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シュレディンガーの猫
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第二十五回

批評の場としてのインターネット

― 2004年2月 ―

 このページで何度か取り上げたことのある「唯物的オタク論!」「祝祭の時間としての近代、「ポストモダン」の憂鬱」「東浩紀氏のオタク論を読む」など)批評家の東浩紀氏がメールマガジン『波状言論』を創刊したので購読を申しこんだ(東氏のホームページは→こちら、『波状言論』のページは→こちら。この文章を執筆している現在、ウェブで公開されている「創刊準備号」とメールでの配信第2号にあたる「1月B号」まで刊行されている。

 東氏による実質的な「創刊の辞」である「crypto-survival noteZ 第一回」(このタイトルは「無印」、「#」、「リピュア」ときて「Z」なんだそうだ。そのうち「crypto-survival notes ドッカ〜ン」を期待しているのは私だけではあるまい。いやどうせやるなら『郵便的不安たちドッカ〜ン』のほうがいいか)によると、このメールマガジンは、商業出版でもなく、かといってまったく私的な「ひとりごと」を書き連ねるだけでもない「個人出版」の場を作り出す試みの一環として創刊されたようだ。

 この『波状言論』には「テキストサイトの現在」というリレーコラムも掲載されている。「テキストサイト」とはテキストを読ませることを主目的に構成されたインターネット上のサイト(ホームページ)のことだ。このリレーコラムは、現在第3回まで来ていて、第1回が加野瀬未友氏の「個人サイトだって読み手を選びたい」(→加野瀬未友氏のサイト「ARTIFACT 人工事実」、第2回が仲俣暁生氏の「商業出版とインターネットの間で」(→仲俣暁生氏の「はてなダイアリー」上のサイト「陸這記」、第3回が濱野智史氏の「米国の“blog”/日本の“2ちゃんねる”」(→濱野智史氏のサイト「network styly *」である。東氏の創刊の辞と「テキストサイトの現在」に加えて森川嘉一郎氏(→森川嘉一郎氏のホームページによる連載「建築のオルターナティヴ」の第1回(1月A号、次回掲載は2月A号)を読めば、この『波状言論』の著者陣に共有されているらしい問題意識が浮かび上がってくる。

 商業出版ではなく、しかし自分や「仲間うち」にしか通用しない私的なことばのやりとりでもないコミュニケーションの場という問題意識である。そういう場を作りたいという思いが、東氏がこの『波状言論』を創刊した動機なのだということだ。また、東氏は『波状言論』創刊とほぼ同時に blog(ブログ) を始めたし、それ以前から「はてなダイアリー」に参入していた(現在はこのページが『波状言論』専門のブログページになっている)。さらにコミケでもブースを出していて、私がコミックマーケット65でWWFの売り子をしたとき、同じ「島」の反対側の「お誕生席」だったりもした。この blog サイトの新設やコミケへの進出なども、そういう「商業出版」と「私的な または 仲間うちのコミュニケーション」のどちらでない場を求めてのことなのだろう。そういう意識は、「テキストサイトの現在」の著者たちにも共有されているようだ。

 インターネットやコミケについて、東氏を含む『波状言論』の人びとは、「商業出版」と「私的な または 仲間うちのコミュニケーション」の場でもないコミュニケーションの場として十分に活用できると考えているようだ。

 今回は、この『波状言論』の問題意識に答えるかたちで、「商業出版」と「私的な または 仲間うちのコミュニケーション」の場ということを考えてみようと思う。

 なお、日本語で「出版」というとどうしても紙に印刷した印刷物のイメージがある。しかし、ここで「出版」として意識されているのは英語 publication のもとの意味に近く、広く「公にすること」、「多くの人に読まれるようにすること」を意味している。つまり、インターネットのサイト(一般的に使われる言いかたで「ホームページ」)に文章を掲載したり、同じ内容のメールを多数の人たちに送ったりすることもここでいう「出版」に含まれている。


「マーケット」と「気もち」

 近代の社会では「産業」というのは、何かを供給する側とそれを求める側の両方が存在して成り立つ。「需要と供給の関係」という関係だ。経済学の基礎である。

 そうやって成り立つ場が「市場」である。外来語でいうと「マーケット」だ。なお、「モノ」と書いているが、狭い意味のモノだけでなく、情報やサービスのばあいでも同じである。

 この関係は、何かを供給したいと思う側と、それを手に入れたいと思う側ということでもある。

 しかし、「需要と供給の関係」と表現するのと、「何かを準備して供給したい側とそれを求める側の関係」と表現するのとでは、内容が少し違う。「需要と供給」というと、求める側や供給する側の「気もち」なんてどうでもいいことになるが、「供給したい側とそれを求める側」という言いかたをすれば、「人に受け入れてもらいたい」とか「欲しい」とかいう「気もち」がこの関係に入りこんでくることになる。

 もっとも、基本的な穀物など、そのモノがなくなれば人の生活が成り立たないようなモノは、供給したいと思わない者たちに国家権力などが強制的に供給させることもないではないだろう。しかし、そういうモノを除けば、やはり供給する側に「これを作ってほかの人に受け入れてもらいたい」という思いがあり、それを手に入れようとする側に「こういうモノを手に入れたい」という思いがあり、そうしてモノのやりとりする場が成り立つのが普通ではないだろうか。

 マーケットというのは、商品がやりとりされる場であるのと同時に、「気もち」がやりとりされる場でもあるのだ。

 私がこのことを感じたのはやはりコミックマーケットでである。とくに、いま私が主宰者になっているサークル「アトリエそねっと」でブースを出し、自分で本を作って自分で店番をしていると、「マーケット」というのは品物のやりとりだけではないのだということを強く感じる。ブースに来てくださる方のなかには、本の内容について聞かれたり、本で扱っている内容について話したり、それに関連して個人的な体験を話してくださる方もいる。そういうことばのやりとりが「本を売る」ということと同じように嬉しいし、そういう方に出会うと、けっして短時間では終わらない申込書類作成作業をやって、それ以上に手間ヒマのかかる本作りをやって、しかも財政的には赤字を引き受けても、やっぱり次回のコミケにもサークル参加したいという思いが湧き上がってくる(というわけで、これを書いてる日の朝まで書類を書いてました! なお、コミックマーケット参加レポートは、コミックマーケット64=2003年の夏が→こちら、65=2003年冬が→こちら。マーケットに人をつなぎ止め、人を集める要因は、「儲かる」ということもあるけれど、やっぱりこういう「気もち」的なものが大きいのではないかと私は感じている。これは、べつに同人誌市場だけではなく、たとえば各地の朝市とかフリーマーケットとかに集まってくる人たちも同じ意識ではないかと思う。


「気もち」を「整流」する場としてのマーケット

 しかし、「マーケット」は作り手や売り手の気もちをそのまま受け手に手渡す場ではない。作り手がいつまでもその売ったものについて「あれは自分のものだ」という「気もち」を持ちつづけていては、買った人が気楽に「消費」できない。使うたびに作り手や売り手の「気もち」を考えていては何も使えなくなってしまう。

 もちろん、作った人や売ってくれた人の気もちを考えるのは重要なことだ。けれども、たとえばいまこの文章をパソコンで書いていることを例にとると、キー一つ打つたびに、ケースを作った人、マザーボードを作った人、CPUを作った人、組み立てた人、製品として流通に乗せた人、このパソコンを買ったときに閉店時間過ぎていたにもかかわらずレジを打ってくれた人……のことをいちいち考えなければいけなくて、このキーをこんな強さで叩いたら怒られるんじゃないかとか、こんな文章を書いたら売ってくれた人は気落ちするだろうとか、ぜんぶいちいち考えていては、「パソコンで文章を書く」ことに集中できない。また、別の例で、買ってきたジャガイモをカレーに煮込むのに、「このジャガイモ作った人は辛いカレーは嫌いかも知れないけど辛さの加減をどうしよう」とか考えて、生産者に確認をとったりしていたらいつまで経っても料理できない。品物に関わった人たちへの「感謝の気もち」というのはたいせつなものだけど、それは、一方では、その品物を自分で自分の好きなように使うことと一体になったものなのだ。

 生産者や流通に関わった人や売り手に、作った品物や売った品物について「ここで売れてだれのものになったからには、この先は相手の好きなように使ってくれてかまわない」と思わせる。それもマーケットの機能の一つである。同じことを買う側から言えば、作った人や流通に関わった人や売ってくれた人の個別の思いに捉われることなく安心してその品物を使うことができるように保障する「場」がマーケットなのである。

 もちろん、マーケットを通ったものでも、作り手の側から品物についてその消費のしかたに注文がつくことはある。そこに作り手や売り手の「気もち」がこめられることもある。しかし、そういうばあいでも、その「気もち」ははっきり示されたものだけが有効なのであって、作った人や売った人の個人の思い入れが無制限に買い手・使い手の行動を縛ることはあり得ない。

 マーケットには、作り手や売り手と、買い手・使い手とのあいだで、「気もち」を切断したり整理しなおしたりして(電気で使うことばを使えば)「整流」するという機能があるのだ。


近代的マーケットと言論

 近代のマーケットはたんにモノが取引される場として考えられるようになった。「気もち」の要素は購買意欲や「気分」として処理され、個別の「気もち」のやりとりは考えに入れられなくなってしまった。とくに大量生産・大量消費の時代になると、作る人と買う人の「気もち」の交流はごく抽象的にしか意識されなくなる。

 デザインを決める人はまずは売れるか売れないかで「消費者」の「気もち」を測るだろうし、それ以外の思いでデザインを決めても企画会議とか営業からのクレームとかで「売れるか売れないか」の基準でデザインを変えられてしまうだろう。工場で実際に製品を作る人も、まずは自分の担当部分でミスをせず、なるだけ効率的に仕事をすませ、同じ工場で働いている人の足を引っぱらないことを考えるだろう。買うほうだって、作った人や売っている人の「気もち」も考えるかも知れないが、だいたいたぶんそれより先に価格と利便性を考える。「大量生産、大量消費」の世界では、商品に関わる「気もち」そのものが、作り手・売り手・買い手(ばあいによってはこれに「捨て手」と「捨てたモノを処分する人」が加わる)の役割によって振り分けられる。作り手の側ではさらに分業の過程に合わせていちばん気をつかわなければならない「気もち」が割り当てられてしまう。つまり、「市場」で「気もち」を整流する前に、社会全体の生産と消費のしくみのなかで「気もち」そのものが分解され、市場でいちいち「整流」する必要のないようにあらかじめ割り振られているのだ。

 だから、私たちは、気安くものを買い、消費し、捨てることができている。そして、私たちがそうやって気安くモノを買って消費して捨てているからこそ、この大量生産・大量消費の社会が順調に動いている。もちろん細かい部分ではそうではない部分もある。特定のモノへのこだわりや特定の生産者へのこだわりを持っている消費者はいる。また生産者や店の側での客層を選ぶこともあるだろう。けれどもそれは社会全体の主流になることはない。

 しかし、「言論」(小説、随筆なども含めた広い意味での言論)をめぐっては、このマーケットと「気もち」との関係は少し複雑になる。それは、「言論」は、まさに「考え」とか「主張」とかあるいは「情緒」・「気分」とかを含めた「気もち」を伝えるモノだからだ。「言論」は「だれが作ったどんなものでも安ければいい」という「商品」ではない。商品としての「言論」をマーケットで選ぶときには、だれがどんなことについて書いた文章かということが重要だ。これは音楽や絵なども同じだけれど、ここでは「言論」に話を限ることにしよう。

 ところが、「言論」にもその近代的なマーケットの原則は働く。とくに本や雑誌というかたちでマーケットに出され、その本や雑誌が「大量生産、大量消費」の流れに乗る必要があるときには、その近代的マーケットの原則が重要になる。そこで、本や雑誌を編集するには、文章にこめられた「考え」・「主張」・「情緒」などを含めた「気もち」とそのマーケットの原則との均衡点を求めなければならなくなる。

 だから、そういう本や雑誌の編集者は読者が読みたいと思っているであろうものを発注する。もちろん読者に迎合するばかりでなく、読者が反発しそうなものをわざと発注するかも知れないが、それも「潜在的に読みたいと思っているもの」と考えてもよい。また、編集者は、作家が書いてきたものを、読者が読みたいと思うようなものへと書き変えさせるだろう。少なくとも読者が読みやすいように書き変えさせるもので、難解な表現や標準からはずれた用字用語は大作家や売れっ子でないかぎり変えさせられる。そうやって作家に指示を出す編集者も、一人の編集者として独自の判断もしているだろうが、同時に、自分が属している会社の意向にしたがって方針を決めているかも知れない。

 その「言論」が載った本や雑誌を市場で売る以上は、作者が伝えられる「気もち」はその文章に書いた内容以上のものではなくなる。「こういう人に読んで欲しい」とか、「こういう人にだけは読んで欲しくない」とか個人的に思っていても、それは、たとえば「この雑誌ならばこのへんの人が買うはずで、こういう人はこの雑誌は買わないだろう」というような大ざっぱなところで選択するしかない。現在の「商業出版」で「言論」を発表するときには、読んで欲しくない人に読まれたり、また、自分の意図とは違う読みかたをされたりする可能性を引き受けることがどうしても必要なのである。

 だが、そういう可能性を引き受けた上でなければ作者から読者に伝えられないのが「言論」の本質なのだろうか? 作者の側から読み手を選んで伝えるには、電子メールや手紙などの私的なメディアを使う以外に方法はないのだろうか? そういう問題意識が「商業出版」でも「私的な または 仲間うちのコミュニケーション」を求める『波状言論』の人びとの姿勢に繋がってくる。


「言論」の「第三の場」の模索

 「商業出版」でもなく、「私的な または 仲間うちのコミュニケーション」でもない、いわば第三の言論の場というのは、ずっと以前から存在はした。「ミニコミ誌」や同人誌などと呼ばれるものが発行されていたし(当然ながら、コミックマーケットが始まるはるか前から「同人誌」というものは存在したのである)、会員制の出版物もある。また、完全に自分の意図しない人に買われることを阻止することはできないけれど、コミックマーケットのように、だれが自分の作った本を買うかを確かめて売る場もあった(まあ長蛇の列ができる超大手サークルとかはその余裕もないかも知れないけど)

 しかし、同人誌でもミニコミ誌でも、作るにはけっこう手間がかかるから、だれでも気楽に作ることができたわけではない。最近はコピー機が高性能になっているのでけっこうきれいなカラーコピーもとれるし、両面コピーして綴じればけっこう品質の高いものを作ることはできる。でも、それにしたって折ったり綴じたりする手間はかかるし、ページ数が多かったりするとコピー費もバカにならない(と経験者は語る)

 また、ミニコミや同人誌で出してしまうと、逆にその出版物を読みたいと思っている人に行き渡らないという問題もあった。ミニコミ誌が一部の書店でしか販売されていないので買いに行けないとか、会員制の出版物の会員になる方法がわからないとか、あるいは忙しくてコミケに行けないとかいう人はいる。「商業出版」のルートをはずせばこんどは伝えたい相手に行き渡らせることができないという問題が出てくるのだ。

 しかし、そういう「広くは読んで欲しいが、だれに読まれてもかまわないというものでもない」というものを発表できる媒体が登場し、しかもそれが少数の例外的できごとでとどまらないような仕組みが編み出されてきた。それがインターネットであり blog システムやメールマガジンといったものである。


批評の場

 最初の話題に戻る。

 『波状言論』創刊準備号のコラムによると、東氏はそういう「第三の場」に批評の可能性を開きたいと考えているようだ。東氏は、メールマガジン『波状言論』だけでなく、 blog ページもそういう場として位置づけていて、文学の問題やイラク派兵の問題を積極的に取り上げている。また、そこで参照されている他のウェブページや blog ページも批評的な文章を掲載していることが多い。『波状言論』や東氏の blog ページを出発点にしてリンクをたどり、批評を読むだけで、いまどんなことがどんなふうに議論されているかということがけっこう詳しくわかったりもする。一つの言論コミュニティーが形づくられているのだ。東氏はメールマガジンや blog を批評家のあいだのコミュニティー作りのための仕組みとしても積極的に活用していこうと考えているようだ。

 なぜ批評の場としてそういう「第三の場」が必要なのか。個人的に仲間うちで感想を言っているだけでは飽き足りないということはまずあるのだろう。しかし、商業出版ではだめなのか。

 創刊準備号のコラムによると、だめとはいわないまでも、十分ではないというのが東氏の答えだ。なぜならすべての批評が商業出版が成り立つほど売れるとは限らないからである。商業出版に載せるには、「内容を一般的にして、文章も易しく、社会的な問題提起も適度に取り入れ」る必要があるし、そうしたところでそんなには売れない。東氏は、柄谷(からたに)行人(こうじん)や浅田(あきら)など、批評界では圧倒的な量の読者を持つ批評家でも、自分たちの雑誌『批評空間』を売るためには同人誌的な組織を立ち上げなければならなかったことを挙げている。

 「批評は売れない」ということは一般的なイメージから言ってもうなずけると思う。批評関係の本は高い。文庫・新書ではない単行本ならば、安いもので1500円以上、高いものならば5000円以上する。なぜ高いかというと、それはマーケットの「需要と供給の関係」の原理によるわけで、なかなか売れないから高いのである。しかも、ほかの商品と同じで、高いことがさらに売れない原因になってしまう。

 しかも批評の本は内容が難しい。エクリチュールだのシニフィアン/シニフィエだのいった一般人にはわかりそうもないめんどくさそうな術語が並んでいる(ちなみにいま挙げたことばは私にもよくわからない)。そんなものだれが買うのかというのが、とくに批評に興味のあるわけではない人の正直な気もちだろう。そんなのを買うのは、ごく一部の、高いカネを払ってでもわけのわからない文章を読みたい「もの好き」だけではないのか。

 こういう消費行動の面で、批評の読者層というのは、昼飯代もケチるくせに2万円とか3万円とかもするDVDのボックスセットをぽんと買ってしまう「オタク」層に共通する(なお「オタク」ということばはいろんな意味といろんなニュアンスで使われるが、ここでは東氏の用法に合わせて、アニメやテレビゲーム・パソコンゲームの熱狂的なファンを主に指すことにしたい)。アニメやゲームに接しない批評家はそういうたとえを理解できず、また、そういうたとえを持ち出されると反発したりするのだろうけど、東氏はそれがよくわかる。

 だったら、むしろ、「オタク」的なコミュニケーション、具体的にはゲームやアニメや、あるいはラーメンやワインについて議論されているのと同じ場で、同じ仕組みを使って、批評の場を広げることに批評の可能性があるのではないか。東氏の考えているのはそういうことなんだろうと思う。


批評と「想定読者」

 しかし、では、メールマガジンや blog という仕組みを使わず、ウェブ上のページにたんに原稿を発表するとか、掲示板に書きこむとかいうだけではだめなのか。東氏をはじめ『波状』の人びとはそれでは不十分だと考えているらしい。なぜかというと、『創刊準備号』のコラムによれば「ネットで公開された原稿は、残念ながら、パラグラフ単位で摘み読みされ、カット&ペーストされて瞬時に消費されてしまうことが多い」からだという。

 東氏は自分の書いたものがどんな人に読まれるかに異様に気をつかう批評家である。これは笠井潔氏との往復書簡『動物化する世界の中で』(集英社新書)を読めばよくわかる。対論相手の笠井氏の立場は、自分の書いたものがどんな人に読まれるかという関心はわかるが、書いてしまった以上はだれに読まれてもしかたがないという割り切りも必要だというものである。ところが、東氏は、自分はこの文章をだれを対象に書けばいいのかということに最初から最後までこだわりつづけ、その問題意識を共有しようとしない笠井氏に対して苛立ちを募らせる。この『動物化する世界の中で』は、東氏と笠井氏の対論というより、二人のすれ違いと喧嘩の本と言っていいほど議論が成り立っていない本だ(そんなしろものを、編集部の序文をくっつけただけでなんら取り繕うことなく新書の一冊に編入した集英社の編集部には敬意を表する。これはまったく皮肉ではない)。その喧嘩の原因の一つがこの「想定読者」に関するすれ違いだ。


大量生産・大量消費されることばと批評のことば

 たしかに批評にとって「想定読者」という要素は重要である。

 人の考えかたはほんとうに千差万別だ。どんな教育を受けてきたかや、いまどんなものに関心を持っているか、どんな人たちとつき合っているかで、ひとつのものに対する見かたが大きく違う。

 とは言っても、大ざっぱに見れば、たいていの人がたいていのものに持っている見かたというのは、社会全体の合意みたいなものの範囲内にある。もっとも、社会全体と大きく違う意見をまったく持っていない人はそんなにはいないだろう。しかし、そういう人でも、社会全体と大きく違う意見を持っている問題の領域はごく一部だというのが普通だと思う。マスコミというのはそういう大ざっぱな「社会全体の合意」というのを前提にして発言することで成り立つ。また、大量生産・大量消費のマーケットで流通する出版物もその前提で作られている。

 そこでは、テロとか安全とか、グローバル化とか平和とか、あるいは「オタク」とかいうことばが、十分な意味をはっきりさせられないままに流通する。むしろ意味がはっきりしていないことこそがマスコミや大量生産・大量消費の出版物では重要なのだ。文脈によっていろんな別々の意味を担いつつ、それでも同じものごとを指しているという幻想のもとにことばが流れていく。それが大量生産・大量消費のマーケットで「言論」が効率よく流通していくために必要なことなのだ。ことばにこめられた「気もち」はあいまいにされ、ぜんぜん別の「気もち」をこめたしかし表面上は同じことばと「何となく同じもの」と抵抗なく見なせてしまう。そのことで、読者はよけいな手間をかけずに一つの言論から他の言論へと次から次へと大量の言論に接していくことができる。

 だが、批評というのは、社会問題や社会現象についてでも文学についてでも、そういう「社会全体の大ざっぱな合意」からさらに微細な部分に突っこんで話を進めていくものである。批評は、「社会全体の大ざっぱな合意」で意味を十分に確定されないままで通用していたことばのあいまいさを許さない。少なくとも批評がテーマにしていることについてはそうだ。ところが、そこに分け入ってしまうと、「言論」はとたんに読者一人ひとりの考えかたの「千差万別さ」にいきなりぶち当たってしまう。

 たとえば、テロとかテロリズムとかいうものを論じるにしても、フランス革命や社会主義について学んだことのある人と、警察でいま現に犯罪と闘っている人と、2001年9月11日まで「テロ」なんてことは考えたことのなかった人とでは、「テロ」ということばを語るためのことばの組み合わせがぜんぜん違っているはずだ。そうなると、その全員に通じる議論を展開するのはひどく困難になってしまう。社会主義などの方面で「革命的暴力」というような議論になじんだ人にとってはべつに奇異でもなんでもない議論が、いまご近所の犯罪に頭を痛めている人には最初から受け入れることのできないとんでもない議論に思えたりするかも知れない。個人的によく知っているアメリカ人の友だちを貿易センタービルで殺された人は、もしかすると「イスラエルがパレスチナ人にふるっている暴力のことを考えればアラブ人のテロだけを非難するのは不公平だ」という考えかたに反発と憤り以外の何も感じられないかも知れない。もちろんその逆もあるだろう。

 そこで「共通の議論ができる場」を作るというのが批評の一つの行きかたである。それを作ることが批評の大きな社会的役割でもある。批評がそれをやらなければ、「社会全体の大ざっぱな合意」のなかを流れている「意味の確定されないことば」は飽きられて捨てられてしまい、言論全体で使われることばが限りなく貧困になっていく。批評がことばをある程度まで突きつめて論じ、それを社会の「共通の議論」の場に持ち帰ることで、社会のなかで流れている「ことば」は少しずつだけれども新しい意味を担うことができるようになり、生命力を保ちつづけるのだと思う。たぶん、この「共通の議論ができる場」を広げることが、「商業出版」で流通する批評に求められている社会的な役割なのだろうと思う。

 だが、「共通の議論ができる場」を成り立たせることだけが批評の役割ではない。そればかりに批評が力を使っていては、あることばについてある意味をすでに共有しあっている人たちが取り残されることになる。その人たちは、社会全体から見れば多数ではないだろうが、しかし「仲間うち」というには人数が多い。しかも、その人たちの全部が「わからないひとはわからなくていいよ」という閉鎖的な姿勢で満足しているわけでもないだろう。まして批評の書き手はそうだ。「とりあえず、このことばをこの意味で使うという合意のある人に向かって書くけれど、そうじゃないひとにもできれば読んで欲しいし、関心も持って欲しい」という気もちを持っている。だから、それは閉鎖的な仲間うちのコミュニケーションでは満足しない。

 そこに、「オタク」的なコミュニケーションのなかで発達した仕組みや「オタク」のコミュニティーのあり方と批評とが接近する動機があるのだ。


読者の階層化

 メールマガジンや blog システムの特徴は、書き手の側で読者を「階層化」することができるということである。

 けっして特定のだれかを排除したりはしない。それどころか、インターネット上に情報を載せる以上、いちおう世界に開かれている。その情報に接することのできる人の数は、書店にあんまり売れない雑誌を並べるばあいよりも格段に多いことも予想できる。

 けれども、そこで、サイトに掲載されているメールマガジンのサンプルを見てメールマガジンの購読を申しこむとか、 blog にコメントを書くとかいうところで、読者の選別が可能になる。ことばの意味とかその背後にある体験とかをあまり共有できない人は、なかなかメールマガジンの購読を申しこまないだろう。また、 blog は、使っているツールによるけれども、コメントをつけるのは容易であるから、べつにその人とぜんぜん違う考えを持っている人がコメントをつけることもできる。嫌がらせもできるだろうし、そこの内容とは関係のない自分の宣伝のようなものも書けるかも知れない。けれども、書きこみ放題のネット掲示板と違って、管理権を書き手のほうが持っているので(この管理権の厳しさもサイトによるのだろうけど)、嫌がらせやぜんぜん関係のない内容の書きこみなどはさっさと削除されてしまうだろう。また、そのサイトに集う人たちの考えとあんまり違うことを書けば、その人のコメントだけが浮いてしまい、書きこみ意欲を失ってしまう。そういうところで blog でも「読者の選別」の機能は働く。

 しかし、メールマガジンはともかく、 blog のばあいは、別にコメントを書きこまなくても、単にそのページをときどき読んだり眺めたりするだけという「参加」のしかたもできる。『波状言論』はバックナンバーの公開はしていないけれど(したがって、ここで言及したアーティクルのうち、「創刊準備号」以外の掲載分は、残念ながらこのメールマガジン購読者以外の方には読んでいただくことができない)、バックナンバーをウェブ上で公開しているメールマガジンもある。もし情報に接するのが少し遅れてもかまわないなら、バックナンバーとしてウェブ上に掲載されてから読むのでもかまわない。東氏のように、メールマガジンと blog を使い分けてそれぞれの読者の範囲に違いをもたせるということをすることもできる。

 インターネット上の言論で適切な「仕組み」を使えば、全世界に言論を公開しながら、読者を選別することができる。その言論に接しもしない人から、調べものか何かをしている途中にその言論にたまたま出会っただけの人、そのページを定期的にチェックするだけの人、メールマガジンを購読する人、 blog にコメントを書きこむ人というふうに、読者を「階層化」することができるのだ。

 しかも、その階層化は、管理者の側から「あなたはここまではいいけど、ここから先に入ることは許可されていません」などと強制的に行うのではない。原理的には、インターネットにアクセスできさえすれば、全世界の人がいちばんアクティブなメンバーとして参加することを許されている。その下でその言論にどこまで関わるかを決めるのはあくまで読者の側なのだ。

 これが批評の公開に適した言論の公開のかたちだ。その批評家の使う「ことば」を深く理解できる人は、積極的にコメントを書くなどして批評家の批評により深く関わっていくことができる。その批評家の使うことばやその背景はよくわからないけど、何か気になることを言ってるな、と思った人は、ときたまホームページを覗くだけでよい。ときたま覗いていて、その人の言っていることに興味を感じれば、 blog にコメントを書いたりすればいい。逆に、最初は熱烈な思いこみがあったのに興味を感じられなくなってしまえば、 blog への書きこみをやめればいい。読者が階層化できるだけではなく、読者の階層間の移動も自由にできるのだ。

 本や雑誌のばあいでも同じような過程はある。何か気になると思って衝動買いした本にはまってしまったということも起こるだろうし、長年購読していた雑誌がおもしろく感じられなくなって購読を止めるということもある。けれども、本のばあいは、衝動買いするにもおカネがいるし、購読をやめてもそれまで買っていた本を捨てるなり古本屋に出すなりリサイクルに出すなりしないといけない。そういう「気の重さ」がインターネットにはない(パソコンを買うのにおカネがかかるかも知れないけど)


批評の「コミュニティー感」

 さらに、インターネットのばあい、リンクによってかんたんに他の人の書いた文章を参照できるため、多くの批評のなかでいま読んでいる批評がどんな位置を占めるのかをすぐに確かめることができる。

 本や雑誌だとそうはいかない。参照されている本が絶版で(出版社そのものがなくなっていることもある)、近所の図書館にも古本屋にもないなんてことがごく普通にあるし、雑誌のバックナンバーを見つけてお目当ての論文を探りあてたときにはなんでその論文を探していたのかがなかなか思い出せなかったりすることもある。

 もちろん、それは一方的に悪いことではなく、そうやって図書館を探って歩いたりしているうちに情報の整理ができていくという利点もある。逆に、インターネットでリンクをかんたんにたどれるということは、書き手も安易に影響を受けるわけで、批評はあふれているがどれも似たようなものになってしまったり(東氏のいう「シミュラークル」の氾濫か)、細かい部分の違いばかり強調して大きな問題を論じずに終わったりということにもなりかねない。

 しかし、その欠点は利点の裏返しでもある。また、本や雑誌のばあいならば「そんなことを書いたひとは前にいくらでもいる」と没になってしまうような文章のなかに、何か新しい言論に発展していくかも知れない要素が含まれていてもそれが日の目を見ることはない。それに対して、インターネット上では前にだれかが書いたのと同じような文章や考えの熟しきっていない文章でも発表されるので、そこから新しい考えが生まれてくることもあり得る。ほんとうに批評の世界でそういう利点が活きているのかどうかは知らないけれど。

 インターネット上の批評は、どんな人も最初から排除してしまうことなく、しかも同じことばが通じる人や、ことばに同じ背景を感じることのできる人の集まりを作り出すことができる。そこでは、近代的マーケットでは失われた「気もち」のやりとりが可能になる。同じことばを使うこと、ことばに同じ背景を感じることのできる者のあいだの連帯感や「コミュニティー感」(共同意識)のようなものだ。しかも、それを感じられない人を最初から排除してしまうということをせず、その人たちのあいだからの自発的な新規参入も得ることができる。

 「商業出版」は「商業」として成り立たせるために、言論を工業製品と同じように市場との関係で「生産」し流通させる必要がある。そのマーケットの制約と言論の持つ「気もち」を伝えるという役割とをどう調整するかが編集者の腕の見せどころでもあったわけだ。しかし、その結果、批評はその「商業出版」のなかで全体としては「高くて難しくて売れない本」という位置に立たされることになった。そういう分野の本だからおいそれと企画を立てて出版することができず、したがって、完成度の低い文章は本や雑誌に載ることがなかった。だれかのつてが使えた人はともかく、そうでなければ、かなり完成度の高い文章を持ちこまなければ、批評家として世に出ることはできなかっただろう。その結果、批評家のコミュニティーは、その時代の批評の雰囲気のなかで「ある程度の完成度の高い文章が書ける」と見られた批評家たちの集団になった。私はけっして批評を多く読んできたわけではないからはっきりしたことは言えないが、それを承知で書くと、それが批評活動全体の停滞をもたらしてきたという面もあるのではないだろうか。

 批評がインターネットという場を獲得し、そこで読者を最初から排除することなく読者を階層化することができる仕組みが普及してきたことで、批評の場は「活性化」していくだろうか。それはわからない。多くの人に開かれているにもかかわらず、同じことばが通じ、同じことばに同じ背景を感じられる人の巨大な「仲間うち」が形成されるだけで終わってしまうかも知れない。批評の場が開かれているということは、外からの新規参入をいつも可能にするという方向性だけではなく、外に対して「仲間うちの論理」をさらけ出して「それについてこられる人だけついておいで」という(しきい)を感じさせてしまうこともある。「コミュニティー感」というのは、人をそのコミュニティーに引きつける力も持つかわりに、「あの仲間にはなりたいとは思わない」と思わせて遠ざけてしまう可能性もあるのだ。また、外に開かれていることや情報量が多いことが必ずしも批評の水準を上げることにつながるとは限らない。

 そんな可能性も考えながらも、私は「インターネット上の批評」の行方について幾分かの関心を払いつづけていきたいと思う。


―― おわり ――




 ※ この文章を掲載した当時はまだ『波状言論』のバックナンバーは販売していなかったので、下に掲げたような注意書きを添付しましたが、現在は『波状言論』のバックナンバーも購入できるようになりました。詳細は『波状言論』のページをご覧ください。


 ※ 今回とりあげた『波状言論』は東浩紀氏のホームページで申し込み手続を完了した人の登録アドレスにのみ配信されています。詳細は『波状言論』のページをご覧ください。現在(2004年2月11日現在)から申しこんだばあい、いちばん早くて3月分からの購読になるはずです。