PAX JAPONICAをめぐる冒険

清瀬 六朗





はじめに

 『ニュータイプ』に連載されている押井守の『PAX JAPONICA』を素材にして、それをこねくり回して遊んでみようという企画である。タイトルはいろいろ考えたが、浮かばないので、押井さんの実写映画を集めた『シネマ・トリロジー』についていた冊子の「押井守の《映画》をめぐる冒険」というタイトルから借用した。


PAX JAPONICAとは

 「PAX JAPONICA」については、2月26日の六本木THINK ZONEでの「PAX JAPONICA Project」でも話があった。『ニュータイプ』の3月号の連載第一回にも解説がある。「覇権国家となった日本」を仮想してみるという企画らしい。

 その出発点は、去年(2002年)の同じ日に開かれた「東京要塞化計画」のプロジェクトにあったという。その時点では、東京が「空爆」を受けるような状況になったとき、その東京をどうすれば防衛するかという仮想計画だった。

 しかし、状況が変わった、いや、「気が変わった」と押井さんはいう。

 アメリカ合衆国はなぜあのようになりふり構わず戦争へと突っ走るのか?  国連はあまり積極的ではないし、イスラム諸国はもとより、フランスやドイツのようなヨーロッパの有力な同盟国からは強い反発を受けている。さらに足もとのアメリカ合衆国の世論のなかにも戦争への反対の声は大きい。それでも、なぜアメリカはイラク攻撃に急ごうとするのか。

 それは、攻撃することでしか、アメリカを防衛できないからだ。広大な国土と長い国境線を持つアメリカを防衛することは、敵が実際にその国土まで来てしまってからでは遅い。九・一一テロによる「空爆」がそのことを証していると押井さんは言う。アメリカ国防総省の建物も旅客機による突入攻撃を未然に阻止できなかった。それがその脆弱さを表している。

 だから、少しでもアメリカを攻めてきそうな勢力や、ほうっておくとアメリカを攻撃する力を持ちそうな敵対勢力を、アメリカに来る前につぶしておかなければならない。湾岸戦争以来、アメリカ合衆国とイギリスを主体とした敗戦国管理に抵抗しつづけ、アメリカの覇権に抵抗しつづけるイラクのサッダーム・フセイン政権はそういう敵対勢力に見える。だから、アメリカはサッダーム・フセインのイラクへの攻撃を急ぐのだ。



国民の「安全」意識と覇権国家の誕生

 少し補足しておこう。

 アメリカ合衆国をともかくも存続させるだけならば、べつに敵が上陸してから戦っても十分に戦えるはずだ。ワシントンやニューヨークやサンフランシスコやロサンゼルスを占領されても、合衆国政府がロッキー山脈のどこかに立てこもって抗戦すれば、それを討ち果たすのは容易ではない。そのうちに敵の国力が尽きてしまう。

 現在のアメリカ合衆国の国家組織を完全に一掃して自分の手で新しい支配をうち立てるには莫大な国力が必要である。たんなる軍事力だけではない。物資や人の動員力から、それを支える国民の世論の持続力までが必要だ。そこまで戦い続けるだけの国力がある国はないだろう。国民を飢餓に追いこんでまで大量破壊兵器を大量に持てば、アメリカ合衆国の国土を破壊することはできるかも知れない。しかしいまのアメリカ合衆国にかわって支配をうち立てるのはまず不可能だ。

 だが、現在の政治組織や国防組織を破壊され、主要都市は大量破壊兵器で廃墟となり、国民の多くが敵にいつ襲われるかわからない状況に陥るようでは、それはすでに「アメリカ」ではない。アメリカ合衆国に住むアメリカ国民が一人も生命の危険にさらされない状態でなければ、アメリカの安全は保てない。民主国家アメリカの主人であるアメリカ国民がそう考えている以上は、そのアメリカの「脅威」は、アメリカに到達する以前に叩きつぶしておかなければならない。そういう考えが成り立つのが自然だ。だからアメリカは覇権国家になるしかない。

 これはイスラエルでも同じである。

 イスラエルはパレスチナ過激派のテロの脅威にさらされている。しかし、イスラエルは、パレスチナ人の居住地域に自分たちの国民を「入植」させ、そこに支配圏を拡げている。パレスチナ過激派のテロがイスラエル国民に脅威を感じさせるならば、イスラエルの国家政策もパレスチナ人に常に脅威を与えつづけている。だが、イスラエル建国時から日常的にイスラエルの軍事的脅威にさらされているのがあたりまえのパレスチナ人と違って、イスラエルの国民にとっては、パレスチナ過激派のテロに少しでも自分たちの「安全」が脅かされるのががまんならない。パレスチナ人はイスラエル国家の脅威にさらされながらも、生活の糧を求めるためにイスラエルに働きに行くような折り合いのつけ方ができるが、イスラエル人にはパレスチナ過激派のテロと折り合っていくことはできない。

 そうである以上は、テロリストでないパレスチナ人がどんな被害を受けても、パレスチナ過激派の拠点を軍事的に破壊し、その再起が不可能になるまで制圧しておかなければならない。もちろんイスラエル国内にも異論はあるわけだが、けっきょくそういう考えかたがイスラエルの世論では支持される。

 そういう点で、アメリカ世論とイスラエルの世論、アメリカ国民の「安全」意識とイスラエル国民の「安全」意識は共鳴する。



「覇権国家日本」の可能性へ

 で、日本である。

 日本にはアメリカ合衆国のような強大な軍事力はない。敵が攻めこんできたときに、国土のなかで抵抗する準備もできていない。ところが、日本の国民の「安全」意識は、むしろアメリカ国民やイスラエル国民の「安全」意識に近い。日本国民が一人でも生命の危険にさらされるのであれば日本の「安全」は危機に陥ると考えている。そういう危機を、自分の国の軍事力の支えなしで確保できるというのが日本国民の「安全」意識であり、「平和」意識だ。

 そうであれば、日本もそれにふさわしい軍事力を保持し、世界に軍事力を展開してもおかしくないのではないか。それが「真っ当」なのではないか。日本国民の「平和」や「安全」への意識を変えるのではなく、日本の軍事力と世界政策を日本国民の「安全」意識にふさわしいように変えるという仮想作業を行ってみよう。

 それが押井守がいま考えていることではないかと思う。



つづき



目次



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ガブリエルの憂鬱 〜 押井守公式サイト 〜

野田真外さんのサイト「方舟」