『パタパタ飛行船の冒険』とジュール・ヴェルヌの世界

清瀬 六朗


『地軸変更計画』

― ヴェルヌの小説を読む  1. ―

 【ものがたり】 かつて巨大砲弾に乗って月を一周する旅に成功したアメリカ人のバービケインとニコル大尉(『地球から月へ』と『月世界旅行』)(→『月世界旅行』の紹介・感想)が壮大な北極開発プロジェクトを始動させる。アメリカ合衆国政府の後ろ盾を得て、諸列強の代表とのあいだで北極を「競り」にかけ、競り落としたバービケインたちは、北極に眠る豊富な石炭資源の開発のために奇策を実行に移す。それは、地球の地軸を移動させ、北極大陸を緯度の低い地域に移して氷を融かそうという壮大な計画だった。地球全体を巻きこむ大プロジェクトに世界が騒然となるなか、プロジェクトは厳重な秘密の下で進められていた。果たしてプロジェクトは成功するか、また、地球はいったいどうなってしまうのか……?




 当時は人類は北極点にも南極点にも到達していなかった。極地はまだ人類のまったく知らない世界で、想像力を十分にめぐらすことのできる舞台だったのだ。だから「北極大陸」が存在して、その地下に豊富な石炭資源が眠っているという想像も生まれてくる。

 それにしてもこの物語を読んでいると苦笑させられる。この物語では、アメリカ合衆国政府が中心になり、バービケインらの民間プロジェクトのために国際社会に向けて北極を競売にかける。国際社会といっても実際にはヨーロッパの列強諸国に過ぎない。ヨーロッパの列強諸国はばかばかしいと思っているけれども、アメリカに北極を取られることへの警戒感から、互いに不信を抱きつつも手を携えてアメリカ政府にあたる。ヨーロッパはその老獪(ろうかい)な外交手腕でアメリカの北極独占を阻止しようとするが、けっきょくアメリカの資金力に押し切られる。なぜアメリカ合衆国は北極獲得を狙ったのか。それは産業の発展とともに石炭資源が急速に枯渇すると予測されているからだ。北極大陸には大量の石炭が埋蔵されていることが予測されている。アメリカが北極を獲得し、北極大陸の石炭をアメリカの民間会社の手で開発すれば、産業社会の主導権をアメリカ合衆国が握れる。

 いや、もう、ブッシュ政権のアメリカを揶揄するために書かれた物語のようである。ブッシュ政権とエネルギー産業の癒着ぶりは2001年のエンロン事件でも明るみに出た。イラク戦争後の開発事業の割り振りでもブッシュ政権と関係の深い石油産業への露骨な利益配分を試みている。ヴェルヌ時代には石炭だったものが石油に変わっただけだ。それに対するヨーロッパ列強の駆け引き外交と、ヨーロッパ諸国間の思惑のぶつかり合いなんかも2002年後半〜2003年のイラク戦争をめぐる駆け引きを思わせるものがある。

 でも、ヴェルヌのこのアメリカ人像というのは基本的に冗談なのである。この『地軸変更計画』は『地球から月へ』と『月世界旅行』の続編にあたる。この二つの作品は、月に行こうなどというトンデモないことを考えて実行してしまうのはアメリカ人ぐらいだという考えのもとに書かれている。「理論上は可能かも知れないけれど、その実現の困難さを知ればふつうやらないでしょ?」と考えるのがヨーロッパ人全体の傾向だとすれば、理論上可能ならばどんなむちゃくちゃなプロジェクトでも直ちに着手してしまい、どんな困難でもあらゆる手段を駆使して突破してついには実現してしまうのがアメリカ人だ。それがヴェルヌのアメリカ人像だと思う。そして、「アメリカ人ならばこれぐらいやってもおかしくないでしょ」と考えられた第一のプロジェクトが人間を月に送りこむというもので、その第二が地軸を移動させて北極の氷を融かし、その北極の石炭を開発するというプロジェクトなのである。

 ところがその「冗談」のアメリカ人像を平気で現実のものにしてしまうのが現実のアメリカ人という人びとなのだ。

 しかも、最初はバービケインらのプロジェクトを支援したアメリカ合衆国政府は、地軸移動が地球に大災難を引き起こしかねないことに世論が不安を抱くと、こんどはプロジェクト関係者を犯罪者扱いして全力で阻止にかかる。「世論」の支配する国がやることの振れの極端さもヴェルヌはよく描いている。

 けっきょくこの物語はアメリカ人のトンデモさ加減を揶揄したギャグ作品なのだ。

 『月世界旅行』では英雄として描かれていたバービケインやニコルがここでは戯画化されていることをとらえて、それをヴェルヌの「文明」観の変化の表れと読むこともできないこともない。

 ヴェルヌは、初期には科学文明の未来に大きな希望を持っていたが、老境にさしかかったころに、甥に足を撃たれたり、よき理解者だった編集者エッツェルが亡くなったりしたことで一転し、科学文明の未来に悲観的になったといわれている。しかし『月世界旅行』でもバービケインやニコルは一面ではバカにされている。バービケインやニコルは、一回きりの、それもかなり偶然に助けられた月旅行の成功から、月旅行のための会社を作ってしまうようなあまりに無鉄砲な前向きさの持ち主としても描かれている。この二人はアメリカ人のあまりのトンデモさ加減の代表である。また、『海底二万里』のノーチラス号だって、けっして人類の共有物ではなく、ネモ船長のような「神」に近い人間だからこそ持つことを許された機械なのだ。ヴェルヌが、『ふしぎの海のナディア』のジャンのように科学が人類の未来を開くと信じていたかどうかはもう少し詳しく検討してみる必要があるだろうと思う。

 なお、この『地軸変更計画』には、『月世界旅行』で月世界一周をなし遂げたバービケインやニコルは脇役的にしか登場しない。そのかわり『地球から月へ』に登場しながら月旅行に参加しなかったために『月世界旅行』ではほとんど活躍の場がなかったマストンが主役になっている。また、『海底二万里』や『十五少年漂流記』(『二年間の休暇』)、『八十日間世界一周』などの物語のようにドラマ的に起伏のある物語ではない。しかもヴェルヌの作品を読み慣れた人ならばだいたいオチが読めてしまう。女性が登場するのだけれど、あいかわらず女性の描きかたはぎこちない。だから、ヴェルヌの作品としてとびきりおもしろい作品とはいえないと思う。ただ、全編がおちょくったような文章遣いで貫かれていて、諧謔(かいぎゃく)家としてのヴェルヌという一面はよく出ている作品だと思う。

― おわり ―

原題:Sans Dessus Dessous(『上もなく下もなく』), 1889.

榊原晃三(訳)、ジャストシステム、1996年