随筆のページ

シュレディンガーの猫
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第九回

二重螺旋ってな〜んだ?!

― 2003年4月 ―

 今年はNHKによるテレビ放送開始50年ということでNHKが大宣伝していたが、じつはワトソンとクリックがDNAの「二重螺旋」を発見してから50年でもあるらしい。

 どちらにしてもどうも実感がわかない。

 いや、私が子どものころにはもうテレビはあったから、テレビの放送が始まって50年と言われても、「そう言われれば、それぐらいは経っていておかしくないよなぁ」とは思う。

 けれども、DNAなどというものが50年前に発見されていたとは私にはちょっとした驚きだった。だって、子どものころ、DNAなんてことば、どこでも聞いたことなかったぞ?! 最近では「DNA」ということばはごくふつうの日常用語になったようだ。少しまえ、70歳近い人と話していて「DNA」なんてことばがごくふつうに出て来たので驚いたことがある。なんとも科学なご時世にはなったものである。けれども、十年ちょっと前には「DNA」などということばはまだそんなに日常用語にはなっておらず、「DNAって生物の授業で習ったよなぁ」と思い出す程度だった気がするのだが……気のせいだろうか?

 雑誌『科学』は、この2月号でそのDNA二重螺旋発見50周年を記念して特集を組んでいる。そのなかで、生物学者の中村桂子さんが「次の50年も主役はDNA?」という文章を巻頭言として寄稿しておられる。

 この文によると、DNAの二重螺旋構造が発見されるまえには、このページのタイトルにも名まえを借りている物理学者のシュレディンガーなどが「生命現象には新しい物理学があるのではないか」ということを考えていたそうだ。そういう模索のなかから「分子生物学」という分野が成長してきたのだという。

 生命現象には、生命以外の自然現象をつかさどる別の力や構造が働いていて、生命以外がそれをまねようとしても不可能だという思いは、科学の発展のなかにずっと存在してきたようだ。「有機物」と「無機物」という区別があるのもそのなごりである。昔は有機物は試験管ではけっして作ることができず、生命体の内部でしか作り出すことができないとされていた。しかし、それはまちがいで、有機物も人工的に合成できることがわかった。それ以来、生命現象とそれ以外の科学的現象とを隔てる垣根はどんどん低くなっていった。DNAの発見は、その垣根を最終的に取っ払ってしまう事件だったのかも知れない。科学から「生命の領域」と「生命以外の領域」という区別は消え去った。生命の領域に関わる科学について試験管のなかで実験しても何もおかしくない時代になり、「科学」の領域は一つながりになって拡がっていった。

 でも、それは幸せなことだったのだろうか?

 私はここで「現代人は科学万能主義に走って生命への畏敬の念を忘れてしまった」とか「現代人は自然のなかで生きていることを忘れてしまった」とかいう心情的な「批判」を語りたいわけではない。もちろん、突きつめればそういうところにつながるのかも知れないけれども、ここで語りたいのはそこまで突きつめる前の段階の話だ。

 20世紀の初めには、まだ「科学」は「世界をどう捉えるか」という視線と無関係ではいられなかった。「世界はほんとうは私たちがふだん感じたり考えたりしているのとはぜんぜん違う姿をしているのではないか?!」という驚きと疑いがあった。アインシュタインの相対性理論の発見などは、世界そのものへのそういう驚きと疑いなしには生まれないはずのものである。相対性理論は、「どんな速度で運動している者から見ても光の速度は一定だ」という異様な世界の姿がこの世界のほんとうの姿だと認めていて、それを基礎にできあがっている。それは、「いま自分が見ている世界の姿は、もしかすると仮の姿かも知れない」という疑い、いや、「日常的に感じている世界の姿こそにせものなのだ」という確信なしにはありえない発想である。

 量子力学も同じである。エネルギーが高い状態のものはそのエネルギーを発散してエネルギーを低くしていく傾向がある。それはわりと日常的な感覚で受け入れられる世界の姿だ。投げ上げたボールは、投げたときのエネルギーを失っていずれ落ちてくるし、熱い物体は熱エネルギーを失って冷めてしまう。プラスのエネルギーを持ったものが、エネルギーがゼロの状態に向かってエネルギーを発散していく。それは日常的にもわかる。だが、ゼロよりもエネルギーが小さい「マイナスのエネルギー」の状態というのがあったらどうだろう? この世界の物は、エネルギーがゼロになってもさらに「マイナスのエネルギー」の状態に向かってエネルギーを失いつづけるのだろうか? そうだとすると、すべての物は、ついには「エネルギーがマイナス無限大」のところまでエネルギーを失いつづけるのではないか? もしそうならないとしたら何かそれを止める仕組みがこの世界にはあるはずだ。量子力学はその疑いから始まり、そして「箱に閉じこめた猫は、箱を開けてみるまで生きていると同時に死んでいる」(これがこのページのタイトルになっている「シュレディンガーの猫」である)という奇怪な世界像を描き出すに至ったのである。

 20世紀の前半までは、科学にとって生命だけがわかっていない領域だったのではなかったのだ。科学にとって、世界そのものがまだまだ謎に満ちた領域だった。それだけに、「科学者」は「自分は世界の仮の姿にだまされているのではないか? ほんとうは世界はぜんぜん違う姿をしているのではないか?」という疑いから研究を出発させた。そして、そのほんとうの世界の姿を「知ること」(science)の最先端へと進んでいったのである。

 かくして、ドイツのライプニッツは、哲学者であると同時に、微分法の第一発見者の地位をニュートンと争う科学者でもあった。大著『パンセ』残した文学者パスカルも、同時に、たとえば気圧の単位「ヘクトパスカル」に名を残す科学者だ。日本でも、寺田寅彦は科学者であると同時に文学者でもあった。先に触れたシュレディンガーだって、量子力学で「シュレディンガーの波動方程式」を導き出した人であると同時に、分子生物学を切り開いたうちの一人だ。量子力学と分子生物学はどちらも「小さい」世界を扱う学問だが、その「小ささ」のスケールが誇張ではなくまさに天と地ほどに違う。まったく別の研究対象である。

 一人の科学者が同時に文学者や哲学者でいたり、一人の科学者が二つ以上の対象を切り開くことができたりしたのは、おそらく、「世界はほんとうはどうなっているのか?」という根本の問いの姿勢が共通していたからだ。また、その問いだけで、そのころまでは一人の人が哲学と科学の両方の最先端まで行くことができたのだ。科学の領域はまだ狭かった。

 そういう科学のなかで、「生命」という領域は、人間自身が「生命」を何ものにもかえがたい尊いものと認識しているために、比較的最後まで残った「わかっていない領域」だったのかも知れない。その「わかっていない領域」がふつうの物理学・化学で解明できることを証明したのがDNA二重螺旋の発見だったということらしい。

 世界はわりと単純な原理で語り尽くせるらしいことがわかってきた。生命現象に働く化学も、試験管のなかで働く化学も同じものであることがわかった。科学は、ニュートンがリンゴが落ちるのと惑星が太陽を回るのとが同じ原理だと気づいたときから、「世界はごく少数の共通原理で説明できるはず」という思いによって、一つひとつの壁を打ち破ってきた。そして、いまから50年前に、生命の領域もそこに含まれることになってしまったのだ。

 それによって、科学の地平ははるかにだだっ広く拡がった。科学は積年の思いを実現したのである。

 だが、それでどうなっただろうか?

 「私たちがいま見ている世界の姿はほんとうは仮の姿で、ほんとうの世界はまったく別の姿をしているのではないか」という問いが、多くの人間にとって縁遠いものになってしまったのではないか。

 たしかにそれを問いつづけている科学者はいる。たとえば、電磁気力と原子核をベータ崩壊させる力とがもとは同じものだったのではないかとか、それがさらに原子核を一つにまとめている力とほんとうは同じではないかとか、さらにはそれと重力ももともとはいっしょだったのではないかとか考えて、「電磁気力と、原子核をベータ崩壊させる力と、原子核を一つにまとめている力と、重力とは別の力だ」というこの世の「仮の姿」から「ほんとうの姿」を見つけ出そうとしている研究者はいる。小柴昌俊さんにノーベル賞をもたらしたニュートリノの研究には当初はその疑問を解決するという意図もあった。この問題を突きつめるなかで「超時空弦」理論というようなものが考え出されたわけだが、そんなものがピンクの髪の17歳の超大ボケ少女の超強運で振動して高性能の軍用宇宙船の動力源になるなんてきいたこともないなどという話は「アトリエそねっと」のページでしましょうね(ページ新設の宣伝でした)

 だが、「原子核のベータ崩壊」なんて、聞いたことがある人はいくらかはいても、それが何なのか実感をもって捉えられる人はあまりいないだろう。だいいち、書いている私が、ある程度は理屈は押さえているつもりでも、実感があるかというとそんなものはぜんぜんない。だから、そのベータ崩壊の力が電磁気力と同じかどうかなんて、そんなことを疑う意味自体がまったくわからない。

 それどころか、電気と磁気が「電磁気力」という一つの力なんだと言われても、モーターやアンテナを自分でいじくっている人以外はぜんぜんぴんと来ないに違いない。電気と磁気が同じ力だろうと違う力だろうと、私たちの生活が何が変わるわけでもない。いや、ほんとは電気力と磁気力が無関係ならば、モーターも動かないし、発電もできないのだから、たいへん困ったことになる。パソコンのハードディスクだって小さなモーターの力で回っているのだから、電気力と磁気力が別ならばそのモーターも回らず、このページを読むこともできない。このページなんかどうでもよくても、インターネットを使った仕事も遊びも暇つぶしもなにひとつできなくなってしまう。けれども、そういう日々の暮らしのなかのできごとと「電気力と磁気力がほんとうは同じものである」こととの関係は、なかなか実感として私たちに伝わらない。

 私たちにとって、生命でも宇宙でも、この世のなかのことは科学で理解できてあたりまえのものになってしまった。私たちが見ている世界の姿が「仮の姿」だとしても、それは科学者が少し科学の力を働かせてくれればかんたんに「ほんとうの姿」が見えてくるはずだ。世界が「仮の姿」しか見せていなくても、だれかに任せておけば「ほんとうの姿」は見つけ出してくれる。科学者は、国際宇宙ステーションとか、ハッブル宇宙望遠鏡とか、スーパーカミオカンデとか、CERNの超巨大加速器とかいう道具を持っているのだから、できないはずがない。

 それが当たり前だと感じるようになったことで、科学というものを、哲学とか文学とかに関わらせて考えるきっかけを私たちは失ってしまった。科学は科学者のものなのだ。哲学や文学の先にあった「生きかた」と科学はいまでは遠く離れてしまっている。だいいち、哲学や文学がもう私たちの生きかたに強い関連を持っていない。

 それが「理科離れ」として現れているのだろう。さらに、「生命」も「生命科学」のものになって、「どこかの偉い科学者がかんたんに解明してくれる」問題の一部になってしまった。だから、「生命の尊さ」を感じろといわれても、考える方法がかえって私たち自身の手もとにはないことになる。先に触れた『科学』誌では、中村桂子さんと分子生物学者の渡邊格さんが、対談で「生物学」を「生命科学」とか「ライフサイエンス」とか呼ぶことに強い違和感を表している。それは、「改革」下の官庁の横文字好き・新語好きへの反発とか、生物学が「科学」に「昇格」するように見せかけながら棚上げされてしまうことへの危機感に発しているようだが、私がここに書いた「科学」そのものの変化にも関係のあることといっていいだろう。

 私は、「いま見えている世界の姿がたとえ仮の姿であっても、科学者に任せておけばほんとうの姿がかんたんにわかるはずだ」と感じるようになれたことは、それはいいことだと思う。それは、「真夜中にビデオの残量が足りなくなったら近所のコンビニに買いに行けばいい」というのと同じで、普通の人間が便利で暮らしやすい社会になったということなのだ。またそれは社会のなかで分業が進んでいくという人間社会の自然な流れの一部分だと思う。無理やり逆転させることはできない。

 そういうことを認めた上で、「生命」っていったい何なのかを、もっと「生きかた」に近い領域でどうやって位置づけたらいいか、それを考えようじゃないか。いたずらに「科学万能の風潮」を歎いたりするより、そういうことがいま必要なんじゃないかな、などと思ったりもするのである。


―― おわり ――