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シュレディンガーの猫
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第十八回

中央線事件

― 2003年9月 ―

 9月28日、中央線(中央東線の東京近郊線)三鷹〜国分寺の線路のつけ替え工事で不具合が見つかり、三鷹と立川のあいだで電車が8時間にわたって止まるという事件があった。

 この事件の流れを、29日夜の時点で私が管見したかぎりの情報で整理してみた。

 私は(東京近郊の)中央線をよく利用する。だから、中央線のトラブルには何度も遭遇している。雪の日に中央線に乗っていたら電車が止まって動かなくなったこともあるし、新宿から東京方面に向かっていたら四ツ谷駅の手前のトンネルのなかで電車が止まったこともある。そのほか、人身事故とか、「お客様」が線路内に立ち入ったとか、信号系統の故障とかで、電車が止まったり遅れたりすることも多い。何日か連続で、中央線の電車が止まったり遅れたりするのに遭遇したこともあったと思う。

 だから、中央線を利用する以上、ときおり電車が止まったり遅れたりするのはしようがない、宿命みたいなものだとあきらめている。ただし、あきらめているつもりでも、実際に自分の乗っている電車が止まったり、急いでいるときに電車が遅れたりすると、やっぱり腹は立つ。

 そんなわけだから、工事の終了が遅れて電車が動かず、混乱が起こっていることをテレビのニュースで聞いたとき、率直に言って私は「あ〜やっぱりね〜」と思った。被害に遭われた方には申しわけないけれども、「中央線ならこれぐらいのことは起こっても何のふしぎもない」と思ったのである。


 中央線が止まったり遅れたりしやすいのには中央線特有の理由がある。

 そのいちばん大きな理由は過密ダイヤだろう。朝夕のラッシュ時間など、2〜3分に一本という頻度で運転している。朝の新宿駅では二本のホームにかわるがわる発着させることでこの運転間隔を確保しているのだ。この仕組みは三戸祐子さんの『定刻発車』(交通新聞社)に詳しく述べられている。

 電車や列車というのはある程度の間隔を空けないと運転できない。電車というものはいったん走り出すとなかなか止まれないからだ。

 止まれないのは何より電車は乗用車やトラックと較べて桁違いに重いからだ。

 まず、金属で重厚に作られている電車の車輌自体が重い。そこにたくさんの人が乗るわけだからさらに重くなる。そしてその重い車輌が何輌もつながっているわけだ。

 物体の運動の止めやすさは重さと速度と滑りやすさに関係する。物体の重さ(質量)が重いほど、また、その運動の速さが速いほど、物体は止めにくい。一編成の電車は重いので、同じ速度で走っている乗用車やトラックよりもずっと止まりにくいのだ。レールと車輪のほうがタイヤと道路よりもずっと滑りやすいからなおさら止まりにくい。また、止めるだけならば止められても、あんまり急に止まると乗客が車内で将棋倒しになったりする危険があるから、実際には急には止められない。

 そんな事情があるので、電車で確保しなければならない「車間距離」は自動車のばあいよりもはるかに長い。つまり、電車は一定の間隔を空けて運転しなければならず、したがってあんまり頻繁には運転できないのである。

 ところが、中央線は、新宿、四ツ谷、御茶ノ水、東京と、学校や会社が集中している場所を通り抜ける。しかも、そんな路線だから、中央線に沿って、この都心部のベッドタウンが40キロにわたって続く(新宿〜八王子間が37.1キロ)

 中央線とほぼ並行するように東京の西側に延びている各線を見ると、京王線、西武新宿線、東武東上線、西武池袋線など、どれも新宿、池袋などの山手線のターミナル駅までしか行かない。これらのターミナル近くに勤めている人はともかく、それ以外の都心部に勤め先がある人は、ターミナル駅で乗り換えなければならない。しかも、朝晩のめちゃくちゃに混むターミナル駅で、電車のなかだけでなく連絡通路でももみくちゃにされながらの乗り換えになることもある(ただし、一部、地下鉄に乗り入れている線もある)。そこへ行くと乗り換えなしに大手町近くの東京駅まで行く中央線は便利だ。だから、中央線沿線には、住宅の値段が買っても借りても高いにもかかわらず、会社勤めの人がたくさん住んでいる。その通勤客を乗せるために中央線は許容範囲ぎりぎりの過密運転をしているというわけだ。

 先に触れた『定刻発車』の表現を借りれば、都心のビルは高層化できても、鉄道は高層化できない。10階建てのビルをいくつか壊して50階建ての超高層に建て替えることはできても、線路を5階建てにすることはまずできないし、5階建ての電車を走らせることもできない。高層ビルがつぎつぎに建てられて都心のオフィスの収容人数が増えることは鉄道にそれだけ負担をかけることになる。高層化できない鉄道は運転間隔を詰めて対応するしかないのだ。

 ところが、そうやってぎりぎりまで電車を詰め込んで走らせているから、どこかで電車が止まったりすると、後ろの電車がつぎつぎに止まっていくことになる。中央線が止まったり遅れたりしやすいのはそのためだという。

 さらに、中央線の快速線のばあい、長距離列車が同じ線を走っているということも問題を複雑にしているのかも知れない。長距離列車は近郊をなるだけ速く走り抜けなければならないが、近郊電車は近郊の乗降客を乗降させるために駅に停まらなければならない。性格の違う列車が同じ線を走っているのである。

 同じような例は、首都圏に限っても、東海道線、東北本線(宇都宮線)、常磐線、東京以東の総武線などでもある。これらの線では、各駅停車線(東海道線と東北本線に対しては京浜東北線)とは別に並行して快速線が敷いてあって、この快速線を長距離列車と近郊電車の快速が走っている。しかし、中央線のばあい、快速線の電車の止まる駅が東海道線・東北本線・常磐線・総武線と較べて格段に多い。書き出してみよう。

 このうち、東北本線・常磐線・総武線で駅名を()でくくった駅は各駅停車線が並行していないので、並行区間からは外れる。また、中央線には停車駅の少ない特別快速、通勤特快、通勤快速があるが、本数が多いのはここに書いた駅に停まる快速である。ただし、特別快速の停車駅でもある三鷹、国分寺、立川では追い抜きが可能だ。また、快速はすべて東京から八王子やその先の高尾まで行くわけではなく、運転区間が短いものは武蔵小金井までなので、武蔵小金井から西は線路は少しはすく。

 中央線では、他の線に較べて、長距離の特急列車はたくさんの駅に停まる快速電車に速さを制約されながら走ることになる。逆に、快速もその特急列車に気をつかって走らなければならない。特急の発車時間に新宿を通りかかる快速電車に乗っていると、「特急が先に発車しますのでしばらくお待ちください」という放送があって、ほんとうにしばらく駅で止まったまま待たされたことが何度かあった。

 だから、間隔の詰んだダイヤで走っている快速電車のほうで何かが起こると、特急のほうも停まったり遅れたりしてしまうことになる。

 快速の過密ダイヤに、同じ線を長距離の特急列車が走っていることもあって、中央線はともかく「事故に弱い」という脆さを抱えている。しかも、中央線の便利さが利用客を多くし、利用客の多さが中央線の運転間隔を狭め、それが事故への対応能力を落としている。便利さと事故に対する脆さが比例している関係にあるわけである。しかも、近郊電車でトラブルが発生すると、それがそのまま長距離列車まで巻きこんでしまうことになる。

 どうしてこうなってしまったかというと、東京都心への一極集中が中央線の輸送力の増強を上回るペースで進んだということが大きな原因だろう。「一極集中」というと首都圏と首都圏から遠い県との関係のようだけれど、じつは首都圏内部でも一極集中の弊害は出ているのだ。バブル期に一極集中が進み、現在また一極集中は進みつつある。現在の一極集中は、東京都内でもとくに条件のいい場所への「ピンポイント」的な集中なので、そういう条件のいい場所を貫いて走る中央線への負荷はさらに高まることが予想される。


 中央線でもう一つ問題なのは電車が止まったときの対応の余地の少なさだ。

 どこかで電車が止まっても、その止まった電車をたとえば引き込み線に引っぱりこんでしまえば、ほかの電車は走ることができる。ところが、電車が詰んで走っているものだから、故障などを起こした電車を引き込み線に引っぱりこむ余地がない。また、そういう電車を引き込める線路自体が少ないんじゃないかと思う。

 引き込み線に引っぱりこむことができなくても、電車が止まっているところの前後の駅で折り返し運転ができれば、影響は小さく抑えられるはずだ。しかし現状では折り返しのできる駅が限られている。

 だから、事故が発生した区間からずっと遠いところで電車が止まったり遅れたりすることになる。東京の西郊外の駅から中央線(各駅停車)の電車に乗ろうとしたら、何かきいたこともない駅で事故が起こったので電車が止まっているという放送があったことがある。自動販売機の上の路線図で確かめたら、それは千葉県の船橋近くの駅だった。

 過密ダイヤで、何か不都合が生じたら影響が全体に及びやすい硬直したシステムになっているのに、どうして緊急対応用の設備が十分でないのか、私は疑問に思う。中央線に乗っていると、もとは引き込み線があったんだろうと思われるところで、いまは線路がはがされているような場所にときどき出会う。旧国鉄時代の末期に、債務がかさんで批判を受け、ともかく「むだ」や「遊び」の部分を徹底して削った跡だろうか。過密ダイヤで一か所で発生した不具合が全体にすぐに波及してしまうような硬直した仕組みで、その硬直した部分を幾分でも緩和するためには、ふだんは役に立たなくてもいざというときに使える「遊び」の部分があった方がいいはずだ。しかし中央線はダイヤの詰みぐあいと較べるとその「遊び」の部分が少なすぎるように思う。

 その過密ダイヤの下で不都合がなるべく生じないようにし、「遊び」が少ない分をカバーするために、コンピューターによる制御システムを精密化していく。「遊び」を必要とするような事態を避けるために、より精密にコンピューターで電車の動きや鉄道設備をコントロールするわけだ。

 しかし、その結果、中央線の列車をコントロールするコンピューターの配線がややこしくなり、今回の「配線のつなぎまちがい」を誘発したのではないだろうか。これは私の想像だが、そう想像するには理由がある。中央線を利用して、「信号機のトラブル」で電車が止まったり遅れたりするのに私は何回か遭遇している(山手線でも何度か遭遇したが)。そのことは、電車の過密ダイヤが詰みすぎていて硬直しているのをカバーするために信号機の系統も複雑になりすぎて、トラブルに弱く、メンテナンスも難しいものになってしまったことを示しているように思う。


 一極集中の速さに鉄道が追いついていかないという状況に対して、政治ができる対応はあっただろうと思う。首都への一極集中を抑制するとか、東京の郊外各地に企業が拠点を置いても都心にオフィスを置くのと変わりのない便利さを享受できるようなインフラを整備するとか、一極集中に対応して先手を打って鉄道建設を進めるための投資をするとかである。

 中国の北京など、将来、都市が膨張するのを見越して、郊外のな〜んにもない村にでっかい道路を通したりしている。ほんの短い時間で長い鉄道を敷設してしまったりもしている。それは、中国の中央集中型の社会主義体制と、貧しい農村の豊富な労働力が動員できるという事情があるから始めてできたことではある。また、北京のようなのがいい発展方向だとは必ずしも思わない。10年前に訪れたときよりも空気は悪くなっているし、10年前にはせっかく残っていた「古都」の景観もいまでは高層ビルと大型クレーンの谷間に箱庭のように残されるにすぎなくなっている。

 だが、それにしても、日本の都心への一極集中に対して、日本の政治はあまりに自由放任に過ぎないかという気がする。中国ほどでなくてもいいから、もう少し機動的・積極的に対応していってもいいのではないかと思う(もうすぐあるはずの衆議院の総選挙でこの問題を採り上げる政党がいくつあり、候補者がいったい何人いるだろう?)

 けっきょく、その政治の自由放任のツケが、中央線をはじめとする首都圏の鉄道への重すぎる負荷として回っていき、それが中央線の電車を走らせる仕組み全体を硬直した脆いものにしてしまっているのではないだろうか。


 さて、今回の、せっかくよく晴れた行楽日和の日曜日に電車が止まった事件である。

 午前3時30分前に不具合が判明した。それから運転開始予定時刻まで2時間30分である。現場がいかに焦ったかは想像するに余りある。この件に関する報道を見ても、信号系統のトラブルが判明したときにどういう対応をとるかというマニュアルがあったという話は見えない。どう対処するか迷っているうちに時間が過ぎてしまい、解決法を決められないまま焦りが募っていくという過程があったのかも知れないと思う。

 たぶん、現場それ自体は、限られた時間のなかでけんめいにベストを尽くしたのではないだろうか。

 ところが、先に書いたように、中央線は信号機の故障が比較的よく起こる鉄道だ――もし私がとくに不運でとくによく信号機故障で電車が遅れるのに遭遇しているのでなければ。それなら、新しく敷いた線路でも信号機故障が起こることは予測の範囲内だったはずだといっても、必ずしも後知恵から出た酷な意見とは言えないだろう。ついでにいうと、私はポイント故障で中央線が止まったり遅れたりしたのにも何度か出会っている。敷設したばかりの線であっても、同じ中央線のシステムなのだから、その線で起こりがちな信号機故障やポイント故障が発生することはあらかじめ考えに入っていてもいいはずだと思う。信号機が動かなかったときやポイントが動かなかったときの対処法はマニュアルにしておいてよかったのではないだろうか。

 また、28日午後の記者会見でジェイアール東日本の役員が語っていたように、現場では、原因究明を優先して結果的に回復が遅れたという問題もある。

 これは、私がこれまでに報道などで接した材料だけからは、悪い判断かどうかはわからない。もしかすると原因を究明せずに電車を走らせれば何か大きな事故を引き起こしていたかも知れないからだ。だが、一方で、とくに当面は使わなくてもいいポイントならば、ポイント切り替えは最初から断念し、原因究明もその日の終電後に回して、最初からポイントを固定しておけばよかったとも思う。実際にはけっきょくそうしたのだから。

 担当者は、現場の状況に接して、原因究明にはどれぐらいの重要性があって、それにはどれぐらい時間がかかりそうかを判断して決断したのだろうか? それとも、そんなことは考えずに機械的に原因究明を先行させたのだろうか? 考えて判断を誤ったのならその判断を強く責められないが、考えなかったとしたらそれは問題だろう。

 これも、現場レベルではみんないっしょうけんめいだったのだろうと思う。頭の上で警報機がいつまでも鳴り続ける下で、踏切が開かないのを何とかしようとけんめいにがんばっていたはずの現場の人びとの奮闘ぶりは想像するに余りある。

 問題はたぶんもう少し上の意思決定のレベルにあったのだと思う。もし、私が想像しているように、現場にマニュアルがなく、全体を見渡して現場を指揮する担当者が何の考えもなく一定のマニュアルどおりの対応しかしなかったとしたら、それは「マニュアル」の使いかたをまちがえている。

 さらに、今回、最初にニュースに接したときに信じられないと思ったのが、電車が動いていないにもかかわらず、バスの代行輸送を停止してしまったことである。

 これは、代行輸送を依頼した先のバス会社が、午前9時以降、運転手の手配がつかないと言ってきたからだという。バス会社を責めるのは筋違いだとは思うが、それでも「中央線が止まった」という重大事態になんとか対応できなかったのかという気がしないでもない。でも、まあ、ねえ。最初に書いたように、「中央線が止まる」というのは中央線沿線ではけっして特別な事態ではないし、そのたびに沿線のバス会社が特別態勢をとってきたわけでもないし、そんなことを求めるわけにもいかない。バス会社はよくある「中央線が止まった」事故の一つと考えて対処したのだろうし、それにはそれなりに理由があると思う。やっぱりバス会社の責任よりジェイアールの責任なんだろう。

 ともかく、ジェイアール東日本は、グループ企業の応援を仰いででも、最寄りの私鉄駅とのあいだのピストン輸送であっても、バスを走らせることはできなかったのだろうか。少なくともあちらこちらのバス会社に打診をつづけて「現在手配中です」という説明ぐらいはできなかったのだろうか。東京のバスといえば、有明ビッグサイトで法外に大規模なイベントがあるときに、東京中からバスをかき集めてきて東京駅とビッグサイトのあいだにひっきりなしにバスを走らせるだけの力があるのだ。まああれは都バスだからできることで、郊外のバス会社にはとてもそんな余力はないのかも知れないけれども。

 ともかく「代行バスの運転を終わらせた」ということ自体が、何も知らずに駅に来た客には「うちの会社はあんたたちがどんなに困るかなんてことには何の関心もありませんよ」というメッセージになってしまった。もちろんそんなつもりはなかったのだろうが、動いていると思っていた電車が止まっていると知らされた人びとがそう感じることぐらい、やはり考えておいていいのではないか。

 このバスの件も含めて、ジェイアール東日本の対応には、「もう少しで異常事態は終わって、無事に電車を走らせられるはずだ」という根拠のない楽観があったのではないかと感じてしまう。そして、けっきょく「もう少し」と思いつづけているうちに8時間近く経ってしまったのではないのだろうか。

 午前3時25分に信号系統の異常が発見された時点で、試運転列車が走るのが遅れるのはわかっていたはずであり、運転再開が何時間かの単位で遅れるのはこの時点で明らかだったはずだ。第二のポイントトラブルは予想できなかったとしても、この時点で、運転再開を早くとも午前9時ぐらいに設定し直して予定を組み直すことはできたのではなかろうか。実際にはそれをしないで、全体に「なるべく早く」と無理をし、現場にプレッシャーをかけ、そして結果的に作業全体が遅れてしまったのではないかと思う。

 何もかもが順調に行くと仮定して予定を立てると、その予定はほんのちょっとした突発事態で狂ってしまう。予定が狂うと焦ってしまって、その場でいちばん適切な対応が決められなくなり、さらに作業が遅れてしまう。

 中央線で電車を走らせる仕組み全体が硬直しているのと同様に、ジェイアール東日本の事故対応のしかたにも硬直した面があったのではないかと思う。もちろんその両方は密接に結びついている。鉄道の設備にしても人間の思考にしても「遊び」の部分が極端に削られているのだ。それはこの中央線の問題だけではなく現在の日本社会全体に見られる傾向である。むだは削らなければいけないのかも知れないが、一つの仕組み(「システム」)を円滑に運用するためには「遊び」の部分は絶対に必要である。その見極めなしに「遊び」の部分を削ってしまった。そのことが今回の中央線事件として現れているのではないかと思う。

 それはまさに日本社会全体の「構造」的な問題である。その「構造」問題をどう変えていけばいいかを考えるのは、そうかんたんなことではないのかも知れない。


―― おわり ――