随筆のページ

シュレディンガーの猫
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第五回

ドリーを悼んで

― 2003年2月 ―

 世界初の体細胞クローン羊ドリーが死んだ

 肺の感染症にかかり、治る見込みがないため、2月14日、聖ヴァレンタインの日に安楽死させられたということだ。ご冥福をお祈りする。

 ま、たしかに、羊なんか地球上でいくらでも死んでいるし、肉にするために人間に殺されてもいるわけだから、ドリーさんにだけご冥福をお祈りするのも不公平かも知れないが。

 ところで、私には、「クローン」のことが大きく報道されるたびに疑問に感じてきたことがある。

 それは、クローン動物の話が、すぐに「それが人間に応用されたら」という話に、それも感情的に飛躍することが多いということだ。これは、昨年末に宗教団体「ラエリアン・ムーブメント」がクローン人間の赤ちゃんの誕生を発表したときの報道でも感じたことである。

 クローン技術とはどういうものかという議論が先にあっていいはずなのに、その部分がどうも軽く飛ばされているような感想を私は抱いていたのである。ドリーさん追悼企画として、そのことについて書いてみようと思う。



クローンには種類がある

 私は生物学の専門家でもなんでもない。大学受験のときに生物は選択しなかったから、私の体系的な生物学の水準は、20年くらいも前の高校の生物の水準にとどまっている。そのことをあらかじめ断っておこう。

 で、そういう私が仄聞するところによると、クローンには、生殖細胞(卵細胞)を使うやり方と、生殖細胞以外のふつうの「体細胞」を使うやり方があるらしい。

 この二つのうちでは、生殖細胞以外の体の一部を利用する体細胞クローンのほうが、技術的に難しい

 生殖細胞は、細胞分裂を繰り返して成長すれば、その動物一個体ぶんの細胞に分かれて成長していく細胞である。それに対して、生殖細胞ではない体細胞は、ふつうは、その体細胞がもともとあった部分の細胞にしか成長しない。皮膚の細胞はふつうは分裂しても皮膚の細胞にしかならないし、肝臓の細胞は肝臓の細胞に、心臓の細胞は心臓の細胞にしかならない。

 だから、体細胞でクローンを作るためには、そういう体細胞を、動物のあらゆる器官をきちんと持った一個体に成長させなければならない。たとえば、皮膚の細胞から脳も骨も脊髄も心臓も肝臓もあらゆるものを過不足なく作り出さなければならない。そのために無理をしているわけで、それだけ難しいのである。ドリーと同じような体細胞クローン羊を生む実験はかなり多く行われたが、いずれも失敗し、ドリーでやっと成功したのだと、当時のニュースで聞いたおぼえがある。

 ドリーの誕生が画期的なできごとだったのは、ドリーが体細胞クローンだったからだ。ドリーは、6歳の雌の羊の乳腺細胞の「核」を取り出し、それをほかの羊の未受精卵に移して生まれたという。ちなみに、「ドリー」という名は豊かなバストを持つアメリカ人の女性歌手の名まえから命名されたそうで、それはドリーが乳腺の細胞から生まれたからだという。

 日本で生まれていればどこかの巨乳キャラの名まえがついたのだろうか

 ……というようなことを妄想しても追悼にはならないわけで……。

 なお、「ラエリアン・ムーブメント」が発表した人間のクローンの赤ちゃんも、発表が事実だとすれば、体細胞クローンのようだ。



ドリーは生まれたときには6歳だった?

 しかし、ドリーが生まれたからといって、体細胞クローンが抱える本質的な問題が解決したわけではない。

 ドリーの細胞は、生まれたときにすでに6歳の年齢だったという。通常の羊の寿命が11〜12歳らしい。ドリーの細胞は、生まれたときから、もう人生ではなく羊生の半分を生きた羊さんの細胞だったのだ。人間に置き換えれば、20歳代の女性の細胞を持った女の赤ちゃんというところだろうか(人間は、子どもが普通に産める年齢の幅を基準にするとほかの動物よりも長生きなので、いちおうこれぐらいの年齢であてはめてみました)

 動物の細胞は、分裂を重ねるたびに齢をとる。このことは知っているひとは知っていると思う。

 動物の細胞は、中心部の「核」と、その周囲の「細胞質」からできている。このうちの「核」のなかに染色体がある。染色体はDNAが二重螺旋状につながったもので、この染色体上に遺伝情報が載っている。

 動物の細胞は、細胞分裂のときにその細胞の構造をそのまま受け継ぐ。遺伝情報の載った染色体もそのまま受け継がれる。

 だが、この染色体の端の部分「テロメア」だけは、細胞分裂のときに完全には複製されず、分裂を重ねるごとに短くなっていく。染色体の端の部分が年齢を重ね分裂を繰り返すとともに「すり減って」いくわけだ。この部分がすり減ってしまうと、細胞が分裂によって再生されにくくなり、そのために身体は老化していく

 で、ドリーのこの染色体の端の部分を調べたところ、その長さが6歳の羊と同じだったというのだ。

 ドリーは享年6歳だった。もし、生まれたときにすでに6歳の細胞を持っていたとすれば、細胞からいうと年齢は12歳である。生まれたときを0歳とすれば個体としては早死にだが、細胞年齢としては天寿を全うしたことになるのかも知れない。

 有性生殖には、別の「性」の動物が出会うことで異なる遺伝情報を混ぜ合わせ、遺伝情報に多様性を持たせるという機能がある。また、生殖細胞では、この染色体の端の部分の長さを保つ仕組みが働く。だから、年をとった親から生まれた子どもでも、染色体の端の部分がまったくすり減っていない細胞を持って生まれてくる

 どうやら、有性生殖の手順をまったく通らないで生み出された体細胞クローンでは、この「染色体の端の長さをもとに戻す」という手順も飛ばされてしまったらしい。



動物の宿命

 では、生殖細胞以外で、この「染色体の端の長さをもとに戻す」という働きのある細胞はないのだろうか? そういう細胞があるのであれば、それを利用すれば、生まれたときにすでに細胞が齢をとっているという「体細胞クローン」の問題は解決するのではないか。

 「染色体の端の長さをもとに戻す」という働きのある細胞は存在する。ガン(癌)細胞である。

 昨年 公開された映画『機動警察パトレイバー WXIII』は、「死んだ幼児のガン細胞に由来する細胞がいまだに生き延びている」という設定を重要な鍵として進む物語だった。これはフィクションのなかだけの話ではない。それどころか、半世紀以上も前に亡くなった人のガン細胞の子孫がいまでも生き延びて実験などに使われているという。

 ガン細胞は染色体の端の部分がすり減らないからこれだけの生命力を持っているのだ。

 ガン細胞ではなく、しかも、染色体の端の部分の復旧能力を持った細胞(「不死化細胞」)も、まれには存在する。しかし、そういう細胞が見いだされる確率は非常に低いし、そのような不死化細胞を分裂させ続けていくとやがてガン細胞化したというデータもあるらしい。

 動物の細胞で、染色体の端の部分がすり減っていくのは、分裂を繰り返して遺伝情報のコピーがだんだん不正確になり、「まちがった」遺伝情報、たとえばガンの遺伝情報を持っている細胞が増えてしまうことへの対処策なのだろう。

 遺伝情報を「二重螺旋」構造に載せることでコピーミスを防止する機構を持っているとはいえ、分裂による遺伝情報のコピーを繰り返せば、遺伝情報の「まちがい」はどうしても発生してしまう。その「まちがい」が生物の個体としての調和を乱し、その個体を死に至らせてしまうかも知れない。それを防止するためにコピーの回数そのものを制限してしまう。そのための仕組みとして染色体の端の部分がすり減るという機構があるのだ。

 それによって、動物の個体は、一部の細胞が調和を乱して死に至る可能性を抑制される。そのかわり、どの個体もやがて老化して死んでいく運命を逃れられない。

 そこで、有性生殖によって遺伝情報をまっさらの状態から再出発させることで生命をつないでいく。そういう方法を動物の生命は選択したらしい。



クローン技術とのつきあいかた

 ドリーの病気は高齢の羊に多い病気だったという。もしそうだとすれば、体細胞クローンは生まれたときから細胞レベルでは齢をとっており、それが個体レベルでは寿命を縮める恐れがある。そのことがドリーの死によってかなり確からしくなったわけだ。ただし、べつに高齢の羊にだけ多い病気ではないという説もあるらしく、ドリーがなぜ死んだかの正確な検証を待たなければならないだろうと思う。

 もう一つ、クローン技術について疑問に感じていることがある。

 クローンは、生殖細胞クローンでも体細胞クローンでも、卵細胞にもともとあった「核」を抜き取り、別の細胞の「核」を入れることで生まれる。「核」には遺伝情報を載せた染色体が入っているから、あとから入れた「核」のほうの遺伝情報がクローンとして生まれた生物には伝わる。そういうふうに説明されている。

 ところが、遺伝情報は「核」だけから遺伝するわけではない。細胞のなかの「核」以外の部分「細胞質」も、あまり多くはないけれども、遺伝情報を持っている。最初からあったのと違う「核」が外から入ってきて、「核」の遺伝情報と「核」以外の部分の遺伝情報とが食い違ってしまっても、果たしてだいじょうぶなんだろうか? 私の接した範囲ではその疑問に答える情報はなかった。もちろんそれは私の接していた情報の範囲が狭すぎたためかも知れない。その可能性が大いにあることは断っておきたい。

 どちらにしても、体細胞クローン技術はまだ未完成の技術なのである。

 体細胞クローン技術が完成したときに、人間のクローンが造られたらどうなるかという議論をすることの重要性を否定する気はない。だが、体細胞クローンは未完成の技術である。ドリーが生まれたことでようやく「そういうこともできる」ということが立証されたばかりの技術であり、解明しなければならない問題はまだたくさん残っている。いまの段階では、そういうことも考えに入れた議論ももっとたくさん出てこなくてはいけないんじゃないだろうかと思う。


―― おわり ――


 ○ 清水文七『ウィルスの正体を捕らえる――ヴェーロ細胞と感染症』朝日選書、2000年 を参考にしました。