明治日本のデモクラシー的伝統から考える


坂野(ばんの)潤治

明治デモクラシー

岩波新書、2005年


2.

 この本を全体として評価するとき、その独特な点は「上層民権運動」に鋭く焦点を合わせているという点だろう。「鋭く焦点を合わせている」というのは、その「上層民権運動」の「上」に存在する保守的政治運動にも、「下」に存在する「下層民権運動」にもほとんど触れていないからである(鋭く焦点を合わせるとその少し上や下でも像はぼけて見えなくなる)。もっとも、一般には中江兆民や植木枝盛(えもり)の運動は「下層民権」に分類されるのだろうけど、この本では福沢諭吉らの「上層」の運動と並べて論じられる。

 著者は、日本の近代政治史を「デモクラシー史」として描くには「上層」のデモクラシー運動に注目する必要があると考えているようだ。「下層」の急進的デモクラシーから見ると、体制に対する批判が不徹底だとか、体制に妥協的だとかいう一言で片づけられてしまう層である。

 なぜ運動の「上層」なのか?

 この本には出て来ないが、著者がこの本で高く評価している北一輝も同じように「上層」に注目する考えを持っていた。「デモクラシー」化の過程では「上院」に集まるような部分の人びとの運動が重要であるというのだ(たとえば『支那革命外史』)。なぜかというと、「デモクラシー」化が進展している途中の社会では、「上層」の人びとに較べて、「下層」の人びとにはまだ「デモクラシー」の考えかたが普及していない。したがって、下手に「下層」の人びとを参加させると、かえって「デモクラシー」化をぶち壊す危険があるというのだ。

 北がモデルにしているのはおそらくフランス革命なのだろう。「下層」に運動が広がるにつれて革命は混乱し、ナポレオン・ボナパルト(皇帝ナポレオン1世)による政権奪取によって革命体制を救わなければならなかった。北はフランス革命史をそう捉えているようだ。ついでにいうと、「ファシズム化」した後の北一輝の政権奪取論のモデルになっているのも、このナポレオン・ボナパルトのクーデターだった。

 下手に「下層」を参加させると革命や民主化は失敗するという考えかたの根は深い。社会の「下層」のなかでもいちばん「下層」である「何の財産も持たない人たち」に注目したはずのマルクスの社会主義にさえ影響を残している。マルクスは、『共産党宣言』のなかで、革命の原動力になるのは「何の財産も持たない人たち」のなかで自分たちの立場について自覚した人たち(マルクス主義用語を使えば「階級意識に目覚めたプロレタリアート」ということになるのだろうか)であって、その立場に無自覚な「何の財産も持たない人たち」(ルンペン・プロレタリアート)はかえって反革命派に利用されて革命を破壊するというような図式を描いている。

 こういう「下層」排除の論理を持ち出すと、不徹底だとか体制に妥協的だとか遅れているとか保守的だとか反動的だとかいう評価をただちに下してきたのが従来の「民主主義」史像だった。

 だが、どういう価値観で見るかは脇に置いて考えても、政治運動の過程では、エリート層(「上層」)と一般民衆層(「下層」)がまったく別の論理で動いていることがよくある。フランス革命もその例だろう。貴族や議会に代表を送っていた上層市民の層とパリの一般民衆の層との動きが常に一致していたわけではなかった。パリや諸都市の貧しい一般民衆層の動きもフランス革命史では欠かすことができないけれど「民主主義は有産者のものである」に書いたとおり、ここから近代の「民主主義」が生まれたのだ)、それだけではフランス革命史にならない。

 明治デモクラシーでも同じような面はあっただろう。中央政府の薩摩・長州出身者(藩閥)の動きとそれ以外の部分の動きが一致しなかったのは当然として、藩閥以外でも、地方の士族の動き、中堅農民層の動き、貧農や都市民衆の動きなどがいつも一致していたわけではないだろう。そのなかでどこの動きに意味を見出すかである。

 著者は、そのなかから、中堅農民層とそれを代表する運動家たちの動きを中心に、士族や薩長藩閥の動きを配し、それをもとに「明治デモクラシー」像を描き出している

 それはなぜかというと、やはりこの中堅農民層を中心とする層が当時の社会を動かす決定的な役割を果たしたからだろう。当時の国税収入の大きな部分を占める地租(ちそ)を負担したのがこの中堅農民層だからだ。地租を直接に払うのは地主や豊かな農民であり、この層が国政に対して積極的に発言したり、政治運動家を支持したりしたのである。もちろん、じゃあその地主が払う地租のもとはどこから来るかというと、すくなくともその一部は小作人が支払う小作料から来るわけで、そういう意味では、明治国家を支えていたのは貧農・小作人だという言いかたもできる。しかし、国政にかかわる政治的意識をどちらが強く持ったかというと、やはり中堅農民層――著者が紹介する徳富(とくとみ)蘇峰(そほう)の枠組でいうと「田舎紳士」――である。

 「激化」事件の一部に見られるように、貧農・小作人本位の運動もあった。しかしそれが明治国家を根底から動かすことはなかった。もちろん、そういう状況の下でも、貧農や小作人、さらには農民でなかった貧しい人びとの動きに注目することにも意味は十分にある。しかし、だからといって「上層」の人びとに注目することに意味がないということにはならない。

 また、「明治デモクラシーから大正デモクラシーへ」という流れを考えるときに、この「上層」の「デモクラシー」運動の流れが重要だったからでもあるだろう。

 もちろん、「下層」の運動に注目して、民権運動「激化」事件から日比谷焼き討ち事件へという流れを描くこともできるだろう。民衆運動の発展史を、その独自の動きとかそれを支える民衆自身の論理とかに注目して、「明治‐大正‐昭和」と連続して描くことができれば、それはとてもおもしろい歴史になるだろうと私は思う。

 だが、主権者をだれと考えるかとか、議会の役割をどう考えるかとか、そういう議論になると、やはりいちおうの教養を身につけた「上層」のエリートの運動の歴史を描くことが必要になる。そして、著者は、主権のありかや議会の役割の問題を軸にして、明治から昭和(戦前)にかけての「デモクラシー」運動の展開を描きたいのだから、やはり「上層」への注目が必要になる。

 もう一つ、著者がこの「上層」に注目している理由は、「上層」での運動の展開がいちばんバラエティーに富んでいるからではないかと思う。

 「上層」より上の保守的な運動は、「デモクラシー」の視点から見ると、たんなるデモクラシー否定論になり、単調になりがちである。少なくとも著者はそう見ているようだ。これも絶対にそうかといえばそうでもなくて、議会に絶望した中江兆民が貴族(華族)の近衛篤麿に接近したりする動きがあったりもしたのだけれど、著者はそれを主流とは見ていない。また、逆に、「下層」の運動も、政治的な意味での「デモクラシー」運動にさまざまなバリエーションを作り出してはいない(もちろん、「下層」民衆の運動のバリエーションから政治や「デモクラシー」を見返すという方法もあるだろうが)

 しかし、「デモクラシー」運動の「上層」には、さまざまな考えかたや運動のやり方が流れこんでくる。明治政府に不満な士族、保守的な藩閥政府のなかの開明派から、ヨーロッパの理論の影響を受けた知識人、地方の中堅農民まで、さまざまな動きや考えかたがここに流れこんでくる。それだけ運動はバリエーションを持ち、幅を広げ、また流れの方向を変えながら進んでいく。そこにこそ「デモクラシー史」の豊かさを見出すというのが著者の戦略のようだ。著者はそういう「上層」の「デモクラシー」運動の流れを「参加型デモクラシー」と「抵抗型デモクラシー」に分けて整理しているわけである。

 当然、このような著者の観点に対しては、「下層」の視点が抜けているという批判があるだろう。しかし、「下層」の研究をしている人がいないわけじゃないし、そういう人の研究を待てばいいわけで、著者に非難を向ける必要はない。万一、明治の「下層デモクラシー」の研究者がいないのならば、自分で調べればいいだけのことだ。

 逆に、「明治デモクラシー」などというのは何の実体もなく、近代日本史は「上からの改革」がすべてだったのだという批判もあるかも知れない。現に、「大正デモクラシー」に対しては、「大正デモクラシー」と呼びうるようなまとまった実態はないという批判があるそうである。しかし、それについては、著者がこの本で「明治デモクラシーとはこういう運動だった」という像を明らかにしているのだから、それにいちいち反論を加えていく必要があるだろうと思う。


 つぎに、細かい部分でおもしろかったところをいくつか挙げてみよう。

 一つは、福沢諭吉の二大政党制論だ。この本で紹介されているその正当化のしかたがおもしろい(31〜35ページ)。

 福沢が二大政党制を支持する理由は、それが人間の心情にいちばん合致しているからだという。

 選挙民の立場からいうと、まず、人間は飽きっぽいものなので、いつまでも同じ集団が政権の座にあれば飽きてくる。しかも、「おれは大臣だ」とか言っていばっているやつが退陣に追いこまれたりすると、ざまあみろという気もちになってたいへん愉快である。また、選ばれる政治家の側からいうと、提言しているばかりというのはやっぱりつまらなくて、自分でそれを実行するのでないとおもしろくない。では、そこからのけ者にされた政治家はどう感じるかというと、その「自分で実行するおもしろさ」を奪われているわけで、こんどは自分がやってやろうと激しく対抗心を燃やす。とくに、以前は自分で自分のプランを実行していて、あとからのけ者にされてしまった政治家ほど、その対抗心は激しく燃え上がりやすい。

 選挙民の飽きっぽさ、「偉い」人物を引きずり下ろしてやりたいという一種の野次馬根性、政治家が「自分で考えて自分で実行する」ことについて持っている野心、そこからのけ者にされた政治家が感じる対抗心――こういう心情を満足させるのが、イギリス型の二大政党制だというのだ。

 これは著者の分析なので、福沢自身がどの程度までこういう心情論に重点を置いているかはよく知らない。だが、福沢の書いた他の文章(『文明論()概略』など)にもこういう心情論からの説明はよく出てくるので、やはり福沢の主張の重要な部分なのではないかと思う。

 この二大政党制論は人間を安く見ている。安くというか、人間性のいやらしい面ばかりを見ている。だが、私は、制度を設計するときには、人間性のいちばん安っぽい、卑しい、いやらしい面を基礎に据えたほうがいいと思うのだ。

 私が、藤原保信(やすのぶ)さんのまじめさに敬服しつつも、そのコミュニタリアンな「自由」論に完全には賛成できないのは、藤原さんの議論が人間の倫理的完成を前提にしているからである。人間がほんとうに倫理的に完成しているならばそれでもいい。けれども、人間が倫理的に完成していないのに、その倫理性を前提に制度を設計しても、その制度はけっしてうまく機能しない。それをうまく機能させようとすると、人間に「倫理的に完成せよ」という圧力をかけるか、倫理的に完成していない人間を排除するかという方向に制度を発展させざるを得ず、そうなるとよほど巧くやらないと強権制度が生まれてしまう。

 そういう点では、リバタリアンの一面がある福沢諭吉は、人間の安っぽさ、卑しさ、いやらしさをよく見ていると思う。

 だが、著者も指摘しているように、日本ではその二大政党制がなかなか実現しない。

 現在は自民党(または自民‐公明ブロック)と民主党で二大政党みたいになっているが、これもどうだろうか? 自民党は、選挙で大敗して、もしかすると公明党と組んでも過半数をはるかに割ってしまう可能性もなくはないだろう。それでも現状ではそこそこの勢力として踏みとどまりそうである。それに対して、民主党やその支持者の人には失礼だけれど、民主党は大敗すると地滑り的大敗を喫する可能性がまだあるように感じる(新聞記事の尻馬に乗るようで恐縮だが、この「郵政民営化」騒動のあいだ、民主党は自民党を追いこむために何をやったのだ?!)。民主党が「二大政党」の一部に躍進したのは、たしかに一部では自民党の支持層を取りこんだからだけれど、現在のところ、まだ共産党・社民党の支持基盤を吸収したことの影響が大きいのではないかと思う。民主党が自民党と大々的に支持者を奪い合い、大勝したときには300議席ぐらいとれるようにならないと、日本には「二大政党制が定着した」とはいえないと思う。

 では、著者が示唆するように(39ページ)、日本人は、福沢のいう「人類の心情」を持ち合わせていないのだろうか?

 まあこのへんは難しいところで、人間の安っぽい心情というのはほかにもいろいろある。一方に飽きっぽくて変化を待望するという一面があると同時に、変化に出会うのを億劫(おっくう)がる心情もある。偉そうにしている人が痛い目を見るのを喜ぶ一面があると同時に、あんまり人のドラマチックな転変に立ち会いたくないと思う一面がある。福沢がここで注目しているのは、どちらかというと人間の「嬉しがり」(それもわりとしょーもない嬉しがり)の一面だけれど、それとは逆の「怠けたがり」の一面もあるのだ。日本人が二大政党制を望まない理由をあくまで人間の安っぽくて卑しくていやらしい心情から説明するならば、それは人間のその「怠けたがり」の一面が強く出ている結果ではないだろうか? いや、こんなことを書くと自民党や公明党の支持者からも、もしかすると民主党の支持者からも怒られるかも知れないけれど、これはあくまで「安っぽくて卑しくていやらしい心情」から説明するとどうなるだろうという思考実験ということで、お許し願いたいと思う。

 ともかく、福沢諭吉は、この二大政党制論を展開するときには、この種の「怠惰な心情」というのを意識的に考えに入れなかったのだと思う。なぜなら、福沢のいう「文明」とは人間を忙しくするものであって、怠惰に慣れ親しむ心情はその「文明」の憎むべき敵だからだ。福沢の立場からすると、これから「文明」に向かわなければいけない日本人にそんな心情を認めてはいけないのだ。「怠惰になるな、忙しくあれ」というのは福沢が日本人に求めた最低限の倫理なのである(『学問のすすめ』などにそういう雰囲気がよく出ていると思う)

 だが、現実には日本人にだって怠惰な心情はある。何もしないでぬくぬくしていたりのぺーっとしていたりするのが好きということはよくあるわけだ。

 別の説明のしかたもある。日本人だって、飽きっぽさや野次馬根性は持っているけれども、それをわざわざ政治の舞台で発揮したいとは思っていない可能性もあるのだ。そういう根性は芸能界とか社会面的ニュースとかで発散してしまい、政治に向き合うときには、そういう「安っぽさ、卑しさ、いやらしさ」を発揮するのを抑制しているのかも知れない。その可能性は大いにある。「政治とはかしこまって対するものだ」というような、あるいは、選挙を入学式や卒業式のような厳粛な式典と考えるような心情が日本人にはまだまだあるのではないだろうか(だからその「式典」のまじめさを敬遠する人たちは棄権する)

 だから日本人に二大政党制とか政権交替とかは適していないとかいうつもりはないけれども、人間が「安っぽい、卑しい、いやらしい」心情を持っているからといってただちに二大政党制が成立するとは限らないということだ。日本に二大政党制が成立していない理由は、1970年代ごろまでについていえば社会党の力不足、現在は民主党の力不足という説明をしておくのがいちばん穏当な気がする。


 次に興味深かったのが、第一章から第三章にかけて出てくる土佐派の考えかたである。明治の民権派グループの中核になった「立志社」を作り、つづいてその立志社を中心に全国連合組織として「愛国社」を立ち上げようとしたグループだ(当時の「社」は「〜〜グループ」というような意味だったようだ)。また、議会開設直前には「愛国公党」を結成して、議会に向けて結成され直した自由党(正式には「立憲自由党」)に参加し、最初の国会(1891年、明治24年)で「土佐派の裏切り」を演じて見せたグループでもある。

 このグループは、著者の描くところによると、対立する立場にあった福沢の指摘する「政治家の嫉妬心」に富んだ集団だったようだ。遠路はるばるやってきた東北の河野広中(ひろなか)が、東北の民権グループと立志社との合同を求めたとき、このグループは門前払いに等しいあしらいをした。また、河野が理論武装の方法を求めてルソーの民権論を学ぼうとしたのに対しても、やはり冷淡に拒絶している。明治維新の達成にも参加した最先端のエリート集団として、最後まで「佐幕派」だった東北の運動家なんかを対等に扱ってたまるかというプライドがあったのかも知れない。それが「抵抗型デモクラシー」の前途を混乱させることになってしまったと著者は指摘する。

 さて、この土佐派グループは、国会設立運動のために集合した民権派の組織(愛国社、国会期成同盟)をそのまま民間国会に転換しようとし、そして初期の自由党(国会開設時の自由党=立憲自由党とはいちおう別の組織)を設立した。ここに、著者がルソー理論の影響を受けたとするこの土佐派グループの考えかたの特徴が出ているように思う。

 現在でも、たとえば政府が「政治改革」のための組織を立ち上げたら、民間の有識者が「民間政治臨調」というのを立ち上げて、政府とは異なる立場から提言したりするということがある。だが、それは、日本の政治体制が固まっていることを前提として、民間は民間で政府とは別の立場から考えて議論して提言しようという考えかたに基づいている。

 しかし1880年代まで(だいたい明治10年代)の日本は違う。政府の制度がまだ動きうる状況があったのだ。ついこのあいだまでのイラクみたいとまではいわないけれど、その何パーセントかぐらいの流動性(制度の変わりやすさ)はあった時期である(逆にいうと、イラクだって、あと20年ぐらいすれば、イラク人自身の「自由民権運動」が起こってイラクの体制を変革してしまうかも知れない)。そこで、民間の組織が「自分たちこそ国会だ」と名のりを上げたわけであるから、それは、国の制度が固まったときには自分たちこそが国会になるべきだとまじめに考えていたということである――実際にどれぐらいの見込みがあると考えていたかは別として。

 これも、この立志社なり愛国社なりが東京で活動していたら、そんなことは実現性がないと考えたかも知れない。自ら国会を立ち上げてしまおうとした愛国社と、政府の一部に接近して国会の開設を実現しようとした福沢との違いには、「東京で活動していたかどうか」ということも大きく影響していると思う。だが、そのことにはここでは深入りしないようにしよう。

 ここで問題にしたいのは、「国会開設を請願する民権運動家の集会」をそのまま「国会」にしようとし、それをそのまま「自由党」という党に移行させようとしたことだ。ここでは「国会=党」という図式が成り立つわけで、そこが興味深いと思うのである。

 というのは、まさに、ソ連型社会主義では「党=国家」だったからである。ソ連のばあいには官僚機構まで党の下に組み伏せてしまったわけだが、「党=国家」ということは「党=官僚機構」であると同時に「党=国会」でもあった。ソ連にはいちおう「国会」があった――というよりソ連の「ソビエト」というのはほんらいは国会(評議会)のことであり、形式上はその国会が国家の全権力を握っていたのである(「すべての権力をソビエトへ!」)。ただし、明治日本の国会とは逆で、資本家や地主などカネ持ち層が選挙に参加できない選挙制度の下の国会だったけれども。その「国会」を支配下に置いたて思いどおりに動かしたのがソ連共産党だった。だから、ソ連では「党=国会」という体制が実現していたわけである。

 そのソ連の体制は、ルソーの社会契約論の直系であるというふうに説明されることがある。ロックやモンテスキューが政治権力どうしのチェックを構想したのに対して、ルソーは「主権は分割できない」ということを強く主張しつづけ、一つの最高権力の下にすべての政治を従属させることを考えたからだ(ただし、著者によると、土佐派がルソーの『社会契約論』のこの部分まで読んでいたかどうかについては確証がないという)。その「主権」をコントロールするのが国民全体の「一般意志(意思)」(「国民の総意」というのがこれにあたる)である。ルソーは全人民の集会でこの一般意志を表明することを構想したのだが、ソ連では「一般意志を代表するのはソ連共産党である」という考えかたを導入することで、共産党独裁を可能にした。

 この「国会になることを目指す会議=政党」という構想を見ると、明治の土佐派自由党にもソ連共産党と同じような志向があったのではないか? 少なくとも、自由民権運動を行う集団の複数性とか多元性とかいうことを尊重する発想は少なかったのではないかと思う。また、政党(party)は全社会の一部分(part)の利害を代表する集団だという発想もなかったのではないか。それが、東北の民権運動家に対する冷たい対応になり、また、のちに「土佐派の裏切り」を起こして同じ土佐出身の中江兆民を激怒させたりする結果につながったのではないだろうか。

 そう考えると、土佐派の立志社から初期自由党、立憲自由党の一部グループから官僚政党政友会につながる流れが見てとれるように思う。エリート主義だから、官僚側のエリート主義とももともと共鳴しやすい。しかも、「政党は全社会の一部を代表している」という感覚がなく、「自分の政党は全社会を代表している」と考えているから、大隈重信系のライバル政党(改進党〜進歩党〜憲政本党〜国民党)を「同じ政党として対等の存在」と見なすことができなかった。「政党」のほうは自分たちがぜんぶ代表しており、ただ官僚のほうが伊藤博文系の開明派と山県有朋‐桂太郎系の保守派に分かれているからという認識で、しようがないので官僚閥保守派の桂グループと政権たらい回しを構想したのではないだろうか。

 ルソー理論を信奉したからそういうエリート主義的発想になったのか、土佐派にもともとエリート意識があったからルソー理論のエリート主義的な部分が土佐派に受け入れられたのかはよくわからない。でもたぶん土佐派のエリート意識が先にあったというほうが当たっているだろう。

 私はこう書くことで土佐派のエリート主義を非難するつもりはないし、ルソーの政治思想の「全体主義」性をことさらに強調するつもりもない(土佐派はともかく、ルソーの「全体主義」性などはだいぶ前から指摘されてきたはずである)。むしろ、政治制度の草創期にこういうエリート主義の発想がごく自然に出てきたということに納得しているのだ。また、人間どうしが論争し、競争し合うことに価値を見出していた福沢諭吉が、なぜ土佐派を中心とする「抵抗型デモクラシー」グループを毛嫌いしたかという理由もよくわかる。土佐派が、国会を開いて意見を集約し、社会を動かせるのは、明治維新に参加しルソー理論も吸収した自分たちだけだと考えていたとすれば、人間の安っぽくて卑しくていやらしい面を基礎に政治制度を構想しようとした福沢諭吉の態度と一致点などあるはずがないのだ。

 そのエリート主義の土佐派集団が健全な「デモクラシー」集団であり得たのは、それが自ら政府を樹立することができず、政府に対抗する「抵抗型デモクラシー」集団として活動しつづけたからだった。だから、それが官僚の一部と妥協して、「政党エリート‐官僚エリート」連合体として政友会が成立したとき、日本の「デモクラシー」化は停滞に陥った。それが著者の図式だろうと思う。



―― つづく ――


第1回(前回)第3回(次回、完)