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シュレディンガーの猫
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第十一回

日本語の「障壁なし」を実現する?

― 2003年4月 ―

 4月25日、国立国語研究所が外来語と和製英語の言い換え提案の第一回分をまとめて公表した。あと何回かつづけるつもりらしい。

 この報道を聞いたとき直感的に「よけいなお世話だ」と思った。

 人がどんなことばを使うかなんてえらい人に決めてもらうものではない。その人が考えて決めればいいことである。国語研が独立行政法人になって、「成果」を国民に見せないと存続が危うくなる。だから、「外来語の日本語への言い換え」などという目新しくもない企画を、それも何回にも分けて行うという陳腐なこと思いついたのではないか。そんな邪推もしたくなった。

 ところが、その後、国語研のホームページを見ると、けっこういいことが書いてある。

 そもそも,どんな言葉を使うのが適切かということは,話し手・書き手の意図,想定される聞き手・読み手,話題,使われる環境など,その時々のさまざまな条件によって変わります。

というのが、今回の企画を推進した国語研の基本認識のようだ。この認識には賛成である。

 ところが、そうだとしたら、使うことばをどう選ぶかを、なぜ国語研のような「えらい人たち」に決めてもらわなければならないのかがよくわからない。ことば遣いは自由市場の原理で淘汰していくことができるはずである。

 たとえば商品を説明するばあいを考えてみよう。ある画期的な商品の説明として、難しい専門用語を外来語で書き連ねても、その商品のどこが画期的なのかが消費者に伝わらなければ、その商品は売れないだろう。逆に、その商品が売れれば、その外来語は消費者に受け入れられたことになる。人びとにわかりにくい外来語を使いたいのであれば使いつづければいい。その場合には、商品を売るための別の努力が必要になる。努力もしないで「外来語を使って正確な説明をしているのになぜ売れないのだ?!」と嘆いても、市場では相手にされない。

 ただ、市場原理がすぐには働かないばあいがある。公共機関や寡占の度合いの高い業界のばあいがそうである。新聞やテレビのようなマスメディアは、人びとに与える影響が大きいわりには寡占の度合いが高い。そういうものに対して、国語研のような「えらい人たち」が提案することにならば、意味はあると認めてもいい(しかし、放送・新聞業界には、どんなことばを使ってよくてどんなことばは使わないほうがいいかを決めた用語の指針がすでに存在しているのではないだろうか。しかも、たぶんそれはこの「提案」よりずっと詳しいものだろう)

 今回の「言い換え語」を決める際には60歳以上の人たちに対するアンケートの結果を参考にしたという。60歳以上の人たちを「外来語弱者」ととらえ、自由競争の市場原理の下では「弱者」が損失をこうむるということに配慮したのだろう。たとえば、国語研は、「ケア」を受けるご老人たちに「ケア」ということばが必ずしも理解されていないという例を挙げている。これはけっこう深刻な問題かも知れない。そういう「弱者」対策は、国語研のような公共性のある機関の仕事の一つではあるだろう。

 そのような「外来語弱者」にも理解でき、そうでない人たちにも理解できるようなことばを選んで、今回の「提案」は作られたらしい。それによって障壁なしを実現しようという意図なんだろうと思うんだけど――わかる? 「バリアフリーを実現しよう」を今回の「提案」にしたがって言い換えたわけだけれども。ちなみに私にはわかりにくくなったように感じられる。それだったら「外来語を使うことから来ることばの障壁をなくそうという意図だ」と言い換えるほうがいいと思う。

 どういうことばを使えばいいかが国語研のいうように「さまざまな条件によって変わる」のならば、その言い換え語を一つに絞ることの理由がわからない。どういうことばを使えば適切かは、その場面がどんな場面かとか、どんな人に対して語っているかとかいうことで決まるというならば、言い換えの例は一つに絞らないほうがよい。ところが国語研は言い換え語を具体的に一つに絞っている。基本認識と実際にやっていることとのバランスが悪い。私はそう感じている。

 とりあえず「日本語を使っている人たちにわかりにくい外来語・和製英語」を並べて、「こういうことばは日本語としてはこなれていないので、使うときには注意しましょう」と発表しただけで十分だったのではないかと私は思う。「どのことばが受け手にはわかりにくいか」という調査をやっただけで十分に意味があるのだから。

 たとえば、「日本語として定着していない外来語の使用を避けてバリアフリーを実現しよう」といいたい人に対して、「バリアフリー」はこなれていない表現だと注意を促しておけばそれで十分なのではないか。そういう指摘を見れば、その人は「日本語としてこなれていない外来語を使うと、意味が十分に伝わらないことがあるので、使うときには十分に注意しよう」と言い換えるかも知れない。そのきっかけを作ることで、十分に国語研の役割は果たせているのではないだろうか。

 なお、「バリアフリー」については、当初は「障壁除去」とするつもりだったらしいが、それに対して「障壁を除去することよりも障壁がない状態が本来の意味だ」という批判があったために「障壁なし」にしたらしい。けれども、「バリアフリーにする」という使いかたをするのならば「障壁を除去する」のほうがしっくりくるわけで、必ずしも言い換え語を一語にする必要はなかったと思う。

 国語研も、ある種の外来語は広い概念を表現しているので、そういうことばについては「場面によって言い換え語を適切に使い分けることも効果的です」としている。そのとおりだと思う。だったら、日本語としてこなれていない外来語・和製英語のすべてに言い換えのことばを指定する必要はない。また、すべてのことばで言い換え語を一語に絞る必要もなかった。言い換え語を一つに絞って例示する必要があることばだけ一つに絞ればよかったのだ。なぜすべてのことばで言い換え語を一つに絞る必要があったのかが私にはわからない。

 また、今回の「提案」では、「病気を治療するときに、病気についての情報を医師が患者に十分に説明し、また、どういう治療をするかについても説明したうえで、患者の同意を得てから治療を行う」というような意味の「インフォームド・コンセント」や、「病気の治療に際して、ほかの医師や病院でも診断してもらう、その診断のこと」を意味する「セカンドオピニオン」にも言い換え語を提示している。

 だが、なぜ「インフォームド・コンセント」や「セカンドオピニオン」が日本語として定着していないのか。それは、「インフォームド・コンセント」を心がけることや「セカンドオピニオン」を求めることそのものが日本の医療現場に定着していないからではないか。自分のことしか考えていない医者や、自分の診断に自信がないのをえらそうな態度でごまかしている医者にとっては、「インフォームド・コンセント」や「セカンド・オピニオン」という考えかたが「こなれた日本語」にならないほうが有利だろう。そのことは認める。

 しかし、それを「納得診療」とか「第二診断」とかいう一つのことばに言い換えるように定めることで、どれだけその医療現場の実態が変わるのだろう? 「インフォームド・コンセント」や「セカンドオピニオン」は日本語としてこなれていないと注意を促しておけば国語研の仕事はそれで十分ではないか。あとは一人ひとりの医師が改善を心がければよく、患者も医師にどんどん疑問点を質すように心がけ、そしてどうしても必要なときには厚生労働省が口を挟めばいい。「インフォームド・コンセント」や「セカンドオピニオン」が現場に定着すれば、それを表現することばも自然にまとまってくるだろう。

 日本語に同じような意味を表すことばがあるのに、なぜわざわざ外来語が使われるかということも考える必要がある。

 もちろん、それにはいろいろな理由があるだろう。企業や役所が、自分たちの新商品や新しい事業についてたんに注目を集めたいために、新奇な外来語を使うこともあろう。もちろん新奇な日本語を使うこともあるが、そういう日本語はすぐに使われなくなる。外来語のほうが「何か意味していそう」なので、新奇なことばを使うのならば外来語が有利な面もあるかも知れない。

 そういうふうに「わざとやっているばあい」は除くとしても、その概念に最初に出会った企業や役所の部局の担当者が無能だったり怠慢だったりしたために、適切な日本語表現を思いつかずにカタカナにしただけで世のなかに流してしまったという例もあるだろう。また、最初は専門家の社会にしか通用していないことばで、意味があいまいになるのを嫌った専門家が原語のままで使っていたものが、その専門技術が一般社会に行き渡ったことで専門家用語としての外来語が世のなかに広がってしまったという例もあるだろう。

 だが、意味を十分に担わないことばは、一時は流行することがあっても、すぐにすたれてしまうのではないかと思う。似たような意味を表現できる日本語の在来のことばがあるのに外来語が定着しているのは、それが日本語の在来のことばでは表現できない意味を担っているからだと考えるべきではないか。

 たとえば、国語研は「プレゼンテーション」ということばの言い換え語として「発表」を指定している。しかし、国語研の資料にあるように、「プレゼンテーション」とは「企画や発案などを分かりやすく発表すること」である。相手を前にしてわかりやすく説明することがプレゼンテーションの条件だ。つまり、プレゼンテーションを受ける側にとってわかりにくいものは「プレゼンテーション」失格である。日本語では、「プレゼンテーション」は、それが「プレゼンテーション」と言えるのかどうかを決める主導権が受け手にあることばなのだ。「発表」ではその微妙な意味が抜け落ちてしまう。むしろ、「発表」では、発表する側が主体であるような印象を与えることが多いだろう。

 また、「安全」を意味する「セキュリティー」が特別なニュアンスを持って使われるのは、日本社会での「安全神話の崩壊」という事態と無関係ではないだろう。「安全」なのがあたりまえと考えられてきた社会で、特別に注意を促すためには、何か別のことばが必要だった。そういうことばとして英語の「セキュリティー」が使われるようになったのではないだろうか。だとすれば、将来、日本社会で人びとが「どんなものも最初から安全だと思っていてはいけない」という認識が定着すれば、自然に「セキュリティー」と「安全」は一つになるだろうし、その場合には言いやすい「安全」のほうに収まる可能性が高いのではないかと思う。ついでながら、「セキュリティーに関する情報」は、「安全に関する情報」よりも「危険度に関する情報」と表現したほうが適当だと思うので、「セキュリティー」の言い換え語を「安全」に一本化できるかは、私には疑問である。

 さらに、「外来語弱者」への配慮が必要だとしても、すべてのことばでそうする必要はないと思う。

 たとえば、現状では、「インターンシップ」ということばに縁がある人は、60歳以上の人にはあまり多くなく、10〜20歳代の人に多いのではないだろうか。「アウトソーシング」だってすべての人が理解しなくてもいけないことばだとは思えない。それに、昔から「アウトソーシング」を実行しているような現場ならば、すでに「外注」とか「(仕事を)投げる」とかいうことばが定着しているだろう。もちろん、意味もなく、または「外来語で言ったほうがかっこいい」というだけで、「体験実習」を「インターンシップ」と言ってみたり、「外注」を「アウトソーシング」と言ってみたりするのはやめたほうがいいと思う。けれども、「インターンシップ」や「アウトソーシング」というようなことばに、いま言っているのをやめさせるほどの切実さがあるかどうかは私には疑問だ。

 最後に、国語研の書いていることを読むと、外来語というのは基本的にわかりにくいことばであり、ない方が好ましいととらえているように読める。それに対して、日本語の在来のことばや漢語にはそういう意識を向けていない。

 けれども、日本語を使う多くの人にとってわかりにくいのは外来語だけではない。日本語や漢語のことばのなかにも、日本語を使う多くの人にとってわかりにくいことばはある。現在では、「平衡」と言うよりも「バランス」と言ったほうがわかりやすいだろうし、「旋律」より「メロディー」がわかりやすいだろう。「隧道(ずいどう)」では何のことかわからない人がいるかも知れないが、「トンネル」ならばわからない人は非常に少なくなると思う。

 さらに言えば、わかりやすい単語しか使っていなくても、どうにも意味の取りにくい文とか、何を言っているのかまるでわからない文章とかいうものもある。どんなになじみのない外来語でも、その外来語を日本語の在来のことばや漢語に言い換えることで、文や文章が読みにくくなったり、意味がはっきりしなくなったりするのなら、言い換えはやめたほうがいいだろう。国語研のホームページの文章を読むかぎりでは、そういうことへの配慮はあまり見られないように思う。

 私は、日本語としてあまりこなれていない外来語を調査し、そういう外来語を使うことについて注意を促したことについて、国語研の取り組みを評価したいと思う。けれども、そのすべてについて言い換え語を一語に絞って指定したことは私には評価できない。もちろん、一語に指定しないと混乱が起こるというようなことばは一語に指定すればよい。しかし、そうとも限らないことばにまで一語の言い換え語を指定するのは、あまりにも硬直したお役所的対応だと思うし、ことばへの干渉のしすぎだとも思う。

 ことばとは移り変わっていくものである。だからといって、公的な場所でどんなことばでも自分勝手に使っていいわけではない。しかし、「えらい人たち」の組織が、その公的な場所で使われることばをあまりにも細かくコントロールできると考えたならば、それも正しい考えではないと私は思う。


―― おわり ――