随筆のページ

シュレディンガーの猫
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第七回

創造的破壊は起こるか?

― 2003年3月 ―

 さいきん悲しかったことといえば、よく行っていた近所の立ち食いそば屋がつぶれたことである。しばらくぶりに行ってみたら、その店はなくなっていて、「貸店舗」の札が出ていた。

 チェーン店の一店で、取り立てて旨いわけでもなかった。ただ、一時期、毎日のように通っていたことがあって、店の人とは顔なじみになっていた。いつ開店したかは覚えていない。かなり以前からあったと思う。けっこうお客さんも多かったのに店を閉めてしまったのは、店の親父さんの都合だろうか、それともチェーン店を経営している会社の都合だろうか。

 そのかわりに、その近くに、スタンド形式のそば屋が新しくオープンした。これもチェーン店である。さっそく行ってみた。味は前の店よりもいいのだが、店員の態度がじつにいい加減で横柄で、二度と行く気になれなかった。

 考えてみれば、この立ち食いそば屋だけではない、その立ち食いそば屋のあった一ブロックの店は、ここ5年ほどのあいだでかなり入れ替わっている

 あやしげな安売り商品を積み上げるようにして並べている店や、自分の店で少量生産したパンがあるあいだしか店を開けていなかったのではないかと思えるパン屋など、おもしろい店がたくさんあった。半スーパー・半コンビニみたいな店もあった。夜中は閉まってしまうけれども売り場が広くて品数が多く、それなりに重宝していた。そういう店が軒並みなくなってしまった。あとにはいろんなチェーンの飲食店が入ってきている。

 そういう「なんかおもしろそう」な店を、私は冷やかしでは見ていても、ちゃんとした顧客になることはなかった。「お客さん、冷やかしですかにょ?」と言われてあやしげなビームを浴びることもなかったが(→わからない人は『デ・ジ・キャラット』Vol.1を見るにゅ)、そのかわり店がつぶれてしまった。売れるのか売れないのかわからない、というより、いかにも売れてなさそうな、でもなんかおもしろそうな店がつぶれて、それと比べれば無個性なチェーン店が増えている。いや、無個性なチェーン店でも、サービスがよくて味もよければ大歓迎だから、そのこと自体には不満はないんですけどね。



デフレ下では「創造的破壊」は起こらない?

 そんな折りに、いま「インフレターゲット政策」導入論の急先鋒の役割を担っている岩田規久男氏が編集を担当した『まずデフレをとめよ』(日本経済新聞社)を読んでいると、「デフレ下では創造的破壊は起こらない」という話が出てきた。

 「創造的破壊」というのは、古くてダメで役に立たないものが破壊されて、新しい時代の役に立つものがその替わりにいっぱい出てくるという過程のことだ。経済学者シュンペーターが言い出したことらしい。デフレ古い産業が廃業に追いこまれ、次の時代の新しい産業がこのデフレのなかから生まれてくるという期待がある。その期待はまちがいだという話だ。

 岩田氏は、そのインフレターゲット論を読めばわかるように、徹底した貨幣論者である。岩田氏は、「デフレ」や「インフレ」を、経済全体の「構造」の問題ではなく、貨幣をめぐる現象として捉える。だから、貨幣をめぐる「インフレターゲット」政策によってデフレに対処するのが有効であるとするわけである。

 なお、「デフレ」はかんたんに言うと「ものの値段が全体として下がりつづける現象」、「インフレ」は反対に「ものの値段が全体として上がりつづける現象」で、よく言われているようにいまは「デフレ」である。「デフレ」だとものが安くなっていいかも知れないが、そのぶん会社は儲からなくなるので経営は苦しくなる。会社の経営が苦しくなると、会社で働いている人は給料が下がったり失業の危険にさらされたりする。

 また、岩田氏は、一方では規制緩和を強く主張する新古典派系の経済学者だ。規制を緩和して経済が本質的に持っている「神の見えざる手」の機能を発揮させるのが社会にとっていちばんよく、それ以上の社会政策はむしろ経済のあり方をゆがめるという発想だと考えていいと思う。

 この本の著者たちも、いちいち確かめたわけではないけれども、やはり同じように新古典派の貨幣論者という傾向を持つと言っていいだろう。

 そういう経済学者が、「デフレによって効率の悪い産業が淘汰され、新しい時代を担う産業が興ってくる」という考えに正面切って反対を表明しているのが、私には印象的だった。

 不況とかデフレとかいう経済的な困難によって非効率的な産業が敗れ去っていくのに異を唱えるのは社会政策論者だけだと思っていたからだ。社会政策論は、社会がうまく動いていくためには自由市場に任せていてはだめで、適切な社会政策が必要だと考える。「市場で敗れ去っていくもののなかにも社会には必要なものがある」というのは社会政策論に典型的な考えかただ。

 この社会政策論はいまのところあんまり旗色がよくない。1990年代末に、小渕内閣が、もともと財政が苦しいところにさらに赤字を積み上げてまで社会政策として公共事業を展開した。それなのにけっきょくいまも不景気が続いている。社会政策にはごく限られた経済的効果しかないじゃないかというわけだ。社会政策論者には「せっかく経済がよくなりかけたところで「構造改革」などと言ってその流れをせき止めるからまた経済が悪くなるんだ」というような言い分があるのだが、このご時世ではやっぱりなかなか多数意見にはならない。

 それに、「社会のため」と称していろんな利権が発生し、採算のとれなさそうな高速道路を造ったり、車があんまり通らないトンネルを掘ったり、高給役人の「天下り」先のポストを拵えたりするのに「社会のため」という理由が使われたりしたことが、社会政策派をいっそう不利な立場に追いやっている。

 私自身は経済の難しいことはわからない。というより、経済のかんたんなことも十分にはわかっていない。だから私が貨幣論を支持するか社会政策論を支持するかと言われても立場は決められない。ただ、経済への効果がどうであれ、人間が社会で暮らしていきやすいようにやらなければならない社会政策はあるはずだと私は考えている。その点では社会政策論に近いかも知れない。



発展には「へん」・「むだ」・「失敗」が必要だ

 さて、貨幣論系のインフレターゲット論者がデフレ下で「創造的破壊」は起こらないと主張する理由は、かんたんにいうと、デフレのもとでは、「破壊」は起こっても「創造」している余裕がないから、ということになる。

 つまり、デフレで経営の環境が深刻になると、たしかに古くて効率の悪い産業は生き延びることができなくなる。だから「破壊」のほうは起こるのだ。

 ところが、「創造」するためには、新しいものを作り出し、それを産業として軌道に乗せるための余裕が必要だ。しかしデフレでは産業を経営する環境が厳しい。だから、新しい技術やアイデアが出てきても、それを産業として成り立つところまで経営を成長させていくことがなかなかできない。それよりはすでに経営を成り立たせている大きな資本を持った既存の会社のほうが有利だ。デフレの下では、新興勢力の経営が苦しいだけに、大会社が新興の「ベンチャー」よりも圧倒的に有利になる。だから、デフレでは「創造」のほうが起こりにくい。数量的分析に基づく議論らしいが、大ざっぱに言うとそういうことらしい。

 うちの近くの立ち食いそば屋とその一角の店を見るかぎり、そうなってるよなぁ、っていうのが感想である。多様な店は姿を消し、大資本系のチェーン店がその後の場所を占めている。もちろんいい店もあるんだろうけど、全体に質が上がっているかというとそうとも限らない。

 「バブル」を礼賛する気はない。でも、「バブル」の時代にはいろいろとへんなものが生まれてきて、楽しい時代だったことは覚えている。そういう「へんなもの」はデフレですっかり姿を消してしまった。

 もしかすると、「へん」で「むだ」に見えるものがなくなったことがあるいは「質実剛健」になったように見え、だから「質実剛健」という考えかたが好きな日本の国民はデフレに危機感を持たないのだろうか? すくなくとも、「バブルっぽい」のと「デフレっぽい」のでは、自分の給料が格段に減ったり自分が失業の危機に直面したりしないかぎりは、「デフレっぽい」ほうが好きという一面が日本人の「国民性」にはあるようには思う。

 だが、たぶん「へん」で「むだ」と思える部分から、新しい技術やアイデアが出てきて、産業として確立するのだ。

 アニメとかゲームとか、あるいはそもそもマンガだって、もともとは日本社会では白眼視されていた。「まとも」な大人からは、「あるからしようがないけど、できればないほうがいいもの」と見られるのが普通だったと思う。私は、子どものころ、マンガを読んだりアニメを見たりするのは「悪」だと教えられてきた。それを忠実に守ったために、かえって20歳をはるかに過ぎてから一挙にオタク化してしまったというのが幸いなのかどうかは知らない。あんまり幸いではない気もする。

 私のことはともかく、日本の「マンガ」は世界でも独自の地位を確立し、アニメやゲームも日本が世界に誇る産業になっている。これも喜んでいいのかどうか? すくなくとも、こういう産業の携わる人たちは、一部のスターを除いて「先端産業」の従業員とは思えない劣悪な条件で働いているわけだから、それが改善されないかぎり喜ばないほうがいいとは思う。思うけれども、とにかく、社会のなかに「なくてもいい」とか「ないほうがいい」と思われていた部分が、国際市場での日本のステータスの一部分を支えているのは確かだ。

 また、「ナノテクノロジー」の分野で注目されている「カーボンナノチューブ」というものがある。これは日本で発見された。しかし最初からどういう産業で利用できるかを決めてかかって発見したものではない。実験で炭素の性質を調べていたら見つかったものだ。薬品の量を間違えるなどという「失敗」がノーベル賞につながる発明の基礎になったこともある。

 「へん」で「むだ」で「失敗」ならばなんでも豊かな可能性があるなんてことはない。その大半は発展のために役に立たないものなのだろう。けれども、「へん」なものや「むだ」なものや失敗作を最初から許容しない社会からは、たぶん新しい技術やアイデアは生まれにくく、新しい産業も確立しにくいのではないだろうか。

 で、このデフレのおかげで、ますます「へん」なもの・「むだ」なもの・「失敗」しているものが存続しにくくなっているように私には思える。これでほんとうに「創造的破壊」が起こるとは、やっぱり私は思わない。

 それよりは凡庸で画一的なものが幅をきかせるだけの社会になってしまう可能性のほうが大きいと思う。


―― おわり ――