『パタパタ飛行船の冒険』とジュール・ヴェルヌの世界

清瀬 六朗


ジュール・ヴェルヌについての覚え書き(4)

ヴェルヌは「フィクション」を作ったか?

 ヴェルヌにどこまで「フィクションを作る」という意識があったかも私は少し疑問に思っている。

 たしかに『八十日間世界一周』や『グラント船長の子どもたち』の最後のどんでん返しの鮮やかさを読むと、物語を書き始める前から構成を考えているのは確かだろう。しかし、たとえば、登場人物などは、あまり物語との関連を考え抜いて配置されているようには思えない。『海底二万里』のように登場人物の少ない物語はまだしも、登場人物が多い物語になると、ただいるだけで物語に深く絡まない人物も出てくる。『二年間の休暇』(『十五少年漂流記』)だって、少年たちが15人いなければならない必然性はない。『海底二万里』の主人公アナロックス博士の助手コンセイユだって、物語の展開に必要なキャラクターというよりは、延々と展開される博物学問答の都合で設定したキャラクターという感じが強い。物語上の必然からいえば、ネモ船長と、船長に疑問を感じつつも基本的に船長を信頼している博士と、船長を信用していないネッド・ランドだけで十分なはずだ。

 ヴェルヌは物語を語るための必要を最優先にしてキャラクターを作って配置しているようには思えない。たぶん、『海底二万里』のアナロックス博士や『八十日間世界一周』のフィリアス・フォッグ氏など、物語の主人公になる重要人物は物語との関連で決められるのだろう。しかしサブキャラクターになるとそうではなさそうだ。こういう探検隊が組織されたらそれにはこういう人物も参加するだろうとか、学校の夏休みの旅行ならばこういう子どもが参加するだろうとか、「現実にありそう」なことを基準に人物を考えて配置しているように思えるのだ。

 人間ドラマを描くこともヴェルヌはまったく得意でない。男と女のロマンスはときどき描くけれども、あまり深くは描かないし、ドラマチックな描きかたもしない。また、『八十日間世界一周』のフィックス探偵のように、善人か悪役かはっきり決められないような人物は出てくるけれども、だいたい善人と悪役とが固定されている。悪人が改心したりすることはあるけれど、あまりそれがドラマチックにはならない。ヴェルヌの作品では基本的に悪役は徹底して悪役である。『サハラ砂漠の秘密』のウィリアム・ファーニーももともとはそういう描かれかたをしていたのであって、『パタパタ飛行船の冒険』のウィリアムが持っている人間味は原作のウィリアムにはまったくない。というわけで、アニメを見てから原作を読んだ人は、原作のウィリアムにはけっこう違和感を感じるのではないだろうか?

 こういうところがヴェルヌ作品が子ども向きと思われる点かも知れない。また、実際に、大人でないとわからない人情の機微のようなものがあまり出てこないので、子ども向けに翻案しやすいのかも知れない。

 ヴェルヌはロマンチックな作家というのとはちょっと違うと思う。ヴェルヌは、当時の「現実」のなかから「物語」を切り取ってくるようなアプローチで作品を書いていた。もちろんその内容はヴェルヌの創造なのだが、それを現実世界にあっておかしくないことに見せるためにヴェルヌは多大な力を使っている。それがヴェルヌ作品の臨場感や生々しさを作り出し、物語にロマンチックな感覚を生み出しているのだ。


19世紀ヨーロッパの特権的な地位

 どうしてそうなのか?

 この時代のヨーロッパでは、現実世界そのものが十分にロマンチックであり得たのだろうと思う。

 この時代のヨーロッパには、まだ一つしかない現実の世界の中で「驚異」を探す余地がたくさん残されていた。ヴェルヌが何度か舞台にしたアフリカはまだ「暗黒大陸」で、まだまだヨーロッパ人の知らない土地だった。「驚異の旅」第二作『ハッテラス船長の冒険』の主人公ハッテラス(アトラス)船長をはじめ、『海底二万里』のネモ船長も『征服者ロビュール』のロビュールも北極点や南極点に行くが、当時はまだ北極点にも南極点にもだれも到達していなかった。『八十日間世界一周』で主人公たちは日本に立ち寄るし、『海底二万里』のノーチラス号の旅は日本沖から始まるけれども、日本はまだ明治維新後まもない。インドだって、沿岸都市はヨーロッパ化されているが、奥地に入ればどんな「野蛮」な風習が残っているかわからない。

 ヴェルヌの時代は、一つしかない現実の世界が十分に想像力をめぐらせられる世界だった。「現実の世界はこうなっているのだ」ということを知ることや説明することが想像力と何の矛盾もなく共存していた。現実を暴露することが想像力の生み出した世界を損なうのではなく、現実を知ることで、想像力だけから生み出された空想よりもずっと魅力的な世界を描くことができた。ヴェルヌがその小説を発表しつづけた時代はそういう時代だった。

 19世紀後半のヨーロッパで小説を書きつづけたヴェルヌにとって、現実世界そのものが十分にロマンチックだったのは、もちろん、当時のヨーロッパが世界のなかでも特権的な地位にあったからだ。

 世界がふしぎなことで満ちあふれていても、それを体験する手段がなければ、それは現実の世界の物語として描くことはできない。少なくとも、現実の世界に通用する地理学や科学を駆使して作品の世界を説明し尽くそうとするヴェルヌの方法は使えない。

 しかし、この時代のヨーロッパは、そのふしぎなことに満ちあふれた世界を、政治的にも、知識の面でも、自分たちの支配下に置いていこうとしている時代だった。同時に、その世界をヨーロッパの文明で染め抜いてしまっている時代ではまだなかった。世界のどこに行っても同じような町並みが並び、同じような考えかたの人びとが住んでいるというのでは、やはり「驚異の旅」は成り立たない。ヴェルヌが小説を書きつづけたのは、ヨーロッパの拡張時代であり、しかもそれが拡張しきっていない途上の時代だった。ヴェルヌの作品は、そういう時代だからこそ書かれ、そういう時代だからこそ受け入れられたという一面を持っている。


ヴェルヌの理想とする植民地支配

 ヴェルヌは帝国主義の文明時代を否定してはいない。

 たしかにヴェルヌは植民地支配の暴虐さは否定した。理想や道徳性のない、ただ利益をむさぼるだけの植民地支配も否定した。『八十日間世界一周』や『グラント船長の子どもたち』では、イギリスの植民地支配の不道徳さを何度も諷刺し、また非難している。

 しかし、同じ植民地支配でも自分の祖国フランスの支配には非常に甘い。ヴェルヌは植民地支配をしてはいけないと考えているのではない。世界には自分で自分を支配しきることのできない野蛮な人びとがたくさんいると考えていて、それを支配するのは文明国の役割であると認めているようである。

 ただ、そうである以上は、その植民地支配は道徳的でなければならないと考えていた。その道徳的な植民地支配を実行するのがフランスをはじめとするカトリックの国であり、背徳的で利得本位の植民地支配を実行するのがイギリスだというわけだ。その点から、イギリスが「野蛮」な人たちの習慣をそのまま温存する旧慣温存政策(日本も台湾支配を始めるときに参考にしたという)には批判的だ。「野蛮」な習慣は一刻も早くやめさせて道徳的な支配を実行しなければならないというのがヴェルヌの基本的な考えかたのように思える。つまり、ヴェルヌにとっては、フランス的な価値観やカトリックの価値観を「野蛮」な人たちに積極的に押しつけることで文明化していく植民地支配が理想だったのである。

 なお、私はまだ読んでいないけれども、ヴェルヌと植民地支配をめぐる論点については、杉本淑彦『文明の帝国』(山川出版社)がていねいに描いているようだ。


ペシミズムへの黙示録的変容?

 また、ヴェルヌは、植民地支配を生み出したヨーロッパ文明を拒絶し、自分自身の文明を生きようとする人物も描いた。そういう人物のうちいちばん純粋なのが『海底二万里』のネモ船長である。しかし、ネモとは英語の none にあたる「だれでもない」という意味のことばであり、ヴェルヌは、そんな生きかたをする人間が実際に存在するとは考えていなかったようでもある。

 『征服者ロビュール』のロビュールになると、ネモ船長が持っていた人間性は薄くなり、ヨーロッパ・アメリカの産業文明をたんに冷笑し軽蔑する悪魔的なイメージが強くなってくる。『悪魔の発明』のケル・ケラジェや『サハラ砂漠の秘密』の(原作の)ハリー・キラーになると人間性のかけらもなくなってしまう。

 このあたりになると、ヨーロッパとアメリカの産業文明が、その産業文明を超える超産業文明の持ち主によって復讐される物語という性格が強くなってくる。ネモ船長にはヨーロッパの文明を憎むだけの理由があったのだが、ケル・ケラジェやハリー・キラーになるとそれもなくなってしまう。この傾向がヴェルヌの晩年のペシミズム(厭世観)などと言われている。

 当時の世界の覇権国イギリスが、その覇権国を上回る科学技術と軍事力を持った火星人の前に壊滅するという物語を描いたH.G.ウェルズにも共通する立場である。ただ、ウェルズがそれでも人間性に信頼をおき、自ら穏健社会主義の実践に乗り出したのに対して、ヴェルヌのペシミズムはもっと人間を突き放す厳しさを持っているように思える。

 あるいは、ヴェルヌはカトリック教徒だったから、世界の運命についての見かたが黙示録的に変化していったと見てもいいのかも知れない。

 キリスト教の神は、人間世界の外にいて、人間世界をより高いところから見ている存在である。ネモ船長はまさにその神のような存在感を感じさせる人であり、近寄りがたさと優しさを同時に感じさせてくれる。『海底二万里』では、そのネモ船長が「全能の神」の存在を認めるところでネモ船長との別れがやってくる。ケル・ケラジェやハリー・キラーになると、その神がこの世を破壊したり試練を与えて試したりするために送りこんできた悪魔のようなイメージになる。これは『新約聖書』の最後の「ヨハネの黙示録」に描かれる神の印象に近い。どちらにしても、ヴェルヌの作品にはこうした「神」の存在を感じさせる部分がある。

 優しい神から復讐者としての神の使者へという転換が何によってもたらされたのかはわからない。ヴェルヌの本の解説には、晩年の孤独、とくに精神に異常を来した甥に銃で撃たれたことが大きく取り上げられている。一方で、ヴェルヌの晩年はヨーロッパ中心の帝国主義が行き着くところまで行ってしまった時代で、そのことがこのような転変に影響しているのかも知れない。


日本のアニメ作りとヴェルヌの方法

 どちらにしても、現在の世界はヴェルヌの生きていた世界ではない。

 人間は世界を知り尽くしてしまった。想像力を膨らませて物語を書き、いまの世界で現実に起こっていると装っても、実際にはそうでないことがかんたんに暴露されてしまう。実際の世界のなかで起こりうるリアルなドラマと、想像力を駆使して書くファンタジーの物語とは、ぜんぜん別の分野へと分かれて行ってしまった。

 一方で、20世紀になって物理学の理論が意外な展開を示し、物理学的に並行世界というものがありうるということが理論立てられた。もちろん、それは地球上のどこかのように、だれもがカネとヒマさえあれば行って帰ってくることのできる世界ではない。けれども、現実とは違う世界を舞台にしても説明はつくようにはなった。

 そこでヴェルヌの方法は架空の世界を描くために使われるようになる。細かい設定を積み重ねることで、架空の世界の現実感を作り上げ、物語をただの絵空事と感じられないように仕上げていくのだ。

 これはSFのたどった一つの方向性であろう。そういう点で、20世紀のSFはヴェルヌを一人の祖としているとやっぱり言っていいのかも知れない。

 また、ヴェルヌの小説の書きかたは、日本のアニメが1970年代以来たどってきた方向性を先取りしている。

 アメリカ合衆国では何度もヴェルヌ作品が映画化されているし、作っている本人たちがヴェルヌを意識しているであろう作品も数多い。だが、アメリカ映画とヴェルヌの小説とではどうも相容れない部分があるように思える。ヴェルヌはアメリカ文化(とくにアメリカ北部の産業文化)に強い違和感を持っていた。アメリカで作られたヴェルヌ作品の映画化版はその違和感を埋め切れていないように私は感じる。というより、アメリカ映画は、ヴェルヌがアメリカに違和感を持っていたことなど最初から問題にしていないように感じるのだ。

 一方の日本のアニメはどうか?

 架空の物語だからといって、設定をいいかげんにせず、できる限り細かいところまで設定を作り上げて物語を語る――その製作態度によって現在の日本のアニメは支えられてきた。主人公の「怪盗」が乗る自動車は何なのか、使う拳銃は何なのか――そういうことにこだわって作品を作り始めたところから、日本のアニメはアメリカ合衆国のアニメーションのコピーという地位から独り立ちしたのである。そして、その動きを担った人たちが20世紀後期の日本のアニメづくりをリードしていく。高畑勲、宮崎駿、富野由悠季、押井守などみんなそうである。

 極端にいえば、その物語が語られるかどうかにはまったく関係なく、その世界をめぐる設定だけで一つの体系を作り上げるというところまで設定は緻密に作られる。だから、その世界は、ぜんぜん別の人物をめぐる他の物語に転用がきく。商業作品でもそういう転用はなされてきた。そして、何より、日本のアニメのそういう性格が、アニメ同人誌をこういう隆盛に導きもしたのである。また、その緻密さが現在の日本のアニメの一つの特徴になっていて、それが世界の映画作りなどにいま影響を与えつつあるわけだ。

 物語のあらすじとは別に、その物語が展開される世界がどんなに現実にありうる世界であるかを語ること――その語りにありったけの熱意を注いでいることが、ヴェルヌの作品の一つの大きな特徴であり、そして現在の日本のアニメの特徴でもある。だから、日本のアニメという媒体は、ヴェルヌの作品になじみやすい性格を最初から持っているのかも知れないと思う。

 『パタパタ飛行船の冒険』の物語をもしヴェルヌが知ったら「浮遊泉などというものがあるなら見せてほしい」と言うかも知れない。しかし、それでも、このアニメ化はヴェルヌの作品の雰囲気を十分によく伝えていると私は思う。

― おわり ―

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