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シュレディンガーの猫
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第二十四回

暦の現在

― 2004年1月 ―

暦の性格――人びとの生活の都合と政治・宗教の都合

 日本では冬が年の変わる季節だ。現在の新暦でも旧暦でも冬のあいだに年が変わる。

 なぜ年の初めは冬なのか? 農業社会ではちょうど農作業が途切れる時期だからだろうと思っていた。作物を植え、育て、収穫するというサイクルの途中で年が切り替わるより、その作業が終わったあとで年が終わり、次の作業が始まる前に年が始まるほうが区切りよく感じられる。農作業の途中に年が変わると、年越しの行事が忙しい時期に重なって落ち着かない。それに、作物が育つサイクルと年のサイクルとが一致していたほうが気もち的にも楽だろう。

 そういう要素はたぶんあるだろう。しかし、調べてみると、広く使われている暦は民間から自然発生的に生まれてきたものではない。現在まで記録として残っている暦のほとんどは宗教や政治の都合で編成された暦である。人びとの生活から直接にできあがってきた暦というのはあまりないように思う。

 もっとも、古い時代に現在にまで残る記録を編集したのはほとんどが宗教勢力や政治権力だから、民間で行われていたものごとの記録よりも、宗教や政治の都合で編集された記録のほうがはるかに多く伝わっている。暦もそういうもののうちの一つだ。もしかすると、いまは残っていないけれども、政治や宗教に縛られない民間の自然発生的な暦が使われていた時代や地域も広かったのかも知れない。だが、古代以来の「文明」世界について見れば、そこで使われてきた暦は、民間から自然発生的にできてきた暦ではなく、宗教勢力や政治権力が編集した暦のほうである。

 だが、一方で、暦は人びとの生活に直接に関係するものであるだけに、人びとの生活と無縁に暦を定めようとすると、人びとに無視されて暦が意味を持たなくなってしまうこともある。

 たとえば、18世紀末のフランス革命のとき、革命政府は、キリスト教からの社会の解放を唱えて暦を作り直した。月数は12か月にしたが、週は一週間10日にして、日曜日を廃止してその10日の最後の日を休日にした。日曜日はキリスト教の祭日だったからである。なぜ10日に一度かというと、フランス革命は「10」とその倍数を聖なる数のように扱い、十進法を革命の「合理」精神の象徴のように使ったからである。しかしこの10日に一度の休みは社会にはまったく定着しなかった。人びとは革命政府の下でもやはり日曜日に休みたがったのである。フランス革命暦では、やはり古い伝統に月名が左右されることのないように、月名に気候やその時期の風物を採り入れ、「芽月」とか「風月」とかいう名まえを導入した。より普遍的な月名を目指したのだろう。しかし、フランス革命暦はまもなく廃止され、その月名は、「熱月(テルミドール)反動」(1794年)とか「霧月(ブリュメール)18日クーデター」(1799年)とか、その名まえを聞いただけで「フランス革命期の事件だな」とわかるような固有名詞の一部としてしか残っていない。ソビエト連邦でも、一週間を5日にして、そのうちの一日を順番で休むという仕組みを導入したことがあったが、やはり受け入れられずに廃止された。フランス革命政府やスターリン体制確立期のソ連政府のような絶対的な権力を握った政権でも、人びとの生活に定着した生活習慣とは大きく異なる暦を押しつけることには失敗したのである。フランス革命政権下で制定されたメートル法のほうは世界に普及して定着していることと較べると、政治権力が暦に手をつけることの難しさがよくわかる。

 暦というのは、宗教勢力や政治権力の都合と、その暦を使う大多数の人びとの都合とのバランスによって成り立ち、維持されてきた。宗教勢力や政治権力は自分たちに都合がいいように暦を定めて運用しようとしたが、人びとの生活の都合からあまりにかけ離れたことをやると社会から拒絶されてしまう。しかし、うまく行けば、その宗教や政治権力にとって意味のある考えかたや習慣を人びとの生活の一部として受け入れさせることもできる。クリスマスや復活祭を祝う習慣を定着させてしまえば、その由来を説明するためにキリスト教の教義が持ち出されることになり、それを通じてキリスト教の教えをある程度は社会に定着させることができる。


太陰太陽暦

 暦がこのような性格を持ったのは、暦を作るのにだれの目にも明らかな決定的な基準が存在せず、何通りもの暦を作ることができたからでもある。どこの社会でも暦の基準になるのはたいていが月の動きと太陽の動きだった。太陽の動きというのは天動説的に言った表現で、地動説的に言えば太陽の周りの地球の動きの表れである。もし地球が太陽の周りを回るのが正確に360日で、その間に月がきっちり12回だけ地球の周りを回るのならば、暦の作りかたはかなり単純になっていたはずだ。ところが、実際には、地球が太陽の周りを回る周期(太陽年)は365日5時間48分45秒ちょっとで、月単位で割り切れないのはもとより、日単位でも割り切れない時間である。月が満ち欠けを繰り返す周期(朔望(さくぼう)月)も29日12時間44分3秒足らずで、これを12回繰り返しても354日8時間48分36秒弱にしかならず、しかし13回繰り返せば383日21時間32分39秒弱となり、端数が出てしまう。どこかで端数を調整しなければならないが、端数のやりくりがうまくついて、しかも人びとにわかりやすい調整のしかたは何通りも出てきてしまう。そこに政治権力や宗教の「つけいる隙」ができたわけだ。

 たぶん、民間で自然発生的に生まれてきた暦があるとすればそれは太陰太陽暦だっただろう。私たちの旧暦がこの太陰太陽暦である。これは、月の満ち欠けで月を決めて一か月が29日の月と30日の月を作り、一年の長さを12か月にしたり13か月にしたりして調整することで、季節と月とがずれないようにしていくというものだ。

 どう調整すればいいかというと、19年のうち12年を12か月の年とし、7年を13か月の年とすればだいたい調整がつく。この方法をメトン法という。メトン法の19年は6939日16時間31分35秒ちょっと、地球が太陽の周りを19回回るのが6939日14時間26分1秒弱だから、19年で2時間ぐらいしかずれない。一日ずれるのに220年近くかかる。このことは、中国でも古代ギリシアでもおそらく独立に発見されていた。

 この方法では一年に13か月ある年をどう置くかの基準作りが難しい。

 天文観測技術が発達した時期には、太陽の動きと月の動きを照らし合わせて、13か月めの月をどこに置くかが客観的に決められるようになった。太陽が空の星座のあいだを動く道筋(黄道)に12の通過ポイントを決めておいて、その12のポイントのうち一つのポイントも通過しない月があれば、その月は翌月に進まずに前の月をもう一回繰り返すという仕組みである。この方法は中国で作られ、現在の日本の旧暦もこれを踏襲しているはずである。しかし、太陽が空の星座のどこを移動しているかは、太陽と星座の星を同時に見ることができないため(太陽が明るすぎるからである)、観測するのがなかなか難しい。

 だから、この方法が使われるようになるまでの太陰太陽暦では、一年に13か月ある年をいつにするかは特定の政治権力や宗教勢力によって決められていた。

 こうすると、その月を加えることが、その政治権力や宗教勢力の影響力を世間に知らせるよい機会になる。暦を操る特定の人や集団が「今年は13か月にします。その余分な月はこのへんに置きます」と宣言することで、その人や集団の影響力が否応なくその社会全体に印象づけられるのだ。


中国戦国時代の暦

 この「13か月め」の配置のしかたや、一か月の長さを29日にするか30日にするかということの決めかた、それに正月の定めかたなどが、古代中国の戦国時代(紀元前5世紀〜紀元前3世紀)の諸王国の争いに利用された。

 この時代、古くから支配王朝とされてきたのは「(しゅう)」王朝であったが、戦国の前の春秋時代(紀元前8世紀〜紀元前5世紀)には各地の地方王朝の自立が進んだ。ただ、この段階でも、長江流域の諸王朝は別にして、各地の地方王朝は周を中央王朝と認めていた。それが紀元前5世紀の戦国時代に入っていよいよ各地の地方王朝が自立し、真の中央王朝は自分のところだと主張する地方王朝が出現しはじめたのである()(かん)(現在の韓国とは無関係)・(ちょう)(でん)氏一族を王とする(せい)など)。しかし、これまで中央王朝と認められてきた周王朝がまだ存在しているのに、その周ではなく自分のところが中央王朝だというには強力な根拠が必要だ。さらに、「周王朝ではなくて自分のところが中央王朝だ」という王朝が一つだけならまだいいが、あちこちの王朝が「自分のところこそが真の中央王朝だ」と言い始めたから話はさらにややこしくなる。

 その「中央王朝であることの証」として利用されたものの一つが暦であった。周王朝では実際には月と太陽の動きを観測して年を決めていたらしく、冬至を過ぎたあたりで新年が来るような暦を使っていたようだ。冬至を過ぎたあたりで新年が始まるというのはいまの私たちの暦の感覚に近い。冬至は、地面に棒を立てておいて、お昼前後にその棒の影がいちばん短くなる時刻にその長さを記録し、その「一日でいちばん影が短くなる時刻の影の長さ」がいちばん長くなる日を測定すれば、何日かの誤差はあってもだいたい決めることができる。「一年13か月の年を19年に7回」という方法(メトン法)を知らなくても、月の動きと太陽の動きのズレを調整することができる。

 しかし、あちこちの地方王朝が「中央王朝」として名のりを上げた戦国時代には、メトン法などもう少し精密な暦の作りかたがわかっていた。そこで、自分こそが中央王朝であると主張する地方王朝は、周王朝の新年の決めかたを「こんないい加減な年の定めかたをしているのは周の王朝が衰えた証拠」として、自分のところの暦が正しいと主張しはじめた。しかも、いくつかの王朝は、この時代にはすでに具体的にどんな王朝だったかがわからなくなっていた伝説の王朝「()」の暦を仮定し、自分のところの王朝はその「夏」王朝の再来だと主張した。そしてその「夏」の暦と称するものを使い始めた。それが「冬至がある月の次の次の月を正月にする」という暦だった。現在の旧暦の正月の定めかたはこの戦国時代の「夏」王朝の暦のやり方から発展したものである。新暦の1〜2月ごろに旧暦の新年が来るのはそのためだ。

 なお、この暦がほんとうに「夏」王朝の暦だったかというと、違うようである。だいいち、夏王朝の実在自体がまだ確定されていない。夏王朝があったとされる時期に複数の王朝(都市国家)があったらしいことは発掘で確認されているが、その複数の王朝のなかに夏王朝が含まれているのかどうかはわからないし、含まれているとすればそのうちのどれなのかもわかっていない。そのどれかの王朝が夏王朝だったとしても、そこで実際に使われていたのは周と同じように太陽や月の動きを観測して年月を定めるやり方で、メトン法など高度な技術は現実にはおそらく使われていなかっただろう(以上の中国戦国時代に関する記述は平〓(ひらせ)隆郎(たかお)(〓は上が「生丸」に下が「力」で「勢」に似た字、「隆」も正確には旧字体で一画多い)氏の研究による。解釈や記述に不適当な部分があれば清瀬の責任である)。


古代ローマ帝国の暦――ユリウス暦

 同じような問題は、太陰太陽暦を使っていた西洋や中東でも発生した。一部の集団が「13か月ある年」を決める権限を握り、それが政治や宗教と対立を起こしたのである。その問題を解決することで、古代から中世に世界的に使われることになった暦が作り出された。その典型的なものが、古代ローマ帝国からキリスト教世界に継承された暦であり、またイスラム暦である(アメリカ大陸の文明の暦については清瀬がまだ十分に理解できていないので今回は取り上げない)

 まず古代ローマ帝国からキリスト教世界に継承された暦について見てみよう。

 のちにキリスト教が使うようになる暦を定めたのは、創設期のキリスト教の「敵」にあたるローマ帝国である。ローマ帝国の事実上の創始者だったユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は、ローマの神官が勝手に「13か月ある年」を操作して暦が狂ってしまうのを嫌い、そのころエジプトで行われていた太陽暦を改訂して導入した。ただし、エジプトの暦は12か月すべてを30日とし、それに月に属していない5日をつけ加えて構成していたのを、カエサルは30日と31日の月を作り、例外的に「フェブルアリウス月」(February)を4年のうち3年は28日、4年のうち1年は29日として暦と季節のズレが起こらないように工夫した。こうすれば神官団が勝手に「13か月め」を操作できなくなる。こうやって定められたのが「ユリウス暦」と呼ばれるものである。私たちの知っている閏年の仕組みがここで定められたわけだ。

 なお、この古代ローマ暦の月の名まえには、古代ローマの神の名まえをつけた月と「〜番めの月」という名まえをつけた月の両方があった。神の名まえのついた月は、ローマの守護神であったヤヌスの月(January)、浄めの神フェブルアリウスの月、軍神マルスの月(March)、幸運の女神ウェヌス(ヴィーナス)の月(ギリシア名AphroditeからApril)、成長の女神マイアの月(May)、結婚の女神ユノ(ジュノー)の月(June)である。ユノ月の次は「5番めの月」、その次は「6番めの月」と呼ばれていたが、「5番めの月」はのちに神格化されたユリウス・カエサルを記念して「ユリウス月」(July)とされ、「6番めの月」はカエサルの養子でローマ帝国初代皇帝となったアウグストゥスを記念して「アウグストゥス月」(August)となった。その次は「7番めの月」(September)で、以下、「8番めの月」(October)、「9番めの月」(November)、「10番めの月」(December)とつづく。というわけで、Septemberは7月、Octoberは8月ですよ〜と受験シーズンに受験生を混乱させる情報を流してみる……。

 別にこれはまちがいではないのであって、もともとローマの暦はマルス月(現在の3月)で年が変わっていたのだ。閏年の調整をそのマルス月の直前のフェブルアリウス月の最後で行うのも、もともとフェブルアリウス月末が年末だったからである。マルス月を1月として勘定すると、たしかにSeptemberは7月、Octoberは8月になる。また、キリスト教が西ヨーロッパに広がってからは現在の4月ごろにあたる復活祭の日あたりで年が変わるとされていた時期もある。ヤヌス月が必ずしも一月ではなかったのだ。

 そのなかで、ローマの政治年度が始まるのはヤヌス月だった。ヤヌスはローマの守護神だったからである。そこでユリウス暦ではいちおうヤヌス月が一月と定められていた。このローマの政治年度制度が現在まで引き継がれているわけだ。だから、今日の英語の試験では、ローマのことばではまぎれもなく9月を意味したNovemberを9月と答えたり、同じようにローマで10月を意味したDecemberを10月と答えたりするとまちがいにされてしまう(ですよね〜>インクせんせ。いや、最近になってようやく『もえたん』を手に入れたもので……)

 つまり、私たちの使っている新暦の一月はローマの政治年度の都合で決まったものだし、旧暦の一月(正月)は中国の戦国時代に自らこそ中央王朝だと名のった王朝の都合で決まったものなのである。歴史上の一部の政治権力が自分の都合に合わせて決めた年の区切りかたをいまの私たちは受け継いでいるのだ。つまり、2000年前の政治権力の都合が今日まで影響しているわけだ。時代が変わり時代の考えかたが変わってもある時代の制度を保存してしまうのが暦の特徴なのかも知れない。


キリスト教の暦となったユリウス暦

 キリスト教は当初は太陰太陽暦のユダヤ暦を使っていた。7日一週間制はこのユダヤ暦から採り入れたものである。ただし、ユダヤ教では、神が天地を創造したときに休んだ日として週の最後の土曜日を「安息日」としたのに対して、キリスト教では日曜日を神聖な日と定めた。日曜日にイエスが復活したという理由からである。いまでもキリスト教会では日曜日を「主日」と呼んでいるし(そういえば私立リリアン女学園では主日礼拝はやらないのだろうか?)、ロシア語の「日曜日」は「復活日」という意味なのだそうだ。

 それが、4世紀にローマ帝国に公認されると、キリスト教会はユリウス暦を受け入れた。ただし、そこに、春分の日を過ぎて最初の満月の日の次の日を復活祭の日とし、その前の40日を物忌(ものい)みの期間(四旬(しじゅん)節)、その40日に入る直前に謝肉祭の時期が置かれた。その他のキリスト教の祭日もこの復活祭を基準に決められた。ユリウス暦が太陽暦なのに対して、復活祭の日の決めかたは太陰太陽暦的である。これを定めるには、春分の日が明らかになっており、しかもその日の月齢(月の満ち欠け)を知っている必要がある。春分の日はユリウス暦3月21日頃とされていたけれども、その年の月齢は一般人には測定できなかった。そんなわけで、暦はキリスト教の聖職者が独占し、キリスト教界に伝わる天文学を駆使して復活祭など儀式の年を定めることでキリスト教会がヨーロッパの時間を支配した。

 ガリレオが地動説を強硬に主張したことにキリスト教会が激怒したのは、天文学がキリスト教界のものだったからで、キリスト教界の外で天文学の説が確立することはその権威の危機を意味したからである。だから、ガリレオに先んじて地動説を提唱したコペルニクスのデータのほうは、教会はじつは暦の改訂のために利用していたりする。地動説自体が必ずしも禁圧されたのではなく、それが教会の権威から離れてしまうことが問題だったのだろう。

 一方で、キリスト教の祭りには、キリスト教到来前のヨーロッパの多神教の祭りが引き継がれたため、その祭りの日程はヨーロッパの人びとの生活感覚に合っていた。それがまたキリスト教のヨーロッパ社会への支配を強固なものにしていったのである。


グレゴリオ暦制定の狙い

 ところで、ユリウス暦を使っていると、毎年、わずかだけれどもズレが発生する。4年に1度ずつ一年が366日の年を機械的に作るので、平均すると一年の長さが365日と4分の1日、つまり365日と6時間になる。ところが現実には365日5時間48分45秒なので、ユリウス暦と地球の公転周期とは、毎年、11分ちょっとずつずれる。このズレが積み重なると120年ぐらいでそのズレが1日に達する。1200年経つと10日ズレる。このズレが16世紀のカトリック教会で問題になった。

 10日ぐらいのズレはどうでもよさそうなものである。太陰太陽暦を使っていればそれぐらいのズレは普通に起こるのだし、実生活にそれほど問題が生じるわけでもない。それがカトリック教会で問題になったのは、日付がズレると春分の日と実際の春分がズレるからで、なぜ春分がズレると問題が起こるかというと復活祭の日がズレるからである。しかも復活祭は「春分のあとの最初の満月」を基準にしているので、日付自体のズレは10日あまりでも、本来復活祭であるべき日付と実際の復活祭がひと月ズレるということが起こってしまう。しかも、クリスマスは12月25日と決まっているので、復活祭がズレるとクリスマスと復活祭の日程の関係がへんになってしまう。本来、イエス・キリストが生まれた日にちなむクリスマスとそのイエスが処刑されてから復活した日にちなむ復活祭との間隔がズレるというのはおかしいわけで、その点からもユリウス暦は不都合だということになってしまった。

 16世紀といえば、ルターが95か条の公開質問状を出して(1517年)宗教改革が本格化した世紀で、カトリック教会の権威が問われていた時代でもあった。1514年のラテラノ公会議で新しい暦の制定の問題が提起され、1545〜63年にトリエント公会議で改暦の方向が確定した。このトリエント公会議は、宗教改革勢力に対抗するカトリック側の「対抗宗教改革」の方向が定められ、中世のカトリックが現在のカトリックへとかたちを変えていく契機になった会議である。改暦はその一環として企画された宗教的なプロジェクトだったわけだ。コペルニクスの観測データが利用されたのはこの改暦プロジェクトでである。

 改暦作業は教皇(きょうこう)(ローマ法王)グレゴリウス(イタリア名「グレゴリオ」)13世の指揮下で始められた。

 ズレの解決方法として、閏年の回数を、ユリウス暦の4年に1回(400年に100回)から、400年に97回に減らすことが決定され、当時すでにズレていた日数を減らすという調整が行われることになった。400年に97回だと、一年の長さが平均で365日5時間49分12秒になる。一年で発生するズレは30秒未満で、それが積み重なって一日のズレになるのには3000年以上かかる。この改訂版の暦がグレゴリオ暦であり、現在の私たちのカレンダーに記されている暦(新暦、西暦)である。ちなみに、2000年はグレゴリオ暦でもユリウス暦でも閏年になるが、1700年、1800年、1900年や2100年はグレゴリオ暦で閏年にならず、ユリウス暦では閏年になる。それがこのグレゴリオ暦での閏年調整の効果である。

 グレゴリオ暦にこめられた「カトリックの権威の立て直し」の意図は明白だったので、当初、プロテスタントはこの暦を使わなかったし、東ヨーロッパのキリスト教界でもグレゴリオ暦は採用されなかった。ロシアでグレゴリオ暦が採用されたのはロシア革命後である。ロシアでグレゴリオ暦1917年11月に起こった革命は「十月革命」と呼ばれる。これは当時ロシアで使われていたユリウス暦では10月だったからだ。ロシアでグレゴリオ暦が使われるようになるのは1918年からである。しかも、グレゴリオ暦を採用したのはソビエト政府のほうであり、ロシア正教会はいまでもユリウス暦を使っているという(なお、現在の天文学でも、グレゴリオ暦採用前の天文現象と採用後の天文現象を連続して扱えるようにするため、グレゴリオ暦をユリウス暦換算して使ったりする。天文学上のユリウス暦元年は紀元前4713年。『天文年鑑』誠文堂新光社の「ユリウス日」の項目より)

 社会主義政権が、ロシアのキリスト教会(ロシア正教会)の権威を打ち消すために「カトリックの権威の立て直し」のために制定された暦を使わざるをえなかったというのも皮肉な話である。当時のロシアのマルクス‐レーニン主義はどんな宗教でも全面否定する立場で、「ロシア正教はいけないがカトリックはよい」などという価値観を持っていたわけではないからだ。


「文明」の暦としてのグレゴリオ暦

 グレゴリオ暦が世界に広がったのは、19世紀の帝国主義時代のヨーロッパの軍事的優勢が背景にある。この時代には、ヨーロッパ以外の世界を制覇したヨーロッパの帝国主義国は、ロシアを除いてグレゴリオ暦を使っていた。そのグレゴリオ暦が植民地支配を通じて強制された。この時代になると、16世紀のポルトガルやスペインの植民地支配と違って、必ずしも住民のカトリック化が植民地支配の目的ではない。現に最大の植民地帝国国家だったイギリスはプロテスタントの国である(じつは19世紀のイギリス国教会ではカトリック回帰的な動きを含めた復古的風潮が有力だったのだが、そのあたりの事情には今回は触れないことにする)。かわって植民地支配の名目に掲げられたのが「文明」であった。「文明」を持たない非ヨーロッパ世界の人びとを「文明」を持ったすぐれたヨーロッパ人が支配するという論理である。植民地支配を受けなかった地域でも、グレゴリオ暦こそが「文明」の暦だという認識から、「文明開化」の一環としてグレゴリオ暦が受容された。この帝国主義時代に、カトリックの宗教的都合で決められた暦が、宗教を超えた「文明」の象徴として世界に広がったのである。これも皮肉な話だ。「文明」の特徴の一つは宗教支配の打破であり、グレゴリウス教皇が再確立しようとしたカトリックの権威の否定がこの時代の「文明」の特徴だったからである。

 アメリカ合衆国もグレゴリオ暦を使っている。アメリカ合衆国はピューリタンの国として基礎固めが行われた国だとされていて、そのピューリタンはカトリック教会に強い反発を持っていたので、少しへんな気はする。アメリカ合衆国がカトリック色を嫌ってグレゴリオ暦を受容せずにユリウス暦を使い、ロシア革命後に成立したソビエト政府も従来のユリウス暦を使いつづけたならばどうだっただろう? そうすると20世紀の冷戦時代の覇権超大国の両方がユリウス暦を使っていたことになり、そうなれば冷戦時代に世界の暦はユリウス暦に戻っていたかも知れない。


イスラム暦

 さて、だいぶ前に、太陰太陽暦では「13か月の年」を決定するのに一部の人びとの身勝手が反映するのを嫌って暦を改めた例として、キリスト教系の暦とともにイスラム教の暦を挙げておいた。キリスト教系の暦、つまり西暦は、太陽暦を導入することで「13か月の年」が生じないようにした。その結果、キリスト教系の暦では、暦上の「月」は実際の月の満ち欠けとは関係のないものになってしまった。

 それに対して、イスラム教では、太陰暦の原則を守りながら「13か月の年」を作ることを否定し、すべての年を12か月と定めた。これも、『コーラン』(『アル・クルアーン』)の章句から、太陰太陽暦に人間の身勝手が入るのを避けようとして始められたという意図が読みとれる。イスラム教は人と神のあいだに預言者以外の権威者が入りこむことを嫌う。とくに創立当初のイスラム教はそうであり、現在のイスラム教もその「原点」への回帰傾向が強い。「13か月の年」を置くことを通じて神官団のような勢力が権力を握ってしまうことを創設期のイスラム教徒共同体の指導者は嫌った。それがこの『コーラン』の「13か月の年」否定の考えにつながっているのだろう。

 このような月の決めかたをした結果、イスラム暦は純粋太陰暦になり、毎年、11日のズレが蓄積していくことになった。だから、イスラム暦によって定められる断食月や巡礼月がグレゴリオ暦の何月にあたり、いつの季節になるのかは、年によって違うことになってしまった。この暦はイスラム教の祭礼には深く結びついているが、農業のサイクルや生活上の季節感とはまったく無関係になる。そのため、イスラム世界以外ではこの暦は使われていない。キリスト教の暦がユリウス暦と一体化し、キリスト教到来前のヨーロッパの祭典や儀式を採り入れることでヨーロッパに定着し、やがて宗教と宗教以外の領域が分離してもその暦が使われつづけるというような展開はイスラム暦ではなかった。宗教にのみ結びつきすぎていたからだ。

 しかも、イスラム世界でも、アラブに対する対抗意識の強いイランでは独自の太陽暦が使われているし、アフガニスタンでも基本的に同じイラン暦が使われているようだ。またアフリカ地中海岸の諸国は、早い時期にイスラム化したが、日常生活ではそれまで使っていたキリスト教式の暦を使いつづけたという。


テクノロジーの暦となったグレゴリオ暦

 私たちの使う暦は、19世紀の帝国主義時代のヨーロッパ諸国勢力の優勢を受けてグレゴリオ暦となった。これは世界的な傾向である。たとえば、中国ではお正月の行事は旧正月に行うけれども、中国人もふだんの生活はグレゴリオ暦に従って行っている。イスラム世界でも、現在では、ごく一部の「原理主義」的な体制の国を除いて宗教行事以外はグレゴリオ暦を使っている。

 グレゴリオ暦自体はカトリック教会の権威を示すために作成された。それが「文明」の象徴として帝国主義時代に世界に押しつけられた。そのグレゴリオ暦はユリウス暦の改訂版である。さらにそのユリウス暦の原型はエジプトで使われていた太陽暦である。暦は人びとの生活と妥協しながら使われてきた。だから、ときどき大きな変化を経ながらも、古い要素を多く残しながら現在まで変化してきたのである。

 では、これからの時代の暦は何によって保持されていくのだろうか?

 暦を保持していく重要な要素の一つはテクノロジーだろうと思う。科学技術の進歩によって「どこでも同じ時間が流れている」ことが非常に重要になる。しかも、科学技術で使われる時間は一秒の1万分の1や1億分の1といった桁にまで達している。現代世界の時間はその細かさで異なる場所で精確に同じように流れていることが要求される。

 たとえば、私たちが使っている電気は、一秒間に50回か60回、電気の流れる向きが波打つように逆転する「交流」である。この「交流」電流は、へたに混ぜ合わせると反対側向きの電流が常に打ち消し合うかたちで重なってしまい、電流が消えてしまう可能性がある。そうなると停電になる。いくつかの発電所からの電気を混ぜ合わせて停電を引き起こさないためには、電気の流れる向きが常に同じ向きを向いている状態で混ぜ合わさなければならない。そのためには、複数の発電所から送る電気がみんな同じタイミングで電気の流れる向きを変えるように調整しなければならない。そのためには複数の発電所で発電をコントロールしている時計がまったく同じ時間を刻んでいなければならない。100分の1秒のズレ(半波長に相当する)が起こると電気が消えてしまいかねないのだ。

 1000兆分の1秒(フェムト秒)単位というごく短い時間でレーザーの発射をコントロールすることで、たとえば高密度の記憶装置を作るようなテクノロジーも経済産業省が音頭を取って研究しているらしい。光は一秒で30万キロメートルも進むが、1000兆分の1秒だと1万分の3ミリしか進まない。それを利用して光で精度の高い加工を行おうというわけだ。これはまだ研究段階の話だが、100万分の1秒や10億分の1秒という単位ならば私たちの日常にすでに入りこんでいる。光は10億分の1秒(1ナノ秒)で30センチ、100万分の1秒(1マイクロ秒)で300メートル程度しか進まない。この速さはエックス線や電波でも同じだ。この10億分の1秒というととてつもなく短いようだが、1ギガビットのコンピューターの演算装置が一つの計算を処理する時間で、パソコンを通じてすでに私たちの日常に入りこみつつある時間だ。この微小時間の電波の進みぐあいを感知するのがGPSであり、これはカーナビとして私たちの日常に入りこんでいる。私たちの生活には、私たちが日常的に触れることのできる機械を通じて、すでに10億分の一秒単位の時間の刻みが入りこみ始めているのだ。

 しかし、そういう途方もない精密な時間も、1秒は1分の60分の1、1分は1時間の60分の1、1時間は1日の24分の1というかたちでまとめられている。そして、その日と月と年の関係はあいかわらずグレゴリオ暦でコントロールされている。

 じつは、形式的には、現在では、まず「秒」がある種の原子(セシウム133)が規則的に発射するパルス(波の一種)の周期を基準に決められ、それを基準に分、時、日、月、年などの時間が決められている(なぜ「1日が均等に24時間に分けられ、1時間が均等に60分に分けられ、1分が均等に60秒に分かれている」という定義ではいけないかというと、地球の自転周期にはごくわずかながら揺らぎがあり、一日の長さは一日ごとにごくわずかではあるが違っているからである)。秒がすべての時間を決めているような形式になっているのだ。しかし実質は逆である。実際にはその秒がグレゴリオ暦を運用していく上でいちばん差し障りのない値で決められているのだ。そうでなければ、その原子パルスの周期の「91億9263万1770」倍が一秒などという中途半端な定義になるはずがない。原子パルスの精確さですら、古代ローマ帝国の政治年度の都合やカトリック教会の権威再確立の試みを打ち破ることはできなかったのである。

 しかも、「ヤヌス月」、「フェブルアリウス月」、「マルス月」……と呼んでいればこそ、マルス月を年の初めにしたり、復活祭を年の初めにしたりすることができた。「20040101」と数字で表記されてしまえば、「01月01日」以外に年の初めを想定するのは難しくなる。20世紀末のデジタル技術が、ずっと昔に滅びた古代ローマ帝国の政治年度を絶対的なものにするために貢献しつづけているのだ!


いま、「暦」が担っているもの

 ユリウス暦は古代ローマ帝国の政治的都合で決められたものだが、やがてその敵だったキリスト教会によって採用され、キリスト教がヨーロッパの人びとの生活を支配するために役立てられた。そのキリスト教の一派のカトリック教会の支配が揺らいだとき、その支配の再確立のためにユリウス暦は改訂され、グレゴリオ暦が生まれた。しかし、そのグレゴリオ暦は、キリスト教が宗教以外の領域を支配することを否定する「文明」の暦として採用され、帝国主義列強の軍事力とも相まって全世界にまで広がった。そして、いまそのグレゴリオ暦は最新のテクノロジーと持ちつ持たれつの関係を作り、その世界に対する支配力をますます強化しようとしている。

 だが、一方で、暦は人間の生活にも大きく制約されてきた。どんな「合理」的な暦が考えられても、その「合理」性が多くの人びとに受け入れられなかったときには、その暦は忘れ去られる運命にあった。

 いま、グレゴリオ暦は、世界の何十億の人びとの生活と、何億分の一秒という細かい時間までコントロールする最新テクノロジーとのあいだに立って、その両方をつなぎ合わせる役割を担っている。一つの暦がその天秤の両方にこれほど重いものを担ったことは人類史上一度もなかったのではないだろうか。

 それがいま私たちが生きている「暦」の現在なのである。


―― おわり ――




 ※ このアーティクルを執筆するに際して、本文に註記したもののほかに、以下の書物を参照しました。