとりで動くときとは違う動きかたをするものだ。だから、原子論的に考えた個人をもとに社会のなかの人間を論じると、不適当な結論を出してしまう可能性がある。

 しかし、人間を「原子論」的に考えることが、社会のなかの人間を考えるうえで完全に不適当だとは言えない。問題は、共同体とか社会とかを、ただ単純に原子論的に考えた個人の集合体とみなしてしまうことだ。そこでまちがいをしなければ、人間を原子論的に考えるのはまちがいではない。

 一方の功利主義は、人間は快楽を最大にし苦痛を最小にするように行動するという前提で人間や社会を論じる。私の立場はこれに近い。自分の身を守り、自分の達成感や利益を獲得するために人間は自由を求めるが、自分の身に苦痛が及ぶときにはその自由への欲求を抑制するというものだからだ。

 功利主義は「自由」を根拠づける発想として長い伝統を持つ。西ヨーロッパ社会で自由主義が成立する段階ではこの功利主義の発想が大きな役割を果たした(藤原保信『自由主義の再検討』岩波新書)。自由市場経済とか自由至上主義(リバタリアニズム)とかの発想にも、この功利主義の発想が強く関係している。

 ただ、私のばあい、快楽の最大化よりも、まず苦痛の回避に高い優先順位を置く。経済学の方面でも、人間は自分の利益を最大にしようと行動するという自由市場経済の発想に対して、人間はまず生き延びることを最初に考え、生き延びるためにじゃまになるものを取り除こうとして行動するという発想の経済学があるそうだ。私の発想はそれに似ている。そして、自分の身の安全がいちおう図られてから、人間は達成感や好奇心や利益のために行動を始めると私は基本的に想定している。もちろん例外はいくらでもあるだろうけれど、全体としてみればそういう考えかたが妥当だと思っている。前向きの明るい功利主義ではなく、発想が後ろ向きなのだ。

 でも、自由を考えるときに「後ろ向き」であることにも意味があると思う。自由が切実に必要なのは、いまから好きなことをやってカネを儲けようという人よりも、いまにも身に危険が迫っていて、自由に動けなければ生命も危ないような人のほうだと思うからだ。

 「原子」とは「最初の粒子」というような意味だ。Atom という英語とはややずれがある。Atom は「これ以上は分けられないもの」であり、「個人」を意味する individual と同様である。Atom にしても individual にしても、「全体を分けていって、これ以上は分けられないもの」というニュアンスがある。だから、individual としての「個人」は、少なくともことばの意味の上では、「全体」としての性格をも持っているのである。「全体」との連続性の上で捉えられた「個人」なのだ。一方で、日本語の「個人」は、中国語では人を「一個、二個……」と「個」で数える言いかたを引き継いでいて、「一人の人」という以上の意味はない。「全体」との連続性の上で捉えられたことばではないのだ。この違いは、ヨーロッパ系のことばで論じた「個人」と、日本語・中国語で論じた「個人」とのあいだに微妙な差を生んでいる可能性がある。なお、「原子」のほうも、「最初の粒子」ということならばむしろ proton ということばに近く、これは原子核内でプラスの電気を担う粒子である。日本語ではこれが陽電気を担っているので「陽子」と訳する。陽子は素粒子の一種で、素粒子とは「(すべての粒子の)もとになる粒子」の意味だが、じつは陽子は三つのクォークでできていることが確実視されていて、「最初の粒子」でも「もとになる粒子」でもない。「クォーク」は「くわっくわっ」とかいう鳥の鳴き声の擬音語で、「もとになる」とか「最初」とか「これ以上は分けられない」とかいう意味を持たない。物理学者のリチャード・ファインマンはこの言いかたを嫌い、 parton つまり「部分粒子」と呼ぶことを提唱した。これだと、やはり素粒子が「もとになる粒子」で、クォークがその「部分」であるという位置づけになるのだろう。


共同体・社会のなかでの人間の自由

 では、そういう人間が共同体とか社会とかを構成したときに、自由への欲求はどうなるのだろうか?

 共同体や社会では、何かを「自分の思いどおりにしたい」という欲求が、他の人の「自分の思いどおりにしたい」という欲求とぶつかることがある。同じものを取り合うこともあるし、同じものを別なように変えたいと争うこともあるだろう。さらに、「自分の思いどおりにしたい」という対象がほかの人であるということもよくある。

 それを調整するために、自由をめぐる社会のルールがいろいろと作られる。近代社会の原則の一つは「人間は、他の人間の自由を侵犯しないかぎり自由である」というものだ。ただ、これ一つだけでは自由をめぐる原則にはならない。他に何の条件もなければ、この原則は「自由とは、他の人間の自由を侵犯しないかぎり認められるものである」ということになり、「自由」を説明する部分にすでに「自由」ということばが入っている。だから、この決めかたは、じつは何をすれば「自由の侵犯」になるかという説明が先になければ、成り立たない。

 近代社会の「自由」をめぐる原則は、「自由」を二つの領域に分けて考えることで成り立っている。その一つの領域は、だれがどう言おうと、絶対に他人に制限されてはならないような領域だ。身体の自由とか信教の自由とかいう基本的人権としての自由権である。それに対して、自分が自由にしていいけれども、契約しだいで他の人の自由に委ねてもかまわない領域がある。たとえば、自分の土地は、国とか自治体とかの規制にしたがっているかぎりで自由に使っていいけれど、他の人と契約して、そこにその人が家を建てることを認めてもいいし、そこでその人が商売するのを認めてもいい。認めた以上は、そこが自分の土地だからといって、好き勝手に家を壊したり商売を妨害したりしてはいけない。自分の「思いどおり」にすることはそこでは制限されるのだ。このような自由は「私権」の範囲に属する自由である。こういういいかげんな分類をすると、憲法学とか民法学とかの専門家には怒られるのだろうけど、まあ、近代社会で一人ひとりの人間に認められている自由には、「絶対に譲れない自由」と「条件しだいでは譲っていい自由」があるということは言っていいのではないか。

 「人間は、他の人間の自由を侵犯しないかぎり自由である」というのは、まず、他人の「絶対に譲れない自由」を侵犯してはいけないということである。また、他人の「条件しだいでは譲っていい自由」については、たがいに「どこまで自由にしていいか」という範囲を契約で取り決めたら、その取り決めの範囲を超えて好き勝手をすることは認められないということである。


社会契約説について少しだけ

 この「契約」という考えかたで国家の成立まで説明するのが社会契約説だ。人びとは自分の自由の一部を国家という機関の自由にしていいと認めるかわりに、国家は人びとのほかの自由を守り、発展させる義務を負う。そのようにして国家の成り立ちを説明するのが社会契約説だ。論者の言いたいことがそこにあったかどうかは別として、それは「どうして国家は人間の自由を制限することができるか」という説明の原理でもある。そうすると、こんどは、「国家は特権的に制限してもいいけれども、国家以外の者が制限することを国家が認めない自由」という領域ができてくる。「不当な理由で身体を拘束されない自由」はたとえ相手が国家であっても通用し、だれにも譲ることのできない自由だが、「正当な理由によってその身体を拘束されない自由」は、国家に対しては通用しない。しかし、同時に、「正当な理由があっても身体を拘束されない自由」は、その国家の構成者に対して国家が守ってやらなければならない自由である(仕事で拘束するというのはあるけれど、これは身体を絶対的に拘束するというものではない。「どこへ行ってもあんたの自由だけど、途中で逃げたらこれから仕事をあげないよ。もしかするとあんたが逃げて損害が出たら賠償してもらっちゃうかもね」という契約の一種である)。近代社会の自由には「絶対に譲れない領域」と「条件次第では譲ってもいい領域」があったわけだが、そこに「国家には譲らなければならないけれども、国家以外には絶対に譲れない領域」ができてくる。

 こういう方向に議論を発展させると、国家論とか契約論とかいう方向に進んでしまう。それはそれで採り上げるべき問題なのだろう。とくに現在の自由論とか自由主義とかを論じるときには重要な論点になるのだろうけど、今回の前半の議論と関係のない領域に行ってしまうので、ここではこれ以上は触れないことにしたい。


共感

 今回は、前半の自由についての議論と、共同体や社会のなかでの自由はどうなるかという議論を結びつけるところまで行くことにしておきたい。

 人間と人間のあいだでは自然に感覚が共有される。とくに自分の近くにいる人間についてはそうだ。他の人間が楽しいと感じているときには、そのようすを見れば、ことばを交わさなくてもなんとなく楽しそうだということがわかる。他の人間が悲しいとか苦しいとか感じているときもそうだ。同じような大声でも、悲しくて泣いているのか、嬉しくて喜びの奇声を発しているのかはだいたいわかる――いや、まあ、わからないこともあるけど。

 これは、相手の身体の動きから、自分が同じような身体の動きをするばあいを意識しないまま想定し、相手の身体が感じている感覚を自分の感覚として感じることができるからだろう。意識して考えて理解するばあいもあるが、意識する前に感じるばあいもある。これをここでは「共感」と呼んでおきたい。ふつう「共感」というと、相手の意図や境遇を意識して、理解して、それで相手と同じ気もちを抱くという意味に使うけれども、ここではそれより前に意識しないで相手の気もちを感じ取ることをも指して使うことにする。

 そういう共感は、人間の自由への欲求にどういう影響を与えるだろうか?

 自由への欲求は、自分の身を守りたいという動機と、達成感を得たい、好奇心を満足させたい、利益を得たいなどという動機とから生まれてくる。また、自分の身体に感じる苦痛や、その自由を実現できたときに得られるものと自由を実現しようとしたために失うかも知れないものとの損得勘定によって、抑制される。そういう動きが、複数の人間がいる場でどういうふうに働くかを考えてみたい。

 人間の共感は、危機感とか苦痛とかについても働く。危機感といってもいろいろあるだろう。状況がよくわかっていないと共感できない危機感もあると思う。将棋で、ここで一つ手を誤れば20手先には必ず自分の玉が詰められるというときに棋士が感じているであろう危機感は、よほど将棋ができる人でないと共感できないだろう。でも身体に直接に迫っている危機は、その場にいさえすればわりとかんたんに感じられる。たとえば、命綱なしに崖をよじ登っている人を見たらたいていの人はやっぱりはらはらするだろう。苦痛については、精神的苦痛は別として、身体的に感じている苦痛は、やはりその場にいたらある程度感じられるのではないだろうか。

 ただし、身体に感じる苦痛や危機感は、その場にいればじかに共感できても、その場にいない者には伝わりにくい。その場にいなくても、親しい間柄の人やいつもいっしょにいる人の苦痛や危機感ならば共感できるだろう。しかし、見ず知らずの人がどこか遠いところで感じている身体的な苦痛や危機感は私たちにはなかなか感じにくいものだと思う。見ず知らずの人が遠いところで感じる苦痛や危機感は、相手の身体から理屈抜きで伝わってくる感覚が感じられないばかりでなく、逆にことばで説明しても単純な説明しかできないため、かえって感じにくいかも知れない。

 達成感や好奇心を満足させたときの充実感、利益を得たときの嬉しさなども共感によって他の人間に伝わる。逆に、それに失敗したときの挫折感や徒労感も伝わる。だが、このばあい、身近な人や似た境遇の人が喜んでいるとか落胆しているとか憤っているとかいうのはわりとかんたんに感じ取ることができても、身近でない人や境遇の異なる人に対してはなかなか感じにくい。身体で感じる苦痛や身体的な危機はだいたい同じような身体を持っている人間には共通のものだが、精神的な苦痛とか達成感とかはさまざまな種類があり、共感できる者は限られる。相手が苦しんだり喜んだりしていることは伝わってきても、なぜ苦しんでいるのか、喜んでいるのかという事情が理解できないと、その苦しみや嬉しさはなかなか共有できないものだ。


何が伝わり、何が伝わりにくいか?

 だれかの危機感に共感したばあい、人はその人が危機を遠ざけるために何かを思いどおりにしたいということに理解を持つ。だが、それはやはり親しい相手やよほど身近に起こったばあいに限られる。自分から遠いところで、見ず知らずのだれかの身が危険にさらされているようなばあい、その人を危険から救ってやりたいと思うかも知れないけれども、そのために自分が損をしてもいいとはなかなか考えない。自分が損をしないのならば手助けしてもいいかな、という程度にしか感じないのが普通だろう。まして、親しくもなく同じ場所にも居あわせないような人を危険から救うために自分が損をあえて引き受ける人は少数だろう。

 それに、危機感や苦痛については、他人の危機感や苦痛を感じ取るがゆえに、逆に他人の身を危険にさらしてやりたいとか他人に苦痛を与えてやりたいとか感じることがある。自分がいま感じている危機感や苦痛よりも他人が感じている危機感や苦痛のほうが少ないと感じたときに、人は他の人の身を危険にさらしたり、他の人に苦痛を与えたりしたいと思いがちだ。そういう羨望とか嫉妬とかが生まれてくる一つの理由は、他人がその人の思いどおりにふるまうと、自分が思いどおりにできる範囲が狭まってしまうのではないかという危機意識をかき立てられるからだろう。共感がいつも人と人との助け合いの方向に働くとは限らず、逆に足の引っ張り合いにつながってしまうこともある。

 また、自分はそういう身の危険や苦痛から絶縁されているばあいには、他人の危機感や苦痛には共感しにくくなってしまう。自分の身体の感覚として他人の危機感や苦痛が感じられないからだ。だから身体的な共感がだれにでも感じられるわけでもない。

 逆に、達成感とか利益を得たことの喜びとかは、まず羨望や嫉妬を呼び起こしがちだ。これは見ず知らずの他人であったばあいにとくに強い。見ず知らずのだれかが大もうけをした話をきいて、「ではそいつがもっと儲けられるしくみを作ってやろう」と考えるのはよほどお人好しだけだろう。せいぜい「あいつが儲けられたのならばおれも儲けられるはずだ。がんばろう」というのが普通に考えられるいちばん前向きの反応だと思う。

 しかし、親しい人が大もうけをしたり、何かを達成して感激していたりしたら、その喜びを共感する人はまあ多いのではないだろうか。儲けのばあいには「自分も何かおこぼれにあずかれる」という期待があってのことかも知れないけれど、何かを達成したばあいには純粋に喜びを共感することもあるだろうと思う。


「親しさ」という要素

 こうやって「自由」にかかわる人間のいろいろな感情とか感じかたとかを考えてみると、やはりその人間と親しいか親しくないかということが重要な要素になってくるように思える。親しいというのは、たんに血のつながりが濃いとか、昔から友だちだとかいうことではなく、相手がどういうときにどういうことを感じ、どういう境遇にいるかがわかっているような間柄のことだ。

 親しい人間の危機感や苦痛は深く共感することができる。そうでない人間のばあい、身体的に直接に感じられる苦痛や危機感は、その人間の近くにいたり、同じような境遇にいたりすれば共感できるけれど、そうでなければなかなか感じられない。達成感や利益を得た喜びなどは親しい人間のばあいには共感できるけれど、親しい人以外ならば、それはかえって羨望や嫉妬を生み出すことのほうが多いかも知れない。

 じゃあそれが共同体や社会のなかの自由についてどう影響してくるのか? 共同体や社会のなかの人間は、親しい人間や同じような境遇の人間の自由には関心を持ち、それを擁護しようと親身になるけれど、そうでない人間の自由には強い関心を持たない。それどころか、ばあいによっては羨望や嫉妬が働き、他人の自由を抑制しようと考える。そういう動きをするのが自然だという結論になる。

 まあそれはあたりまえなのであって、人間が自分と親しくない人間の自由まで進んで擁護しようとするならば、憲法に基本的人権として自由権をわざわざ規定したりする必要はないのである。人間は、ほうっておいたら、親しい人間はともかく、親しくない人間の足を引っぱろうとする存在だから、憲法に自由について定めておくことが必要になるのだ。制度とか公的な機関とかいうものがどうやって人びとの自由を守るかというと、他人の自由を侵害すれば自分も苦痛を受けるという仕組みを人為的に作ることで、他人の自由を抑制しようという気を抑制するという方法をとる。社会契約論がいう「国家は人民の自由を守るために樹立される」ということの具体的なあり方とはそういうものなのだ。


性悪説的であることへの弁明

 これはあまりに性悪説的な考えかたかも知れない。人間を、自分の身を守るためにまず自由を求め、他の人間が自由を手にすることは自分の自由に残された領域が減ってしまうと考えて羨望や嫉妬を抱く存在だと推定しているからだ。こういう人間が「よい本性を持っている」とはちょっと言えない。「人間の本性は悪である」という考えに近い。

 たしかに、人間は自分と親しくない者に対しては性悪説的にふるまうと私は考える。だから、社会とか国家とかの全体で自由を守るというばあいには、やはり性悪説的な前提で制度を組み立てる必要がある。羨望や嫉妬によって他人の自由を抑制しようとする傾向に対しては、他人の自由を抑制しようとすれば自分の自由も抑制されるという仕組みを制度として作ることで対抗するしかないと考えている。

 だが、同時に、人間は自分と親しい者に対しては、損得勘定を超え、意識することもなく、その悲しみを自分の悲しみと感じ、その喜びを自分の喜びと感じることができるとも思っている。これは性善説的な考えかただ。だから、その親しい人間の人間関係をもとに社会を編成していけばうるわしい社会が実現するのではないかという儒教的な考えかたにも私は共感を抱く。

 親しい者に対しては人間は性善説的な本性を見せ、親しくない者に対しては人間は性悪説的な本性を見せるという二元論を私は持っているのだ。だから、性悪説的な面に対しては制度で抑えを効かせていくしかないし、一方で「親しい」と感じられる範囲を拡大していくことで人間どうしが共感できる範囲を広げていくことも必要だと思う。なぜかというと、制度というのは、だれかが支えていなければ成り立たないもので、その支えがなくなるとまったく働かなくなってしまうし、制度を支えるために共同体や社会に属している人は一定の費用を払わなければならないからだ。制度で支えなければならない範囲が広いほど、その社会は変動に対して脆く、また制度を支えるための出費がかさむということになる。

 親しくない者どうしを親しくさせるためには、やはり何かの制度のサポートが必要だろうし、そのための出費も必要だろう。また、現在の社会を考えたばあい、「親しさ」というのがどういうものを意味するのかがあいまいになってきている。メールは毎日やりとりしているが一度も会ったことがないような人どうしでどれだけ「共感」が働くのか? また、家族が離ればなれに暮らすのが普通の社会で、家族どうしの「親しさ」は維持されているのか、維持されているにしても何か変化しているのではないか、あるいは逆に変化したようでいてじつはあんまり変わっていないところがあるのではないか?


文明化と自由への欲求

 ここまで考えを進めてきて、自由を論じるための準備作業から、社会論や国家論の方向に行きつつあるので、今回の考察はここで止めようと思う。

 あとは、ここまでの「準備作業」から言えることを、ここまで言ってきたこと以外でいくつか述べておきたい。

 一つは、自由への欲求が「自分の身体を思いどおりに動かしたい」というところから起こってくるとすれば、身体を動かすことの変化が自由に対する感覚を変化させる可能性があるのではないかということだ。

 文明生活は身体をなるべく動かさなくてすむような方向に進んでいる。身体を動かさない分の労力をもっと文明的な活動に使えるような条件を整えるのが文明の本質的な性格だと私は思っている。

 だが、そのために、人間は身体を思いどおりに動かすことをしなくなり、その達成感を感じなくなっているとしたら、どうだろうか? また、身体を思いどおりに動かせなくてもさしあたり身に危険を感じることがないのが普通になってしまったらどうだろうか? そういう人間は、もしかするとあまり自由を求めなくなるかも知れない。自分の自由を求めなくなるのは勝手だが、そうなると、他の人が自由を求めることへの共感も育たなくなり、自由に対して不寛容な傾向を身につけてしまうということがあるのではないか?

 しかし、それは、人間が自由を求めるのは、身体を思いどおりに動かすところから起こっているという推定の下に成り立つ考えだ。身体を思いどおりに動かす必要のなくなった人間は、別の、もっと「文明」的なものごとを起点にして自由を求めるようになるかも知れない。かつては身体から得ていた感覚を、ディスプレイや機械との接触から得るようになり、それが生み出す自由への欲求が重要になってくるのかも知れない。


羨望や嫉妬の位置づけ

 また、自由を求めることがかえって苦痛を伴うばあいや、自由を求めることで自分の身が危険にさらされるばあいには、人間はむしろ積極的に自由を求めることをやめてしまうのではないかという予想も立てられる。人間が自分の自由を捨てようとするのは、必ずしも病理的な現象ではない。むしろ、苦痛や危険から逃れるために人間が自由を求めるのだとすれば、自由を求めるために苦痛や危険が増してしまうような状況では自由を進んで捨てようとするのは自然なふるまいだと考えるべきだと思う。自由への欲求を、人間が生まれながらに持っているものだと考えるのではなく、危険や苦痛から逃れるために身につけていくものだと考えるほうが、人間や人間の社会を考えるうえで妥当なのではないか。

 現在の社会で「人間は生まれつき自由であり、人間は生まれつき自由を求めるものだ」と想定するのは、そう想定するのが現在の社会をコントロールしていく上でいちばん手間がかからないからだ。けっしてそれが人間の真実のあり方だからではない。これは「自由の現在」で論じたとおりである。したがって、現在の社会の仕組みを前提に考えるときには、人間は生まれつき自由であり、また自由を求めるものだという発想をもとに考えていい。けれども、そうではないときには、その前提をはずして議論を組み立てたほうがいいと思う。

 人間は、自分が危険や苦痛を引き受けてまで自由を求めることはないとするならば、他人が大きな自由を実現することで自分の自由に残された領域が減ってしまうのではないかという心配から生じる羨望や嫉妬も社会のなかである程度の役割を果たしているのかも知れない。自由を実現すれば他人から羨望や嫉妬を向けられるということは、自由を求めるばあいの危険につながる。それは自由を抑制する要因になる。

 だから羨望とか嫉妬とかはよくないのだというのが啓蒙時代の発想だろう。福澤諭吉は『学問のすすめ』で、ねたみというのは害だけあって何の役にも立たないものだと論じている。福澤諭吉は江戸時代から明治に向かう時代にともかく自由を鼓吹する立場にいたから、その立場からは羨望や嫉妬はそういうふうに位置づけられるのが自然だ。けれども、私たちは、羨望や嫉妬という感情を肯定する必要はないけれど、自由との関連でそういう心の動きが存在するのが自然なのだというぐらいの割り切りは持っておいたほうがいいと思う。

 人間は生まれつき自由を求めているとは必ずしも言えない。人間は、自分に必要だと思う自由は手にしたいと熱望するが、自由を手にすることで自分に危険が及ぶようなばあいには自由を求めることを放棄するかも知れない。そのくせ、他の人が自由を求めようとすると、それが実現すると自分に残された自由の領域が減ってしまうという危機感を感じて、羨望や嫉妬の思いを抱き、他人の自由を抑制しようとする。自由とは人間のさまざまな心の動きによってそういう一定の領域に封じこめられているものなのだ。自由を論じるときにはそう考えておいたほうが安全だと私は思う。


この文章をめぐる私的な事情

 この文章を書きはじめたとき、私は、自由と平等とか、自由と共同性とかいう、もっと思弁的・思想的な話題から始めるつもりだった。そういう議論をするために図書館からロールズとかノージックとか井上達夫とかの本も借りてきた。

 それがまったく違った内容になってしまった。そうなってしまったのは、借りてきた本を読んでもまるで理解できなかったという情けない事情がある。また、前の「自由の現在」で、ほんらいの自由を漢字語の成り立ちから「自分の思いどおりにすること」と説明してすませてしまったことへの疑問も感じていて、それをはっきりさせたいという気もちもあった。そして、それを解こうとしてあっちへ行ったりこっちへ行ったりしているうちに、ここに書いたようなことを考えるにいたったのだ。

 最後に、もう一つ、つけ加えておきたい。

 やはり昨年に書いた「現実」の現在で、私は次のようなことを書き、新しい連載を始めることを予告した。

 もしかすると、いま少し触れた「人間は一人ひとりが身体を持った存在だ」というところから「個人主義」を立て直す道があるかも知れないと思う。むろんそれもはなはだ心もとない思いつきである。身体をことばで論じることなしに「個人主義」なり別の思想なりに一般化することはできないし、一般化しないことには人に伝えて「共通理解」を作り出すこともできない。しかし、身体をことばで論じたとたんに、まさに具体的な「身体」が置き去りにされてしまうのだ。それで「身体」に論じているはずの理論が何かわけのわからない抽象論に化けてしまったりする。
 しかし、ともかく、「個人主義」につながるかどうかは別にして、「身体」からこの世界をどう見ればいいかという「哲学原論」みたいなものを組み立ててみる試みを始めてみてもおもしろいんじゃないかと思う。

 この予告は果たされなかった。じつは、ここで書いた「哲学原論」みたいな議論の執筆には着手したのだが、けっきょく途中で行き詰まって投げ出してしまったのである。今回の文章ではこのとき考えたことをかなり復活させ援用している。だから、このとき予告したことは、この文章で不十分ながらいちおう果たしたということにさせていただきたいと思う。


―― おわり ――






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