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シュレディンガーの猫
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第十二回

「よいインフレ」と「悪いインフレ」

― 2003年5月 ―

 前回のこの欄では、国立国語研によるわかりにくい外来語の言い換えの提案という題で文を書いた。ところが、この「わかりにくい外来語」のなかに、日本語を使う人たちの多くが意味をきちんと理解していないであろう外来語が抜けていたように私は思う。それは、マスコミでも毎日と言っていいほどよく見かけるのに、実際には、多くの日本語使用者にその意味が十分に伝わっていないであろうことばだ。

 そのことばとは、デフレインフレ、およびその「派生語」である「インフレターゲット(または「インフレターゲティング」)である。

 今回のトップページにはデフレとは「値段が下がりつづける状態」と書いた。じつはそれでは不十分で、「多くのものの値段が全体として下がりつづける状態」であると私は理解している。経済学的に厳密な定義は知らないけれど、普通に暮らしている人間の経済生活ではそれで十分だろうと思う。逆に、インフレとは、「多くのものの値段が全体として上がりつづける状態」である。

 そして、中央銀行(日本のばあいは日本銀行=日銀)が意識的にある程度の「多くのものの値段が全体として上がりつづける状態」を作ることを目指して行う金融政策が「インフレターゲット」政策である。

 いまの日本経済の諸悪の根源は「デフレ」であるように言われる。とくに「インフレターゲット」政策導入論者はしきりにそう言う。一方で、「インフレターゲット」政策導入に反対の論者のなかには、「デフレはしかたがないのであって、私たちにはデフレと共存していく心構えが必要だ」ということを言う論者もいる。しかし、その論者たちだって、「デフレはとてもいいことだからもっともっとデフレを進めよう」などとは言っていない。「デフレはよくないことだががまんしよう。デフレは解消することはできないし、無理に解消しようとするとかえって弊害が大きくなるから」――この人たちの議論の趣旨は平たく言えばそんなことである。少しまえには「よいデフレ」論というのもあったが、ここまで経済状況が悪いままだと、さすがに「よいデフレ」とおおっぴらに言うのもはばかられるようになってしまったようだ。

 ……でも、何かへんな感じがしない?

 「デフレ」は、「多くのものの値段が全体として下がりつづける状態」であるから、国語研が「言い換え語」を決めたやり方に倣うならば、それは「世のなか全体の値下がり傾向」または「値下がり傾向」と言い換えてみることができる。「正確でない」という異論はあるだろうが、国語研の言い換えだって厳密なものではないわけだから、ここは見過ごしていただくとしよう。なお、デフレには「通貨収縮」、インフレには「通貨膨張」という専門用語があるにはある。しかし、べつにインフレになったらお札が水を吸って膨張してべろーんと巨大化するわけでもないし(世のなかに出回っているお札の枚数全体が増えることを「膨張」と言っているのである)、これでは何のことやら実感が掴めない。

 「値下がり傾向」はそんなに悪いことだろうか?

 また、「デフレ」が「値下がり傾向」ならば、「インフレ」は「値上がり傾向」である。その「値上がり傾向」は、中央銀行が目標(ターゲット)を設定してまで意識的に達成しなければならないような「よい傾向」なのだろうか?

 「値上がり」と「値下がり」では「値下がり」のほうがいいに決まっているのではないか? この先、ずっと「値下がり」がつづくのならば、それはいいことなのではないだろうか? そして「値上がり」なんてないほうがいいのではないだろうか? したがって、永遠に「デフレ」がつづいた方がよくて、「インフレ」なんか来ないほうがいいのではないか。

 もちろんそんなことはない

 「値下がり」がつづくということは、消費する側にとってはいいことであっても、生産する側や、店などでサービスを提供する側にとってはそれだけ儲けが上がらないということである。私たちの多くはその生産する側やサービスを提供する側からもらう給料などの収入をもとにして生活している。儲けが十分に上がらなければ給料を払う余裕が少なくなる。だから給料は下がる。だから、「多くのものの値段が全体として下がりつづける」ということは、その社会では「多くの人の給料も全体として下がりつづける」ことにつながる。

 しかも、たんに給料が下がるだけではなく、会社の倒産とか店の閉鎖とかで給料がもらえなくなってしまう事態も起こりやすくなる。給料がもらえなくなったときの衝撃を少しでも和らげるために、消費者はおカネを温存しようとし、ものを買う費用を切りつめようとする。その結果、社会全体でものの売れ行きがさらに落ち、そして生産する側の工場や会社の儲けはさらに落ち、そのために「多くの人の給料が全体として下がりつづける」という事態がさらに進んでしまう。それぞれの人がいちいちもっともな判断で行動するために、全体としてはより悪い結果を招いてしまう「合成の誤謬(ごびゅう)」の過程である。

 デフレは、「多くのものの値段が全体として下がりつづける」だけでなく、「多くの人の給料が全体として下がりつづける」というところまでつながっている。だから問題なのだ。

 インフレの「悪」はわかりやすい。

 「多くのものの値段が全体として上がりつづける」ことは、日々、何かを買うたびに実感する。どこかの店だけで値段が上がっているならその店が悪いのだろうけど、どこの店でも同じように値段が上がっていれば、これは「世のなかがインフレだから悪い」とすぐに感じられる。

 ところが、デフレの「悪」はなかなか実感しにくかったのではないだろうか。給料が銀行口座への振り込みだとしたら、意識していないとどれだけ下がったかという実感はなかなか持てない。しかも、給料が下がったとしたら、それは「世のなかがデフレのせいだ」と感じるまえに、「こんなに働いているのに給料を下げる会社が悪い」と感じてしまうことが多いのではないかと思う。他の会社で同じように働いていくらもらえるかという比較は、ある程度のデータ収集・分析能力かある程度の人脈かが必要で、けっこう難しい。

 デフレを「悪」と認識するのはインフレを「悪」と認識するよりたぶん難しいのだ。

 「よいデフレ」論は、生活がなんとなく苦しくなったのが世のなかのデフレのせいだとみんなが感じるまえだったから、ある程度まで受け入れられたのだろう。いろいろなものが安く買えるようになり、いろいろなサービスが安く受けられるようになったことを「デフレのよい効果」として実感させるのが「よいデフレ」論の目的だったのだろうと思う。

 デフレが慢性化したいまでは、「デフレとインフレとでは、強いていえばどちらがいいですか?」とたずねても、デフレのほうがいいという答えはそんなに多くはならないだろう。でも、それでも「世のなか全体が値下がり傾向にあるのと値上がり傾向にあるのとではどちらがいいですか?」とたずねれば、やっぱり「値下がり傾向」のほうがいいという答えがやっぱり上回るのではないかと思う。

 「世のなかがデフレだからこそ値上がりなんかしてもらっては困る。値下がり傾向でも生活が苦しいのに、値上がりなんかしてもらった日にはどうやって生きていけばいいんだ!」――つまり「デフレで苦しんでいるのだからインフレなんかにしてもらったらよけいに困る」という理屈が広く受け入れられるのではないかと私は思うのだ。

 「デフレで給料が下がっている」という認識までは広がっているかも知れない。しかし、そうだとしても、じゃあインフレになれば問題は解決するという認識が広がっているかというと、けっしてそんなことはないと思う。世のなかで暮らす人には、「生産したり、サービスを提供したりする側の一員」という意識よりも、「消費者の一員」という意識のほうがおそらくずっと強い。「生産したり、サービスを提供したりする側の一員」ならばいいかげんにインフレにでもなってもらわないと困ると思うだろうが、「消費者の一員」ならばこんなときにインフレになってもらっては困ると感じるほうが自然だろう。

 小泉首相は「デフレ退治」を経済政策の基本方針に掲げたようだ。そのなかで「インフレターゲティング」政策も一つの選択肢として考えに入ってきているようにも見える。

 だが、いま「インフレターゲット」政策を執るとするならば、そのことだけで相当な悪評は覚悟しなければならないだろうと思う。

 デフレの下での「インフレターゲット」政策は、中央銀行(日本銀行、日銀)の金融政策によって、一定のインフレが起こるようにするという政策である。多くの「インフレターゲット」論者は、中央銀行が、たとえば2〜4パーセントという程度のインフレ率の達成目標を数字で具体的に示し、その達成のための手段を実行することが重要だという。そうすることで市場にインフレ期待を起こさせ、市場での取引を活発化させようというわけだ。

 「インフレ期待」というと何かいいことが起こるのを期待しているように思える。だが、「消費者」の立場から言えば、それはまさに「このままほうっておくとどんどん値上がりしてしまうから、いやでも何でも早めに買っておかないといけない」という悪夢のような事態を意味するのだ。

 ここで、かつての「よいデフレ」と「悪いデフレ」の区別に倣って、「よいインフレ」と「悪いインフレ」を区別して考えてみることは、もしかすると有益かも知れない。

 いまの時点からインフレに向かうとして、何が「悪いインフレ」だろうか?

 それはだれの立場に立つかによって違ってくるだろう。しかし、将来に不安を抱く消費者、そして現在もそれほど生活に余裕があるわけでもない消費者の立場に立つとしよう。その立場から見れば、日々の生活に欠くことのできない日用品の値段が全体として上がりつづけるようになるならば、それは間違いなく「悪いインフレ」である。しかも、そうやって日用品の値段は上がっているのに、給料や収入が上がらないとか、給料や収入が上がるのが日用品の値上がりに追いつかないとかいうことになれば、それは「もっと悪いインフレ」ということになる。

 これに対して、たとえば、日用品は値上がりせず、銀行や大会社が主として取引するような株や債券などが大幅に値上がりするとしよう。そのことで、その値上がりした株や債券を取引する銀行の収支は改善するかも知れない。また、ここ数年、悪夢のように銀行の頭を押さえこみ、銀行にカネを貸すのをためらわせている「自己資本比率」という数字がある。もともとはやばい事態が起こったときに銀行がどれだけ持ちこたえられるかを表現した数字に過ぎない。しかし、この自己資本比率を基準にして国際的な規制(BIS規制)がかけられていることの影響もあって、その数字を目標として達成することがいまでは銀行経営の目標になってしまっている。少しでも危なそうな貸し出しをするとこの比率が下がってしまうので、銀行は全体として会社への貸し出しに慎重になっている。しかし株や債券が値上がりするとこの自己資本比率はよくなる。そうなると銀行はどんどんカネを会社への貸し出しに回すようになるかも知れない。そうすると銀行や会社の「カネ回り」がよくなる。たくさん給料を払う余裕も出てくる。中小企業にも仕事がたくさん回ってくるかも知れない。そうなると業績の上がる会社が増えて、その会社の発行する株や債券は値上がりする。こうやって、日用品は値上がりしないまま経済情勢がよくなっていき、世のなか全体に「値上がり傾向」が定着するならば、それは「よいインフレ」ということになるだろう。もっともそれが行き過ぎると「バブル」になるのだけれども。

 日々の暮らしにどうしても必要な最低限のものは安い値段で手に入れられる。それに加えて、より生活を豊かにしたり楽しくしたりするものは、少し値段が高くても買っている余裕がある。そういう状態になるのがたぶん「よいインフレ」なんだろうと思う。

 また、国際的な面では、まず安いものはどんどん外国から買って、日本にいる人が安い値段で買えるようにする。そして、日本は、日本の伝統技術や先進的な技術、地理的な特色などを用いて「日本でしか作れない価値の高いもの」を作り、それを国内や外国に売る。その技術を工夫したり進歩させたりすることで、「高いけれども、それだけの値打ちがあると感じられるもの」を世界に向かって提供していく。そのことで、どんなに安いものが外国から入ってきても、それに日本の「世のなか全体の値段」が引きずられて「世のなか全体の値下がり傾向」つまりデフレが起こらないようにする。逆に日本が提供する「価値の高いもの」がいつも高く売れつづける。それによって「世のなか全体の値上がり傾向」が続く。それが日本にとってたぶん「よいインフレ」である。そういうことが可能かどうか、また好ましいことかどうかという疑問は出てくると思うが、そのことはいまは考えないことにしよう。いまはわざと極端な例を想定しているのだから。

 逆に、外国から入ってくるものに、WTO(世界貿易機関)の規制ぎりぎりの高関税をかけたり、そのほかいろいろな方法で外国から安い製品が入ってくるのを阻止して、日本国内の「世のなか全体の値段」の水準を人為的に押し上げるならば、それはやはり「悪いインフレ」になると思う。もちろん、日本の産業を育てたり守ったりしていくことや、外国から対処の難しい有害物質や害虫が入ってくるのを阻止するのも政府の役割だから、何であっても外国からの安い品物を阻止する措置をとってはならないなどと言うつもりはない。繰り返すと、ここでは経済的な面だけに注目して極端な例を想定しているのだ。

 全体として、安いものですませられるならば安いものですませることもでき、そのかわり「高いけれどもそれだけの値打ちがあると感じられるもの」を購入したり調達したりしようとすればそうすることもできるようにすることが「よいインフレ」だということが言えるだろう。つまり、ものを買ったりサービスを受けたりするときに、その選択肢が広がりながら、「世のなか全体」としては「値上がり傾向」が定着するのが「よいインフレ」と言えるだろうと思う。逆に、選択肢は狭いままで、否応なしに多くの消費者に高いものを買わせることで「値上がり傾向」を定着させるならば、これは「悪いインフレ」である。

 その「よいインフレ」っぽい生きかたが人間としていいのかどうかは別問題である。また、もし考えたいならば、そういう「よいインフレ」っぽい生きかたが日本人に合っているのかどうかということを考えてみてもいい。また、「よいデフレ」と「悪いデフレ」を強いて区別してもじつはその二つは一体だったように、「よいインフレ」と「悪いインフレ」をどれだけ区別できるのかということも考えには入れておかなければならないだろう。

 ただ、「デフレを解消する」という目標を立てる以上は、金融政策によってデフレから脱出するのか(典型的な「インフレターゲット」論の立場である)、それとも財政政策や社会政策によるのか(いわゆる「ケインジアン」の立場である)という議論だけでは十分ではない。どんな「デフレでない状態」を目指すのかということを意識して議論しなければダメなんじゃないかということをここでは言いたいわけである。その際、ここで示した「よいインフレ」と「悪いインフレ」という区別は、いちおう意識してみてはいいのではないかと思う。「デフレでない状態」としてある程度のインフレを目指すとしても、「よいインフレ」を実現する政策と、「悪いインフレでもかまわない」と腹をくくって行う政策とでは、政策のなかみが違ってくるはずである。

 そして、そのどちらの「インフレ」に行くかで、「デフレ克服」の時期の私たちの生活も大きく変わってくるはずだ。だから、政治を見ている私たちは、政府や日銀が「デフレ解消」後にどんな「デフレでない状態」を目指しているのかにもっと注目していてよいと思う。


―― おわり ――