『パタパタ飛行船の冒険』とジュール・ヴェルヌの世界

清瀬 六朗


ジュール・ヴェルヌについての覚え書き(3)

『月世界旅行』

 ヴェルヌの『月世界旅行』では人間が月の周回軌道にまで行く。ロケット技術がなかったので、人間が砲弾に乗り、その砲弾を巨大な大砲で打ち上げるという仕組みである。映画草創期のメリエスの『月世界旅行』でも大砲で打ち上げることになっている。

 現実の軍事技術でも、第二次世界大戦の時期までは戦争といえば大砲や機関銃・小銃などを撃ち合うものだった。日本の帝国海軍が「大艦巨砲」を極限まで追求して戦艦「大和」・「武蔵」を生み出したことを考えれば、少なくとも「大和」・「武蔵」が設計された時代までは大砲は遠距離攻撃の主役と考えられていたのだ。

 それを覆したのが航空機とロケットである。ドイツのV2号ロケットでその兵器としての有用性を実証したロケットは、たちまち大砲から遠距離攻撃兵器の地位を奪ってしまった。

 当時の大砲は、砲の内部で爆発を起こして、砲弾に最初に一瞬ですべてのエネルギーを与えておくしくみである。砲弾には、射出したときの衝撃に耐える丈夫さを与え、目標に到達したときに爆発するような仕組みを仕組んでおけばよいだけで(初期の大砲にはそれもなかった)、比較的単純な構造の砲弾でも実用できる。

 しかし、砲弾は飛んでいる途中にそのエネルギーを徐々に減らしながら目標に到達する。それでも相手の装甲板を打ち破らなければならないから、最初に一瞬でよほど大きいエネルギーを与えておかなければならない。発射装置は、砲弾の大きさに合わせなければいけないし、砲弾自体の重さを支えなければいけないし、発射のときの巨大なエネルギーに耐えなければならない。だから、巨大な砲弾を送り出そうとすれば、砲身の大きさも大きくしなければいけないし、砲身の厚さも分厚くしなければならないし、砲身を支える仕組みも巨大になる。だから、大砲を大きくするには限界がある。

 ロケットのばあいには、飛んでいくロケット自体が少しずつ加速していくので、最初から巨大なエネルギーを与える必要がない。だから、発射装置の側は比較的簡単なものですむ。しかし、ロケットは少しずつ燃料を燃焼させながら加速していかなければならない。これをコントロールするのが難しいのは、日本のロケットがたびたび失敗していることからもよくわかるだろう。


砲弾宇宙船

 ヴェルヌは、このロケットの方法ではなく、巨大な大砲によって月旅行を考えたわけだ。

 このやり方は、その巨大な大砲を造るのにとてつもなく費用がかかる上に、人間は打ち上げのときの衝撃にまず耐えられないだろう。ヴェルヌの小説でも衝撃のことには触れられていて、人間の乗る砲弾(宇宙船)には衝撃吸収装置はいちおうついていることになっている。けれども、地球の重力を振り切る加速度を一瞬で与えてしまうのだから、そんな装置で吸収しきれるとはちょっと思えない。その加速度を徐々に与えていくロケットやスペースシャトルでも厳しいのだ。

 また、そんな速度を大気圏内で与えてしまったら、大気圏を抜けるまえに燃えてしまうのではないだろうか。この砲弾(宇宙船)はアルミニウム製ということになっている。素材としてアルミに注目しているのはたしかに卓見だ。しかし熱には弱そうである。

 こういう部分にはごまかしはあるわけだが、ロケットというものが考えられない条件では、巨大な大砲を作るのがいちばん現実的な方法だったと言えるのだろう。

 ところでこのヴェルヌの『月世界旅行』の方法では月に着陸ができない。『月世界旅行』の砲弾宇宙船には、火薬を爆発させて着陸のときの衝撃を弱め、着陸を可能にする軟着陸装置が装備されている。これはロケットを逆噴射して月に軟着陸するというのと同じ発想で、アポロの着陸船でも、また火星探査機でも使われていた方法だ(さすがにヴェルヌの砲弾宇宙船はエアバッグは使ってないけどね)。これも現実の宇宙技術を見通した卓見だといえるだろう。

 だから『月世界旅行』の砲弾宇宙船は月に着陸することはできるようにはなっている。ただ、いかに重力の弱い月とはいえ、地球との重力均衡点から何十万キロかを落下してきた砲弾宇宙船を、単純にロケットの逆噴射で受けとめられるかはちょっと疑問ではある。また、着陸したら、月の側には砲弾を打ち上げる大砲がないのだから、帰って来られなくなってしまう。

 『月世界旅行』では人間は地球に帰ってくる。そのかわり人間は月に降り立つことはできなかった。

 なお、ヴェルヌの『月世界旅行』のクルーを拾い上げるのは、ペリーが日本に乗ってきた軍艦サスケハナである。


『月世界旅行』とアメリカの宇宙開発

 また、ヴェルヌは、月の地球の側を向いた面が不毛の土地にしか見えないという観測事実をけっして裏切らない。それどころか、例によって月の表面についての解説を延々と続けるのだ。「地球からは見えないけれどじつは月には高度の文明があるのだ」という話にはならない。当時はだれも見たことのなかった月の裏側(けっして地球のほうを向かない側)に肥沃な世界が広がっているのではないかと示唆するだけでヴェルヌはとどめなければならなかった。だからウェルズが反重力物質を設定して月に着陸させてしまったのに反発したのだ。

 そのかわり、ヴェルヌの『月世界旅行』の筋書きは、ほぼ百年後に現実にアメリカが行ったアポロ計画の実際とよく似ている。クルーが男ばかり三人で、打ち上げ場所がフロリダで帰還した場所が太平洋というところまで、ヴェルヌの『月世界旅行』は現実のアポロ一一号と共通している。

 何より、ヴェルヌは、月に人間を送りこむなんておバカなことをまじめに考え、しかもそれを実行に移してしまうのはアメリカ人だということまで当てている。『月世界旅行』では民間団体が月旅行を実現するわけだから、アポロ時代より後の「民営化」の流れを先取りしているとまで言えるかも知れない。

 『月世界旅行』に限らず、ヴェルヌの小説に出てくるアメリカ人は、血の気が多くてすぐ銃を抜くし、やたらと党派を作りたがるし、どうでもいいようなことで激烈な党派対立を展開して人を巻きこむし、かと思うとすぐに情緒に流されて意見を変える。

 ……まったく困ったものである。小説のなかだけですまないから困ったものなのだ。

 しかも、この『月世界旅行』では、アメリカの南北戦争で大砲の技術が発達し、大砲に依存してしか生きられないような連中が組織を結成していることになっている。戦争が終わってその連中が大砲の技術を転用できる方法を考え、考えついたのが月に砲弾を送り届けるという計画だったというわけだ。この連中は続編『上もなく下もなく』(『地軸変更計画』。清瀬による紹介・評は→こちら)ではやはり奇想天外な方法で地球の自転軸を変えてしまおうというプロジェクトに乗り出すことになる。

 戦争依存症みたいなものをヴェルヌがどれだけ深刻に考えていたかはよくわからない。これもアメリカ人を揶揄しているだけかも知れない。けれども、戦争を通じて技術が発達し、その技術が平和の時代になって「平和」技術として生き残るという過程は、原子力の利用から新幹線まで、二〇世紀には広く見られた過程である。

 現実の月ロケットの技術だって、もともとはドイツからイギリスを攻撃するために開発されたV2号ロケットの技術の転用である。『月世界旅行』ののうてんきなアメリカ人(+フランス人)と較べるのはどうかと思うが、ともかくもV2の技術者フォンブラウン博士はアポロ計画にまで深く関係している。


科学的な説明

 一方で、この『月世界旅行』には科学的に見るといろいろとおかしなところもある。

 まず、この作品では、地球の重力も月の重力も砲弾宇宙船のなかでずっと感じていて、地球と月の重力均衡点でだけ無重力状態になるという描写になっている。しかし砲弾宇宙船の内部にいる限りではずっと無重力状態のはずである。私たちは、自分が受けている重力のすべてを感じているのではなく、自分の周囲の状態と自分が受けている重力との差を重力として感じている。地上で私たちが重力を感じるのは、私たちの身体が地球の重力に引かれて落ちようとするのに、地面や建物は落ちないので、その落ちようとする勢いが重力として感じられるのである。しかし、周囲のものが自分と同じように重力に引かれて落ちていれば、人間は重力には引かれていても重力を感じることはできない。

 ところで、砲弾宇宙船とその中に乗っている人間とは両方が同じように地球や月の重力に引かれている。だから、砲弾内部では感じる重力に差はないわけで、これは現在の感覚から見れば初歩的なまちがいである。

 また、短い時間ならば砲弾宇宙船の窓を開けても空気は失われないということになっている。しかし、もちろんそんなことはなく、真空状態のなかで窓を開けたりしたら一瞬で空気は吸い出されてしまう。

 ここに現れているように、ヴェルヌの科学的な説明は必ずしも正しいわけではない。私にはよく理解できないのだが、ノーチラス号が海底の水圧に耐えられる理由の説明(静水力学と動力学がどうこうという話)もどうもあやしいように思える。また、『海底二万里』で描かれる魅惑的な海底世界についても、ヴェルヌは一部の海底動物を植物の果実のように考えていたらしく、イソギンチャクでジャムが作れるというようなあまり現実的でなさそうな話も出てくる。イソギンチャクはヨーロッパでは「海のアネモネ」などと呼ばれていた。あるいは、ヨーロッパではイソギンチャクは植物に近い動物と考えられていたのかも知れない。そういえばヨーロッパではナマコも「海のキュウリ sea cucumber 」などと植物的な呼ばれかたをしていたようだ(まあ乾燥ナマコからの連想だろうけれど)

 それでも、無重力状態の宇宙船のなかがどうなるかというような描写は、実際の無重力状態の資料や映像もないままによくこんなに描けるものだと思えるくらい現実的である。現実にスペースシャトルのクルーを悩ませる宇宙酔いのような感覚もちゃんと描いている。

 ヴェルヌはもちろん科学的に正確に描写しようとした。『月世界旅行』を書くときには専門家に計算を依頼している。しかし、ヴェルヌにとっては、科学的な正確さそのものが目的だったのではない。自分の描いているものごとが現実に私たちが住んでいるこの世界で実際にあっておかしくないという説明が重要だったのである。


科学的な説明と「驚異」の感覚

 そのことが、ヴェルヌの作品に出てくるエピソードにほんとうに「驚異」の感覚を与えているのだ(『気球に乗って五週間』以後の作品は「驚異の旅」というシリーズ名で刊行された。その最終巻が『サハラ砂漠の秘密』)。

 『海底二万里』にはノーチラス号の乗組員が巨大イカと戦う話がある(原文では「タコ」と「イカ」が混用されているという。ヴェルヌはタコとイカの区別があまりよくわかっていなかったらしい)。軍艦とも対等に渡り合えるノーチラス号の力も巨大イカには通用せず、最後の手段として浮上して乗組員が斧で巨大イカと肉弾戦を繰り広げる。イカの撃退には成功するが、ノーチラス号の乗組員も犠牲になり、それがネモ船長や主人公アナロックス博士の心に大きな傷を残すことになる。

 この物語が生々しく感じられるのは、何よりこれがこの現実の世界の中のできごとと感じられるからである。

 『海底二万里』ではそこまでにいろいろと珍しい動物が登場した。そしてそれにいちいち博物学的な説明を加えてきた。それがあるから、読んでいて、この凶暴な巨大イカだってこの世のなかに実在するという感覚が生まれてくる。そういう博物学的な知識を延長すればこの世のなかに巨大イカが存在することも不思議ではない気がしてくる。ノーチラス号のような航海をすればそんな凶暴巨大イカに遭遇することだって十分にありうるのだと感じさせてくれる。それでこの物語は読者に強い印象を残すことになるわけだ。物語を盛り上げるために無理やり凶暴な巨大イカを登場させたというあざとさを感じさせない。

 同じことは『八十日間世界一周』や『グラント船長の子どもたち』などでの詳しい風景や風俗の描写についても言える。これがときにはヴェルヌの衒学(ペダントリー)趣味とまで呼ばれるものだ。ヴェルヌは、ときには盛り上がりかけた物語の本筋をそういう説明で中断してしまう。それが一面ではヴェルヌの作品を「ちょっと読んでみようか」と手に取った読者を遠ざける要因になっているのかも知れない。

 けれども、南アメリカの草原で子どもが巨鳥にさらわれるとか、東洋の街でアヘンを吸わされて酔っぱらうとかいう話が現実感を持つのは、ヴェルヌの作品のばあい、地理学的な説明や社会風俗の説明が延々とつづくことで、その世界が紛れもなくこの世界の一部だという感覚を読者が持つからだ。直接に物語に関係のない部分まで科学的・博物学的に説明していることがその感覚につながっている。

 ヴェルヌが描いたのは単なる空想ではなかった。

 たしかに、その時代のヨーロッパの人たちが普通に体験することのできない「驚異」の物語をヴェルヌは書き続けた。けれども、それがその時代の現実世界にほんとうに存在すること、少なくとも存在してもおかしくないことをヴェルヌは説明しつづけた。それがその物語に独特の生々しさを生み出しているのだ。

 現実の世界の中で実際に起こったできごとを装うこと、小説を実際の事件の記録のように装うことが、その時代のヨーロッパの小説に共通の常識だったのか、それともヴェルヌに特有のこだわりだったのかは、この時代のヨーロッパ文学に詳しくない私にはよくわからない。ヴェルヌに強い影響を与えたアレクサンドル・デュマ(父)の小説を考えても、ある程度は当時の通俗小説に傾向の考えだったのだろうと思う。また、一方では、この「いま自分が生きている現実世界」を舞台にしなければならないという執着は、ヴェルヌが熱心に信仰していたカトリックの教えから来るのかも知れない。

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