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シュレディンガーの猫
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第八回

芭蕉庵跡と芭蕉記念館

― 2003年3月 ―

隅田川の情景(48KB)

 深川の芭蕉庵に行ってきた。俳人 松尾芭蕉 が、「奥の細道」の旅に出発する前に住んでいた家である。

 「奥の細道」の旅に出る前に芭蕉はこの家を引き払い、そのとき、この家について

 草の戸も住み替る代ぞ雛の家

 くさのとも すみかわるよぞ ひなのいえ

の句を残した。

 「草の戸」というのが、草のいっぱい生い茂った家なのか、草葺きの家のことなのか、私にはよくわからない。どちらにしても飾り気のない粗末な家を表現したことばだろう。けれども、べつにこの家が特別に荒れ果てた粗末な家だったのではなく、旅に生きる男性の俳人・詩人のすみかとして、芭蕉は自分の家をそう表現したのだと考えてみるのがおもしろいと私は思う。旅に生きる詩人は、いかにも定着してますって感じの堅固な家に住んでいるより、やっぱり「草の戸」に住んでいるほうが似合うだろうって。ところが、そのあとに引っ越してきたのは女の子のいる一家だった(ただし、註釈書『菅菰抄』によると、芭蕉が引き払ったあとの空き家を借りたのは雛人形屋さんで、その家に売り物の雛人形を置いていたのだという)。で、ちょうど春だったので、お雛様が飾られてその家は華やかな「雛の家」になった。住む人が変わることで、同じ家なのに「草の戸」が「雛の家」になる。その変化を「住み替る代ぞ」と表現した。「住み替る」のは人なのに、かたちのうえでの句の主役は家で、なんか軽いミスマッチがある。で、ほんとはやっぱり人の世(代)のことを描きたいんだろうな、と思わせる。このへんが、おもしろい、というか、味わいのあるところなんだろう。

 俳句というのは「俳(誹)諧(はいかい)連歌の発句」を約めていったことばで、「俳諧」というのはおもしろいというような意味なんだから、俳句というのは最初は何かの「おもしろみ」の感じられるものなんだろうと思う。有名な

 閑さや岩にしみ入蝉の声

 しずかさや いわにしみいる せみのこえ

にしても、「岩に声が滲み入るか?!」というツッコミがあって、はじめて趣深さとか味わい深さとかが出る。最初から「趣」や「味わい」をありがたがってしまっては、もしかするとこの俳句のよさはわからないのかも知れない。

 和歌にしたって俳句にしたって、おもしろがることやシャレであることが「文学」の根底にあるはずで、それを、何のおもしろみも感じることのできない「国語」の時間に習ったって身につかないよ、たぶん。逆に言うと、そういうところを「国語」とか「古典」とかの時間に教えてもらった人がいたとしたら、その人は幸いで、その人の先生は偉い人なんだろうな、などと思ったりもする。私のばあい、中学から高校にかけての国語の先生はみんないまも印象に残っているいい先生だったけれど、ただ一点、「文学とはおもしろいものだよ」ということを伝えてくれた先生は一人もいなかったと思う。

 芭蕉のことは、知識としては知っていたけれども、その生涯には何の興味も感じなかった。

 芭蕉庵のあるあたりにはじめて行ったのは大江戸線が全線開通したすぐあとぐらいだった。「清澄白河」という四文字駅名が気になって、鉄道趣味的興味で行ってみたのである。芭蕉がこのあたりに住んでいたことなど何も知らなかったし、時代劇などでよく耳にした「深川」というのがこのあたりだとも知らなかった。

 ちなみに、この四文字駅名はよくある地名併記式の駅名で、「清澄」と「白河」というこのあたりの町名を採ったものだ。そのことも行ってみてからはじめて知った。このあたりでいちばんよく知られている地名は「深川」なんじゃないかと思うが、「深川」という名の駅はない。清澄白河の北は森下、南は門前仲町だ。行政上の町の名まえとしての「深川」はあまり広くなくて、そこには駅はない。

 この清澄白河にはこんどは地下鉄半蔵門線が通ったので、また行ってみようと思っている。

 東京の下町方面を歩いていると、ジェイアール総武線で秋葉原から次の浅草橋まで行ったあたりで街の雰囲気が急に変わるように感じる。それまでが内陸っぽい東京だったとしたら、ここからは「水の町」の東京である。「内陸っぽい東京」は、台地と谷が入り組んだ、けっこう起伏の多い地形をしている。対して「水の町」の東京は平らな平原だ。小さな起伏はあっても、見通しがいい。空がぱっと開けた感じがするし、隅田川や荒川をはじめとして、堀割が縦横に走っている。江戸の下町が「水の町」だったことを思い起こさせる風景がこのあたりにはある。

 東京と一口で言っても、じつはその風景はさまざまだ。山手線より北側の関東平野に連なる広大な風景や、中央線沿線の「武蔵野の面影を残す」風景、秋葉原から神田あたりの商業地の雰囲気と、東京のなかでも土地ごとに違った風景を持っている。高層ビル群と東京タワーを描いておけば東京になるというようなものではない。東京が舞台になっている文学作品が多い最大の理由はやっぱり明治以後の文化的「一極集中」のせいなんだろうけど、東京が町ごとにいろんな風貌を持っているということもその理由の一つじゃないかと私は思っている。

 清澄白河を訪れたとき、芭蕉がここに住んでいたことを知り、なんとなく芭蕉のことに興味が湧いた。それで、こんど、もういちど訪ねてみたわけだ。

 今回は、清澄白河からではなく、総武線の浅草橋で下りて清洲橋通りに沿って南に下った。晴れた一日だったが、途中から雲が出てきた。晴れているのか曇っているのか、暖かいのか寒いのか、よくわからない。というより、その両方が溶け合わずに入り交じっているような天気の一日だった。

 途中で、山本周五郎の「柳橋物語」に出てきた「柳橋」を通る。神田川が隅田川に注ぐところにかかった小さな橋だ。いまは緑色に塗られた鋼鉄の橋になっていて、橋のたもとにお茶屋さんがある以外には、山本周五郎の小説に描かれた時代をしのぶ情景はない。じつはここで隅田川を渡っておけば芭蕉記念館には近かったのだが、そのことには気づかなかった。それで、清洲橋まで行き、清洲橋で隅田川を渡ってから北に戻った。小さい橋を渡ってまず出たのが芭蕉庵の跡という神社だ。

芭蕉庵跡(55KB)

 ここの解説によると、芭蕉庵の跡がどこかはじつははっきりしないらしい。芭蕉が出たあとに住んだのが女の子のいる一家だったのは最初に書いたとおりだが、そのあと、この芭蕉庵のあったところは武家屋敷の敷地に取りこまれたらしく、その場所がどこかを確定する手がかりはなかったようだ。

 ところが、そのあたりから蛙の置物が出土し、その蛙の置物を生前の芭蕉が大事にしていたというような話があって、その場所を芭蕉庵の跡地と定めたという。いまは小さな神社の境内で、その蛙の置物が石碑の前に飾ってある。「史跡芭蕉庵跡」と書いた石碑の前に、狛犬さんのように巨大蛙が二匹並んでこっちを向いている姿は、なんとなく人を食っているようで、なんとなく「俳諧」っぽい。

 だいたい芭蕉が蛙の置物を大切にしていたという話にどれだけ文献上の根拠があるんだろうか?

 古池や蛙飛びこむ水の音

という句があるから、蛙の置物を大切にしていたという話ができた。そういう風説のようなものじゃないかと私は感じたのだけれど。

 それに、この巨大蛙じゃあ、古池に飛び込んだらどぼぉ〜んとか音がしそうで、ちょっとこの俳句の趣と感じが違うんじゃない?

 でも、それでもいいと思うし、大名屋敷の庭のどこかに据えつけてあった蛙というより、芭蕉が大切にしていた蛙として世に出たほうが、出土した蛙もよかったんじゃないかと思う。

 ところで、蛙、陶器っぽい茶色蛙と、石っぽい白蛙と、二匹いるけど、どっち……?

 両方なのかな……?

 まあいいや。

 この芭蕉庵の跡からさらに北に行ったところに芭蕉記念館がある。入館料は大人一人100円で、入り口はいって右手の受付で切符を買うと「2階と3階をご覧ください」と案内される。

 記念館というからには芭蕉関係の資料が山のようにあるんだろうと思っていたら、案外、芭蕉自身の残したものは少ない。真筆の文書を中心にいくらかが展示されているだけだ。もちろん、貴重なものは展示していないだろうし、ほかに遺物を豊富に持っている資料館や図書館があるのかも知れないが、それにしても、有名なわりにはご本人に直接に関係のあるものがあまり残っていないんだなあというのが正直な感想である。

芭蕉記念館からの隅田川(48KB)

 それよりも、この芭蕉記念館の裏に出ると隅田川が見える。もちろんこの隅田川の景色は芭蕉の観たものとはぜんぜん違うはずである。コンクリートの護岸の向こうに高層ビルがいっぱいだ。芭蕉が見たとおりのものは、たぶんここからは一つも見えない。

 けれども、記念館の裏から隅田川の流れを見たときに、ああ、芭蕉って人はこういう場所に住んでいたんだな、と、何か納得できたように感じた。

 芭蕉という人はもちろん実在の人物である。けれども、文学の人としての芭蕉の存在感は、芭蕉自身がうたった風景のなかにいるひととしてできあがっているんじゃないかというふうに思った。古池に飛びこんだ蛙をうたった人であり、山のお寺で蝉の鳴き声が岩に滲み入るとうたった人であり、家を引き払ったらあとに女の子のいる家族が移り住んだような人であり、たえず、そのうたの場にいた人だ。そして、いまは、豊かな青い水が流れる、高層ビルと高層マンションの建ち並ぶ川の、コンクリートで固められた岸辺に、いつか知らないけど、そのむかし、住んでいたひとだ。

 自分のうたった風景と対になって、その風景のなかに必ず自分自身を思い浮かべてもらえる人になったとしたら、それは、文学人としては最高に幸せなことなんじゃないかと私は思った。


―― おわり ――


  ○ このページの執筆に際しては、 伊藤 洋 さん作成の「芭蕉DB」を参照させていただきました。