過ぎ去らない日々


押井守ナイトショウ

テアトル池袋 2003年2月15日深夜〜

上映作品等

  1. DOG DAYS AFTER 〜女たちの押井守 2003年
  2. ゲスト(押井守)によるトークショーとプレゼント抽選会
  3. 紅い眼鏡 1987年
  4. Stray Dog -- Kerberos Panzer Cops (ケルベロス地獄の番犬) 1991年
  5. Talking Head  1992年


行ってきました!

 押井守作品のオールナイト上映会があるというので、迷いに迷った末、行ってきた。

 なんで迷ったかというと、やっぱりオールナイトを乗り切るだけの体力に自信がなかったからである。四捨五入して40歳の身に映画のオールナイト上映会はやっぱりコタえる。

 そんな思いを抱いて行ったら、しっかり「30歳代の人、手を挙げてください」、「では、40歳代以上は……」という年齢チェックが入ってしまった。先日の「萌えきゃら祭り」(1月18〜19日、ゲーマーズ本店一号館)では、ブロッコリーの情けか、それとも単に市場価値がないと見なされたのか、そこまではチェックが入らなかったのにぃ〜!!

 ちなみに、この劇場「テアトル池袋」は私にとっては思い出深い劇場である。1980年代末になってベルリンの壁がなくなろうかという時期にアニメファンになった私は、『うる星やつら 2 ビューティフル・ドリーマー』・『天使のたまご』・『紅い眼鏡』・『迷宮物件』・『機動警察パトレイバー』(劇場版第一作)をはじめて観たのはすべてこの劇場でだった。しかも、それはすべて押井守作品オールナイト上映会でだった。それだけではない。そのあと、『Talking Head』までの作品はすべてこの劇場で最初に観ているし、その全部をこの劇場のオールナイト上映会でも観ている。『Talking Head』のときのオールナイトのイベントでは、映画に出てくる巨大きのこが舞台の端に置いてあったのをよく覚えている。午前3時頃になって『Stray Dog(ケルベロス)』を観ていると、どこかのおじさんが劇場に入ってきて、この作品のあいだずっと眠って出て行ったのもよ〜く覚えている。

 私と押井守作品との関係にとっては、このテアトル池袋は欠くことのできない場であったわけだ。

 今回の企画に行ったのには、そのこともたしかに影響していたと思う。いわば思い出の地へのセンチメンタルジャーニーだ。

 結果として、今回の企画は、私がこの劇場で観たオールナイト上映会のなかでもっとも苛酷な企画となった。延々と朝の8時までやっていたのだから。そのあと、立ち食いそばを食って家に帰ったらGA(『ギャラクシーエンジェル』)で「なかなか落ちない中落ち」とかやっていて、頭のなかがわけがわからなくなってそのまま夕方まで寝てしまった。

 このGAの制作陣のなかには、押井作品にどんな形でかは知らないが興味のあるひとがいるらしく、ときどき「衒学的な言い回しを交えた長広舌のモノローグ」が出てくる。「萌えきゃら祭り」の企画でもGAはうる星みたいだという発言も出ていたし、まあいいんじゃないだろうか。

 何がまあいいのかは、この文章で追及してもあんまり意味がないと思う。



さて、押井作品である。

 私は、前の夜に「押井守ナイトショウ」に出かけると決めて、その「前夜祭」として『攻殻機動隊』と『アヴァロン』をDVDで観た。ほんとうは『機動警察パトレイバー2』(劇場版第二作)も続けて観るつもりだったが、やっぱり途中で体力が尽きて『アヴァロン』が終わったところで寝てしまった。こういうところでやっぱり体力面・気力面での衰えを感じたりする。

 でも、この二本を久しぶりに通して観て、やはり新しく感じることがあった。



ひとつは、押井守による女性の描きかたである。

 押井作品での主要な女性キャラクターの描きかたは独特だと感じてきた。『天使のたまご』のたまごを抱いた少女、『紅い眼鏡』の「紅い少女」から、『Stray Dog』の唐密(タンミー)、『攻殻機動隊』の草薙素子、『アヴァロン』のアッシュまで、押井作品の主要な女性キャラクターは、作品のなかでも、また他の映画のヒロインと較べても、独特な立場に立っている。コミックスやテレビアニメでかなり強固な設定が作られていた『機動警察パトレイバー』でも、押井守は、最後には、「才能があって口うるさい女上司」だったはずの南雲しのぶをしっかり自分の作品のキャラクターとして演出してしまった。

 これらの女性キャラクターは、物語のなかの役柄から言えば、たしかにそれぞれ違った立場に立っている。

 「紅い少女」や『Talking Head』の「お客さん」は、物語の進行にはまったく関与しないで、ただそれを「観ている」だけのキャラクターだ。『アヴァロン』の「ゴースト」も、逃げたり撃たれたりはするけれども、それに近いところがある。ところが、『攻殻機動隊』の草薙や『アヴァロン』のアッシュは、自ら何かをなし遂げようと動くキャラクターである(この点は、野田真外さんの2001年SF大会「押井学会」での報告に教えられた)。『Talking Head』の小林多美子もたぶんそうだろう。『パトレイバー2』の南雲しのぶも、最後の部分では自分の意志だか情念だかにしたがって自分で行動する。

 また、押井が『パトレイバー2』で描く南雲しのぶは論理よりも情念で動くキャラクターである。この点は、しのぶほど表に出しては見せないけれど、草薙やアッシュでも同じだと思う。それに対して、「紅い少女」や「お客さん」や「ゴースト」はそういう心の動きを見せない。というより、そういう心の動きがあるのかどうかすら(もしかすると『紅い眼鏡』の幕切れの「紅い少女」を除けば)はっきりしない。

 けれども、見かたを変えてみれば、これらのキャラクターには「共通した描きかた」があるような感じもしていたのだ。

 その共通点はといえば、女性的な魅力を表に出さない、むしろそれを押し殺したような「中性」的な描きかたかも知れないと感じていた。

 それはどうしてなんだろうという疑問は浮かばなかった。せいぜい押井さんの趣味だろうというぐらいのことだった。



押井守は女性の「全部」を描きたい?

 けれども、『攻殻機動隊』と『アヴァロン』を通して観て、それはもしかすると押井さんは「ひとつの作品で、しかも一人のキャラクターを使って、女性の全部を描きたい」という意図を持っているからではないかと感じた。

 『攻殻』の草薙も、『アヴァロン』のアッシュも、女性の持つさまざまな表情を見せる。隙を見せない「自立した女」の表情でいることが多いが、ときには頼りを求めるような哀切な表情を見せたりもするし、少年のようだったり、少女のようだったり、かと思えば老女のようだったり、いろいろな表情を見せる。一人の女性を使ってそのすべてを見せたいために、「デフォルト」の表情は「中性」的なところに抑えられていたのかも知れない。そう思ったわけだ。



「観せる」こととデジタル技術

 もう一つは、押井守にとって、「観せる」ということとデジタル技術との関係である。

 WWFのへーげる奥田氏は、近作「押井作品における戦闘現象論」(『WWF No.25 押井学会 Vol.3』収録)で「観え」という概念を問題にしておられる。「観せる」というのは、その対をなす概念とも言えるし、映像作品作者の側が「観え」をいかにコントロールしようと試みるかという行いであるのかも知れない。もちろん作者がコントロールしたとおりに観衆にも「観え」るかというとそんなことはないわけだが、押井守はそのことについても十分に自覚的に対処しているように思う。

 その「観せる」こととデジタル技術との関連に気づいたのは、『攻殻』と『アヴァロン』のオープニングの映像を観たときだった。

 この作品は、数字や文字で表現された場所に視点が下りていくという描写で始まる。

 デジタル技術を描きたいのならば、最初からデジタルで3D処理された舞台に下りていくように描いたってかまわないはずである。しかし、押井守は、わざわざ数字や文字を観せるところから映画を始めている。ヘリコプター(?)を表現する数字を下から見上げて裏返って観えるところまで描いている。

 また、『アヴァロン』のゲームのディスプレイは、よく観ると、前に表示されたデータが上にスクロールしていくのではなく、前のデータが背後に退いていくような表示のされ方をしているのがわかる。つまり、遠くて小さく見えて焦点がぼやけているほうが古いデータだという関係が描かれているように思える。

 なぜわざわざそんなディスプレイを描いたのだろうかと思う。

 そんなことを考えていると、ふと、単なる数字や文字の羅列でもなく、その数字や文字の羅列がデジタル処理された結果としての映像でもなく、その境界にあるような「処理されつつある数字や文字」を描くことに押井守は強い執着を持っているように感じたのだ。

 押井守は、デジタル技術を、あたかもデジタルで細工していないかのように「自然」に使いこなすことのできる映画監督の一人だろう。しかし、同時に、自分の映画のなかで、そのデジタル技術が「驚き」であり魔術のようなものであることを描かずにはいられないのだ。



そういう「予習」を経て私は「押井守ナイトショウ」に臨んだ。

 押井守作品での女性キャラクターの描きかたというようなことを考えていただけに、DVDの特典映像『DOG DAYS AFTER』は興味深かった。兵藤まこ・鷲尾真知子・石村とも子・蘇意菁(スー・イーチン)のインタビューで構成した作品である。「出演女優から見た押井守」という企画だ。

 上映後のトークでは、「女」という観点からの押井作品批判・押井守批判を意図したのが当初の企画意図だったというけれども、ほんとうかどうかは知らない。押井守としては「自分では出来上がりの予測のできないもの」を作ってほしかったんじゃないかと思うし、その意図はけっこう実現されているのではないかと思った。

 ただ、『紅い眼鏡』・『Talking Head』のロケ場所だった山形県上山の「トキワ館」の現状を観たときにはちょっと心が痛んだけれども。

 せっかく兵藤まこさんがゲストに来ておられたのだから、いま感じていることを直接にもっと聴きたかったけれども、案じたとおり、押井守の饒舌が時間を大幅に食ってしまい(トークの最初のほうは寡黙だったんだけどねぇ、押井さんにしては……)、まあそれはそれでよかったのではないだろうか。



「兼業」・非「専業」の人びと

 新作『KILLERS』の特報も流され、企画の成り立ちから、撮影に二日しかとっていないことまで、いろいろと話が出ていた。

 で、『DOG DAYS AFTER』スタッフと千葉繁・藤木義勝・兵藤まことのトークでも、『KILLERS』のプロデューサーとの立ち話でも、押井さんが何度も言ったのは、自分といっしょに仕事をする人の中心メンバーには典型的な役者や典型的な映画監督ではないひとが多いということだった。映画に出たことのないモデルだったり、出番ではいつも仮面をかぶっていていちども顔をさらしたことのない役者だったり、ほかに「本職」を持っている兼業映画監督だったりする。

 このことは『Talking Head』と考え合わせると興味深い。

 押井守は、自分のなかで二つの役割を持ち、自分のなかで対話しながら演技や作品を作っていける人を評価し、そういうひととの共同作業を楽しむのである。

 そういうひとの作品への営みは単なる「対話」ではない。立場や考えかたのまったく違う個性のぶつかり合いではないのだ。押井守がそういうドライな「個性」を信じているとはあまり思えない。『攻殻』の草薙と人形使いの会話で出てくるように、それはひとつの種のなかの揺らぎの一種であり、共通性・共同性から離脱することのできない「違い」なのである。

 押井の「対話」は「自己内対話」(これは丸山真男の遺稿集のタイトルらしい。無断借用する)なのである。どうかするとひとつの「自己」として同一化してしまいかねないぎりぎりの縁に立った対話なのである。その危うさを際だたせて描いたのが『Talking Head』の「私」や「丸輪零」の姿なのだということもできるかも知れない。押井守は、そういう危うさの上に立って自分も仕事をしたいと願い、また、そういう危うさの上に立ってものを作り出していくスタッフや役者との共同作業に充実感や達成感を感じているのではないだろうか。

 べつに押井さんが「いや、違う」と言ってくれても、私はぜんぜんかまわないのだけど。



デジタルの「境界」を描く

 これは、たぶん、デジタル技術の描きかたでも同じなんだと思う。デジタル技術を意味不明の数字・文字の羅列としてのみ描くのではなく、しかしデジタル技術がなし遂げた成果だけを作品に載せるのではなく、数字と文字の羅列とデジタル処理された映像との境界を描く。そのことでデジタル技術が「驚き」であることを示そうとする。「これはデジタル技術だ」と説明するのではなく、説明しないのでもなく、デジタル技術の奇異さ・異形さを印象づけようとするわけだ。

 数字・文字の列が映像になる、私が「私でない私」になる、その境界にこそ映画で描くべきものが叢生する。それが映画監督としての押井守の信念なのではないだろうか。



押井はけっこう「物語」をきちんと描いている

 『Talking Head』といえば、久しぶりに観たこの作品は実に明快な映画に観えた。まさに「何度でも観る必要があるんだ」ってわけなのかも知れない。

 これまでは、どうしても「映画論映画」という印象が先行していた。だから、この映画全編で展開される「映画論」に気をとられてしまい、それをいろんな場面でつないでいるというだけの見かたをしていたように思う。

 今回、見直してみると、思いのほか、ひとつの「物語」にまとまっていることに改めて感心した。

 『WWF』の最新刊に書いたとおり、私は映画は単に「物語」(「あらすじ」と言ってもいい)からアプローチして観るべきものじゃないと思っている。「物語」を語るだけならば文章を書けばいいわけで、それを映像作品として作る以上は、たんに「物語」を語るだけでは語りきれないものがあるはずである。映画を「物語」だけで語ることでこぼれ落ちてしまうものの豊饒さということについては、私はほかのどの作者よりも押井守から教えられた。

 で、そうやって居直ってしまうと、かえって「物語」的にもちゃんと組み立ててあるんだということに気がついたりもする。もしかするとひどい話かも知れないが。



『Talking Head』と『Stray Dog』

 『Talking Head』という作品は、作品づくりに行き詰まった演出家が、自分のことを知らない自分をでっち上げ、自分の考えを問いただすことで作品を仕上げていく物語として一貫している。文字で書いてしまうと「なんだ、わかりきったことじゃないか」と思われてしまいそうなのが辛いところだ。もしかすると私が鈍かっただけなのかも知れないが、ともかく、私はこの『Talking Head』がここまで「物語」的に一貫した作品だと思って観たことはなかった。

 この感想は、やはり久しぶりに観た『Stray Dog』でも同じだった。今回、この作品は夜明けの時間帯で、自分でも「こりゃ寝るぞ」と覚悟していた作品だった。映画館のなかでも「この作品は眠れる」という声をあちこちできいた。ところがぜんぜん眠くならなかった。

 この作品に接するときにも、以前は、「イメージシーンをつないでいるだけ」とか、「要するに風景を見せたいんだろう」とか、どうも「物語」を探ることに対して最初から斜に構えて観ていたような気がする。ところが、今回、観てみると、乾と唐密が紅一を捜してなかなか尋ねあたらず、ついに出会って共同生活を始め(ちなみに再会時の乾のセリフ「卑怯者! 色魔! ○リコン!」で思わず首をすくめたのは私だけ?!、その生活が本国からの追っ手によって破られるという物語に沿って、意外ときちんと組み立てられていることに気がついた。押井さんはけっこうきっちりと「物語」を語るひとでもあるのだ。



押井が「神」という概念に惹かれる理由

 押井守は、一本の映画の一人の女優で「女」のすべてを描こうとしたというのが、私をとらえている現在の頑迷な印象である。でも、それだけではないのではないか。デジタル処理されたものを観せるだけではなく、「デジタル処理すること」がいったいどんなことなのかをも映画に描こうとする。「物語」も描こうとするし、「物語」が放逐したはずの「驚き」や「魔術」としての映画の姿も映画のなかにとどめようとする。押井守は、一本の映画で、映画でできることのなるだけすべてを実現しようとし、映画が観衆に与えられることのなるだけすべてを与えようとする。

 ヨーロッパ中世の人たちは、神が造り給うた世界が不完全であるはずがないと思っていたようだ。押井守が「神」という概念に惹かれつづけるのはそのせいかも知れないと私は妄想する。

 だから、映画で実現することのできることが少しでも残っているかぎり、押井守は映画を撮り続けるだろう。



最後に、ごく私的な感想である。

 たとえば、『Talking Head』公開時のオールナイトを観ていたときに、十年後も同じ劇場で同じ作品をオールナイト上映会で見ているとは想像もしなかった、というと、なかなか感傷的である。ところが、いま思い返してみると、私はどうもそうではなかったようだ。そのころから、十年後にも同じ作品を同じ時間帯に同じ映画館で観ていても少しもへんでないと思っていたように、思えてしまうのだ。

 もしかすると、私は、10年後にも同じようにして押井作品を同じ映画館で徹夜で見ているかも知れない。これはほかの映画監督ではなかなか実感できない感覚かも知れないと思う。


―― おわり ――




関連アーティクル

PAX JAPONICAをめぐる冒険(清瀬 六朗)

北京で押井守について考えたこと(清瀬 六朗)

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野田真外さんのサイト「方舟」