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シュレディンガーの猫
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第十三回

統一地方選挙と政党

― 2003年5月 ―

 ※ 本文中では、政治家の名まえは、「〜候補」・「〜知事」などという肩書きをつける以外は敬称を略させていただいています。

 以前のこの欄で統一地方選挙での「無党派」現象についてとりあげた。

 そのなかで、私は、東京都知事に当選した石原候補や神奈川県知事に当選した松沢候補を採り上げて、現実に即した問題解決の方法を提唱したことがこの「無党派」候補者の勝利の要因であったと書いた。

 ところが、その後、今回の「無党派」はじつは「政党が無党派にすり寄り、無党派を装っただけのにせ無党派」だったという評論をいくつか目にした。

 今回の「無党派」候補には、「無党派」と名のりながら、実際には政党の支援を受けている候補が多かった。政党は、政党が支持していることを表に出すとかえって支持を落とすので、わざと目立たないように自分の支援している候補を「無党派」として応援した。だから、今回の統一地方選挙は、「無党派」という名を借りてはいるが、実態は従来通りの政党選挙だったというのである。

 たしかに、石原都知事は、前回と違って自民党などの支援を受けていたし、神奈川県の松沢知事も民主党や自由党の中央の支援を受けた。石原都知事の対立候補だった樋口恵子候補も民主党の支持を得ていた。政党が「無党派」候補を支持し、「無党派」の旗の下で政党が戦うという図式は確かにあった。

 私が言いたかったのは、それでも、都市部の選挙では「何を具体的にどうやるか」という提案を持ち、それを十分に有権者に説明することが、今回の知事選挙では勝敗に大きく影響したのではないかということだった。しかし、看板は「無党派」でも実際には政党の組織力で勝ったのだとなると、「不況で都市部の有権者の判断はシビアになっている」という私の見かたははずれていることになる。

 う〜む、どうなんだろう?

 選挙を語るのはけっこう難しい。

 まず選挙分析には膨大なデータが必要だ。全国の票数だけでなく、年齢別、性別別のデータも必要だし、「○○候補に投票した理由」・「投票しなかった理由」などのアンケート結果が必要なこともある。

 それが揃ったら、こんどはその膨大なデータを相互に関連づけて説明する必要がある。データが膨大なだけに、どのデータとどのデータをどういうふうに意味づけて関連づけるかの説明も必要になる。その説明が十分でないと、たくさんあるデータのなかで自分に都合のいいデータだけを結びつけて勝手なことを言ってるんじゃないかと疑われることにもなる。

 そういう厳密な分析は数量分析の専門家に任せておくしかない。というより、私は数量分析が苦手だし、あんまり好きじゃないのだ。

 したがって、私は、私自身と、私の周囲の人の投票のやり方から推測して、ここに書いたように考えただけだ。その周囲の人というのは、年齢も私の年齢と同じぐらいの人に偏っているし、性別も私と同じ男性に偏っている。そしてそのすべてが都市部在住者で、それも首都圏の都市部在住者だ。前に書いた文章で「都市部の」と断りつづけたのはそういう理由からだ。農村部、山村部、漁村部などでどんな選挙が行われているかは、そこに住んでいる方たちには申しわけないけれども、私には想像もつかない。

 ここに書くのは、そういう狭い情報源しか持たない者が、「政党」と「無党派」をめぐるあれこれ考えたことである。  今回の統一地方選挙での知事選挙での「無党派」候補の勝利は、じつは「政党」が「無党派」をできるだけ装って支持した結果として実現した。そうであったとしよう。

 では、どうして、「政党」が「無党派」を装うなんてことができたのか?

 普通に考えれば無理なはずではないか。「無党派」とは「政党」の否定である。その「無党派」を政党が支援するというのは、政党は自分を否定する者を支援していることになる。いまどきの政党は、「自己否定」などというテツガク的で小難しくて高尚な行いを戦術として採用するようになったのか?

 ……たぶんそういうことなんだろうと思うんですよね。

 政党を否定する者を政党が支援する。政党にそんな器用なことができるのは、「無党派」にはけっきょく政党を破壊する力がないと見切っているからだ。「無党派」に政党を破壊する力がないのならば、政党が政党を否定している候補者を支援しても別に損にはならない。その関係を当選後に活用すれば、支援した労力の元は十分に取れるはずだ。

 しかも「無党派」候補の側も政党の支援は欲しい。政党は組織を持っているからだ。

 ほんとうに「無党派」で選挙運動を展開するためには、その選挙運動に必要な組織を最初から作らなければならない。候補者を当選させられるだけの組織を最初から作るのは困難だ。候補者の名まえを選挙区の人に覚えてもらうだけでも、いや、たんに選挙区ぜんぶの掲示板に候補者のポスターを貼るだけでも、相当の人手がかかる。そのうえで、さらに、他の候補ではなく自分に投票してもらうように、他のどの候補よりも多くの有権者の心を動かさなければならない。それはすさまじく手数のかかることである。

 前回の石原慎太郎候補や、その前の青島幸男候補や横山ノック候補のような有名人は例外である。しかも、この三人は、それ以前に国政の場で活動していて、しかもそのことは日本の多くの人がよく知っていた。それが票を集める際に大きな要素として働いたはずだ。だれもが持てる条件でない。それどころか、政治以外の分野で全国的著名人で、しかも国政の場でも知名度があるなどという人はごく少数だろう。

 そんな少数の人でない以上はやはり組織は必要だ。そして、「無党派」で組織を作るよりは、すでに組織を持っている政党の力を借りたほうがずっと有利である。競争相手に政党組織がついているばあいにはなおさらだ。競争相手の政党組織を上回る組織力を身につけるためには、その政党と対抗関係にある政党の組織を味方につけるのがいちばん手っ取り早い。というより、たいていの場合には、それが勝つための唯一の選択肢だろう。

 政党は組織を握っているから「無党派」を支援したぐらいではその力は揺らがない。だったら、あんまりパッとしない独自候補なんか擁立するよりも、「無党派」候補を支援しておいて、選挙後の地方政治運営で見返りを求めたほうが合理的だ。「無党派」候補のほうは選挙に勝つために組織を必要としている。その組織を握っているのは政党だ。そうなれば、「無党派」と政党が組むのは、じつは合理的な選択だということになる。

 でも、いいのか、って気は、やっぱりするんだよね。

 「政党」というのは、何かの主張があって、それを政治の場で実現するための組織なのだ。それが「勝てそうだ」という理由だけで「無党派」の候補を組織的に支持していいものだろうか? やはり自分の組織から当選できそうな候補を擁立するのが本筋ではないのか? 共産党は、自分の党の単独候補では勝てないのはわかっていそうな選挙でも、けっこう頑固にその理屈を通している。ほかの党も同じようにするべきではないのか?

 さあ、どうだろう?

 ……なんて書くのは、自分でも答えに迷っているからで。

 とりあえず、「勝てそうな無党派」を政党が支持するというのは、政党にとってはあんまり健全なことじゃないと思うんだよね〜。

 というよりさぁ、今回の知事選挙って、やたらと政党の地方組織が分裂して別々の候補を応援したって現象があちこちで出たでしょう? まずいんじゃないの〜って感じ。

 状況によっては二つに分かれるぐらいは、例外的にはあるかも知れない。知事選挙がたくさんあったら、そのうちの一つぐらいは大政党の組織が二つに割れてもいいかも知れない。けれども、二つ以上に分かれてしまったり、組織が割れた知事選挙がいくつもあったりしては、さすがに「ちょっとヘンじゃない?」という気にもなる。

 このパターンは自民党の総裁に小泉(現首相)が選出されたときから続いている。

 2001年の自民党総裁選挙では、当時の自民党指導部の多数派は小泉当選を阻止できると考えていたという報道がある。けれども、各地の地方組織が予備選挙をやって、その結果を参考に投票してみたら、小泉が圧勝してしまった。

 自民党の内情がどうなっているかなんて的確な情報はなに一つ持っていないから、確実なことは言えない。外から見ているかぎりでは、党内のいろんな組織のあいだで意思の統一ができていないように見える。いや、党内のいろんな組織のあいだで意思のやりとりすら十分にできず、意思疎通の「目詰まり」を起こしてるんじゃないですか、というのが正直な感想である。

 これは民主党も似たようなものじゃないだろうか。鳩山が菅を僅差で破って代表になったと思ったら、自由党との合流問題で党内から非難を浴びせられて辞任に追いやられた。それで改めて菅が代表になった。けれども菅体制で党がまとまっているようにはとても見えない。民主党の内情についても的確な情報はないからやっぱり確実なことは言えないけど……でもまとまってるようにはやっぱり見えんよなぁ。

 けっきょく、統一地方選挙の知事選挙で「無党派」候補を推さなければならなかった大きな理由は、自民党も民主党も党内が十分にまとまっていなかったからではないか。まとまっていなかったというより、だれかがまとめて収まる状態だという自信がその党の指導部なり地方組織なりになかったからではないだろうか。

 それが国政の与党第一党と野党第一党だというのだから……あんまりいいことじゃないんじゃない、という気はするのだ。

 ただ、私は、政党の内部はいつでも一枚岩にまとまっていなければならないなどとは考えていない。むしろ、政党の内部に一つの原理か何かが隅々まで行き渡っている政党はあまりいい政党だと私は思わない。政党のなかにいろんな人がいて、同じ質問を向けられてもその政党の党員がてんでバラバラの答えを返してくるのほうが、私はまともな政党だと思っている。派閥や人脈の対立だって、ある程度はあるほうが健全だと私は思う。少数政党ならば全員が同じような傾向で凝り固まっていてもかまわないと思うけれども、多数政党は内部にいろいろとバラバラな要素があったほうがいいというのが私の考えである。

 全体に自民党が民主党より「右」だとしても、自民党に普通の民主党員よりも「左」の人がいて、反対に民主党でいちばん「右」の人の主張は自民党のなかでもけっこう「右」の人と同じ――なんてことがあっていい。

 いや、まあ、よく覚えていないんだけど、「寡頭制の鉄則」っていうのがあって、民主主義的な制度の下で選挙を戦う政党の内部は、みんながわさわさ意見や利害を主張し合う「民主主義」的な状態よりも、少数の考えで効率よく動く「寡頭制」的な状態のほうが、その政党は強いっていう一般論はあったと思うんだよね。

 でも、いつでも「寡頭制」では、けっきょくその政党は生き延びられなくなってしまうと思う。ある考えの指導部の下で選挙をやって、選挙に負けたら、それとは別の考えの党員で指導部が組織できないと、その党は有権者から見放されてしまうことになるだろう。日本で1990年代にかつての社会党が勢力を失っていった過程には、一つにはそのことがあると思う。

 日本では、1950年代後半から1980年代いっぱいまでの長いあいだ、自民党がほとんど単独で政権を握りつづけることができた。それは、自民党のなかにさまざまな考えかたの党員がいたので、ある考えかたの指導部で国民の不評を買っても別の考えかたの指導部を立ててその不評をかわすことができたからだという。このことは、1950年代後半から1980年代という条件からははずれるが、森政権の不評を、小泉総裁の登場で一挙に覆した最近のできごとを見てもよく理解できるだろう。

 このことを自民党内部での「擬似政権交代」と呼ぶ研究者や評論家もいる。この自民党の「擬似政権交代」を、ほんとうの政権交代を阻んだ「よくないもの」と見る議論も読んだことがある。

 けれども、党内で「擬似政権交代」ができるのは、別に悪いことじゃないと思う。日本の自民党長期政権時代で問題だったのは、自民党が「擬似政権交代」で政権党としての生命をなんとか維持しつづけたのに、対立政党がぜんぜん「擬似政権交代」しないで生命力を失っていったところだ。

 詳しくいうと、その当時の自民党の最大の対立政党だった社会党は、選挙のたびに過大な敗北意識を持ち、すぐに指導部の入れ替えをやった。それは社会党自身にとっては大きな指導部入れ替えだったのだろう。しかし一般国民から見ればたいしてかわりばえのしない入れ替えだった。社会党は、指導部の入れ替えは頻繁にやったが、それが劇的な「擬似政権交代」として機能しなかったのだ。当時の日本の社会情勢では、社会党が「擬似政権交代」を実現していたところで、社会党が政権を取れたとはちょっと思えない。また、社会党は「左」に寄れば共産党とぶつかり、「右」に寄れば当時の民社党とぶつかる位置にいたから、あまり大きな「擬似政権交代」もやりにくい状況にあった。それでも自民党が「擬似政権交代」していたことが政権交代を阻んだとは言えないと思うし、社会党がもう少し効果的な「擬似政権交代」を見せていれば展開は少しは違っていたかも知れないと思う。

 だから、党内にいろんな人がいてバラバラなのは、それは「党内民主主義」ってやつで、べつに悪くはないと思う。

 ただ、それでも選挙のときには、一時的であれ小さな違いは捨て置いて「寡頭制」的に指導部の下にまとまるのが政党としては健全ではないかと思う。いや、ほんとに「党内民主主義」があれば、自分の主張が通らなくても、選挙のときにはとりあえず指導部の指揮に従い、選挙が終わったら自分の主張を通すための努力を再開するっていう行動が自然にとれるはずだ。政党とはそれぐらいは仲間を信頼してできあがっている組織で、その程度の信頼感も持てないのなら、党を割るのがあたりまえじゃないだろうか。

 ……じゃないんだよね、たぶん、現状では。

 党を割ると選挙に勝てない。それは、選挙がうまいと言われた小沢一郎が党を割っても、その小沢の党がけっきょく少数政党に転落してしまったことからもわかる。だったら、信頼できない連中といっしょでも、一つの党にまとまっていたほうがいい。その党の指導部が信頼できなくても、その党のなかに考えが違う連中がたくさんいたとしても、ともかく自分の選挙のときに党の組織の力を借りられるようでないと困る。どうしても困る。

 だから、政党はまとまっていられる。

 でも、いいの? そんなまとまり方でさぁ……?

 政党は選挙に勝つための組織だし、その機能はいまの日本の大政党は十分に発揮できるのだろうと思う。しかし、政党は、同時に「選挙に勝てる人材を出す組織」でもある。そっちの機能がものすごく低下しているんじゃないだろうか?

 だから、「選挙に勝てる人材」を無理に出そうとすると、それが一人に絞りきれなくなって政党組織がバラけてしまう。また、政党の外で「無党派」と名のる有力候補が出てきたら、それを支持するしかなくなってしまう。

 「選挙に勝てる人材」を自前で出すためには、政党は「選挙に勝てる人材」を育てる組織でもなければならないはずだ。ところがそれができていない。これはいまに始まったことじゃなくて、政党は、長いあいだ、官僚出身者を担いだり、有名人を担いだり、二世や三世を担いだりしてきた。政党自身が育てたスター政治家もいることはいるが、けっして多数ではないし、政党が政治家の人材育成に熱心だったとも言えない。

 その負の蓄積が、知事選挙で自前の候補を立てられず「無党派」候補を支援したり、自前の候補を立てようとしたら地方組織が分裂してしまったりというかたちで出てしまったのではないだろうか。

 別の仮説も考えている。

 自民党に関していえば、無理して派閥をなくすから、かえってへんな分裂が表面化したんじゃないかという気もするのだ。

 1980年代ごろまでの自民党は、田中(角栄)派(その大部分が竹下(登)派に移行する)・福田(赳夫)派・旧大平(正芳)派(当時は鈴木(善幸)派だったっけ?)・中曾根(康弘)派などの派閥に分かれていた。選挙の候補者なども派閥どうしの力関係と駆け引きとで決まっていた。しかし、派閥の温床だった衆議院の「中選挙区制」が廃止され、さらに派閥がカネがらみの「諸悪の根源」視されたこともあって、派閥は1990年代に入って解体された。現在でも派閥っぽいものは残っているが、かつての派閥ほどの力は持っていなさそうだ。橋本派がかなりまとまりのいい大勢力だったのだが、小泉総裁の当選を阻止できなかったことなどから見ると、橋本派の統制力もかなり落ちているようである。

 けれども、自民党ほどの大きな組織だったら、内部に考えの違いや人脈の違いで「党員の集まり」が生まれるのは自然で、その「集まり」のあいだである程度の裂け目が存在するのも自然だと思う。かつての自民党の派閥というのは、そういう「集まり」を、中央の強力な政治家の指導力で全国規模でまとめ上げた組織だった。その派閥がないことにしてしまったから、現実には存在する内部対立を調整する決まった方法もなくなってしまって、地方組織がバラバラに分裂したりするんじゃないだろうか?

 ま、これはまだ何の検証も経ていない仮説だけどね。

 だから、結論としては、東京都とか神奈川県とかの大きな自治体の知事選挙で、大政党が自前候補を擁立できなかったというのは、いまの大政党が抱えるあまり健全じゃない面が出たのではないかと私は評価している。

 では、政党が「無党派」候補を支援したことが全面的によくないと考えているかというと、そうでもない。

 「無党派」知事は、選挙で自分を支持してくれた政党組織の思っているとおりには動いてくれないだろう。そこで必要になるのが「政治」である。そういうなかで、政党の地方支部が新しい「政治」の動かしかたを身につけていけば、あまり健全でない現在の大政党のあり方を、「地方から」変えるきっかけになるかも知れないと思う。

 これはこれで希望的観測だとは思うが、基本的に選挙だけで政治に参加する一般大衆には、政治に対する希望的観測というのは必要なものだと思うしね……。


―― おわり ――