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シュレディンガーの猫
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第二十三回

政治権力の「正しさ」と「よい支配」

― 2003年12月 ―

 前回のこの欄で私は「悪い権力であってもよく支配できる権力と、よい権力だけれどもろくに支配できない権力ならば、よく支配できる悪い権力のほうを高く評価する」と書いた(→ここ)。

 あとで読んでみていかにも誤解されそうな表現だと思った。「悪い」権力が支配しつづければ、そこの社会から搾り取れるだけ搾り取り、住んでいる人たちには何の自由も認めず、その結果、そこの社会は暗く貧しく生きにくいものになってしまうのではないか。そんな権力が「よく」支配するぐらいならば、支配しないほうがずっとましだ。そういう反論が成り立ちうると思ったのである。

 というわけで、今回はその言いわけである。


 ここで私が「よく支配する」と表現したのは、最低限でも、そこに住んでいる人たちの大多数に、とりあえず安心して日々の生活を送れるような状態を実現することを意味している。「秩序」とか「治安」とかいうものを守り、最低限の衣食住を保障することが「よい支配」の最低条件である。そこに住んでいる人たちから搾り取るばかりの支配や意味もなくそこに住んでいる人たちの自由を奪う支配が「よい支配」であるわけがない。

 したがって、治安を守れていない支配や、「治安を守る」ことを理由にそこに住んでいる人に銃口を突きつけて車を停めさせ、やたらと車の荷物をひっくり返したり体じゅうをいじくり回したりしているような支配は「よい支配」とは言えない。イラク駐留中のアメリカ軍がそんなことをしなければならない理由はよくわかるし、やってはいけないとは言わない。やらなければ自分たちが殺されるかも知れないからだ。けれども、そんな強権に支えられている支配はけっして「よい支配」ではない。アメリカ人がその支配をどう思おうと勝手だけれども、私たちはイラクでのアメリカ軍の占領支配が「よい支配」ではないという認識を持っておいたほうがいいと思う。イラクへの私たちのかかわりかたを考えるときにはそれを出発点にするべきだろう。

 しかし、「よい支配」をするのが「よい権力」で、「悪い支配」をするのが「悪い権力」なのではないだろうか。ということは、「よい支配をしないよい権力」や「よい支配をする悪い権力」という言いかたは矛盾してはいないか。

 私は権力そのものの「よい」・「悪い」の区別と、支配の「よい」・「悪い」の区別はできると考えているし、別物と考えたほうがいいと思っている。

 繰り返すと、支配の「よい」・「悪い」の区別は、そこに住んでいる人たちの大多数に最低限の衣食住を保障し、その人たちがとりあえず安心して日々の生活を送れるようにすることを境界線にしている。その水準を達成していれば最低限ではあるが「よい支配」、その水準を達成していなかったり、達成する気が最初からなかったりすれば「悪い支配」である。そこに住んでいる人たちが生活に余裕や潤いや愉しさを感じられるようにすれば「もっとよい支配」ということになるだろう。

 もちろんこの基準はその政治権力が置かれた条件によって変わりうる。最低限の衣食住を保障し、安心して日々の生活を送れるようにする以上のことが十分にできる財源や国際環境に恵まれているのに、その最低限しか保障しないのであれば、その支配は「よい支配」とはいえない。つまり、ほんとうは「よい支配」かどうかは、その政治権力への期待や政治権力が置かれた状況と関係して決まるという性格を持つ。ただし、ここでは、話をこれ以上ややこしくしないために、そういうことは無視して、最低限の衣食住ととりあえず安心して日々の生活を送れるようにすることを「よい支配」の最低条件としておきたい。

 それに対して、権力そのものの「よい」・「悪い」の区別は、その権力がどんなふうに成り立ったかとか、げんにどんなふうに成り立っているかとかいうことを基準にしている。

 私が「よい権力」とか「悪い権力」とか表現したのは、その権力が「正しく成り立った権力」かどうかという観点からの分類である。「正しく成り立っている権力」を「よい権力」、「正しく成り立ったのではない権力」を「悪い権力」と表現したのだ(政治学でいう「正統性」の問題である)


 このように議論すると、権力にとって「正しい」とは何なんだという疑問がつぎに出てくる。「その正しさを判断するのはだれだ?」という疑問も出てくる。いきなり「何が正しい権力か?」ということを議論すると抽象論になってしまうので、まず「だれが判断するのか」という議論から入りたい。

 だれが「何が正しい権力か?」を判断するのか。じつはだれでもいいし、だれでも判断しているのである。私にとって「正しい」権力が、となりにいるだれかにとって「正しい」権力ではないかも知れない。また、昨日の私にとって「正しい」権力だったものが、今日の私にはちっとも「正しい」権力として感じられないこともあるだろう。何を「正しい」権力と感じるかということは、その人がどんな経済状態にいるか、その人が幸福感に浸っているか不幸だと感じているかということから、もしかするとその日の気分や体調によってさえ左右されるかも知れない。だから、「絶対に正しい」権力などというものは、中世ヨーロッパの人たちにとっての「神」のような絶対的な基準を持ち出さなければ定めることができない。

 ただ、同じような場所に住み、同じような境遇で同じような生活をしている人の、ある権力についての「正しさ」の感覚は概ね一致すると考えていいだろう。けれども、世界にはいろんな人のグループがいるわけだから、ある権力の「正しさ」についての判断が世界じゅうで完全に一致することはない。アメリカ合衆国の政府から見て「正しい」政権が、国連から見てあまり「正しい」とは感じられないことだってあり得るし、現地の人たちからはまったく「正しい」政権として受け入れてもらえないこともあり得る。同じ地域に暮らす一つの民族にとって「正しい」政府が、他の民族にとってちっとも「正しい」政府でないということもあるだろう。

 どういう権力を「正しい」と見なすかは、それを感じる人たちそれぞれの感覚によりさまざまだ。だれにでも通用する基準というのがあるわけではない。

 しかし、すべての人たちにではなくても、多くの人たちに通用する基準がまったくないかというと、そうでもないと思う。

 たとえば、憲法に従って組織された政府と、憲法を無視して組織された政府では、多くのばあいには憲法に従って組織された政府の権力のほうが正しく、憲法を無視して組織された政府の権力は正しくないと感じられるだろうと思う。また、憲法がなかったり、憲法そのものが「正しい」という信用を得ていなかったりするばあいには、国民投票などで多くの人たちの合意を得て成立した政治権力のほうが正しく、軍隊の力などで力づくで樹立された政治権力は正しくないと感じられるだろう。

 宗教が広く信じられている地域では、その宗教の教えに忠実な政治権力は正しく、教えに反する政治権力は正しくないと感じられるだろう。伝統を守る意識が強い地域では伝統に忠実な政治権力が正しいと感じられ、伝統に反する政治権力は正しくないと感じられるだろう。

 つまり、政治や社会のあり方について何か「正しい」とされていることが人びとに共有されていて、その「正しさ」になるべく近い成り立ちかたをした政府の権力が「正しい」権力と感じられ、その「正しさ」に反する成り立ちかたをした政府の権力は「正しくない」権力と感じられる。あたりまえの結論である。

 ただし、このあたりまえの結論で確認しておきたいのは、こう考えたばあい、「正しい」権力かどうかを判断する基準は、その権力が成立する前から、その権力を受け入れる側の社会が先にもっているということだ。それが普通の順序と考えられていて、そういう順番にならないのはどこかおかしいと感じられる。


 でも、問題はその先にある。

 現代の世界を考えたばあい、政治権力とはまず国家の権力である。国家のほかに自治体などもあるし、国連などの国際機関もあるけれども、近代社会ではそういう組織や機関が国家の存在抜きに政治権力の主体として存立することは難しいだろう。だから、現代の世界で政治権力について考えるときには、まず国家権力について考えるのが妥当な道筋だ。

 では、その国家の下の社会は、ほんとうに同じような政治権力を正しいと感じるような人ばかりで構成されているのだろうか。

 現実にはそんなことはない。

 先に書いたように、どんな権力を正しいと感じるかは人によって違う。それが完全に一致するなんてあり得ない。

 ただ、倫理的にはともかく、政治的にはそれぞれの人の「正しさ」の感覚にはいくらかの許容範囲があるのが普通だ。倫理的には「こうでなければ正しくない」と思っていても、実際に生活していくうえでは「あんまり正しいとは思わないけど、この程度ならばまあ正しいと認めてやってもいいか」という感じで許したり流したりしするのが普通だ。

 自分が心のなかにもっている「正しさ」の感覚が非常に厳格なもので、政治的な「正しさ」がその心のなかにもっている「正しさ」から少しでも離れてしまうのを許さないような態度が原理主義である。けれども、原理主義的に生きるのは、政治的に「正しくない」と感じることを片っ端から正して回らなければならないので、疲れる。日常の生活にかかる負担も大きすぎる。だから原理主義者は社会の多数になることはない(ただし、自分は原理主義的に行動はせずに原理主義的に行動する人を支持する「原理主義の支持者」は社会の多数になることはあり得る)

 そういう許容範囲が重なり合うところで社会全体の「政治権力の正しさ」についての感覚が成り立つ。そうやって一つの「政治権力の正しさ」の感覚が共有された社会の上に一つの国家が成り立つ。


 しかしこの「許容範囲」という考えかたを援用しても、現実にはなかなか「政治権力の正しさ」の感覚を共有した社会の上にあとから国家が成り立つというわけにはいかない。「政治権力の正しさ」の感覚がまるで共有されていない社会の上に国家が成り立ってしまうこともよくある。

 革命が起こったようなばあいはとくにそうだ。1917年のロシア革命でロシアの中心部に労働者と農民の社会主義的な権力(ソビエト権力)がうち立てられたからといって、ロシア全土の社会が社会主義者の政治権力が正しいと認めたわけではない。だからロシア革命の初期にはソビエト政府軍が反革命軍と内戦を繰り広げなければならなかった。日本の明治維新でも同じような面はある。明治維新は革命としては革命後の体制を早く定着させることに成功したほうだが、それでも明治政府が成立したときに日本全国が明治政府の権力を「正しい」権力として認めていたわけではない。創立されたばかりの明治政府は幕府支持派の諸藩と内戦を戦わなければならなかったし、その後も国内に残る旧「国」・旧藩意識とたたかわなければならなかった。

 また、戦争によって他の国に占領されたばあいや、戦争で自分の国の政府が降伏してしまったばあいにも、同じ問題が起こる。戦争に勝った国は負けた国を併合してしまうこともある。また、併合しなくても、勝った国は負けた国に自分の国に都合のよい政治体制を押しつけるのが普通である。その国の社会がどういう政治権力を「正しい」と考えているかは、参考にされることはあるかも知れないが、それに基づいて戦後の政治体制が作られるわけではない。

 革命や戦争で新しい支配者になった国家はどうするだろう?

 「政治権力の正しさ」についての感覚が共有された社会がその支配下に存在しないならば、その国家の政治権力を使って自分の権力を「正しい」とするような社会を作る。権力とは社会を変える力だ。その力を使えばいい。そうすればやがては「政治権力の正しさ」についての感覚が共有された社会ができあがり、その社会が一つの国家として自分たちの国家を支持してくれるようになるはずだ。


 そのいちばん荒々しいやり方は、そこに住む人たちを、その国家の支配を正しいと考える感覚を持っているかのようにふるまわなければならないように強制してしまうことである。その国家の支配に疑問を投げかけることを言ったり、国家の支配を批判するそぶりを見せたりしたら、ただちに逮捕したり処刑したりするというやり方である。

 このような力による強制では「政治権力の正しさ」についての感覚が一つにまとまった社会を作ることはとてもできない。しかし外から見ればそういうふうに見える社会を作ることならばできる。外から「政治権力の正しさ」についての感覚がいちおう一つにまとまった社会だと見なされれれば、外国がその国家の支配にケチをつけにくくなる。

 それに、国内に住んでいる人だって、そういう力による強制がつづくうちに、「力で押しつけられた支配だけど、まあいいか」と考えるようになり、その支配を「政治権力の正しさ」の許容範囲の片隅にぐらいは置いてくれるようになるかも知れない。もちろん、その程度に受け入れてもらうためには、単なる力による強制だけでは無理で、最低限の「よい支配」をつづけることぐらいは必須の条件になるだろう。

 もう少し荒々しくないやり方は、その社会の人びと全体に影響力のある一部分の人たちにその国家の支配を正しいと受け入れさせてしまうことである。このやり方にはいろいろある。社会に影響力のある一部分の人たちを「力による強制」で脅し、その国家権力を正しいもののようにふるまわせる。そのようすをその国家権力が正しいかどうか考える材料や考える能力を持たないその他の人びとに見せて、その人びとを服従させるという方法がとられることもあるだろう。逆に、社会に影響力のある人びとに利益を与えたり、その人びとの望んでいることを(かな)えたりして、その人たちに心底からその国家権力の正しさを信じこませる方法もある。そうすれば、他の人たちは直接に利益を受けていなくてもその国家権力は「正しい」と信じてくれるかも知れない。社会全体に影響力のある人たちを利用する方法で特別に荒っぽいやり方は、その影響のある人たちを迫害して見せしめに利用するという方法である。この方法は、社会全体を「力による強制」で支配するより使う「力」が少なくてすむけれども、下手をすると社会全体に反発を拡げてしまう危険も大きい。

 国家権力が文化を利用してそこに住む人たちに「政治権力の正しさ」の感覚を押しつけることもある。教育や宣伝を通じてその国家権力の正しさを信じこませていくという方法もその一つだ。これもいろいろあって、時間をかけ、その社会のさまざまな人びとの要求を受けつけながら行うこともあれば、民衆を催眠術や詐術にかける方法もある。ある文化を強制したり奨励したりするという方法もあるし、ある文化を禁止するという方法もある。ある言語だけを教育の場で使う言語として認め、それ以外の言語による教育を禁止するとか、その政治権力の支配にうまく適合した宗教を特別に優遇し、その政治権力を否定しそうな宗教を禁止するとかいう方法である。

 国家権力がそこに住む人たちに何かの利益を与えて「この権力の支配は正しい支配だ」と思いこませるという方法もある。また、そこに住む人たちが全体として願っていることを叶えてやるという方法でその政治権力の「正しさ」を信じこませるという方法もある。

 利益で釣ったり迎合したりで、あんまりよいことでないと感じられるかも知れないが、政治権力としてはこれがあたりまえのあり方だと思う。国家権力がそこに住む人たちに与えている利益や、そこに住む人たちの願望をどれだけ叶えているかという程度と、国家権力がそこに住む人たちにもってほしいと求める「政治権力の正しさ」の感覚の内容や強さとが釣り合いが取れていれば、それは国民と国家権力とのあいだで適切なバランスが取れているということだと思う(もちろんこれは私自身の「政治権力の正しさ」の感覚にしたがって言っているのであり、そうでないという感覚を持つ人がいてもそれは当然だ)


 こういうふうに考えていくと、ある社会が「政治権力の正しさ」の感覚を先に持っていて、その社会の感覚に適したかたちで国家が成り立つという一方通行で考えないほうが実態に近いように感じられてくる。もちろん国家が先に成り立ち、硬軟さまざまな手段を取り混ぜてその下の社会にその国家の「政治権力の正しさ」を認めさせていくという一方通行でもない。その両方の相互作用で国家は成り立っていると考えるのが自然だ。

 社会は自分たちの「政治権力の正しさ」についての感覚に国家のあり方を合わせていこうとするし、国家のほうも自分に都合のいい「政治権力の正しさ」を社会に持たせようとする。国家が社会の「政治権力の正しさ」についての感覚を変えるために使うのは政治権力そのものだ。しかしその政治権力は国家から社会に向かって行ったきりではなくて、社会のほうも国家を変える力を返してくることになる。その双方の働きかけの釣り合いが取れて、国家と社会との両方が安定しているというのがいちばん理想的な政治権力のあり方だろう。


 しかし安定していればよいというものでもない。

 「国家と社会の関係が安定する」といっても、その「安定」には実はいろいろある。国家が「力による強制」を続け、社会がそれに抵抗するのに疲れて妥協的に順応してしまったばあいだって、「安定」の一種ではある。だが、こういうばあいには、国家のほうの「力による強制」が弱まれば、その「安定」は一挙に吹っ飛んでしまうだろう。現在のイラクはたぶんそういう例である。

 逆に、国家が社会に迎合しすぎて、国際情勢の変化とか自然環境の変化とかいう外部の変化に応じて社会を変化させることを怠っても「安定」は実現する。そういう状態では、国家と社会の関係はよいかも知れないが、世界のなかでその国家と社会は生き延びる力を失っていくことになるだろう。「安定」した社会は危機が差し迫るまで変化することを嫌う。国のなかの社会を取り巻く情勢や環境が変化したことに国家が先に気づいたら、社会との「安定」な関係を一時的にこじらせても、その変化に対応していくように社会に促すのも国家の役割だろうと思う。

 いまの日本の「構造改革」がその例である。私はこの欄で「構造改革」を何回も批判しているが(「こんな景気回復でいいのか?」「「よいインフレ」と「悪いインフレ」」など)、改革の必要性そのものを全面的に否定しているわけではない。改革は必要だろうけれど、やり方がまずいのでは、と言っているのである。

 国家と社会とのあいだの「安定」が一時は実現していたとしても、それがいつまでもつづくとは限らない。

 ある差し迫った危機の下で社会が国家の「政治権力の正しさ」を認めても、その危機が去ってみればその「政治権力の正しさ」を認めなくなることもあり得る。成立したときには「正しい」ものとして熱狂的に迎えられた政治権力が、時が経つうちにいつしか「正しくない」ものと見なされるようになることもある。

 そこで国家は「安定」を続けるためにいろいろな工夫をする。

 社会が国家に何を求めているかを探り、国家が権力を使ってその求めているものを実現していくのが、たぶん「安定」を続けるためのいちばんまっとうな手段なのだろう。そのすべてを実現することはできない。けれども、議会を開いたり、選挙で指導者を決めたり、人びとの自治組織の言うことに耳を傾けたりして、社会が何を求めているかを国家は知ろうとしているというかたちを示すことで、国家には社会との関係を「安定」させていく意思があると示すことで、その目的をある程度まで達することはできる。

 また、教育や宣伝を利用するというのもごく普通に行われる一つの手段である。現在の国家の政治権力が成り立った時点で、社会にとってその政治権力がいかに「正しい」ものであったかを教育を通じて教えこんだり、社会に広く宣伝したりする。それでは追いつかなくなったばあいには、国家が社会に「政治権力の正しさ」を認めさせるためにわざと「差し迫った危機」があるように装うこともある。ただし、このやり方をあまり続けると、社会のほうに国家が「差し迫った危機」を演出しているのが見抜かれてかえって「政治権力の正しさ」を疑わせる原因になるかも知れない。「差し迫った危機」を作り出すためにわざと外国との関係を悪化させることもあるかも知れない。けれども、これはその悪化した外国との関係をうまく処理しなければならず、失敗したときの危険が大きい。

 支配する国家と、国家の支配下にある社会との関係は、国家が力で強制するのでもなく、逆に国家が社会に迎合しすぎるのでもない状態で安定しているのがよいのだろう。力で強制する状態で安定させていたら、現在のイラクのように、その力の強制がなくなったとたんに社会の一体性まで崩壊してしまう。イラクのばあい、サッダーム・フセイン政権の力による強制で、スンニー派アラブ人社会、シーア派アラブ人社会、クルド人社会などが一つの社会としてまとまっていたのだ。あるいは、サッダーム・フセイン政権は、その社会が自分の「力による強制」以外でまとまるきっかけを持たないようにしていたのかも知れない。勝手にまとまりを持ってしまうと、「力による強制」の効力が低下するからだ(いわゆる「分割統治」の一種で、植民地支配などでもよく使われたやり方である)


 最初の議論に戻ろう。「よい支配」と「悪い支配」と、「正しい政治権力(よい権力)」と「正しくない政治権力(悪い政治権力)」の関係についての議論である。

 まず、「正しい政治権力」が「よい支配」をすれば、その国は安定し、そこに住む人たちはまずまずの生活は送れることになる。

 「正しくない政治権力」が「悪い支配」をつづけて長続きすることはできるだろうか。政治権力の正しさを疑わせるような言動を「力による強制」で封じつづければ、「正しくない政治権力」でも社会を支配しつづけることはできなくはない。現代世界では、国家が軍事力などの暴力手段を独占すれば、山にこもってゲリラ戦をやるとか、バリケードを築いて石を投げるとかいう手段だけではその国家の支配を突き崩すことはできない(このことはまえにイラク戦争に関連して論じたことがある。「イラク戦争について思うこと 12.」。だから「正しくない政治権力」が「よい支配」もしないで居すわる可能性はある。ただし、つねに力で強制しつづけることはかえって国力に負担をかけるし、また、そういう国家権力は、外国から「その国を支配する資格がない」と文句をつけられ、国際的に孤立してしまう危険性を持っている。

 だから、「正しくない政治権力」は、もし可能ならば、最低限であっても「よい支配」を行うほうが楽ではある。そうすることでそこの国に住む人たちから「政治権力としての正しさ」を認めてもらえるようになるかも知れない。そうなればその政治権力は安定する。それに、その国に住む人たちがそこの国家権力に「政治権力としての正しさ」を認めていれば、外国もその国にうかつに干渉できなくなる。

 逆に、「正しい政治権力」であっても、実際に「よい支配」が行えないならばその「政治権力の正しさ」はやがて疑われることになるだろう。もしその「正しい政治権力」が「よい支配」を行っていなくても社会の人たちが何の不満もなく暮らせているならば、そんな政治権力はいらないということになる。もしその「正しい政治権力」が「よい支配」を行わないために、その社会の人たちが衣食住も確保できず明日の生活のあてもない状況になっているならば、そんな政治権力の「正しさ」などだれにも認めてもらえなくなるだろう。

 全体に、「よい支配」を行うことは、その政治権力の「正しさ」を社会に認めさせることにつながる。逆に、「よい支配」を行わなかったり、「悪い支配」を行ったりすると、その政治権力の「正しさ」は次第に社会に認められなくなって行く。


 それでは、けっきょく「よい支配を行うのが正しい権力で、よい支配を行わないのが正しくない権力だ」という見かたを裏書きするだけになってしまう。

 たしかに全体としてそういう傾向はあると思う。けれども、今回のイラクやアフガニスタンの例を具体的に考えるときには、私はやはり「よい支配を行っているかどうか」と「権力が正しい権力かどうか」とは区別したほうがいいと思うのだ。

 イラクでもアフガニスタンでも、あるいは世界のどこの地域でも、そこにうち立てられる政治権力は、最終的には「よい支配を行い、正しいと認められる政治権力」であることが理想だと思う。しかし、戦争で政府が打ち倒されたばあいに、いきなりそんな政治権力をうち立てるのは無理だ。

 だとしたら、「正しいと認められているけれども、よい支配を行うことのできない政治権力」から出発するか、「正しいとは認められていないが、最低限であれよい支配を行う政治権力」から出発するかのどちらかしかない。どちらがいいのだろうか、という選択に迫られることになる。

 あるいは、最初は「正しいとも認められていないし、よい支配も行えない政治権力」から出発するしかないかも知れない。現在のアメリカ軍の占領支配はまだその範囲を抜けきっていないように思う。けれども、その「正しいとも認められていないし、よい支配も行えない」状態から、まず「正しい政治権力」として認められることを目指せばいいのか、まず「よい支配」を行うことを目指せばいいのかという選択は重要である。

 私は、ここでまず「よい支配」を行うほうを目指すべきだと思っている。「よい支配」は政治権力の「正しさ」を生み出すもとになる。けれども、政治権力が「正しい」と認められていることが「よい支配」につながるとは限らない。その政治権力は無力で「よい支配」をしたくてもできないかも知れない。また、その政治権力は「正しい」と認められるために社会の人びとをだましているのかも知れず、最初から「よい支配」など行う気はないのかも知れない。


 しかし、こういう考えかたを現在のイラクに当てはめれば、もしアメリカ軍当局が「よい支配」を行うのであれば、アメリカ軍の軍事占領がいつまでもつづいてもかまわないという結論になるのではないだろうか。

 私は、イラクの人たちがそれがいいと思い、アメリカの占領支配を「正しい政治権力」だと認めるならば、それでもいいと思う。

 重要なのは、その判断の主体がイラクの人たち自身であるということであり、そのイラクの人たちが何を「正しい政治権力」として選ぶかということには外から口を挟むべきではないと思っている。だから、アメリカ軍政が半永久的につづこうが、かたちだけアメリカから独立してアメリカの言いなり政権が支配することになろうが、イラクの人たちがほんとうにそれが「正しい政治権力」だと納得するならば、イラクの外の私たちにはどうしようもない。

 ただ、現在の情勢を見るかぎり、イラクの人たちがアメリカの軍事占領を「正しい政治権力」としていつまでも受け入れることはまずないと思う。アメリカ軍がクルド人勢力と協力してサッダーム・フセインを捕まえたことは、アメリカが軍事占領をつづける必要をかえって薄くする方向に働くのではないだろうか。また、イラクの人たちが万一アメリカの軍事占領を「正しい政治権力」として受け入れたとしても、イランやシリアやパレスチナやサウジアラビアといった周辺のアラブ諸国がそれを受け入れるとは思えない。そうなればイラクとアラブ諸国との対立が激化するから、やはりイラクの人たちがアメリカの軍事占領を「正しい政治権力」として受け入れることはなさそうだ。

 こういうばあい、「よい支配」を受けてとりあえず生活が安定している人たちならば、いまの「正しくない政治権力」に替えてどんな政治権力をうち立てればよいかを考える余裕がある。それに対して、「よい支配」を受けていなければ、そんなことを考える余裕がなくなる。ばあいによっては、日々の生活を成り立たせるために、「正しくない政治権力」がばらまくカネを目当てにその「正しくない政治権力」を支持してしまうかも知れないのだ。日々の生活にも困っている人たちをカネで釣って自分を支持する政治運動に動員するという方法は、昔から専制君主や独裁者がよく行ってきたやり方だ。「よい支配」を行い、そこに住んでいる人たちに衣食住と日々の生活の安心を保障しておけば、そんな「正しくない政治権力」の罠に引っかかる人も少なくなるだろう。逆に、「正しい政治権力」でも「よい支配」が行えないならば、そこに住んでいる人たちが生活の不安から「正しくない政治権力」に引き寄せられていくのを止めることができない。

 いま「よい支配」をしておけば、イラクの人たちがアメリカの軍事占領を「正しくない権力だ」と考えるようになったとき、自分たちの力で「正しい権力」を選択する可能性を高めることができる。

 もちろん、「よい支配」をしておいてあとで「正しくない権力」として否定されるならば骨折り損ということになる。けれどもそれはしかたがない。アメリカが、ほんとうに、石油利権のためではなくイラク民主化のためにたたかったのならば、それぐらいの骨折り損は最初から織り込み済みのはずである。

 だから、私は「悪い権力(正しくない権力)でもよい支配をする権力」を高く評価すると書いたのである。イラク情勢についての現時点での理想をいえば、アメリカ軍やイギリス軍などの占領軍はなるだけ早くイラク全土で「よい支配」を実現し、イラクの人たちが自分たちの「正しい政治権力」を選択できる条件を整えて、それが整ったらさっさと全面的に撤退するべきだと思う。ま、あんまり期待できないけどね。


 日本の世論には、政治権力などというものはできればないほうがよく、あるとすればまず「正しい政治権力」であるべきで、「正しくない政治権力」などというのは最初からあってはならないと考える傾向が強いのではないかと私は感じている。

 私は、そういう考えかたに全面的に反対ではない。たしかに政治権力などというものによって社会が変えられるまえに社会が自分で変わっていけるならば政治権力などというものはいらない。だから、社会が自分でどう変わっていくかをコントロールできている分野にまで政治権力が口出しするのには私は反対だ。また、「よい支配」が実現できるならば、「正しくない政治権力」の「よい支配」よりも「正しい政治権力」の「よい支配」のほうがいいに決まっている。

 ただ、私は、人間は何の支配も受けないで、自分たちだけで「よい社会」を全面的に作り出すことはできないと思っている。繰り返すが、そういう能力がまったくないと言っているのではない。自分たちでルールを作り、それを運用していく能力は人間には備わっていると思う。だいいち、そういう能力が人間に備わっていなければ「政治権力」というものも人間自身が作り出すことはできないはずだ。ただ、その能力で、政治権力を作らずに、社会全般の問題を全部解決できるほどの能力はいまはまだ備えていないだろうと考えているだけである。

 そうである以上、政治権力は必要だ。それが「正しい」権力であること、具体的に言えば、憲法に基づいて成り立っているとか、自由に意見を表明できる状況の下での国民投票で圧倒的な支持を集めたとか、国際社会から認められているとかいうことがあったほうが望ましいには違いない。しかし、それを「よい支配」を行っているかどうかということよりも優先して考えるのは、倫理的には正しくても、政治的な選択としてはまちがいではないかと私は思っている。


 う〜む、長かったわりには、あんまり「言いわけ」になってないかな?


―― おわり ――