もっと鉄道の可能性を引き出そう


宇都宮浄人(きよひと)

路面電車ルネッサンス

新潮新書、2003年



 この本の特徴は、経済的な統計の数字に裏打ちされた路面電車論であるという点だ。経済的なデータを用いて、都市交通として路面電車が十分に役立つ便利なものであることを論証している。そして、その路面電車の導入が今後の都市作りにとって重要だと論じたのがこの本だ。

 著者は1960年生まれで、現在は日銀に勤務しているとのことである。日銀といえば、ここ数年、経済不況のせいで槍玉に挙げられることも多く、著者の仕事も激務だったのではないだろうか。それだけに、週末に研究会に出席し、国外海外各地の路面電車を実際に見て乗って本書をまとめたということには頭が下がる思いがする。


新しい型の路面電車(LRT)

 以前、この欄に今尾恵介さんの『路面電車――未来型都市交通への提言』の評を掲載した(「路面電車は海の向こうから帰ってくるか」)。この本や今尾さんの本で採り上げられている「路面電車」は、一両だけで町の混雑した道路を低速で走る「古い」路面電車ではない。1980年代以後、イギリス、ドイツ、フランスやアメリカ合衆国に広まった新しい型の路面電車である。

 「新しい路面電車」が成功しているこれらの国ぐにでも、やはり「古い」路面電車には日本と似たようなイメージがあった。一両の小さい電車が低速でのんびり走っているという、「古き良き」、でも時代遅れの交通機関というイメージである。そのイメージと切り離すために、英語ではこの新しい型の路面電車をLRT(Light Rail Transit)と呼んでいるらしい。直訳すれば「軽鉄道交通」である。要するに「軽便鉄道」なんだけれど、日本語のばあい「軽便鉄道」にも時代遅れの語感があるので難しいところだ。日本でもこの「LRT」ということばがそのまま使われているが、正直に言って「LRT」では何のことかもう一つしっくり来ない感じがする。

 アメリカ合衆国やヨーロッパの新型路面電車(LRT)は、ここのところ、テレビなどでも紹介されることが多くなったように思う。だから、「新型路面電車」や「LRT」ということばから映像でイメージできるひとも多いのではないだろうか。

 この新型路面電車は、一両だけではなく、短めの車輌を何両もつなぎ合わせた電車であることが多い。その結果、輸送力は、1970年代ごろまでの旧型の路面電車と較べて飛躍的に向上している。高速を出す性能も備えている。加速・減速の性能もよいため、駅や停留所の間隔が短くても、動き出してすぐに高い速度を出し、停留所が近づいたら減速して停車することができる。今尾さんの本でも紹介されていたとおり、ヨーロッパのばあいには、この新型路面電車が一般の鉄道線にも乗り入れていたりする。一般の鉄道線に乗り入れることでフランスとドイツにまたがって走っている「国際路面電車」もあるようだ。


都市づくりの一部分としての路面電車

 宇都宮さんのこの本は、そういう新型路面電車を、都市づくりの重要な一部分として位置づけている。それがこの本のもう一つの特徴だ。

 著者の問題意識には、いま地方都市で進んでいる「中心市街地の過疎化」の問題がある。駅前などの中心市街地が寂れ、デパートやスーパーが撤退し、商店街はどこもシャッターが下りたままになって寂しい町になっているという問題である。その原因の一つは、車で行ける郊外に大型店舗が開かれ、中心市街地に来ていた客が郊外大型店舗に流れたということだ。

 著者は、そういう郊外大型店舗が一方的に悪いとする立場には反対する。そうやって選択肢が増えるのはいいことだと考えている。しかし、だからといって、中心市街地という昔からあった選択肢がなくなるのは好ましいことではないと著者は言う。これも中心市街地が寂れると寂しいという感情論ではない。著者は、中心市街地の衰退が好ましくない理由として三つの点を挙げている。

 一つめは、郊外大型店舗を便利に利用できるのは自動車を運転できる人たちだけであって、老人や子どもなどにとっては、利用できたとしても不便であることだ。二つめは、自動車で郊外まで買い物に行かなければならないという仕組みそのものに、環境的・社会的なムダが多く、「持続可能性」に問題がある。三つめは、町に住んでいる人は郊外の大型店に買い物に行けばいいかも知れないけど、観光や商用でその町を訪れたひとには非常に不便だということである。また、中心市街地が廃れることで都市の治安が悪化するということも著者の問題意識にあるようだ。

 著者は、自家用車は便利だが、経済的に見れば効率の悪い乗り物になっているという。たとえば、自家用車は一人しか乗っていなくても一定の面積を取るし、自動車が便利だと言ってみんなが自動車に乗ると道路が混雑する。しかし、著者は、基本的に、自家用車を利用したい人はそうすればよいという立場だ。しかし、公共交通機関を使いたいと思っているのに、公共交通機関は不便だからしかたなく自家用車を利用しているような人たちには、公共交通機関を使う機会を提供すべきだというのが著者の立場である。

 著者は自家用車の利用を前提とした郊外大型店によって衰退した地方都市の中心市街地の再活性化の方法として新型路面電車が活用できると考えている。

 それはヨーロッパやアメリカ合衆国での路面電車導入の実績による。

 このような中心市街地の空洞化はアメリカ合衆国でも起こった。そのアメリカで、新型路面電車の導入がその中心市街地の空洞化の流れを阻止し逆転した。ヨーロッパでも、市街の活性化に路面電車が貢献している例があるという。

 もちろん路面電車を走らせるだけで中心市街地が活性化するというものでもない。路面電車を活用したさまざまな工夫がいっしょになってその活性化が達成される。

 その一つは、中心市街地から車を締め出し、中心市街地には歩行者と新型路面電車しか乗り入れられないようにするという「トランジットモール」の実現だ。このトランジットモールはヨーロッパの都市で実際に行われ、効果を上げている。また、中心市街地での運賃の無料化や、人びとが休日に新型路面電車を使って中心市街地に来やすいような運賃の設定などの工夫もある。

 この本では福井市でトランジットモールが実験的に導入されたときの例を紹介している。このときには、利用者には受けがよかったものの、商店街側からは「売り上げが減った」などとして非常に不評だったようだ。しかし、著者は、「実験」は始まったばかりで、このことだけで「日本にはトランジットモールは定着しない」と結論づけるのはあまりにも早すぎると評価している。


日本には根づかない?

 アメリカ合衆国やヨーロッパの事物を日本に導入しようとすると、「日本の実情に適しない」とか「日本は文化が違うので根づかない」という反対論が起こりがちである。

 よその国で成功しているやり方も自分の国では根づかないのではないかと疑ってみる。それはそれで健全な姿勢だと思う。けれども、そういう疑いから起こる議論が健全なのは、外国の実情と日本の実情とを考え合わせたばあいである。「日本はアメリカやヨーロッパと違う」という、いわば「日本特殊論」的な思いこみに基づいている議論はまったく建設的ではない。「よくわからないけど気が進まない。やめておいたほうがいいのではないか」という心情的な慎重論を否定するつもりはないが、実情を踏まえた議論に開かれた姿勢は必要であると思う。

 新型路面電車も日本には根づかないのではないかという議論があるようだ。著者は、この議論に対して、ヨーロッパでもアメリカでも最初は反対論が多く、導入がなかなか決まらなかったことを紹介している。しかし、導入がなかなか決まらなかった多くの都市でも、導入後は新型路面電車を活用した都市づくりが成功している例が多いという。つまり、路面電車の復活に最初は抵抗があったのは日本だけではなく、それはじつはヨーロッパやアメリカでも同じだったのだというわけだ。ヨーロッパやアメリカでも「実情に適しない」と思われていたのが、やってみたら実情に適していたのだから、日本でもそうかも知れないじゃないかという反論である。

 日本の街路は細く、入り組んでいて、路面電車には適していないという反論もあるようだ。これに対して、著者は、たしかにアメリカ合衆国などの都市は広い街路が多いけれど、歴史を誇るヨーロッパの都市には細くて入り組んだ街路も多く、そんな町でも新型路面電車は成功していると反論する。

 また、ヨーロッパの路面電車が成功している一つの要因に、今尾さんの本にも紹介されていた「信用乗車」がある。停留所に切符販売機を設置しておいて、乗客はあらかじめ切符を買ってから乗車する。電車側では切符をちゃんと買ったかどうかをチェックしない。ただし、ときどき乗客全員が切符を持っているかどうかという検札を行い、持っていなければ運賃の何倍もの違反金を支払わせるというやり方だ。

 この「信用乗車」のために、ヨーロッパの新型路面電車は、何両もの編成で乗降口がいくつもあるのにワンマン運転で走ることができる。切符をいちいちチェックしなければならないようならば、乗降口の数だけ車掌を乗車させるか、乗降口を一か所に限らなければならないから、長い編成の電車を走らせてもそのメリットを発揮できない。現在の日本の路面電車やバスのように、乗降口で料金を支払わなければならないのならなおさらである。

 この「信用乗車」にも、日本で行えば無賃乗車が多発してうまくいかないのではないかという反論があるようだ。著者は、ヨーロッパやアメリカでも同じ疑問があったことを紹介する。その上で、それでも、信用乗車で乗降時間が短縮されるなどのメリットは、一部の客が無賃乗車することで発生する損失を大きく上回るということを論じている。また、ヨーロッパやアメリカでは切符の自動販売機そのものの信用が低いのに対して、日本の自動販売機は壊れにくく、その点で停留所の自動販売機で切符を買うという方法はむしろ日本に向いていると論じている。また、高速道路の料金システムで採用されている「非接触型ICカード」を利用するという方法も著者は提案している。


経済の考えかた

 著者は日本の「経済」についての常識や考えかたにも疑問を持っているようだ。

 たとえば、中心市街地で新型路面電車の料金を無料にするというと、電車を経営している自治体とか会社とかが損をすると直ちに考えてしまうけれども、そういう発想はおかしいと著者は言う。たしかに経営体は直接には損するかも知れない。けれども、電車で中心市街地を移動できることで、中心市街地に来る自動車を減らすことができれば、中心市街地の交通渋滞などの問題が解消できる。それだけ中心市街地に人が来るようになるかも知れないし、渋滞対策の費用や、渋滞で発生する排気ガス公害の対策費用が浮く。そういうメリットを考え合わせた上で中心市街地の運賃設定を考えるべきで、最初から「無料ならば損失が出る」と考えるべきではないというのが著者の考えだ。

 それは、鉄道のような公共交通機関を独立採算にしている日本の制度への批判にもつながる。鉄道は一定程度の赤字が出ても公共の利便のために運営すべきもので、その赤字は公共的な部門が担うべきだというわけだ。

 これはヨーロッパやアメリカ合衆国では当然の考えかたであるらしい。さっき書いたように、「だからといって日本にはあてはまらない」という議論が出てくるかも知れない。けれども、もともと公共交通機関を独立採算にしたこと自体がアメリカやヨーロッパの新保守主義的な経済改革を機械的に導入した結果なのである。日本の鉄道の多くは政治家が地方社会からの支持を集めるために作ってきたという経緯がある。むしろ、政治が鉄道の維持にもっとカネも労力も出して当然だと私は思っている。

 ただし、完全に国とか自治体とかが費用を持って経営すると、官僚主義的で非効率なやり方が現場にはびこる可能性がある。かつての国鉄がそうだった。それはやっぱり好ましくないというのが著者の考えだ。鉄道の公共性を考えて公共的な部門が関わる一方で、現場では、むだを省き利用者の要求や希望を聴きながら経営を改善していくという民間のやり方を導入していく。日本で「半官半民」というと、「官」と「民」の悪いところを組み合わせたようなイメージができてしまった。そうではなく、両方の利点を共存させた半官半民の経営を著者は理想としているようである。


では、あらためて日本での展望は?

 この本で、著者は、日本も性急にヨーロッパやアメリカ合衆国に倣えと言っているのではない。日本がいま抱えている問題はヨーロッパ諸国やアメリカも抱えていた問題であって、その解決に新型路面電車が役立ったのだから、日本でも同じように役立つのではないかと提言しているのだ。

 私は鉄道好きだから日本各地の地方都市に新型路面電車が走るようになれば嬉しいと思っている。また、地方都市に限らず、大都市圏でも旧来の商店街がなし崩し的に商店街でなくなってしまっている地域があるはずで、そういう町のなかには路面電車や「トランジットモール」による再活性化が図れるところがあるのではないだろうか?

 ただ、やっぱり導入に向けては、やはり考えなくてはいけない点があると思う。

 一つは、福井市の例でも指摘されていた、地元商店の理解を得ることである。

 日本の地方都市では観光客も買い物客も自家用車を使うことが多い。その状態で、トランジットモールを導入したり、自家用車は郊外に駐車して街のなかは公共交通機関で移動するという「パーク・アンド・ライド」を導入したりしようとすると、地元の商店などから反対が出る。地元商店街の活性化のために新型路面電車を導入しようとして、それでかえって地元商店街の売り上げが落ちてしまったりしたら、ほんとうに元も子もない。

 日本の現在の観光は、ある「街」に行くと行っても、その街の主な観光スポットを点で結ぶように回って、あとはホテルや旅館に泊まるだけというのが多いのではないだろうか。買い物も、「街」に買い物に行くというより、街のなかのどこか一つの店に行くとか、自動車で走っていて目立つ店に入るというかたちが多いのではないかと思う。

 観光にしても買い物にしても、街に行ってゆっくりその街を回るというような楽しみかたを私たちはしない。のんびりした旅へのあこがれは多くの人が持っているのだろうけど、たぶん、忙しくて、観光でさえ仕事のようにガイドブックで綿密に計画を立ててスケジュールどおりこなさないと時間が足りなくなってしまうのだと思う。また、休みが貴重なために、一回の休みで楽しむことに失敗したら二度と取り返しがつかないという思いもあるだろう。そのためには、店にしても観光地にしても、ガイドブックで出ているところをめぐるのが安全で、道に迷ったり、ろくでもない店に入って腹を立てたりするのは絶対に避けたい。

 そういう時間の使いかたには、やはり、目的の店なり観光スポットなりまで直接に自家用車で行き、目的が終われば次の目的地に自家用車で移動するという動きかたがなじむ。そういう点で、日本が自家用車本位社会から離脱するのは、たぶんヨーロッパ諸国やアメリカより難しいと思う。

 しかし、逆に、中心市街地に何も打つ手がないとは思わない。郊外大型店まで買い物に行くのは、自動車で行くと言ってもそれはそれで時間がかかるし、買い物を終えてから帰りもまた運転して帰らなければならない。けっこう時間もかかるし、気も抜けない。もし中心市街地でどんなものでも安く買えて快適に家とのあいだを往復できるのならば、中心市街地で買い物をしたいという人も出てくるだろう。

 東京都でもいちどは中心市街地が空洞化して問題になった。しかし現在は「人口の都心回帰」という現象が起こっている。都心のほうに新しいマンションがつぎつぎとできて、そういうところに住む人も増えてきているのだ。

 「人口の都心回帰」といっても、都心ならどんなところにでも人が戻っているというわけではない。利便性の高いところに集中して人が戻ってきているのだ。

 だとすれば、地方都市でも、中心市街地の利便性を高めれば人が戻ってきて、活気を取り戻すことができるかも知れない。東京で起こっていることが地方都市でも起こるとは限らないのが日本の特徴ではあるのだけど、利便性の高いところに人が多く住むというのは地方都市でも同じはずだ。新型路面電車は利便性の高い場所を作るための手段の一つとして使えるかも知れないと思う。


運賃をどう集めるか

 「信用乗車」については、ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国の実例を詳しく知らないのでなんとも言えない。アメリカやヨーロッパでも、うまくいかないかも知れないと思われていたのにうまくいったのだから、日本でもやってみたらあんがいうまくいくかも知れない。

 日本の自動販売機が故障しにくいのは確かである。ただ、自動販売機荒らしというのは日本でもよく聞く話だ。何の対策もしていなければ、夜のあいだに路面電車の駅の自動販売機から売上金が持ち去られるという事件が多発してしまう可能性がある。防犯カメラを設置すれば、こんどは切符を買う乗客全部が防犯カメラに映ってしまい、プライバシー保護の観点から問題になるかも知れない。また、たぶん防犯カメラぐらいついているであろうATMが重機で破壊されて持ち去られるという事件も起こっている。同じことが路面電車の切符自動販売機にも起こり得る。

 よく使う人には非接触式のICカードを買ってもらって、そのICカードで運賃を支払うという方法を著者は提案している。一つの方法だろうと思う。現在、ジェイアール東日本で使われているSuicaや西日本のICOCAのようにプリペイドカードにしてもいいし、クレジットカードのようにその月の使用運賃を銀行口座から引き落とせるようにしてもいいだろう。ただ、現在のSuicaやICOCAの普及ぐあいを考えると、そういうカードを持たない乗客もたくさんいると考えたほうがいい。その乗客の運賃をどう集めるかということはやはり問題になるだろう。

 路面電車と地方都市の中心市街地の振興という課題を結びつけるばあい、あり得るやり方は、地域通貨と地方都市の路面電車の運賃支払いをリンクさせることである。その地方都市の中心街限定で使える地域通貨を設定し、持っている地域通貨の額をポイント化してICカードに記録して、それを路面電車の運賃支払いに使えるようにするのである。そうすれば、中心市街地の商店の振興と路面電車とを結びつけることができる。

 ただ、地域通貨というのは、店だけで使えるものではなくて、住人どうしが植木の手入れをしたとか犬の散歩をしたとか川の清掃活動をしたとかいうときにやりとりできる手軽さが一つの魅力である。このばあいにはやっぱりICカードなんかより紙の券のほうが有利だ。だから、紙の券の地域通貨を基本にしておいて、それをICカード上のポイントに置き換えられるようにしておくのがよいだろう。商店街などの店で、紙の地域通貨をICカードにデータ化するというサービスを行うようにすればいいと思う。

 この運賃の集めかたの問題は、たんに将来の「新型」路面電車だけの問題ではなく、従来の路面電車でもバスでも問題である。とくにバスではどこかのバス会社や自治体が何か改善の方法を考えないものかとずっと思っている。カードを導入しているバス会社や自治体は多いけれど、現状では磁気カードを読みとるのに時間がかかり、停車時間を短縮する効果はあまり発揮できていない。また、ワンマン運転では運転手が乗客がきちんと運賃を支払ったかどうかをチェックする。この本に書いてあるとおり、それは運転手のけっこうな負担になる。本来なら運転手は運転に集中したほうがいいわけで、何かいい方法はないものだろうかと思う。


鉄道の可能性をもっと引き出そう

 この本で著者は新型路面電車の問題と地方都市の再生の問題を関連させて述べている。

 だが、交通が問題になるのは、地方「都市」だけの問題だろうかと思う。都市と呼べるほどの規模のないところでも、現在の交通のしくみをかえることで、生活の不便をいくぶんでも解消できるのではないかと思うのだ。

 こんなことを考えるのは、こないだジェイアール関西線の加茂駅で列車を一本乗り逃がして一時間待たなければならなくなったという経験に基づいている。加茂からしばらくは車輌の長いレールバス一両で席がいっぱいになるぐらいのお客さんが乗っていた。もし、この半分の大きさの車輌にして、そのかわりいま一時間に1本の列車を一時間に2〜3本走らせれば、もしかするとこの鉄道の利用者も増えるかも知れないと思ったのである。このときのことは恭仁(くに)京を訪れる」の連載でまた触れるつもりだ。

 ジェイアール(旅客鉄道会社線)のローカル線では、一時間に一本とか、それ以下の本数とかの列車しか走っていないことがある。乗客が少ないから本数を減らすのだろうが、本数が減るからますます乗客が鉄道から離れてしまい、けっきょく地方が衰退することになってしまう。

 地方から若い人が都会に出て行くというのは、自分の意思で出て行くんだったら、それはしようがないと思う(私自身がそうやって東京に出てきて東京に住んでいるのだからそれを悪いとは言えない)。しかし、たとえば、自分がずっと住んできた地方にほんとうは住みたいのだけれど、年をとってその地方の不便さに耐えられなくなって老人が都会に出て行くというようなことはなるだけなくしていったほうがいい。老人に限らず、都会に出て行きたいとは思っていない人まで都会に出て行くような事態は止めるために手を打つべきだ。そのために、鉄道を使ってできることがあるのではないかと思う。

 この本では路面「電車」だけが問題になっている。しかし、電化されていない地方でも、気動車を使った軽便鉄道を走らせることを考えてみてもいいのではないかと思う。例の粒子状物質の発生に配慮すれば、ディーゼルは自然環境にかける負荷が少ない。また、「プリウス」のようなハイブリッドエンジンの採用を考えてみてもいいし、近い将来には燃料電池を使って架線のいらない電車が走るようになるかも知れない。

 べつに全部の線路を新しく敷く必要はない。ジェイアールの線路を借用して、沿線の集落のあるあたりごとに乗降できる停車場を作るというような方法もあると思う。そんなことをしたら、単線区間で反対側から来た列車をやり過ごすためによけいに待避線が必要になるし、信号制御もややこしくなるだろう。けれども、そのために発生する維持費や人件費は地元自治体が負担するようにしてもいいと思う。

 都市の路面電車だけではなく、過疎地を含む地方での軽便鉄道(まさにライト・レール・トランジットである)の復活というのも考えに入れてみてはいいのではないだろうかと鉄道好きは夢想する。

 鉄道というのは日本では実際以上に柔軟性の少ない交通機関と位置づけられてきたように思う。なぜそうなったかというと、鉄道網が日本中に拡がった時代に、鉄道が「都会的なもの」だったからではないか。都会と同じような鉄道が自分の住んでいる町や村にも走る。そのことが鉄道への夢をかき立て、それが日本中に鉄道を引く原動力になったのだろう。だから、鉄道自体は、線路のある程度の規格差はあっても、都会でも農村でも同じように走っているのが当然だった。そして、そうやって鉄道を拡大したことが負担に感じられ始めた時期には、なおのこと、その鉄道に費用をかけて柔軟性を持たせるなどという発想はできなくなっていた。

 しかし、鉄道は、それぞれの地域の実情に合わせた柔軟な使いかたができるのではないか? 鉄道の持つ可能性をもっと引き出すことができるのではないかと思う。ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国の新型路面電車の発展はその一つの試みと位置づけられるのではないだろうか。


―― おわり ――


 ※ 私がこの本を読んだのは鈴谷 了さんに紹介していただいたのがきっかけとなっています。鈴谷さんに御礼を申し上げます。