明治日本のデモクラシー的伝統から考える


坂野(ばんの)潤治

明治デモクラシー

岩波新書、2005年


1.

 昨年の『昭和史の決定的瞬間』(ちくま新書、→)につづく、著者の新書版「日本デモクラシー史論」シリーズの第二作である。

 「日本デモクラシー史論」というのは私が勝手につけたシリーズ名だけれど、著者はそれに近い構想を持っているらしい。著者は、日本の近代史を、「明治デモクラシー」、「大正デモクラシー」、「(戦前)昭和デモクラシー」に分け、それを連続したものとして捉えることで「デモクラシー」の側面から整理し直したいと考えているようだ(「はじめに」iiiページ)。このうち「昭和デモクラシー」篇は『昭和史の決定的瞬間』なので、あとは大正デモクラシー論(「初期」篇と「後期」篇に分かれるかも知れない)が出るのを待つということになる。


 ところで、「大正デモクラシー」ということばは昔からあるけれど、「明治デモクラシー」とか「昭和デモクラシー」ということばはたぶん著者の造語である。

 「昭和デモクラシー」は、その時代に使われたことばで言えば「昭和維新」の一部分だろう。「昭和維新」というと、二・二六事件を起こした「青年将校」などがよく使ったことばというイメージがある。しかし、前にこの欄で取り上げた河合栄治郎も、おそらくその「右翼」的イメージを意識しつつ、社会主義的な方向をめざす自由主義(河合のばあい「議会主義」と置き換えてもいい)こそ「昭和維新」だと書いている。おそらく、「昭和維新」は、インパクトが強いわりには固定した意味内容の乏しいことばだったのだろう。

 一方で、この「昭和維新」時代は、政治の世界で力を抑えられていた社会主義政党と軍部がそれぞれ勢力を拡大しつつある時代であった。1920年代には、社会主義政党(当時は「無産政党」と呼ばれた)は微々たる勢力にすぎなかったし、軍部も政友会のような政党政治界の保守勢力と結びついてはじめて大きな発言力を持ち得た。その社会主義政党と軍部が、既成政党の支配する政界と対抗して独自の力を拡大しつつあった時期が「昭和維新」の時代である。だから、「昭和維新」は完全に内容のないことばではなく、「既成」政治勢力に対する新興勢力の挑戦というニュアンスはあった。けれども、軍が主導して政治を刷新しようという「青年将校」運動と、社会主義的議会主義運動とでは、やはり方向性が相当に違う。そのうちの社会主義的議会主義運動を著者の坂野さんは「昭和デモクラシー」だと意識している。

 「明治デモクラシー」のほうは、普通は自由民権運動と呼ばれる運動や、自由民権運動を支えた思想がそれに相当するのだろう。ただ、この『明治デモクラシー』で扱っている内容を読めば、必ずしも自由民権運動に限定せず、もう少し広い範囲を「明治デモクラシー」と考えているようだ。時期で言えば、1877(明治10)年の西南戦争が終わった時点から、1906(明治39)年、官僚閥保守派の桂太郎グループと官僚政党政友会とのあいだで政権たらい回しの合意が成立した(「情意投合」)時点までを指す。国会と立憲制を目指す運動の始まりから、「情意投合」によって政治の民主化が停滞するまでの期間である。

 「大正デモクラシー」が「デモクラシー」という横文字表現で言われるのは、その大正時代に「民主主義」という表現が使いにくかったからだ。「民主」と言ってしまうと、「人民主権」の意味になり、当時の天皇主権体制に反したとみなされる恐れがあった。だから、1910年代後半、「大正デモクラシー」運動の第一人者として活躍した吉野作造は、「民本主義」という表現を使い、自分の主張は「民主主義」という危険な思想とは異なるとわざわざ断っている。ただし、1920年代以降になると「民主主義」という表現も使われるようになり、河合栄治郎なども1930年代に「民主主義」ということばを使っている。

 では、著者は、いわば天皇主権体制に遠慮した用語法である「デモクラシー」史という表現をわざわざ使うのか? すなおに日本の「民主主義」史と言ってしまってはいけないのか?

 たぶん、著者はこの天皇主権体制に遠慮した「デモクラシー」という表現を逆手に取ろうとしているのだ。

 いま吉野作造を「大正デモクラシー運動の第一人者」と紹介した。しかし、吉野が自分の主張を「民主主義」と区別したことをもって、吉野の民主主義者としての不徹底さを強調したり、その吉野を旗頭とした「大正デモクラシー」の不徹底さや欺瞞(ぎまん)性を強調したりする議論もときどき目にする。その議論は、吉野作造は日本の民主主義の発展に大して貢献しなかったし、大正デモクラシーなんかただの大正バブル経済の下の徒花(あだばな)にすぎなかったという見かたにつながってくる。では、その見かたからすれば、何が真の日本の民主主義運動だったのだろう? 明治時代には、士族や「豪農」を担い手とする民権運動から区別される、貧農を主体とする民権運動左派で、これは1880年代(明治10年代後半)に挫折する。大正時代には、左翼社会主義運動が真の日本の民主主義運動を代表するが、これも1920年代後半(昭和ひと桁の初期)の治安維持法と共産党への大弾圧の繰り返しで挫折する。日本の民主主義は「戦後民主主義」になってはじめて大きく開花した。そういう歴史像である。

 著者はそれをひっくり返したいのである。

 このように急進的な運動のみを「民主主義」運動の系譜に正当に位置づけ、それ以外を権力に妥協したものとして排除することは、じつは戦前の政治をすべて「上から」の政治として描くことと表裏一体となっている。その歴史像は、価値観を入れ替えてしまえば、「戦前の日本を発展させたのは上からの改革であって、民主主義運動は何の意味も持たなかった」という「上から」史観を肯定する論理に変化してしまう。

 たしかに明治時代の民主主義的な運動は天皇主権体制の成立に抵抗しきれなかった。著者はあまり大きく触れていないけれど、明治時代の民権運動が日本の「帝国主義」的な拡張に政府よりも積極的だったという一面もある。大正デモクラシーでは天皇主権体制ははじめから存在しており、その文字どおりの適用から時代に合わせた修正を図ることはできても、否定はできなかった。「戦前昭和デモクラシー」では天皇主権体制そのものを問題にはしなかった。大正デモクラシー運動は、国際協調主義は支持したけれども、それはしょせんは当時の大国間の国際協調であり、帝国主義を完全に清算するような性格のものではなかった。「戦前昭和デモクラシー」は、一時は軍部と手を結ぶ動きも示したし、生活防衛の視点から戦時色の拡大に抵抗はしたけれど、正面から戦争や戦時体制に反対を掲げはしなかった。

 けれども、主権のありかを問題にして当時の政治体制と全面衝突しなかったそれらの「デモクラシー」運動は、その一事をもって否定しなければならないのか? あるいは、戦争や「帝国主義」に反対しなかったからといって否定しなければならないのか?

 そうではないというのが著者の回答だ。むしろ、それらの「デモクラシー」運動の「不徹底性」を理由にして、その成果を正当に継承しなかったことこそ問題だ。「デモクラシー」運動の成果を吸収しない運動は軽薄で痩せたものになってしまう。その結果として、「平成十年代デモクラシー」はこんなにやせ細り、危機を迎えてしまったのだ。その危機意識が著者にはある。

 その危機を脱するためには、「不徹底」・「欺瞞」と片づけられてきた「戦前デモクラシー」をもういちど正当に評価し、それを通じて日本のデモクラシーの伝統をうち立て直さなければならない。そのためには、「上から」の改革の歴史のなかに、一エピソードとして、しかも不徹底な民主化運動として自由民権運動があったり大正デモクラシー運動があったりしたという歴史観をひっくり返し、日本の「戦前デモクラシー」運動は連続した流れだったのだという歴史観をうち立てる必要がある。

 その苛立ちと危機意識に支えられ、著者は「戦前デモクラシー」の再評価へと情熱を向けているのだ。


 最初に、本の内容を紹介しておこうと思う。

 第一章「士族と農民の結合」では、1877(明治10)年の西南戦争終結から1879(明治12)年の愛国社(いちおう民権運動の全国組織)第三回大会までを扱う。なかでも、福島の民権活動家(1882年の福島事件の中心人物。ただしこの本では福島事件そのものは採り上げられない)河野広中(ひろなか)の土佐訪問のエピソードが大きく紹介されている。鉄道がほとんどない当時、福島から東京に来るには、徒歩か人力車と川船を使うしかなく、たいへんな苦労だったことがよくわかる。東京〜大阪と大阪〜高知はすでに汽船が就航していたので現在とあまり違わないが、内陸の交通はたいへんだったのだ。そういえば、去年の5月の連休には、満員の新幹線の廊下に立って『昭和史の決定的瞬間』を読みながら福島に向かったものだった。そのとき「福島まで行くのってけっこうたいへんだな」と思ったのだから、河野広中の時代のたいへんさはそれをはるかに上回っている。河野の日記で東京到着の記事を読んだ著者は「思わずほっとした」(13ページ)と書いているが、満員の新幹線で立って福島まで行って萌えオフに参加しましたと私が書いても一片の同情もしてもらえないだろうな……ってあたりまえだ!

 ともかく、この時代の交通の「たいへんさ」の感覚を知っておくことの重要性は著者も強調しているとおりで、この時代のいろいろなことを考えるうえで重要な点だろう。たとえば、東北出身の原(たかし)が利益誘導政治の確立に奔走した背景には、その「たいへんさ」があったことを意識しておかないと、やはり不公平だろうと思う――いくらその利益誘導政治に問題があると思ってもだ。同じことは20世紀後半の田中角栄にも言える。

 この河野の旅程で、人力車で小山から5時間も走っているのもすごい。途中で乗り換えたのだろうか、それとも一人の車夫さんが一台の車で一人が5時間ぶっ続けに引いたのだろうか? たぶん江戸時代にすでに整備されていた街道を通ったのだろうが、それにしてもアスファルト舗装されているわけでもない。すごい脚力だと思う。


 第二章「参加か抵抗か」は、1879(明治12)年の愛国社第三回大会に焦点を合わせ、愛国社の運動論と、それを厳しく批判した福沢諭吉の政治構想が対照される。前章は愛国社系の話ばかりだったので、福沢はこの章が初登場である。新キャラ登場というわけだ。著者によると、福沢は、愛国社の運動を批判し、国民が政党を通じて政治に参加する仕組みとして二大政党制と議院内閣制を考えていたという。それに対して、愛国社は、ルソー理論に依拠して、国民自身が政府に参加していくことよりも、まず国民が政府をチェックするという機能を重視していた。著者は、福沢の考えかたを「参加」型、愛国社(民権運動)の考えかたを「抵抗」型として整理し、「参加」型と「抵抗」型の対抗を「戦後民主主義」までを貫く「デモクラシー」の二つの軸として提示する。

 ところで、ルソー理論に基づいた構想を、「抵抗」型とか「抵抗権」型とか表現するのには違和感があるかも知れない。私がルソーの『社会契約論』を読んだのはずいぶん前だからまちがっている可能性もあるが、ともかく、ルソーは、政府と人民は別物だという前提で、人民は政府をチェックし、政府がまちがったことをしようとするとそれに抵抗するものだという議論をしているわけではないと思う。ルソーは政府を樹立するのも人民の権限のなかに含めていたはずだ。「抵抗権」などというとむしろロックの社会契約論を連想させる。

 ただ、明治日本の現状にあてはめようとすると、現にルソーの言うような社会契約によって樹立されたのではない政府が動かしようもなく存在するわけで、ルソー理論を採るとまず「抵抗」の側面が際立たざるを得ない。だから、明治デモクラシーの流れでは、ルソー理論はやはり「抵抗」の理論の基礎づけの役割を果たしたというのが妥当だろう。

 もしかすると、中江兆民支持者なら、この「抵抗」型デモクラシーを「恢復(かいふく)型デモクラシー」、福沢の「参加」型デモクラシーを「恩賜(おんし)型デモクラシー」と表現したがるかも知れない。でも、それでは著者の論旨から外れてしまうので、ここでは「参加」と「抵抗」という著者のことばを使っておきたい。


 第三章「分裂と挫折」は、1880(明治13)年の国会期成同盟の第二回大会での愛国社グループの分裂と、翌1881(明治14年)年の「明治14年の政変」による福沢グループの改革案の挫折とを扱う。土佐出身者が主流を占める愛国社グループは、自らが中心となって開催した国会期成同盟の大会で、他の地方の代表者との対立を収拾することができず、愛国社グループは地方ごとに分解してしまう。他方の福沢グループは、大隈重信を通じて国会の早期開設を政府首脳に働きかける。ここで興味深いのは、この時点では、薩摩・長州出身者が多数を占める「藩閥」政府も国会の早期開設には積極的だったという著者の指摘である。国会開設を遅らせれば民権運動の反発を激化させることが必至だからだ(実際にそうなった)。しかし、福沢が接近を図った大隈が他の政府首脳と対立してしまったために、国会の早期開設構想も巻き添えを食っていっしょに流れてしまった。これが「挫折」である。したがって、章のタイトルの「分裂と挫折」というのは、「抵抗型デモクラシーの分裂と参加型デモクラシーの挫折」の意味である。なお、大隈・福沢グループが政府改革を求める動きを起こそうとしているのに対して、愛国社グループの統率者であった板垣退助がそれを大隈の功名心から出た行動として冷たくあしらい、明治14年の政変を阻止するために何の動きも示さなかったことを著者はこの章の最後に紹介している。

 ところで、79ページに出てくる長州派の有力者 井上(かおる)の「イギリス型政治体制導入反対論」について、著者は「慣習的にはアメリカの共和制に近いから日本への導入には適さない」と解説している。「その実は米国の協和〔=共和〕政体よりもはなはだしく、英国に適当して他に学ぶべからざる習慣法のしからしむるところなり」とあるので、「アメリカ(合衆国)よりも極端だ」と書いているのは確かだ。ただ、その理由は、「イギリスの政治体制は、成文法ではなく、長年の慣習によって成り立ったコモン・ロー(普遍法)に依拠している。アメリカは同じコモン・ロー体制であるが、政府の構成は憲法で決めている。それに較べて、イギリスは政府の構成すら慣習法の集大成であるコモン・ローに依拠しているのだから、アメリカの制度よりまねしにくい。だから、コモン・ローの伝統を持たない日本にイギリスの制度を移植することは無理だ」と解釈するのが正当ではないか。


 第四章「束の間の復活」は、不平等条約改正問題に端を発した1887〜88(明治20〜21)年の大同団結運動と三大事件建白運動を取り上げる。著者は、このうち、大同団結運動を「参加型デモクラシー」の運動とし、以前の愛国社グループが中心になって展開された三大事件建白運動を「抵抗型デモクラシー」の運動として区別する。そして、大同団結運動を中堅農民層(著者は徳富(とくとみ)蘇峰(そほう)のことばを使って「田舎紳士」と呼ぶ)を支持基盤としたものだとし、「参加型デモクラシー」を中堅農民民権運動として把握する。これに対して、三大事件建白運動は、どちらかというと自由民権運動初期の士族の運動の系譜を引く職業政治家(もう少し具体的に言うと政党員)の運動で、「抵抗型デモクラシー」の運動だと位置づけることができる。ただし、著者は、実態としては、三大事件建白運動も実際には中堅農民層に支えられていたことを、運動参加者の日記の検討から明らかにしている。

 「紳士」は、もともと昔の中国の官僚登用制度と関係したことばで(「紳」と「士」を逆にした「士紳」ということばもある)、官僚になれるような教養豊かな(または、そうなろうと努力している)人びとを意味した。「教養もあって人格も立派な人」というニュアンスで使う「紳士」ということばはこの意味に近いだろう。ただ、その中国の「紳士」の実態は地方の大地主の一族だった。それだけの財力がないと教養を身につけられなかったからである。一方で、紳士ということばは、英語の gentry や gentleman の訳語としても使われ、これはまさに「田舎」の中堅クラスの農民を指す。イギリスの近代化を準備した層がこの「紳士」層だとされる。なお、著者の解説によれば、蘇峰の言う「田舎紳士」は、小作料で楽な暮らしができる大地主ではなく、「起業心に富まざるを得ない」(120ページ)中小地主を指すようだ。ある程度の富もあり、教養もあり、村の人びとの尊敬を集めてその指導者としての役割を果たし、中央政府や地方政府に対してその村の人びとを代表してものを言うような人びとのことのようだ。

 第三章と第四章の内容からわかるように、著者は、福島事件・加波山(かばさん)事件・秩父事件・大阪事件などの民権運動「激化」事件を完全に素通りしている。民権運動左派を重視する自由民権運動史研究では絶対に避けて通れない――というより避けて通らない事件である。しかし、福島事件と大阪事件については、その指導者であった自由党の河野広中と大井憲太郎の説明で触れられるだけで、あとは加波山事件が名まえだけ出てくる。ドラマチックに語られることの多い秩父事件にはまったく触れていない。著者がこれまでの「明治デモクラシー」研究に対して持っている違和感がよく表れている。


 第五章「官民調和」は、1889(明治22)年の大日本帝国憲法(明治憲法、帝国憲法)の発布から1906(明治39)年までの、憲法制定以後の展開を示す。天皇主権を明らかにした憲法は、「抵抗型デモクラシー」の人民主権論にとどめを刺し、また「参加型デモクラシー」の君主‐人民共同統治論にも大きな困難をもたらすものだった。中江兆民は「抵抗型デモクラシー」に依拠して議会による憲法の検討を主張したが、この主張は予算論争のなかで「土佐派の裏切り」事件で葬り去られた。中江兆民はぷち切れて「アルコール中毒でちゃんと歩けないので議会の採決に参加できない」という、およそ議会をばかにした挑発的な辞職願を叩きつけて議会を去るしかなかった。「参加型デモクラシー」論は、明治憲法が議院内閣制を明確に否定した(首相は天皇による指名・任命)ために困難に陥ったが、なおも二大政党制の実現を目指して運動をつづける。しかしやはり敗退していくしかなかった。その敗退の証が1906(明治39)年の「情意投合」による官僚閥保守派と官僚政党による政権たらい回しの実現だった。具体的には、両派の妥協の上に、官僚閥保守派の桂内閣と官僚政党政友会の西園寺(さいおんじ)内閣が交互に組織される「桂園(けいえん)時代」の到来である。

 西園寺家 「西園寺」というのは西園寺公望(きんもち)である。のちに「最後の元老」として昭和天皇に仕え、首相推薦に際して、現実的選択肢のなかでできるだけリベラル色の強い候補者を推薦しつづけた。西園寺家は藤原氏の一分家で、摂関家に継ぐ家柄(「清華」クラス)であり、鎌倉時代から武家政権と朝廷のあいだに立って活躍した名族である。「さいおんじ」というといかにも「名族」的な響きがあるからか、ときおりマンガなどで「名族」の家名に使われる。『究極超人あ〜る』の西園寺まりい・えりか姉妹とか、最近では『マリア様がみてる』にも出てきましたね。

 この章では、「抵抗型デモクラシー」でも「参加型デモクラシー」でもない流れが「明治デモクラシー」のなかから生まれ、それが「明治デモクラシー」を終わらせたと論じている。それがタイトルになっている「官民調和論」である。

 「官民調和論」は、三大事件建白運動と大同団結運動から疎外された自由党の指導者板垣退助が唱えたものであった。「板垣死すとも自由は死せず」ということばの鮮烈な印象とは異なり、1890年代(明治20年代〜30年代初頭)の板垣は、官僚派の一部との協調に積極的になっていた。この流れを受けて、「積極政策」を軸にして官僚閥開明派の伊藤博文らと板垣の率いる自由党との提携が成立し、1900(明治33)年、官僚政党の政友会が成立する。私は、高校の日本史を学んでいて、どうして自由党が官僚と提携したのかがわからなかった。自由党に較べて穏健で、政府寄りだった改進党・進歩党ならば、官僚の一部と組むならわかる。しかし、1880年代にあれだけ派手に政府や当時の官僚と衝突した自由党がどうして率先して官僚と提携したのか、という疑問があった。これまでは、板垣は「政府に抵抗する党」という自由党のあり方に未練を持っていたのに、星亨とか原敬(のちに初の爵位を持たない首相となる)とかの新しい幹部が勝手に方向転換してしまったのだと思っていた。この本で板垣の「官民調和論」が「土佐派の裏切り」以前からつづいていた一貫したものだったと知り、その疑問がようやく解けた。

 しかし、政友会が成立したこと自体は、まだ二大政党制と議院内閣制の実現という「参加型デモクラシー」に道を残していた。官僚政党であっても、もう一つの大政党と政権交替を行うならば、二大政党制と実質的な議院内閣制が実現するからだ(実際に「大正デモクラシー」時代にはそうなる)。けれども、政友会は、政権交替の相手に官僚閥保守派(山県有朋‐桂太郎の系列)を選び、官僚閥保守派と政友会は大隈系の野党(改進党‐進歩党‐憲政本党‐国民党)を政権から「のけもの」にしつづける。それがはっきりしたのが1906(明治33)年の「情意投合」である。これによって、「明治デモクラシー」は最終的に終わりを迎えた。

 しかし、一般に「大正デモクラシー」の始まりは、1905(明治38)年の日露戦争終結時を画期とする民衆運動の激発に置かれる。議会のレベルで「明治デモクラシー」が終わりつつあったとき、「大正デモクラシー」運動は始まりつつあったのだ。第六章「継承と発展」ではこの流れが分析される。なお、ここでも、大正デモクラシー運動の始まりとしてよく注目される日比谷焼き討ち事件には目もくれず、美濃部達吉・北一輝・吉野作造ら知識人の「デモクラシー」理論に注目している点が独特だ。

 美濃部達吉は、まず、憲法が「天皇が主権者である」と言い切っていない(「統治権を総攬(そうらん)する」と表現している)ことを利用して、天皇は国家の「最高機関」ではあるが、主権はあくまで国家に属しているという「天皇機関説」を打ち出した。そのうえで、憲法の条文の解釈や内閣官制を利用して内閣の一体性を論証し、内閣が一体であれば政党内閣が自然であるという論理で、政党内閣制度を正当化している。明治憲法がもともとイギリス的政党内閣を否定して編まれたことを考えると、相当にアクロバット的な解釈だ。しかし、若き日の北一輝は、その美濃部の議論も不徹底だと批判した。明治憲法によれば立法と憲法改正については天皇が単独で行えないのだから、天皇と国会は対等であり、天皇と国会が合体して初めて「最高機関」になりうるとして、美濃部理論を急進化させた。これら1900年代後半から1910年代前半(明治30年代末から大正ひと桁前半)の議論を経て、明治憲法と官民調和体制の下で「明治デモクラシー」を蘇生させたのが吉野作造の「民本主義」だという流れを著者は打ち出す。なお、この本に出てくる時期の北一輝は議会制を前提にしつつも急進的な社会主義を主張している。吉野作造の「民本主義論」は、論壇に登場してあまり経たないうちに社会主義に圧倒されてしまう。この本では触れていないが、吉野作造も後に社会主義へと傾斜していくけれども、吉野の社会主義は穏健な社会民主主義であり、「民本主義」を全否定してしまったのはもっと急進的な社会主義だった。この社会主義論がやがて「昭和デモクラシー」に引き継がれていくというのが著者の見通しのようである。

 北一輝 当時、議会制社会主義論者だった北一輝は、後に議会制を否定して政権奪取による社会改造論を採るようになり、「二・二六事件の精神的指導者」として処刑されることになる。北一輝の議論は、「人の神への進化」まで含みこんだもので、なかなか独特だった。それが北の議論が受け入れられにくかった一つの理由だろう。また、無政府主義か当時のドイツ的社会主義かという当時の社会主義者の論争のなかでは、「神への進化」論などを差し引いても、やはり北の社会主義は独特な感じがする。ちなみに(明治デモクラシーにはまったく関係ないが)『機動警察パトレイバー』の初期ビデオシリーズ(押井守監督)の第5〜6話に登場する甲斐冽輝(きよてる)はこの北一輝がモデルである。若い日の甲斐と後藤はやはり社会主義者だったのだろうか? なお、1999年ごろに反乱を起こす甲斐と若い日にはその同志だった後藤とがクーデター計画を練り始めたのは1970年代後半のはずで(つまりビデオシリーズ発売の10年ほど前ということになる)、そのころには日本の若年層の社会主義運動はすでに退潮していた。

 ここでも、中江兆民からその弟子の幸徳(こうとく)秋水(しゅうすい)にいたる流れや、1900年代には始まっていた初期社会主義運動には、著者はまったく触れていない。また、吉野作造が「民本主義」論で「明治デモクラシー」を蘇生させたことを高く評価しつつも、吉野が、「明治デモクラシー」の継承者としてではなく、ヨーロッパの議論に啓発されてデモクラシーを主張し始めたことには批判的である。そこに「アメリカ生まれのデモクラシー」の枠に自らとらわれて衰滅しつつある「戦後民主主義」の原型を見るからだ。


 最後の「あとがき」で、著者は自分の研究の履歴を述べ、「明治デモクラシー」ということばを思いついた経緯を書いている。『昭和史の決定的瞬間』で、なぜ昭和史を研究するかといえば「自分がそこに身を置かないのならば、平穏無事よりは波瀾万丈のほうがおもしろいから」と書いた著者は、こんども「歴史」は「仮想現実」だとあっけらかんと書いている(222ページ)。その「露骨なまでの率直さ」(168ページ、著者が自由党の指導者 星(とおる)を評することば)が私は好きだ。そして、著者は、今日もなお「参加型デモクラシー」と「抵抗型デモクラシー」は両方とも必要だと書く。しかもその二つは対立し、足を引っぱり合うこともあると述べている。著者は、明らかに、選挙をしてみると野党がけっこう健闘するのに、自民党の政治に対する大衆的反対運動が起こらず、小泉内閣の支持率も(だいぶ下がったとはいえ)高いままであるという現在の事態を念頭に置いているのだ。



―― つづく ――


第2回(次回)第3回(次の次の回、完)