伊賀上野と恭仁(くに)京再訪

清瀬 六朗



2.

恭仁神社近くからの眺め(18KB)
恭仁神社近くからの眺め

 当初の予定では、次の日、早朝に伊賀上野のホテルを出て関西線で加茂に向かい、加茂で時間を過ごして加茂発14時8分の亀山行きで東京に戻る予定だった。「青春18きっぷ」なので普通列車(快速なども含む)にしか乗れない。つぎの列車になると東京駅到着が午前0時を過ぎてしまう。たぶん家まで帰り着けなくはないのだろうけれど、「青春18きっぷ」は午前0時で効力が切れるというシンデレラの魔法みたいな制約があって、余分な料金を払わなければならない。

 ……それに、家に着いたら夜の12時回ってた、というのはやっぱり疲れる。

 加茂の町で十分に時間をとるためには早朝に出なければいけない。しかし、風邪を引いていた上に、上野への到着が遅れている。あんまり無理はしたくなかった。でも、朝、ゆっくり休んで朝の9時過ぎにホテルを出るとしたら、ホテルから駅までの距離や列車の本数などを考えると、加茂に着くのは10時30分ごろになる。せっかく東京から来て目的地に3時間30分しかいられないというのも何か物足りない。

 そのまた次の日は職場に出る予定にはなっていない。ただ、持ち帰った仕事をその一日で片づけないとあとの仕事がたいへんになるというだけだ(で、実際にたいへんになった(笑))

 逆に言うと、東京に帰ってから仕事がたいへんになるのを覚悟すれば、伊賀上野でもう一泊できる。そのほうが、朝ゆっくりしても加茂で十分に時間を取れるし、もしかすると伊賀上野の町を見て回る時間も取れるかも知れない。

 そう考えて、私は、伊賀上野にもう一泊することにした。


 翌日、10時47分発の列車で伊賀上野から加茂に向かう。

 よく晴れた午前中の日射しのなかを列車は西に向かっていく。年をとった夫婦や、買い物に行くらしい格好の女の人、それに中学生・高校生が一人で乗ってきたり集団で乗ってきたりする。列車のなかは明るく活気のある雰囲気になってくる。

 前に恭仁京跡に行ってこの線に乗ったときには「恭仁京を訪れる」4.、途中から乗ってくるお客さんが少なかったので、典型的な過疎地の路線のような印象を抱いた。このときはこの地方を訪れるつもりで行ったわけではなかったので、大都市や近郊の路線の印象から切り替えができていなかったのかも知れない。今回、乗ってみると、この線は地元の人の交通機関として立派に役に立っているように思う。

 茨城県の日立電鉄が来年までで鉄道を廃止すると届け出た。他の私鉄でも鉄道廃止の動きがあるらしい。けれども、たとえ採算が取れなくても、地元の人たちが便利だと思ってその鉄道を使いつづけるならば、鉄道を存続させるような仕組みが国全体でできないだろうかと私は考える。

 もちろんむだは省かなければいけない。しかも、鉄道が大量輸送機関である以上、安全でスムーズな運用は確保しなければならない。そのためには、一見、むだと見えるような余裕の部分を抱えていなければならない(このことは、以前、「中央線事件」で論じた)

 けれども、走らせるにもメンテナンスにも手間のかからない車輌を導入するとか、人の配置を工夫するとかで(とはいっても、やれることはやってしまっているのだろうけど……)

 先日、(「もっと鉄道の可能性を引き出そう」)をこのページに掲載した宇都宮浄人『路面電車ルネサンス』によれば、鉄道を会社ごとの独立採算制を原則に運用している日本のやり方は世界的に見て普通のやり方ではないそうだ。べつに何でも欧米に倣えとは言わない。けれども、鉄道の公共性を考えたら、桁違いに多くの人が利用する都市の鉄道も利用者の少ない地方の鉄道も基本的に独立採算で運営しろという方針はやはり適切ではないのではないか。「公共交通機関は公的に維持する」という考えかたがあっていいと思う。

 少なくとも、日本の鉄道は、20世紀の初め以来、政治の道具として利用されてきた。選挙区に鉄道を引くことで票を集めるという仕組みがずっとつづいてきた。その鉄道がお荷物になったからといって、その維持は(各旅客鉄道会社=ジェイアールも含めて)それぞれの会社でやってくれというのでは、それは政治の無責任というものではないかと思う。

 もちろん、政治家個々人は、選挙区の鉄道の維持や新路線の開設のためにいまも奔走しておられるのだろう。しかし、自分の選挙区の鉄道の維持に熱心な政治家が自分の選挙区を走らない鉄道には冷淡だったり、自分の選挙区でも高速道路の新設のほうに熱心だったりしたら、けっきょく政治全体としては「鉄道がお荷物」という考えかたからかわっていかないと思う。ただ、やっぱり、運輸・交通をめぐっては、政治全体で制度とか制度についての考えかたとかを変えないといけないのではないか。

 私が鉄道の維持にこだわるのは、もちろん、私はいちおうは「鉄」趣味の人であって鉄道がなくなるのはさびしいという思いからである。でも、それだけでもなくて、地球環境の面から言っても、また資源の有効利用というような話から言っても、鉄道をもっと活用したほうがいいと思っているからだ。鉄道と立派な自動車道路を並行して走らせて、両方で荷物とお客を取り合っているようではやっぱり資源のむだは避けられないと思う。

 もちろんそのほうが利用者にとっては選択肢が増えるわけで、自由競争の観点からはいいのだろう。いまより鉄道の地位が高かった1970年代までの時代には、国鉄(現在のジェイアール)の駅員のサービスはけっしていいものではなかった。現在のサービスの水準に向上したのも民営化と自由競争の影響が大きい。しかし、鉄道にしても道路にしても、建設には国や地方のおカネ――つまり「公的資金」が大量に使われるわけだから、何もかも自由競争の視点で考えればいいというものではない。実際にはそうはいかないけれども、あくまで理念的に言えば、自由競争というのは最初から国や地方の公的な世話を受けずに行う民間の事業にあてはまる原則である。鉄道にしても道路にしても、出発点でその条件が純粋な民間の事業とは違っているのだから、自由競争の原則を何の制限もなく当てはめるのは適当でないと思う。

 この鉄道と環境・資源との関係の話はまた後でとりあげたい。


 列車は木津川の上流の川を何度も横切る。西へ進むにつれて、川幅は広く、水量も多くになっていく。笠置のあたりまで来ると川はいっぱいの碧色の水を渦巻かせながら険しい谷のあいだを流れるようになる。その南側の岸を鉄道が走り、北側を自動車道路が走っている。

 車窓から見るかぎりでは、梅は満開でも、桜はまだあまり開いていないようだ。枝に何輪かの割で花が開いている程度に見える。3月中に来ないと桜が咲いているところが見られないと思って来たのだが、どうやらあてははずれたようだ。

 でも、昨日の夜の寒さと心細さからすると、明るく晴れた朗らかな天気は嬉しい。それに、恭仁宮跡の小学校の子どもたちにも、春休みのうちに桜が咲いて散ってしまうよりは、入学式や始業式のころに桜が残っていたほうがいいだろう。入学式や始業式で桜が咲いていて、本格的に勉強をはじめるころに若葉が茂り始めるというのが、学校生活に見合った風景なのではないだろうか。もっとも、学校になじめない子や勉強の嫌いな子にとってはそれも憂鬱のたねなのだろうけれど。

 今回の訪問の目的は、前回、訪れたところをもういちど回って写真を撮るのが今回の一つの目的だった。前回は何の計画もなく訪れたので、全くの行き当たりばったりだった。今回は、恭仁宮跡にまず行き、岡田鴨神社と春日若宮神社へ回るという計画を立てていた。


木津川堤防の桜(33KB)
木津川堤防の桜

 加茂駅北側の商店街を通り抜けて木津川の堤防に出る。

 木津川の堤防の桜も花をつけはじめているが、まだ満開には遠い。

 近くで見ると、青い空を背景にまばらに淡い色の花が開いている。つぼみも先端が少し濃い桜色に染まって膨らんでいる。満開になってしまうと空まで見通せなくなってしまうから、花一輪ごとの美しさを感じるならば花の開きはじめを近くから仰ぎ見たほうがいい。

 しかし、遠くから見ると、まだ満開になっていない時期の桜の花は目立たない。「これから咲いていく」ということを意識せずに見れば、何か淡い薄紅色の花がところどころにかたまっているだけで、枝がすかすかしてさびしく、何かみすぼらしくさえ感じる。

 満開のときの桜の美しさは、花一輪ごとの美しさよりも、花が雲のように木を覆いつくす勢いの美しさなのだ。しかし、満開の桜は「花曇り」の天気が似合い、すっきり晴れた青空は桜の満開の季節には似合わない。同じような色合いに白く霞んだ天地のなかで、いちばん白く、しかもその白い印象を消さない程度に淡い紅色が交じっている。全体の調和を乱さないでしかもいちばん目立つのが満開の桜だ。しかも、いつまでもそうやって目立ちつづけるのではなく、春先にひときわ目立ってから花を散らせ、そのあとは普通の大きな木に戻っていく。

 桜の花の美しさといってもいろいろある。

 日本でも、少なくとも大和(やまと)地方の人びとは古代から桜が好きだったようだ。

 古代天皇家の祖先神で、日本の国土葦原中国(あしはらのなかつくに)に降り立ったとされる神はニニギノミコト(邇邇芸命、瓊瓊杵尊)である。ニニギノミコトは「穀物の穂がにぎわう」という意味で穀物の神らしい。つまりもともと農耕の神様なのだろう。

 このニニギの妃となった女神がコノハナサクヤヒメ(木花之佐久夜毘売、木花開耶姫)で、この「コノハナ」(木花)は桜のことだという。古代の天皇家は、農耕の神と桜の神を祖先と考える王家だったのだ。

 ニニギノミコトは、山の神オオヤマヅミ(大山津見神、大山祇神)から二人の娘を紹介された。しかし、姉のイワナガヒメ(石長比売、磐長姫。ただし『日本書紀』本文には出てこないらしい)が醜く、コノハナサクヤヒメが美しかったので、ニニギはコノハナサクヤヒメだけを自分のものにしてイワナガヒメを親もとに送り返してしまった。そのために、ニニギノミコトとその子孫(つまり歴代の天皇)は、桜が咲くときのような栄えを手に入れられるかわりに、その花がすぐに散るように命の長さが限られてしまったという話である。

 イワナガヒメは山の岩の女神で、永遠性の担い手である。その「醜さ」というのも、「醜いから無価値」というわけではないだろう。天皇家の祖先神に先駆けて日本の国土をまとめ上げたオオクニヌシ(大国主命)はもとの名をアシハラシコオ(葦原醜男)といった。醜い男だからその大きな仕事をなし遂げることができたとすると、ここでいう「醜い」ということもやはり霊的なエネルギーの表れとされていたのだ。それは、桜が咲くときの勢いや華やかさと対照的な、穏やかで持続的なエネルギーだったのだろう。

 「イワ」がつくお(きさき)でやっぱり天皇に疎んじられるというエピソードがあるのが、仁徳(にんとく)天皇の后のイワノヒメ(磐之姫、石之日売)である。仁徳天皇はあの「世界最大の古墳」といわれる「仁徳天皇陵」古墳大山(だいせん)古墳)に葬られているとされる天皇だ。当初は、女遊びにふけってちっとも家にも帰ってこないし政治も顧みない天皇だった。イワノヒメ皇后は、一方でライバルの女性を強引に排除しつつ、一方で「人びとはこんなに日々の生活に苦しんでいるんだ」ということを見せた。それで天皇は改心して理想的な支配者になったという。この改心物語には中国のあるべき王者像が紛れこんでいるらしいけれど、ともかくこの物語からはイワノヒメの強い性格がうかがえる。また、イワノヒメは履中(りちゅう)反正(はんぜい)允恭(いんぎょう)の三天皇の母となり、河内王朝の諸王家(『古事記』・『日本書紀』の系譜では、安康(あんこう)雄略(ゆうりゃく)清寧(せいねい)天皇が允恭系、顕宗(けんそう)仁賢(にんけん)武烈(ぶれつ)天皇が履中系)の祖になったとされる。「好かれないけれども着実で、永い繁栄をもたらす」というのが古代天皇家にとっての岩のイメージだったのかも知れない。

 古代の天皇家の祖先は、山の岩の永遠性や着実さよりも、桜のような有限の生命がいっせいに花開くような生命力を選んだということになるのだろう。少なくとも、それが『古事記』が編集された奈良時代の日本(このころに「日本」という国名が東アジアで国際的に認められる)の王朝の自意識だった。

 『古事記』・『日本書紀』の神話は、神野志(こうのし)隆光氏が注意を促しているとおり、天皇の神話であって、そのまま「日本神話」だということはできない。だから古代の「日本」(現在の日本国の領域)の人たちみんなが桜を好んでいたというわけではないだろう。しかし、少なくとも、古代の大和地方には、天から来た農耕の神と山から来た桜の神を祖先とする王家が成り立つ基礎があったわけだ。

 ただ、この古代国家の桜への好みがそのまま単純に後の日本(現在の日本国の領域)の人に受け継がれたというわけではないだろう。8世紀ごろの「日本」(もとの大和王朝)の桜は、すぐに散ってしまうはかなさもあるけれど、華やかさや力強さを表現していたようだ。それが、平安時代の和歌の世界になると、もっとやわらかい雰囲気の花になっていくように思う。優美ではかなげな印象が出てきたのだ。

 江戸時代にソメイヨシノが生まれ、それから現在に向けて日本中にソメイヨシノが植えられ、日本は桜だらけの国土になっていく。それまでは、たぶん、人が自由に立ち入ることができてたくさん桜の咲いている場所というのは限られていたのではないだろうか。平安時代ごろの和歌には、山に咲いている桜を遠くから眺めている、または、眺めもせずに遠くの桜に思いをめぐらせているという感じのものがある。桜は遠くから眺めるものだったのかも知れない。

 太平洋戦争の時代には、桜が潔く散ることが国のために死ぬことの象徴として使われた。体当たり用の有人爆弾には「桜花」という名まえがつけられた。また、1944(昭和19)年に最初に神風特別攻撃隊(特攻隊)が編成されたとき、そのうちの一隊は「山桜」隊と名づけられた(他は「敷島」、「大和」、「朝日」。本居(もとおり)宣長(のりなが)の和歌からの命名である)

 現在の日本で桜は何の象徴になっているのだろう? 公園には桜がいっぱい植わっていて、年度始めの会社員がそこで酒を飲んで大騒ぎする。学校にも桜が植わっていて入学式や学年最初の始業式のときにその桜がいっぱいに咲く。やっぱり「日本的公共性」の守り花みたいになっているのかなという気がする。

 あともうひとつ、桜というのは現在の日本を代表する文化――「萌え」文化の象徴なんだろうなぁ。『カードキャプターさくら』の再放送もNHK教育で始まったし……というような話はここではやめましょうね。


 恭仁大橋を渡った向こうの畑や田んぼでは農作業が始まっている。どこの田や畑でも農作業が始まっているというわけではないが、畑で作物の手入れをしていたり、水路と田んぼをつなぐあたりで何かの作業をしていたりする人たちがところどころに見られる。

 このまえ来たときに迷った近道を逆に進んだ。国道の下を抜け、坂道を上って宮跡に着く。

 やはり宮跡の桜はまだちらほら咲き始めた程度だ。遠くから見るとほとんど咲いていないように見える。

 そういえば、ここに都を開こうとした聖武(しょうむ)天皇の称号は「天璽国押開豊桜彦(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこ)」といった。いっぱいに咲く桜を自分の名まえに選んだ王だったのだ。

 聖武天皇が「聖武」という漢語ふうの称号を知っていたかどうかは微妙なところである。一つには、天皇の漢語ふう称号がいつ決められたかという問題がある。奈良時代初期に編集された『日本書紀』ではまだ「神武」・「天武」などの漢語ふうの天皇称号は使っていない。平安時代には使われているので、奈良時代のある時点から使われ始めたのだろうけれど、それがいつかがわからない。もうひとつ、それが使われていたとしても、天皇の称号が生前から使われているものだったのか、死後に(おく)られる「諡り名」だったのかがわからない。天皇称号制度が確立してからは天皇の称号は「諡り名」だった。昭和天皇も、昭和天皇と正式に呼ばれるようになったのは亡くなった後であった(在位中は「今上(きんじょう)天皇」、亡くなってすぐは「大行(たいこう)天皇」と呼ばれるのが通例で、その後、正式に天皇称号が決まる)。奈良時代の王朝が参考にしたはずの中国の制度でも、皇帝称号は死後に諡るのが普通だった。しかし、戦国時代までは中国でも王の称号は在位中に自分で名のるものだった。奈良遷都のすこし前に中国を支配し、中国ではじめて日本の「日本」という国名を認めた女性皇帝武照(ぶしょう)(中国史上、女性で「皇帝」を名のった唯一の人である)は自ら「則天大聖(そくてんだいせい)皇帝」と名のった(この皇帝によって王朝を一時的に中断された唐王朝は、この皇帝称号を認めていない。一般に「則天武后」という)。だから、聖武天皇も自らその称号を名のっていた可能性もありうる。聖武天皇の祖先の男性天皇には「天武‐文武」と「武」の文字が含まれており、これに初代天皇の称号「神武」を加えれば「神武‐天武‐文武‐聖武」という「武」のつく王家の系譜ができる。この系譜は聖武天皇も意識していた系譜だろう。だから、「聖武」という称号が聖武天皇の意図に合ったものであるのは確かだと思う。なお、後の天皇でも、たとえば後醍醐天皇は自ら「後醍醐」という称号を選んだと言われている。

 宮跡には、いまが春休みの近所の子どもたちが来たり、犬を散歩させている女の人が来たりしている。塔跡の後ろは広いので、犬を走り回らせるにはちょうどよい場所だ。前にも書いたとおり、こうやってそこに住む人びとの暮らしの一部分になるのが歴史的な場所としていちばんいいあり方じゃないかと思う。なんでも昔の建物を復元したり囲いを作って人が入れなくしたりすればいいというものではない。

 宮跡に建っている恭仁小学校の建物も、今回は遠慮はしながらも正門のところから少し覗いてみた。

 瓦葺き、板張りのすべて木造校舎である。正面の一部分だけが二階建てだ。しかも、少し見たところでは、窓枠もサッシではなくて木の窓枠のようだ。要するに完全に昔ながらの木造校舎なのだ。しかもよく手入れされてていねいに使われているらしい。

 たぶん不便だろうし、子どもたちの暮らし心地も必ずしもよいとは言えないのだろう。もしかすると、建て替えようとしても史跡の上に立っているので建て替えがきかないという事情があるのかも知れない。けれども、鉄筋コンクリートや鉄骨造りの建物が普通になった時代に、小学校時代にこういう学校で学べるというのは貴重な経験だと思う。

 このまえに来たときには恭仁小学校の前から加茂駅のほうに戻ったのだけれど、今回は時間ができたので、恭仁小学校前の道をさらに西のほうに行ってみた。西のほうに何があるかは知らない。道がつづいていそうだから行ってみただけである。

 うららかな春の一日だ。空も青く晴れて澄みとおっている。車が走り抜けている国道から離れると、道の両側には絵に描いたような日本の田園風景が現れる。畑には黄色い菜の花が咲き、生け垣に囲まれたその向こうの家では布団を並べて干している。高圧電線の鉄塔も錆色になっていて、その周囲の風景に溶けこんでいる(それともそういう色の景観に配慮した塗装なのか?)。こういう日常の風景を私は日本の景観として守ってほしいと思っている――でも、まあ、東京で鉄筋コンクリートの建物の部屋に住んでる人間が言うことじゃないのだろうなぁ。

 しばらく行くと道は下りになり、下ったところに「恭仁神社」という看板が出ていた。道はそのまままっすぐつづくけれども、道をたどっていくとどこまでつづくかわからない。いちおう前回に訪ねたところの写真を撮るという目的があった。ちょうどいいので、この神社にお参りして引き返すことにした。


恭仁神社(30KB)
恭仁神社

 恭仁神社は恭仁京の西側の山にある神社だ。もともと、崇道(すどう)天皇などの霊を祀る御霊(ごりょう)社と菅原道真を祀る天満宮があったところへ、さらに奈良の春日若宮神社を合わせて祀っていまの恭仁神社になったという。

 崇道天皇は桓武天皇の弟の早良(さわら)親王のことで、桓武天皇の皇太子になっていたが、反乱事件にかかわったという理由で殺された。昔は抗議のために絶食して自殺したという話をきいたが、すこし前に、NHKの教育番組で、水分を与えられずに死に至らせられたという話をきいた。死後、怨霊となることを恐れられて天皇の称号を与えられ、祀られた。菅原道真も、いまは学問の神様であるが、平安時代には怨霊として恐れられて祀られた神様である。それに春日若宮の神様が加わって一つの神社になったらしい。

 もともとは山の神様がお祀りされていた場所だったのだろうか。それが怨霊と関係づけられ、御霊社や天満宮になった。いずれにしても、崇道天皇も菅原道真も恭仁遷都よりあとの人物だから、恭仁京とこの神社とは直接の関係はなさそうである。

 しばらく参道を上っていくと、石段があり、神社に着く。この石段の上に狛犬さんが一対いて、神社の拝殿に上がる手前にも、もう一対、狛犬さんがいる。もしかすると、神社を合わせてお祀りしたときに、それぞれの狛犬さんが手前と奥に配置されたのかも知れない。

 ここの神社は、拝殿の正面に能舞台があり、その左右には前後に長い吹き抜けの建物が配されている。この左右の建物から能舞台を鑑賞するのだろうか? 独特の造りなのだそうだ。

鳩の瓦(21KB)
恭仁神社境内の鳩の瓦

 舞台の後ろを上がったところが拝殿で、その奥が本殿だ。本殿の左右に祠がいくつも祀ってある。なかに、瓦に鳩がとまっているところをかたどった瓦があったので、写真に撮っておいた。こういう瓦はほかではほとんど見たことがない。

 途中で細い脇道があったので入ってみると、狭い石段を下りた狭い場所に古いお墓が並んでいた。僧侶の名前が刻んであるお墓もある。ここに葬られているのはいったいいつ頃にどんな生涯をたどった人たちなのだろうか? 明治時代には仏教と神道が分離されたので、お宮のすぐ横にお墓があるということは、たぶん明治以後の人ではないのだろう。

 この加茂のあたりを歩いていると、江戸時代の年号を刻した石灯籠や石仏などにときどき出会う。それが無造作に道端にある。歴史を一歩ずつ無理せずに歩んできた町なんだなということを感じる。

 歴史的な景観というのは、無理やり古いものを残すとか、町に残る遺跡を観光コースに仕立て上げるとかいうことで守るものではない。町や町の人の暮らしが少しずつ変わっていくなかで、古いものもその生活のなかに残っていく。そうやって守られるのが本来の歴史的景観ではないかと思う。もっとも、それが無理だから、一部の遺跡だけ保存してみたり、観光地以外は開発してビルだらけにしてしまったりするのだろうけれど。


 恭仁神社からもういちど宮跡のほうに戻る。

 向こうから小さなバスがやってきた。恭仁小学校前のバス停でお客さんを乗せて、私がいま歩いていたほうへと走っていく。見ると近鉄山田川駅行きと書いてある。山田川というのは、奈良(大和西大寺)と京都とを結ぶ近鉄線の途中の駅だ。とすると、この恭仁宮跡・恭仁小学校前の細い道をずっと進めば、その近鉄の山田川という駅に出るのだろうか?

 バス停には「自由乗降バス」と書いてある。手を挙げれば停めてくれるのだろう。

 それでふと思い出した。加茂駅前のバス停に廃止される路線という広告が出ていて、その中の一つがこの山田川線だったのではなかっただろうか? また、月ヶ瀬口駅行きのバス路線もなくなると書いてあった。今回、恭仁京に行って帰るあいだに、この月ヶ瀬口行きの小さなバスにも二度遭遇している。

 こういう小さいバスで、しかも一日の運転本数が限られていても、それでも採算がとれないのか?

 鉄道廃止の動きは困ったものだなどと言っているけれど、世のなかの流れはそんななま易しいものではなく、現在ではバス路線廃止の勢いも強まっている。やっぱり運輸・交通の独立採算制の影響である。

 しかし、この加茂の駅は、大阪の中心部から直通の電車が走っているターミナル駅である。そのターミナルから先に行くバスの路線が限られているというのは、鉄道の発展にとっても地域の発展にとってもよくないのではないだろうか。


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