恭仁(くに)京を訪れる

清瀬 六朗



3.

塔跡(31KB)
 山城国国分寺塔跡 恭仁京の宮殿は、廃都後、山城国国分寺に転用された。この場所に七重の塔がそそり立っていた。

 木津川にかかった恭仁大橋を渡る。橋の上からは川の流れがはるか下に見える。流れる水の量が少ないからよけいに高く感じられる(この原稿を掲載した当初は、恭仁大橋を「緑に塗装された」と書いていましたが、これは記憶のまちがいでした。お詫びします)

 そこからだらだらとした下り道を下る。坂道がけっこう続く。堤防がそれだけ高いのだ。

 これを書いていて「あーそうか」と思いついた。何を思いついたかというと、なんで「公共事業」でダムを造りたがるかという理由だ。

 ダム本体が大工事でけっこうな雇用が見こめる。同時に、下流の堤防もダム放流に合わせて高くしなければならない。しかも切れ目なくだ。堤防が高くなると橋も架け替えなければいけない。大土木工事である。そういう大土木工事の必要な区間が10キロ以上も続くわけだ。これはたいへんな「経済効果」である。

 う〜む、そういうことだったのか。

 そうやって国土を造り変えることで社会のなかで富を回してきたのが、グローバル化と中国・韓国の発展とかいろいろあってうまくいかなくなり、それでいま「改革」をやっているのだろう。聖武(しょうむ)天皇‐橘諸兄(たちばなのもろえ)政権の「改革」について十のうち一個ぐらいアタリがあればいいとか書いたけど、自分の生きている時代の「改革」はいくつぐらいアタリがあるんだろうと考えてしまう。

 聖武天皇や橘諸兄だって、墾田(こんでん)永年私財法から荘園制などという、当時の国家体制を覆してしまうものが出現するなどということは期待していなかっただろう。もしそんなものが出現するとわかっていればこんな「改革」は行わなかったかも知れない。そうだとすると、この「改革」だって「改革」の意図以外のところで社会を大きく変えてしまったわけだ。それは「改革」の「成功」とは言わないのかも知れない。

 同じように、いまの「改革」だって、意図していないところで社会を決定的に変えてしまう可能性もある。そういうことを考えると、「改革」がきっちり意図どおりに実現したばあいを考えて将来を「設計」するのはほどほどにしておいたほうがいいのかも知れない。


 堤防を下って国道に突き当たり、まっすぐ行けば海住山寺、左に曲がれば恭仁京跡と書いてある。けっこう車の交通量の多い国道だ。たぶん、古代、恭仁と紫香楽(信楽)をつないでいた道があったとすれば、それがこの国道になっているのだろうと思う。

 それはともかく車が多い。ここを歩くのも億劫なのでまっすぐ海住山寺に行こうかとも思ったが、海住山寺のほうが少し遠い。2キロ近くあるということなので、一時間で行って帰って来れるか危ういところである。とりあえず先に恭仁京跡に行って、海住山寺に行くかどうかはそれから考えようと思った。

 国道を少し行くと右手の少し離れたところに木立が並んだ公園のようなところが見えてくる。たぶんそれが恭仁京跡だろうと見当をつけた。右に曲がった。もし違ったとしても、恭仁京跡がそちら側にあるのはまちがいない。交通量の多い国道をそのまま歩くのもあまり楽しくないので、そちらに曲がってみた。

 だらだらした上り坂になっている。道しるべを見るとたしかにそちらが恭仁京跡だという。そのだらだらした上り坂を上りきったところがその目的地だった。

 恭仁京の大極殿跡、そして山城国国分寺跡という看板が出ている。

 周りは何もない。広場になっている。たぶん町のイベントなんかに使う広場なのだろう。机が出ていたか、テントが出ていたか忘れたが、何かさいきんイベントをやったようすがある。車が一台止まっていて、あとはだれもいない。

 そのいちばん高いところに石が規則正しく並んでいた。そこに上ってみると、そこが山城国国分寺だったころの塔跡だという。並んでいる石は塔の礎石で、その礎石から見ると塔は七重の塔だったらしい。

 法隆寺や興福寺の大きい塔は五重だし、京都の東寺の塔も五重だ。薬師寺は一階分に二重に屋根がついているので大きく見えるがこれは三重だ。

 明治維新後に建てたものは別にして、いまどこかに明治維新前に建てられた七重の塔は残っているのだろうか?

 七重の塔だと一階部分はいまの五重の塔より大きくしなければならない。大きくすると、屋根を葺く瓦がそのぶん多くなり、重くなる。しかも七重なのだからそれだけ屋根の数は多い。だとすると七重の塔が支えなければならない重量は五重の塔よりかなり大きい。それだけメンテナンスは難しかったはずだ。

 日本の古代の建築技術はたしかにたいしたものだが、それでもやはり限界があった。東大寺の大仏殿も柱につっかえ棒を添えて支えていたという話がある(ただし創建当初の大仏殿は現在より大きかった)。巨大な七重の塔を建てるのはけっこう難しかったのではないだろうか。

 昔は東大寺に塔があって、それが七重の塔だったという話だ。だが、この塔はかなり早くに失われ、再建されてもいない。西塔はいちど再建されたらしいが、14世紀に失われ、そのままになっている。また、奈良市の南のほうにある大安寺にも七重の塔があったらしいが、これも失われている。

 恭仁京は3年で放棄されたけれども、その跡は山城国の国分寺に転用されたのだという。しかも、平城京から持ってきた大極殿がそのまま金堂(本堂)になったらしい。もと宮殿に七重の塔ということならば、けっこう大きい寺院だったのだ。

 ちなみに、いま平城京の跡地で復元工事をしている大極殿はこの恭仁に運ばれたほうの大極殿である。それをこの恭仁ではなく平城京に復元するのが正当な復元なのだろうか? 私にはわからない。復元という以上は、その最終形態を復元すべきだというのならば、第一次大極殿を平城京に復元するのはおかしい。その最盛時の状態に復元すべきだというのならべつに第一次大極殿でもかまわないことになるだろう。

 また、平城京の建物をそのまま移築した寺院建築としては、奈良の唐招提寺(とうしょうだいじ)の講堂がある。


大極殿跡(24KB)
 恭仁京大極殿跡 中央に石碑があり、柱の礎石もいくつか残っている。奥には小さなお堂がある。この写真の左側に小学校がある。

 山城というといまの京都府の南部にあたり、京都市の市域あたりも山城に含まれる。その京都にあれだけたくさんお寺がある。それなのに、そのどれも山城国の国分寺ではなく、いまは寺の跡形もないここが国分寺というのは意外だ。

 考えてみれば当然のことで、「国」ごとに国分僧寺・尼寺が置かれることになったのはいまの京都に遷都する50年も前のことだ。そのころには京都があんなお寺だらけの町になるとはわかっていなかった。当時の京都市あたりはまだ地方豪族の本拠地に過ぎなかった。

 もし平安遷都が実現せず、平城京が首都でありつづけ、恭仁が陪都(ばいと)とか副都とかいう地位で存続していたとすれば、いまの京都市ではなく加茂のほうが国際観光都市になっていたかも知れない。京都市を通る東海道線ではなく加茂と名古屋をつなぐ関西線のほうが大幹線になっていたかも知れない……ってけっきょく「鉄」ネタか。

 恭仁はけっきょく首都としても陪都・副都としても定着しなかったわけだが、当時は仏教が国教だったわけだから、国分寺が置かれたというのはやはりここが山城の「国」の中心として重視されていたということだろう。奈良時代に、山城の「国」の政庁、つまり「国府」が置かれていた瓶原(みかのはら)もこの恭仁のすぐ近くのようだ。ちなみに、東京でも、国府があったのは「府中」、国分寺があったのは「国分寺」で、隣接している(「沿線」で考えると、国分寺は中央線、府中は京王線でわかりにくいけど)

 やっぱり、奈良時代には、この加茂のあたりを山城国の中心と考えていたのだろう。「山城」も当初は「山背」と書いていて、奈良から山を越えた向こう側という意識が強かったようだ。この加茂あたりはまさに奈良市から山を越えた向こう側にあたる。いまでは奈良‐京都が幹線で、ジェイアールと近鉄がそれぞれ鉄道を持っているけれども、奈良時代には、平城京から恭仁を経て信楽へ抜け、信楽から琵琶湖に出るというルートが幹線だったのではないか。琵琶湖の湖上を通れば若狭に抜けることができ、若狭からは、日本海沿岸はもちろん、朝鮮半島の新羅(シルラ、しらぎ)へでもマンチュリア(中国の東北地方)の渤海国へでも、あるいは渤海の北に住んでいた靺鞨(まっかつ)の地へでも行くことができた。


 七重の塔の礎石のうちいちばんまん中の大きい石に腰を下ろした。寺の塔だったときには、この中心の礎石にブッダ(釈迦)の骨といわれる「舎利(しゃり)」を埋めていたはずだ。その塔のまん中に私のような俗人が座るというのも、もしここが寺のままだったら畏れ多いことで、けっしてできなかったことだろうと思う。

 いや、ただの石とはいえ「1000年以上前の文化財だから座ったりしてはいけません!」とか「立ち入りも禁止です!」とかいうことになって、フェンスでも張り巡らされていたら、やっぱりこんなところにの〜んびりと座っていられなかったのだ。でも、私は、文化財というのはだれでも近寄れてだれでも触れられるほうがいいと思っている。フェンスやケースで隔てられた文化財は、何か人びとと隔てられたところに存在しているように思う。けっきょくそこでいう「文化」というのは普通に生活している人間の「文化」では手出しのできないものなんだなと感じてしまう。もちろん、仏像のように崇拝や礼拝の対象のものが容易にさわれたりしたら、それは困るわけだけど、それは最近作られた仏像でも同じだろう。また、ケースにでも入れないと劣化してダメになってしまうものも、もちろんきちんと保護すべきだとは思うけど。

 この塔跡から南側を見ると、すぐ近くをさっきの国道が通っていて、あいかわらず車の交通量が多い。しかしその先は木津川の流域で土地が低く下がっている。

 大極殿というのは御所にあたるわけで、都のいちばん北に配置されている。つまり都の官庁街などはこの南側に配置されることになるはずだ。ということは、官庁街や都の住人の住宅から大極殿に来るためには坂を上がってこなければいけない。

 もっとも、恭仁京があったのはもう1200年以上も前で、その1200年のあいだに木津川の流れで谷は深くなっているはずだ。昔はこのあたりは平坦だったのだろうか? それにしても、木津川は昔からけっこう幅の広い川だったはずだ。まあ、京都も鴨川が流れているから同じかも知れないけど。

 奈良にしても京都にしても、首都はやはり平坦な土地に作られている。首都の途中に段差があればやっぱり不便だろう。首都としての領域も平城京に較べると広くないと思う。大極殿は移設したとしても、平城京の機能をそっくりそのまま持ってきて、中央官庁をフルセットで揃えるにしては少し狭いかも知れない。それを考えると、やはりこの恭仁は複数首都制の複数首都の一つとして構想されたのではないだろうか。

 塔の礎石に10分ぐらい座ってから奥のほうに行ってみる。(なぎ)の木が植えてあるところがある。そこから左手に行くと小さなお堂があり、前に広場がある。さっきの広場が塔の跡だったので、こちらは大極殿を転用した国分寺の金堂跡なのかも知れない。ただしそれにしては少し狭い感じはする。

 お堂の前の広場にも石碑が建ててある。戦前に建てられた碑らしい。碑の周りには垣があり、垣には門扉がついていた跡がある。昔は、皇宮跡の記念ということで、碑に近づけないようにしてあったのだろう。

 碑の周囲には木が植えてある。たぶん桜だろう。春になったら、この昔の都の中心地は桜の花が咲き乱れるのだろうか。そのころにもういちど訪ねてみてもいいと思う。


恭仁小学校(23KB)
 恭仁小学校の木造校舎 遠景なので少しわかりにくいが、木造、板張り、瓦葺き、一部二階建ての校舎である。施設としては不便なのかも知れないが、この時代にこういう校舎で勉強できる子どもたちは貴重な体験をしていると思う。

 そのすぐ後ろに木造の建物があった。どうやら小学校らしい。子どもの姿は一人も見えない。しかし、教室の中には絵が飾ってあったり標語が張ってあったりして、いまでも現役の小学校のようだ。ただそれにしては人気がなさすぎる気もする。

 でも、こんな絵に描いたような『となりのトトロ』風の校舎の小学校は日本からはもうなくなってしまったと思っていた。それがずっと昔の都の跡に残っていたということには驚きを感じた。

 表に回ってみたが、やっぱりだれの姿も見えないし、門はきっちりと閉ざされていた。

 まあねえ。最近ぶっそうだからなぁ……。

 もう少し恭仁京大極殿のあたりにいたかったが、一時間に一本しかない列車に遅れると困るので引き上げることにした。帰りがけに大極殿跡前の店の自動販売機で「ダイドーさらっとしぼったオレンジ」を買った。すぐに飲むつもりだったのがけっきょく東京まで持って帰ってしまったので、この「さらっとしぼったオレンジ」が恭仁京の記念品みたいになってしまい、何となく飲むのがもったいなくなって、いまも私の机の上にある。拙宅の近くの自販機でも売っているのでべつに珍しいものでもなし、いつまでも飲まないでほうっておいてもしかたがないので、この文章をウェブに上げたら飲もうと思っている。

 で、こんどはまっすぐ駅に向かうつもりだった。恭仁京跡を20分前に出れば間に合うだろうと思っていた。恭仁京跡まで上ってきた道を下っていくと、途中に「駅方面近道」という札が出ていた。目で追ってみると例の国道の下をくぐり抜けて行く道があるようだ。車の多い国道を歩くよりこっちのほうがいいだろうとそっちの道を行くことにした。

 ところがみごとに道をまちがえたらしい。道はまた上りになり、少し高台になったところにある町に入りこんでしまった。

 これ以上、道に迷っている時間はない。町の道を歩いていても平日の昼間だからかだれにも出会わない。ところが運よく途中で家から出てきた人に道をきくことができた。

 まっすぐ行くと恭仁大橋のほうだという。私が恭仁京跡に行ってきたと言うと、その人は
「何もなかったやろ? 3年しか都やなかったんやからしゃあないな。せめて30年ぐらい都やったらなぁ」
と言っていた。

 でも――と思う。

 その古代の都の中心地の跡の一角で勉強している小学生がいまもいるというのは羨ましいことだと思う。その場所は、もし日本の歴史が少し違っていればいまごろ世界遺産に登録されていたかも知れないような場所なのだ。いまは礎石のほかは何も残っていない。でも、それは、かつて日本の政治の中心地になったことがあり、その後も国分寺として宗教家や学者・学生たちが出入りした場所だ。その場所で子どものうちにあたりまえに勉強できるというのはやっぱり羨ましいことだ。

 もしこの古代の都がもっと長いあいだ栄えていれば、その都の跡は観光地になっていたかも知れないし、そんな場所に小学校を開いて地元の子どもたちがそこで勉強することなどできなかったはずだ。

 奈良のほうはここのところ奈良時代の建物などの復元が進んでいるようだ。薬師寺は塔二つと金堂と講堂のセットを復元してしまった。興福寺は、三つあった金堂のうち東金堂しか残っていないが、こんど中金堂を復興するらしい。平城京では宮殿の朱雀(すざく)門につづいてさっき書いたように第一次大極殿を復元する。

 平城遷都が710年だったので、2010年が一つの目標になっているのだろうし、古い建築物の復元工事がなければその建築技術が伝承されていかない。そういう事情があるのだろうと思う。しかし、私は、めでたく復元が完成した薬師寺の伽藍(がらん)に立ったとき、朱色の華やかなほかのお堂の中で、「凍れる音楽」と讃えられた東塔だけが何かぽつんと小さく孤立しているように感じたものだ。

 恭仁や加茂の人たちの願いとはもしかすると食い違うのかも知れないとは思うのだが、恭仁京はいまのままがいいと私は思う。宮殿や伽藍を再興することよりも、むかし宮殿や大寺があった場所で町の子どもたちが大人に育っていくことのほうが私はずっとすばらしいことだと思うのだ。


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