明治日本のデモクラシー的伝統から考える


坂野(ばんの)潤治

明治デモクラシー

岩波新書、2005年


3.

 もう一つ、興味深かったのが、「積極政策」を合流点として「官民調和」が完成し、そこで「明治デモクラシー」が終わるという議論である。もっとも、そのときには、その「積極政策」を軸にした「官民調和」の外側から、都市民衆運動の激化とか、美濃部達吉・北一輝の国家体制論とかいう「大正デモクラシー」への流れが始まっているのだけれど。

 なお、「積極政策」というのは、地方の開発に国のおカネを投入し、その見返りに選挙のときに投票してもらおうという開発政策のことだ。20世紀全般にわたって保守政党が(保守政党だけではないが……)展開した「利益誘導政治」の原型である。

 「抵抗型デモクラシー」から「積極政策による官民調和」へと自由党が舵を切ったとき、その中心人物だったのが、著者もその率直さが好きだという星(とおる)である。この星亨が、官民調和へと切り換えるときの演説が紹介されている(168ページ)。国民は減税論に慣れている。だから、官僚が自由党と提携したいならば、まず減税を実現してほしい。それから積極政策に転換すれば国民もスムーズに乗ってくるだろう。だいたいそんな議論である。

 「減税」は「抵抗型デモクラシー」の主要な争点だ。それを抑圧するのではなく、その主張を実現することで「抵抗型デモクラシー」を無力化し、その先で積極政策による「官民調和」を始めようという戦略である。

 いや、たしかに頭いいなと思うよ。

 「目標が実現してしまう」というのは「抵抗型」の運動にとってはじつはいちばんの危機だ。次に何に向かうかを決めかねて運動が分裂してしまうからだ。一部の人は「これでは不十分だ、もっと先に進もう」と声を()らして言い張るだろう。けれども、そういう急進派についていく人は、運動のなかでも少数で、大多数はそこで獲得したものに満足して運動から離れてしまう。たとえばフランス大革命のときの農民がそうだったらしい(高校の世界史ではそう習った。もう20年以上も前の話だけど)。自分の耕す土地が貴族のものだったあいだは革命に熱心だったけれど、革命で自分の土地を確保したら、そこから先の革命に何の関心も持たなくなってしまったというのだ。

 政権を握っている側は、目標が実現しても迷うことはない。官僚機構を動かせる立場にいるのだから、次の目標をすぐに見つけられる。たとえば、小泉首相はいま郵政民営化を「改革の本丸」と言ってなんか熱心にいろいろやってるけれども、郵政民営化が実現したら次の「改革」の目標を見つけ出すのはそんなに難しいことではない。けれども、社会運動の側は、政治的な争点が多くの人びとのあいだに共有されるのに時間がかかるので、この運動が終わったら次はこれ、というふうに進みづらいのだ。運動を指導する人たちにとっては目標の切り替えはそんなに難しいことではないかも知れないが、かわりに運動を指導する人たちはそれだけ民衆から浮き上がることを覚悟しなければならない(中江兆民が「勇民」として期待したのは、その覚悟を引き受けられる人たちなのだろう。124〜126ページ)

 マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で、行政権力の優位な点としてこの機動性というか変幻自在性を指摘している。今日と明日で正反対の方向の政策をやっていても、行政権力ならばそれで許される。でも政党にはそれができないというわけだ。こういうのを読むと、マルクスというひとはやっぱり頭よかったんだなと思う。ただ、その先に、そういう行政権力の専制はやがてプロレタリアート(何の財産も持っていない人たち)の革命でひっくり返されるという展望を置いたところが、けっきょく実現しなかったわけだけれど。ともかく、いま、社会民主主義とか左翼とかの立場から小泉政権を批判する人たちがどうしてマルクスの『ブリュメール』に立ち返って議論を組み立てないのか、私はけっこう疑問に感じている。恰好の材料のはずなのだけど……。

 話が逸れた。星は、減税を実現させて、そこで政党側が「次の運動目標」に迷ってぽっかり空いた真空状態のようなところに「積極政策」を持ってくることで、政党と官僚集団を融合させようと構想したのだ。実際には減税は実現せず、逆に、日本が軍事大国へと成長を加速したことなどで増税になってしまうのだけれど、農村が豊かになるスピードが税負担の増加を上回ってしまったので、「積極政策」への移行は星の構想どおりに進むことになった。星は1901(明治34)年に暗殺されるが、その「積極政策」主義は次世代の政友会幹部の原(たかし)に受け継がれていく。

 この部分を読んでいたとき、私は軽い違和感を感じた。私は明治の自由党が「積極政策」に転換し、20世紀後半の自民党に典型的に受け継がれる利益誘導型政治へと進んでいくことは事実としては知っていたから、まあこのへんで転換があるのは当然かなとは思った。けれども、それまでの「参加型デモクラシー」か「抵抗型デモクラシー」かという対立軸から、いきなり異質なものが飛び出してきた気がしたのだ。

 一般論としての「官民調和」論までならば、「参加とか抵抗とか言ってても政党と政府が対立するのも疲れたから、このへんで一休みしませんか」的な提案として、まだその二つの「デモクラシー」の外側に生まれてきたのは理解できる。しかし、地方の開発という、ここまであまり問題になっていない論点がいきなり浮上してきて政治の主導的地位に据わるというのが、どうも唐突な気がしたのだ。

 ほんらいならば、それは「参加型デモクラシー」を通じて実現されるものだっただろう。地方から「鉄道を敷いてほしい」とか「学校をつくってほしい」とかいう要望が政党に出され、政党がそれを政策に掲げて選挙で政権を取り、それによってその政策を実現するという形式である。また、じっさい、原敬は、その「積極政策」を「参加型デモクラシー」の枠組に収めて、「大正デモクラシー」の制度として定着させた。ただし、原敬も、具体的な「政権交替のある二大政党制」を構想しないまま先輩の星亨と同じように暗殺されてしまい(星が暗殺されたちょうど20年後の1921年=大正10年)、「二大政党制」はそのあとになってようやく確立するのだけれど。

 それが、この時点で、「抵抗型デモクラシーから参加型デモクラシーへ」の転換ではなく、官僚と妥協し癒着するための方策として出てきたのが、何か唐突なのだ。

 でも、これは、先に書いた自由党土佐派のエリート意識を考えれば当然なのだろう。自由党は大隈(重信)系政党を最初から対等のパートナーとは考えていなかったのだろうから。「政党」と呼ぶにふさわしい政党は自分たちだけで、他に考えられる政治集団というと官僚集団しかない。そう捉えてしまえば、「参加型デモクラシー」に配慮する必要なんかないわけである。

 政権交替とか二大政党制とかいうのは「抵抗型デモクラシー」にとっては異質の存在なのだ。「抵抗」するためにはみんながまとまるべきで、あちこちで勝手に「抵抗」したって敗北するだけなのだから(実際これが土佐派を中心とする愛国社中核グループの論理だった。43〜46ページ)。そして、それは、官僚集団との関係が変化すると、「参加型デモクラシー」を素通りして、いともかんたんに官僚と手を結んでしまう。自由党が官僚閥伊藤博文派と結びつくという「コペルニクス的転回」を起こしたのは、その一例である。そして、また、官僚機構や軍隊によって徹底的に痛めつけられたはずの急進社会主義政党が政権を握ると、急に官僚と仲よくなってがちがちの官僚国家を作ってしまったというソ連の例は、そのもっと大規模な例だったのかも知れない。現にソ連共産党の大原則の一つは「分派の禁止」だった。勝手にバラバラに運動してはいかんというのである。そこにはたしかに「各地の民権グループが勝手に国会開設運動をしてはいけない」と言い張った自由党土佐派と共通する発想を感じる。

 しかし、1900年の時点で「積極政策」を展開できたのは、それを可能にする素地があってのことだ。そのことにも注意する必要があるだろう。とくに、「平成10年代デモクラシー」に「明治デモクラシー」の教訓を生かそうというのなら、この点が重要だと思う。「平成10年代デモクラシー」では、その「積極政策」が巨大な赤字発生源を生み出すばかりでどうにもしようがなくなったことが大きな問題になっているのだから。

 1900年の時点で自由党が「積極政策」へと舵を切れたのは、それを可能にする財源があったからだ。その財源を供給したのは豊かになった農村だった。

 これは何かまちがっているように思える。

 「積極政策」というと後のケインズ主義政策であって、社会が不景気であえいでいるときにいちばん効力を発揮する政策である。実際、1920年代後半に、民政党(このあと大隈系政党の一部と官僚閥保守派の一部が政友会に対抗して結合した官僚政党)内閣の均衡財政の下で起こった慢性的不景気(昭和恐慌)を解決したのは、政友会政権によって起用された高橋是清(これきよ)の積極政策だった。ただ、このときには必ずしも農村の貧困問題を打開することには成功していないので、農村をターゲットとして成功した積極政策とはいえない面があるが。

 しかし、「積極政策」が官僚界と政党界を巻きこんで自ら動き始めてからはともかく、「積極政策」を起動するためには、やはり農村にある程度の余裕がなければならなかったのだ。それは考えてみると自然である。ほんとうに困っているときには、「これから新しい政策が始まって、いいことが起こりますよ」と言われても、困っている人たちは「そんなことよりいま困っていることを解決してくれ!」と悲鳴を上げるだろう。そうなると、その主張は「抵抗型デモクラシー」へと自然につながっていく。税金を減らせ、政府はむだなカネを使うなというわけだ。ある程度、生活に余裕があって、初めて「鉄道は開通した、じゃあ次は学校を造ってもらおう」とか「港はできた、じゃあこんどは港から町まで結ぶ鉄道を造ってもらおう」とかいうふうに「積極政策」にまさに積極的に対応していくようになるのではないか。

 そして、新しい政府の事業(「公共事業」である)によって地方が確かに潤うという実感を一度でも得た人たちは、こんどは経済的に困っているときに政府が新しい事業を始めると聞いても、そのこと自体には抵抗を感じなくなる。それによって地方が潤うことを知っているのだから。だから、関心は、それによって潤う地方がどこかという点に移るわけで、「減税か積極政策か」という選択ではなく「公共事業を取るのがうちの町か隣町か」という公共事業誘致合戦へと移行していく。こうやって「明治デモクラシー」は緩やかな死を迎えたのだというのが著者の図式である――著者は「緩やかな」とは感じていないかも知れないけれど。

 しかし、それを逆転すると、こんどは「公共事業をやっても地方が潤わないのだったら、公共事業なんかにカネを使うな」という方向に議論がシフトするのが当然だ。また、政府の財源に余裕がなくなってきて、公共事業をやってもそれほど政府の収入が増加しないとなると、やはり「公共事業なんかにカネを使うのはムダだ」という議論が出てくる。さらに、「積極政策」によって開発される「地方」(近代化の遅れた農山漁村)の比重が政治のなかで低下すると、やはり「そんなところにカネを回すな」という議論が幅をきかせることになる。

 それがいま小泉政権下で起こっている事態である。

 ここで起こっている事態は、「積極政策」の伝統を継承しようとする自民党組織と、「積極政策」から訣別(けつべつ)してアメリカ合衆国流の新自由主義財政へと移行したい小泉首相との対立である。自民党は官僚政党政友会の遠い後継者である。その「政党」的な部分と「官僚」的な部分がここに来て対立を起こしているのだ。「政党」的部分が自民党組織、「官僚」的部分が小泉首相のグループである。

 いろいろと官僚制度改革を目指している小泉首相グループが「官僚」的部分だと言うと、違和感を感じるひともいるだろうし、もしかすると怒るひともいるかも知れない。だが、ここで「官僚」と言っているのは悪い意味ではない。国家機構のなかで、国家機構そのものの存続を第一の目標として、機動的に、また変幻自在に政策を展開しようとする部分という意味だ。

 もちろん、具体的には官僚は国家機構全体の存続を目標にするのではなく、自分のいる局とか省とかの存続を目標にしてしまうので、このまえ小泉首相が新人官僚のセレモニーで言っていたような「局あって省なし、省あって国なし」という官僚の悪弊が生じてくる。いま進められている改革というのは、それを変えようということであって、官僚集団の「国家機構そのものの存続を第一の目標として、機動的に、また変幻自在に政策を展開しようとする部分」という性格を変えてしまおうということではないはずだ。「積極政策」から新自由主義財政へ転換しようというのも、これ以上「積極政策」をやっていると国家機構自体がダメになるという危機感からなのだろう――首相の支持率獲得戦略とかそういう要素を脇に置くとしたら。

 政党は国家機構の存続自体を最優先目標にするわけにはいかない。国家機構が存続しても、選挙民が自分たちを支持してくれなくなったら、政党は滅びるしかないのだから。だから、政党は選挙民の利益を第一目標として動くしかない。農山漁村に大きな支持基盤を持っている政党としては、そこで「積極政策」を求める声を代弁せざるを得ない。

 著者が苛立ちを感じているのは、「官民調和」の危機の下で起こっているこの自民党内の対立に際して、「平成10年代デモクラシー」勢力が効果的な役割を果たせていないということなのだろうと思う。


 さて、著者は、「戦後民主主義」の価値観が「日本史上、唯一まともな民主主義」の地位を独占することに強烈に反発して、明治デモクラシー‐大正デモクラシー‐戦前昭和デモクラシーという「日本デモクラシー史」の流れから日本近代政治史を見ることを目指している。私としては心から応援したい試みである。

 で、ここから書くのは、蛇足的、野次馬的な妄想に類する考えである。そのことを最初に断っておく。

 日本の「デモクラシー」運動史は明治までさかのぼれるとする。だったら、どうして、その前に「幕末デモクラシー」を構想することができないのだろうか? さらにさかのぼって、近世デモクラシー(江戸デモクラシー)、中世デモクラシー、古代デモクラシーなどというのは構想できないのだろうか?

 これはべつにおかしくはないので、ヨーロッパのばあいだと「古代デモクラシー」というのがちゃんと存在するのである。「古代デモクラシー」がヨーロッパにあって日本にないというのはおかしいのではないだろうか?

 いや、デモクラシー思想というのは19世紀になってヨーロッパから紹介された考えで、日本にはもともとなかったのだという反論は、この本の枠組で見るかぎり無効である。この本は、明治デモクラシーであれ、大正デモクラシーであれ、戦後民主主義であれ、日本の「デモクラシー」がつねにヨーロッパから輸入されてきたということに反発し、日本自体に「デモクラシー」の伝統があったということを主張するために書かれているのだから。その流れを明治で止める必要はどこにもない。

 もう一つ、ヨーロッパ史のほうからは、「古代ヨーロッパ」というのは「古代地中海世界」であって、後のヨーロッパとは別物と考えるべきだという反論があり得る。ヨーロッパ史は、イスラム勢力によってヨーロッパが地中海世界から孤立した時期から後を考えるべきだという主張だ。だから、古代地中海世界を例に挙げて、「古代ヨーロッパにデモクラシーがあったのだから、日本にも古代日本デモクラシーがあっていい」と推定するのは誤りであるという批判があり得る。

 これはもっともな批判である。ただ、それでも、ヨーロッパのばあい、「身分別議会」というのがあって、それが近代の議会制につながっていたり、都市の近隣グループが民主主義の母体になっていたりという流れがあり、そこにヨーロッパの「デモクラシー」のみなもとを探ることもできる。さらに、歴史の流れとしては、「古代地中海世界」と「ヨーロッパ世界」は断絶しているとしても、中世以来、ヨーロッパの人たちは政治について考えるときに古代地中海世界の文献を参照してきた。だから、実際の歴史では切れていても、思想の流れとしては連続しているということもできる。

 で、日本はどうなんだ?

 私は、これまで何度か書いたことがあるとおり、日本の村には民主主義の源流にあたる制度があったと思う。それが寄合の制度だ。村の各家を代表する男の人が集まり、全員が一致できる結論が出るまでえんえんと話し合うという会議制度である。ヨーロッパの民主主義だって最初は「家を代表する男」(家父長)だけの民主主義だったのだから似たようなものだ。しかも、日本にだって、一揆(いっき)のばあいの意思決定には多数決が用いられていたという話があり、多数決の伝統がなかったわけではない。ただ、日本の寄合では、一揆のような例は例外であり、基本的に全員一致で結論を出した。その「日本型民主主義」は今日の日本企業の「会議の文化」みたいなことろにまで影響を及ぼしていると思う。古代のことはわからないけど、中世以来の日本にはそういうかたちの「デモクラシー」が確かにあったのだ。

 ただ、そういう「中世デモクラシー」が「明治デモクラシー」につながっているかというと、それはそうではないように思う。それはまさに「下層」のデモクラシーであって、「明治デモクラシー」を担った下層士族・上層農民といった人びとの文化とは少し違う。

 ここから先は根拠の薄い「勘繰り」の領域に入ることを断っておく。その上でいうと、やっぱり武士の教養とされた漢籍(かんせき)(漢文で書かれた昔の中国の本。儒教の教典など)の世界には確かに「明治デモクラシー」の原型を提供していると思う。

 「勘繰り」とはいうけれど、こう考えたことについてまったく根拠がないわけではない。以前、『明治デモクラシー』で「抵抗型デモクラシー」の理論家とされる中江兆民(ちょうみん)の文章をまとめて読んだことがある。そのとき、兆民が漢籍に出てくる故事を縦横に使いこなしているのに面食らった――というか読んでわけがわからずに「なんじゃこりゃ?」と思った。少なくとも兆民に関するかぎり漢籍の教養がその「抵抗型デモクラシー」を支えたということはいえると思う。

 たとえば「抵抗権」の概念だって儒教から出てきたりするわけだ。中国のばあい、主君が暗愚で、何回いさめても主君が考えを変えなかったばあい、主君を見捨てていいことになっている。もちろん、そのばあいには、その暗愚な主君に殺される危険は覚悟しなければならないけれど、うまく逃げられれば別の聡明な主君にめぐり会うこともあり得た。また、そうでなければ、歴史上、何度も動乱を繰り返してきた中国のシビアな政治の現実を乗り切ることはできなかったのだろう。また、儒教がいちばんたいせつにするのは「理(学派により内容は違うが、大ざっぱに言うと、それを行うことが筋が通っていると感じられること)」であり、主君の言うことよりも「理」や「名分」(「大義名分」の「名分」。筋の通った理由)のほうが上だった。そこからは、主君が「理」からはずれたことをやったときに「抵抗」するという考えが出てきて当然だった。

 また、江戸時代の武士の世界では、「家」のルールやその利益に反することを行おうとした主君は「押し込め」てよいという倫理観が存在した。そういう武士の倫理観が「抵抗型デモクラシー」につながったと考えてもいいと思う。もちろん、江戸時代の武士のばあいには「家」が忠誠の対象だったのだが、明治以降はそうではない。そうではないが、明治国家を自分の仕える大名の「家」がものすごく大きく拡大したものと考えれば、「家」に対する忠誠から「家」を裏切る主君を「押し込め」るという発想は、明治国家の下で「抵抗型デモクラシー」運動を展開するという方向に連続したっていいように思う。

 日本には、武士・上層農民には武士・上層農民の、民衆には民衆の「デモクラシー」的伝統があった。そういうさまざまな伝統が日本の「デモクラシー」に影響を与えている。だから日本には歴史が始まって以来「デモクラシー」があったのだと言うと、それはもちろんどう考えても誇大表現である。村の寄合はまだ「デモクラシー」と言っていいかも知れないが、それはけっきょく村の政治の範囲だけのことであり、地域という意味の「国」を動かすこともなかった。武士・上層農民にたとえば儒教的「抵抗」の思想があったとしても、それをただちに「抵抗型デモクラシー」というのは無理である。ただ、それを言ってしまうと、ヨーロッパの身分制議会だって都市の近隣組織だって「民主主義」そのものではないし、古代地中海の「民主主義」はいまの日本の県よりずっと小さい都市を運営するしくみで、近代民主主義とはぜんぜん違う。

 日本のばあいも、近世以前の「デモクラシー」を遡って本格的に跡づけてみるという試みは、私はあっていいと思っている。私はあんまりやる気はないけれど。


 では、最後に、逆方向のことを考えておこう。これはどうでもいい野次馬的試みではなく、大げさに言えばこの本の存在価値にかかわる考察だ。

 「明治デモクラシー‐大正デモクラシー‐戦前昭和デモクラシー‐戦後民主主義」という「日本デモクラシー史」の系譜が完成したとしよう。

 それで、現在の政治の何がわかるのか?

 また、その「日本デモクラシー史」が完成したからと言って、現在の日本の政治を変革するのに、何か役に立つのか?

 もちろん、歴史というのは何かに役に立つためにあるわけではないから、ぜんぜん役立たなくてもいっこうにかまわない。「こういう見かたもあるんですよ、おもしろいですね」で終わってしまってもいい。あえて言えば、その「こういう見かたもあるんですよ、おもしろいでしょ?」ということを少しも感じさせてくれない歴史には意味がないとさえ私は思っている(ただし、「おもしろい」と感じるためには、前提となる知識が必要だったり、それなりに歴史書を読み慣れて一定のセンスをつけていることが必要だったりするばあいがあることには注意したい)。そして、「おもしろい」という点では、この『明治デモクラシー』は、いちおうの明治政治史の知識があればおもしろく読める本だ。

 だが、この『明治デモクラシー』は明らかに現在の政治情勢を念頭に置いて書かれている。ところどころに今日の行政改革の課題とか外務省官僚の優越意識とかの話が出てくるのだ。また、この本は、「戦後民主主義」が、今日、見る影もなく衰退していることへの苛立ちと危機意識をもとに書かれた本である。

 であれば、今日の「デモクラシー」を元気づける何かがこの本にあってもいいと思う。

 著者の「平成10年代デモクラシー」への提言はわりと明確である。

  1. まずは「参加型デモクラシー」を確実なものにするために政権交替の可能な二大政党制を樹立しよう。
  2. しかし、それだけではルソーが喝破した「国民は、選挙をするときだけは主人でも、それ以外のときは政府の言いなり」という欠点を補えないから、政府が人民の反対するような方向に進みそうなときには「抵抗型デモクラシー」で運動を起こし、政府の動きを是正しよう。
  3. ただし、「参加型」と「抵抗型」は「両雄並び立たず」現象を起こして、足を引っぱり合うことがあるから、そうならないようにするためにどうすればいいか考えるのがこれからの課題である。

 ……これで終わってもいいのだが、ここまでぐちゃぐちゃといろんなことを書いてきた私としては、もう少し、著者が考えていないかも知れないことまでつけ加えてみたい。

 まず、「抵抗型デモクラシー」を生み出すよりも「参加型デモクラシー」を定着させるほうが格段に難しいことを自覚しておいたほうがいいかも知れない。著者が言うように、日本人に二大政党制を好む「人類の心情」がないのなら、なおさらこの点は強調しなければならないだろう。

 「抵抗型デモクラシー」を生み出すのはそんなに難しくない。その契機となる「抵抗」そのものは、政府の暴政とか悪政とかがあると生まれてくる。それをうまく組織し、運動を持続していけばともかくも「抵抗型デモクラシー」は成立する。もちろん、そうやって生まれた「抵抗型デモクラシー」を拡大し、持続させ、定着させるためには理論を学ぶことも必要で、河野広中のエピソードにもあるように、それはそれなりにしんどいことだ。けれども、契機となる「抵抗」が発生するところまでは、政府がよほどよい政府でないかぎり、それほど難しくはない。

 だが「参加型デモクラシー」はそうはいかない。二大政党制と政権交替をスムーズに運用するには心構えや慣れが必要だ。

 まず、政党のほうは、ライバル政党に勝つことを目指しつつ、しかしライバル政党を競争相手として承認するという複雑なことをやらなければならない。正当に戦って相手をぶっ倒すのはべつにかまわないけど、卑怯な手で叩きつぶして息の根を止めてしまってはいけないのだ。しかもその勝負はいつか終わるわけではない。ライバルとの闘争はいつまでもつづくのだ。その「緊張感」を持続するのはたいへんなことである。

 しかも政権交替の相手は政党でなければならない。政友会のように、政権交替は認めるけれど、その相手は官僚閥の一部だというのでは「参加型デモクラシー」にならない(少なくともこの本の枠組ではそうだ)

 さらに、「抵抗型デモクラシー」ならば「なんでも反対党」でかまわない。政府のやることなすことぜんぶケチをつけまくってまったくかまわないのだ。しかし「参加型デモクラシー」はそれではいけない。自分が政府につけた注文を、いざ自分が政府を握ったときに果たすことができなければ、その党は信用を失ってしまう(1993〜1997年の社会党はその最悪の例である)。また、政権を掌握したら、自分たちが「抵抗型デモクラシー」の標的にされることを覚悟しなければならない。

 それを考えると、私には、福沢のように「二大政党制を求める気もちこそが人類共通の心情」とは言い切れないような気がする。先に書いたように、福沢は人類のさまざまな心情をリアルに考察したけれども、怠惰だけは許さなかった。福沢が理想としたような、いつも前向きで積極的な人たちならば二大政党制が適合するのかも知れない。しかし、現実には人間には怠惰であることを好む心情がある。事なかれ主義もある。そういう政治風土に二大政党制による「参加型デモクラシー」を定着させるのには、自覚的な努力がけっこう必要なのではないかという気がするのである。


 現在の日本の「デモクラシー」がたんに「明治‐大正‐戦前昭和‐戦後」の「デモクラシー」の「伝統」のみで説明し尽くせるとは私は思っていない。たとえば、政治に関心が高くても政治への参加意識の低い大衆社会状況とか、インターネットの普及とか、テクノロジーの発達とか、いたるところで監視カメラが見張っている「監視社会」化とか、テロリズムの脅威の日常化(または日常化したと信じこまされていること)とか、地球環境の破壊で人類の「持続」が危機に直面しているとか、産業後進国の急速な経済発展とか、グローバル化とか、世界各国でのナショナリズムの高まりとか、いろんな問題がある。

 これはたんに明治以来の「デモクラシーの伝統」の成果だけを持ってくるので解決はできない。つまり「参加型」と「抵抗型」という「二つのデモクラシー」とその使い分けだけでは対処できないかも知れないのだ。参加してもいないし、抵抗してもいない、それどころかだれもコントロールしているつもりもないところで、人間の動きが制約されていることが現在の私たちの生活にはいくらもあるはずだ(ここに書いた「現代の権力」の特性については、東浩紀・大澤真幸『自由を考える』の評で詳しく採りあげたい)。もちろん、だからといって、「デモクラシーの伝統」を捨ててしまって解決が少しでも前進するわけでもなく、むしろ大正・戦前昭和・戦後の「デモクラシー」のまちがいを繰り返すだけになる――というか、いまそうなっている。

 私はもう少し別の「伝統」を考えている。つまり、福沢諭吉や土佐派が、また美濃部達吉や北一輝や吉野作造が、「いまの考えでは突破できない」という事態に直面したときに、それをなんとか突破しようとして考えた道筋から、私たちはいろいろと学ぶことができるのではないだろうか。それは、福沢諭吉の「人間のいちばん安っぽい、卑しい、いやらしい心情に注目して制度を構想する」という発想でもいいし、土佐派のエリート主義でもいい。憲法の条文に即して、明らかに憲法に書いてあるはずのことを否定して見せた美濃部の論理展開の離れ業でもいい。青年北一輝の荒削りさでも、吉野作造の用心深く周到な理論構成でもいい。

 そこから学べば「平成10年代デモクラシー」の危機を突破できるとは限らない。現代の危機はもっと大きいのかも知れない。

 でも、学ばないよりは学ぶほうがずっとましだ。それだけは確かだと思う。



―― おわり ――


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