恭仁(くに)京を訪れる

清瀬 六朗



4.

恭仁大橋より(14KB)
恭仁大橋から木津川下流を望む

 そんな感慨に浸っていたのはいいのだが、途中で道をまちがえたおかげでまたも加茂駅で亀山行きの列車に乗り損ねてしまった。恭仁大橋を渡っているときに「これは間に合わないかも」と思い、駅まで走った。しかし、駅の見えるところまで来たところで列車はディーゼルの淡い煙を勢いよく噴き立てて発車してしまった。青色系統の車体でたった一輌のレールバスである。

 このときには一時間に一本というダイヤを組んでいるジェイアール西日本を呪いたい気分だった。だいたい、私は、山手線や中央線や京浜東北線でも目の前で電車に発車されるとむしょうに腹が立つ。次の電車がすぐ続いてくればいいけど、5分以上も待つことになればそのあいだずっとホームに立ったままいらいらしているような気性の人間である。一時間も待たされてはたまったものではない。

 が、しかたがない。

 木津のほうに引き返して京都に出ることも考えたけれど、すでに関西線経由の切符を買っている。「青春18きっぷ」ならふと思い立ってルート変更もできるのだが、いまは「青春18」の季節ではない。切符を買い直すのも癪だし、だいいちけっしてお安くない。もう一時間待つことにした。

 海住山寺に行こうかとも思ったが、いま走ってきた橋のほうにまた戻るのも途中まで同じ風景のなかを進むことになるので、あんまり気が進まない。それで反対側の春日若宮神社というほうへ行ってみることにした。

 ここは、木津川が大きく北に曲がるあたりに春日神社があり、加茂駅の南のほうに若宮神社がある。春日神社は藤原氏の守護神だ。恭仁京を作ったときに藤原氏もここに自分の氏神様の社を造ったのだろう。

 と書いたのだが、奈良の春日大社によると「若宮様御出現」は昨年からちょうど1000年前の西暦1003(長保5)年なのだそうで、恭仁遷都より後のことである。だから、もしこの若宮神社が奈良の春日若宮神社と関係するのであれば、恭仁遷都のときにここに春日若宮神社を祀ったというのは無理がある。いっぽうで、この恭仁京から奈良のほうに向かえば、恭仁京と同じ加茂町に浄瑠璃(じょうるり)寺があり、その浄瑠璃寺の創建が1047(永承2)年であるので、その同じ時期なのかも知れない。なお、浄瑠璃寺の近くの岩船寺は、恭仁京と同じ、奈良時代の聖武朝の創建と伝えられているようだ。

 駅から少し行ったところに小学校と図書館がある。こちらは四角いコンクリート校舎のよくある普通の小学校という感じだ。子どもたちが玄関先で先生たちといっしょに何かやっていた。この小学校と図書館の横を通って若宮神社に向かう。

加茂の春日若宮神社(26KB)
 春日若宮神社(加茂) 撮影のために再訪した際にも靴擦れと列車の時間に気を取られていて、お賽銭を上げるのを忘れてしまった。すみませんm(__)m。

 若宮神社は加茂駅の南側の小高い丘にあった。先の岡田神社に較べてもひっそりした山のなかの神社という感じだった。境内には小さい枯れ枝や枯れ葉が落ちてそのままになっている。その枯れ枝や枯れ葉を踏んでお参りする。地元の人もふだんはあまり訪れない神社なのだろうか。

 ほんとうは駅からたいしてかからない距離なのだろうけど、最近ふだんあんまり歩いていないせいか靴擦れがして足が痛い。恭仁大橋から駅まで走ったのもこたえたのだろう。こんどこそ遅れると家に帰り着くのがだいぶ遅くなってしまう。列車が出る20分以上も前だったが、神社のある山から見渡して駅までの最短距離のルートの見当をつけ、そちらに向かって下りて行った。

 駅の北側に商店街があるのに較べ、この南側は、ロータリーがあってバスターミナルもあるのだけど、店がほとんどない。少し大きなドラッグストアがあるのと、あとは店や塾が点々とあるだけだ。そして、駅のすぐ前に天然温泉つきとうたった巨大な高層マンションがどーんと建っている。この巨大高層マンションだけが周囲とぜんぜん異質の建物で、目立つのは目立つ。しかし、なにか押井守監督→押井監督のホームページの『御先祖様万々歳!』に出てきたマンションを思わせる。

 すでに街ができていた北側と違って、大阪難波と直結する電車の終着駅ということで急速に開発したのだろうけど、何か寂しい気はした。ロータリーの周囲の区画された土地にこれから少しずつ家でも商店でもできていくのだろうか。

 そういえば、この「大和路快速」は、難波から奈良を経て加茂まで来ている。現在の難波から昔の難波京までは少し離れているが、ともかく、難波京‐平城京‐恭仁京をつなぐ列車なのだ。もし信楽高原鉄道が延ばされて加茂で関西線に接続し、「大和路快速」が信楽まで行くようになれば、聖武天皇の四首都が一つにつなげられることになる。信楽から貴生川へ出ると、貴生川からは近江鉄道が走っていて米原までつながっている。大阪‐京都とつながるのとは別の軸で大阪‐奈良と米原がつながることになる。そうなると、加茂は亀山‐名古屋へのルートと信楽‐貴生川(きぶかわ)‐米原のルートの分岐駅になる。そういうことを想像してみると何か楽しい。そういう想像をさそうのも鉄道の一つの性格なのだろうと思う。

 もっとも信楽高原鉄道を延長するなんていまでは夢のまた夢なのだろうけど。

 鉄道は、1980年代ごろに国鉄大赤字問題が浮上するまで、大正時代以来、政治に利用されてきた。選挙区に鉄道を引くと公約して当選した代議士たちが国を動かしてきた。それができたのは、ただ鉄道が便利なものだからというだけではなくて、鉄道が夢や想像をさそうメディアだったからに違いないと私は思う。高速道路にはそういう夢や想像をかき立てるところがないと思う。まあこれは「鉄」の偏見なのだろう。

 この信楽‐和束(わつか)‐加茂のルートの整備計画は以前からあり、先日まで、このルートをジェイアールバスが走っていたらしい。なお、現在、米原〜貴生川間の近江鉄道線と貴生川〜信楽間の信楽高原鉄道を連絡し、これを宇治田原町方面に伸ばして京田辺市でジェイアール片町線(学研都市線)に連絡しようという計画が、滋賀県を中心に進められている(びわこ京阪奈線(仮称)鉄道構想)。片町線につながると、線路はジェイアール東西線を通じて福知山線につながり、大阪市の中心部から宝塚方面まで連絡することになる。加茂を通じて木津‐奈良につなぐより大阪に直結したほうが有利ということなんだろうか。この計画が実現すれば「鉄」的興味から言えばおもしろいと思う。でも実現性はどうなのだろう? 米原‐大阪間が首都圏の常磐(じょうばん)線のような超混雑線区であるのならば、つくばエクスプレスのような並行新線にも需要があるのだろう。けれども、大津‐京都を通らないで滋賀県湖東地方と大阪中心部を接続するこのルートにどれだけの需要があるのだろうか?


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海住山寺の五重の塔

 加茂ではこんどこそちゃんと亀山行きのレールバスに乗れた。

 レールバスは、東京の都電を長くしたような造りで、前後に運転台があり、運転台の左右に入り口がある。そのあいだはほんとうに長いロングシートだ。車内にはけっこう余裕がある。運転台は進行方向左側についていた。その後ろに料金箱がある。乗客は後ろの扉から乗り、前の扉から下りるときに料金を払っていく。駅に着けば運転士さんが立ってお客さんにいちいちあいさつしながら料金を集める。

 椅子はぜんぶお客さんが座っていて、立っているお客さんがいくらかいるという状態で亀山を発車した。私も立っていた。靴擦れを起こした足は痛いけれど、ロングシートに座ってしまうと外の景色が見にくくなるのでそのほうが都合がいい。

 車窓から街を見下ろすと鮮やかな小さい朱色の社が木津川縁に建っているのが見える。さっきお参りした岡田神社だった。駅まで戻るのにあれほどあせったところなのに、レールバスは横をすっと通過してしまう。社のある町は、車窓から見れば、半分農村で半分都市近郊の町のように、瓦葺きの家屋とコンクリート塀と緑色のフェンスが交じっているように見えた。でも、列車で通り過ぎたので、その印象には別の町の印象が混じりこんでいるかも知れない。

 目を上げるとこんどは遠くの山の中腹に五重の塔が少しだけ見えた。たぶんあれが海住山寺なのだろう。ずいぶん遠いし山にも登らなければならない。これでは1時間ではもちろん2時間あっても行って戻れたかどうか。もっと遅れてしまうところだった。

 と書いたのだが、海住山寺の五重塔は山を登って少し回りこんだところにあり、少なくとも全景が関西線の線路から見えることはないと思う。断定はできないが、これは何かの見誤りだったのだろう。

 レールバスは各駅停車で亀山に向かって行く。駅に着くたびに、お乗りになるお客さまがいらっしゃらないばあいには後ろの扉は開けませんので前からお降りください、というアナウンスが入る。そして、実際に後ろの扉が開かないことが多かった。

 乗っているお客さんはどんどん減っていく。最初はいっぱいだったロングシートもすいてきた。私は窓の外を見ていたかったのでずっと立っていた。しかし、後ろの席に座ったお客さんがロングシートに斜め座りして窓枠に肘をつき、窓の外を見始めたので、私も同じようにすることにした。

 利用客が少ない時間帯とはいえ、乗っているのがこの程度の人数では、一時間一本でも、また月に一度、メンテナンスのために土曜日の昼間のあいだの列車の運行が止まってもしようがないかなとは思う。

 でも、半分のコストで走らせられる車輌を開発して、そのかわり30分に一度のダイヤで走らせることはできないのだろうか? それならば利用者はもう少し増えるかも知れないと思う。それともそれでも増えないのか?

 また、ヨーロッパのLRT(軽鉄道交通とでも訳するのだろうか。都市型軽便鉄道 または 新型路面電車)のように、どこかの町の路面交通とつなげることで需要を喚起するようなことはできないのだろうか? LRTの車輌は現在は主として電車を想定して議論されている。しかし、日本の地方都市については、環境対応型のディーゼル気動車やハイブリッド気動車などを視野に入れた、より「軽便鉄道」的な交通機関も考えてみるべきだと思う。

 鉄道の運用を工夫すれば、町も鉄道もその町やその沿線に見合ったかたちで発展するかも知れない。そういう工夫の余地はないものだろうかと思う。やみくもに沿線に宅地開発して山手線や京浜東北線のような都市近郊電車に発展させる必要はない。でも、長い編成の電車が頻繁に行き交う都市近郊路線と、一個車輌のレールバスが一時間に一本しか走らないローカル線とのあいだの大きな落差を埋める適当な鉄道の仕組みのあり方があるんじゃないかと思うのだ(この点については宇都宮浄人『路面電車ルネッサンス』の評でも触れた)

 列車は1時間20分ほどかかって亀山に着いた。亀山からは電車で名古屋に出る。やはり1時間20分ほどだ。加茂に着いたのは12時前で、名古屋に着いたのは午後5時だった。

 そこから新幹線ののぞみの自由席に乗って東京駅に着いたのは7時前である。のぞみで名古屋から東京までかかった時間は、加茂から亀山までレールバスに乗っていた時間より15分ほど長い程度だ。その時間で名古屋から東京まで行けてしまう。なんかふしぎな感じがした。

 でも、ローカル線で車窓から景色を眺め、途中下車して駅の周りを歩いてみるというのが、高いおカネを払って新幹線で大都市間を移動するよりもたぶん贅沢な時間の使いかたなんだと私は思っている。


 今回の恭仁京行きは突発的なものだったので、当然ながら何の準備もしていなかった。下調べをしていないのはもちろん、写真を撮れる機械を何も持っていなかったので、デジタル写真も銀塩写真もない。また、ぜんぶ合わせて2時間ちょっとしか滞在していないので、どこについてもただ通り過ぎたに等しく、いろいろな事実誤認もあるものと思う。ご容赦願いたいと思う。

 できれば、恭仁京をはじめとするこの地域は、近いうちにもういちど訪れてみたいと思っている。


―― おわり ――


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 ※ なお、今回の文章についても、鈴谷 了さんに多くのご助言をいただきました。感謝いたします。もちろん、この文章の文責は全面的に清瀬にあります。


 附記(2004年3月30日) その後、3月に恭仁京跡を再び訪問しました。そのときの旅行記はまた改めて書くこととして(→「伊賀上野と恭仁再訪」)、今回はそのときに撮影した写真を「恭仁京を訪れる」に掲載しました。