『パタパタ飛行船の冒険』とジュール・ヴェルヌの世界

清瀬 六朗


ジュール・ヴェルヌについての覚え書き(1)

『悪魔の発明』と『サハラ砂漠の秘密』

 ある技術者がこれまでの爆弾からは想像もつかない大きな殺傷力を持つ爆弾を開発した。この技術者が国際的テロリスト集団に拉致される。この国際テロリスト集団は、東南アジア系のテロリストを首領とし、世界各地から集まったテロリストや犯罪者によって構成されているらしい。国際的テロ組織が大量破壊兵器を手にしようとしている! テロリスト集団の内部から情報を得たアメリカ合衆国海軍は、テロリスト集団が大量破壊兵器を開発する前に技術者の身柄を奪還しようと、テロリストの根拠地と見られる島に潜水艇で特殊部隊を派遣した。だが特殊部隊は消息を絶ち、技術者奪回作戦は失敗した。アメリカを含む五大海軍国は、もはや一刻の猶予もならないと考え、多国籍連合軍を編成してテロリスト集団の本拠地に攻撃を加えた。テロリスト集団は密かに開発を進めていた大量破壊兵器を使って抵抗し、多国籍連合軍に巡洋艦一隻が轟沈する被害が出た。しかし多国籍連合軍は屈することなくテロリスト集団に対する攻撃を続行した。そしてついに本拠地の破壊に成功し、テロリスト全員の死亡を確認した。

 アニメ『パタパタ飛行船の冒険』の原作の一つ『悪魔の発明』の物語は、要するにこんな話である。

 いまから100年以上まえ、日本が日清戦争を戦っているころにこういう物語を書いたジュール・ヴェルヌ(Jules Verne)は、国際テロリスト集団と大量破壊兵器のニュースが世界を騒がせる21世紀初頭の世界を予期していたのだろうか?

 それとも、人間とか世界とかがこの時代からちっとも進んでいないのか?

 どちらだろう?

 この『悪魔の発明』は原題は『国旗に向き合って』である。『悪魔の発明』という題名で知られるようになったのは、この作品を原作にしたチェコスロバキア(当時)のカレル・ゼマン監督の特撮映画が日本でこの題名で公開されてからのようだ。カレル・ゼマンは『盗まれた飛行船』・『彗星に乗って』でもヴェルヌの作品を映画化している。

 『パタパタ飛行船』のもう一つの原作である『サハラ砂漠の秘密』(原題は『バルサック調査隊の驚くべき冒険』)も、高度の科学技術を独占した少数の白人集団が、その力を利用して多くの黒人を支配して働かせ、アフリカに専制国家を築き上げるという物語である。

 この専制国家のあり方は、つい一〇年ほどまえまでつづいていたアパルトヘイト政策を思わせる。この国(アニメのネオシティにあたる)では、黒人は何の権利も持たない奴隷であり、その黒人の労働の上に白人の社会が成立しているのだ。また、独裁的な政治権力と高度な科学技術の結びつきという、これまたいままさに問題になっているテーマも取り上げられている。自分の発明が社会でどう利用されるかについてまったく関心を持たない科学者の悲劇が一つのテーマとなっていて、このテーマが『パタパタ飛行船の冒険』にもよく引き継がれていたと思う。

 なお、研究によると、この『サハラ砂漠の秘密』は、じつはヴェルヌの死後に息子のミシェルが完成させた小説のようである。ジュール・ヴェルヌ自身が書いた段階では「調査旅行」というタイトルで、書き出しの部分しか存在しなかったようだ。ジェーン・バクストンもサン‐ベランもハリー・キラーもモリリレも原作に出てくるけれども、そのほとんどはミシェル・ヴェルヌが創造したキャラクターと考えたほうがいいのだろう。


SFの祖? 子ども向け作家?

 ヴェルヌはSFの祖とされる。ヴェルヌの本の解説にはたいていそういうふうに書いてある。SFの概説書でもそう位置づけているようだ。

 また、ヴェルヌは「科学の未来を予見(予言)した小説家」と言われることも多い。ヴェルヌは、『海底二万里』で潜水艦を、『征服者ロビュール』(『空飛ぶ戦艦』)で大型飛行機を、『カルパチアの城』で映画(しかも音声つき)を、そしてこの『悪魔の発明』で原子爆弾を予見したというわけだ。実際に書いたのは息子のミシェルだけれども、『サハラ砂漠の秘密』には、飛行機械やミサイルとともに、超伝導物質や都市の隅々まで監視できる監視システムなどというものまで登場する。

 その一方で、ヴェルヌについては「子ども向け作家」というイメージも持たれている。二〇歳を超えて書店でヴェルヌの本を探していたら、大学の先輩に「なんでそんな子ども向けの本を探すの?」と(いぶか)しげに尋ねられたことがある。実際にヴェルヌの小説は子ども向けのシリーズで出版されることが多い。岩波文庫にだって収録されているから「大人向け」の翻訳も多いのだけれども、他の作家に較べて子ども向けのシリーズでたくさんの小説が出される傾向は強いのではないだろうか。『ハテラス船長の旅と冒険』とか『エクトール・セルヴァダック』(『彗星に乗って』の原作)とかは私は子ども向けの版でしか読んだことがない。


ヴェルヌ作品とSF

 私は、ヴェルヌをSFの祖とする位置づけには、最近は少し違和感を感じるようになった。

 それは、ヴェルヌの作品に熱中したのにちっともSFの世界に入り込めなかった私のコンプレックスなのかも知れない。SF作品はこれまで何度もまとめて読んでみようと思い立ちながら、たいてい最初に選んだ一冊あたりで挫折している。だから私は有名なSF作品はほとんど読んでいない。

 そんな状態だから、SFとはどういう作品のことをいうのかと問われると、私には「世間でSFといわれているらしき小説」とか「創元社や早川書房のSFものの文庫シリーズに収録されている小説」とかいう答えしかできない。まあ、だからといってSFをいっぱい読んでSFにものすごく詳しくなれば「SFとは何か?」という問いにすらすらと答えられるようになるかというと、そうでもないわけで、難しいところである。

 それでも、あえてSFの多くの作品に共通する要素を考えてみると、ある種の「科学」的想定に基づいて空想上の世界を考え、その空想上の世界で通用する約束ごとを決め、その約束ごとに従ってその空想上の世界で展開される物語――というふうにいうことができるのではないかと思う。SFの物語上の現実味は、必ずしも現実世界での現実味によって判断されるのではなく、その空想上の世界で通用すると決められた約束ごとに従って判断される。だから、現実世界ではあり得ないことでも、その世界で通用する約束ごとに合致していれば物語上では「あり得ること」になるのだ。

 ヴェルヌには、子どものころ本気なのかことば遊びなのかわからないような理由で家出をして堅物の父親に連れ戻され、こっぴどく叱られて「これからは想像のなかだけで冒険します」というような答えをしたという有名なエピソードがある。その両方をつなげると、ヴェルヌには、堅苦しい現実から逃げ出して「空想」の世界に遊んだ人で、それがSFを生み出したのだというイメージができてしまう。

 たしかに現実の生活を離れて別世界を旅するような感覚はヴェルヌの作品を読んでいて感じる。それがヴェルヌの小説を読む愉しさであると思う。


ヴェルヌ作品の「現実味」

 けれども、ヴェルヌは、一方では、自分の描く世界を空想ではなく現実の世界の一部だと説明することに非常な労力を費やした作家でもある。その点で、作品のなかで描かれる世界が「空想上の世界」であることを認めるSFとは一線を画しているように思うのだ。

 たとえば、『海底二万里』のノーチラス号(ほんとうはラテン語名の「ネモ船長」に対応させてラテン語で「ナウティルス」号と読むのが正しいらしい)なんて実在しないのだから、何年何月の物語かなんて書かなくてもよさそうなものなのに、『海底二万里』では年月日まできちんと記されている。しかも、どこの海域はどんな場所でどんな生物がいるか、その生物がどんな系統の生物なのかということが詳しく説明されている。その説明が物語の展開に深く関係するかというと、少なくとも直接にはあまり関係しない。たとえば、ネモ船長がサメと戦う話に、「レクイエム」の語源とサメの語源が同じだとか、サメとエイが同じ仲間だとかいう説明が必要とも思えないのだけど、そういう話が詳しく書いてある。まだ開拓時代の雰囲気を残す南アメリカやオーストラリア、ニュージーランドを舞台にした『グラント船長の子どもたち』でも、主人公たちが厳しい状況に追いつめられている場面で、オーストラリアの植生の話が延々と続いたりもする。ダイジェスト版ではなく原作の翻訳を読んだばあい、この長々とつづく説明で挫折する読者も多いのではないだろうか。

 潜水船で海底に行ったり、極東の島国に行ったりと、当時のヨーロッパ人の多くが体験できないことをヴェルヌは描いた。そして、それを「しょせんは絵空事」にしてしまわないために手間と労力を厭わなかった。『海底二万里』で当時としては巨大な潜水船が動く原理を科学的に説明するのも、『八十日間世界一周』で開国まもない日本の港町の風景を描写したりインドの社会習慣を説明したりするのも、その物語が自分のいる現実の世界のなかで起こりうることとして描くという点では共通している。どんなに空想的で奇想天外な物事でも、それが現実にいま住んでいる世界でありうることだと説得することに、ヴェルヌは強い執着を持っていたのだ。

 ヴェルヌと並んでSFの祖とされるH.G.ウェルズが、反重力物質を登場させて月の世界に行く話を書いたとき、ヴェルヌが「そんな物質があるなら作って見せてほしい」と批判したというエピソードがあるらしい。ここにも、現実の世界でありうることしか描かないというヴェルヌの姿勢がよく現れているように思う。

 私がヴェルヌの小説からSF作品にすんなりと入っていけなかった理由の一つはこのことだろうと思う。ヴェルヌの小説にはあんがい「自由な空想」を許さない厳格さがあるのだ。その空想世界のなかでの約束ごとが守れていればいいという発想とは少し違う。それが現実世界に十分にありうるものだという説明がつかなければいけないのである。

 現実の世界にありそうもない設定を持ちこんで、「これは私たちの住んでいるのとは別の世界の物語だから、こういうこともアリだ」という説明をするのは、ヴェルヌの作品では通用しない。だから、『バック・トゥー・ザ・フューチャー3』のドクには気の毒だけど、ヴェルヌの作品には時間旅行などというものはあり得ない。ましてや、超光速航行とか、どんな原理かわからないけど感情に合わせてぴくぴく動く耳をつけた女の子とかはヴェルヌは絶対に描かない。ヴェルヌ原作と称してそういう小説を書くというのはたいへん不届きな話である。だれだ、そんな小説を書いてコミケで売っているのは?

 ヴェルヌが小説に描いたものが二〇世紀になってつぎつぎに実現していったのも、べつに驚くようなことではないのかも知れない。少なくともそれはヴェルヌの空想力が豊かだったことの証明にはならない。ヴェルヌは一九世紀の科学で十分に構想できるものを描いたのである。そしてそれが二〇世紀になって現実のものになっていったわけだ。

つづき