『パタパタ飛行船の冒険』とジュール・ヴェルヌの世界

清瀬 六朗


『ハテラス船長の冒険』

― ヴェルヌの小説を読む  3. ―

 【ものがたり】 1860年4月、三本マストに蒸気機関を載せた機帆船フォワード号がリヴァプールを出港した。行き先もわからなければ、船長も乗船しないままの出港だった。フォワード号は、謎の船長の指示を受けながら、シャンドン副長の指揮下に北へと向かう。目的の定かでない航海に乗組員の不満が高まり、浮氷群に囲まれて進退きわまったとき、船長ハテラスが姿を現し、フォワード号の航海の目的を告げる。それは前人未踏の北極点到達をイギリス人の手でなし遂げることだった。だが、フォワード号の行く手には、乗組員の不満の高まり、石炭の欠乏、寒波の襲来などの困難が何重にも立ちはだかった。石炭を求めてフォワード号を離れたハテラス船長やクロボニー医師の一行は、氷海で遭難したアメリカ船の船長アルタモントと出会う。だが、船長が留守にしている間に、フォワード号では探検旅行の前途を危うくするような大事件が勃発していた。




 あとがきによると、この翻訳が原書からの完全な翻訳としては本邦初なのだそうだ。この翻訳を収録している「海と空の大ロマン」シリーズには、ほかにも『皇帝の密使』、『緑の光線』、『永遠のアダム』など、他にほとんど訳書の出ていないヴェルヌ作品が含まれていた。現在は絶版で手に入らない(一部だが、集英社文庫で復刊されたものもある)。本格的な全訳で、読みやすい翻訳なのに、ほんとうに惜しい。なお、このうち『皇帝の密使』『永遠のアダム/エーゲ海燃ゆ』復刊ドットコムで復刊運動が進められている(ご協力ください!)

 なお、『ハテラス船長』の子ども向けのリライト版は学研(学習研究社)から出ていた「少年少女ベルヌ科学名作全集」に『北極冒険旅行』(白木 茂 訳)というタイトルで収録されていて、私は小学生のころにこの版で読んだ。この「少年少女ベルヌ科学名作全集」が出たのは「海と空の大ロマン」シリーズより前である。「少年少女」向けの翻訳があるのに全訳がなかったのはふしぎだ。ヴェルヌが「子ども向け作家」と位置づけられていたからかも知れない。


 『ハテラス船長の冒険』は、1864年に雑誌に連載された後、1866年に現在と同じ完成型で本として発表されたという。『気球に乗って五週間』で「驚異の旅」シリーズが始まってから間もない時期の作品だ(これが「驚異の旅」シリーズ第二作だったのではないかな?)。

 この『ハテラス船長の冒険』には、ヴェルヌのその後の作品に見られる特徴がいろいろと出ている。イギリス人船長ハテラスとアメリカ人船長アルタモントのぎくしゃくした関係は、『二年間の休暇』(『十五少年漂流記』)でのフランス人の少年ブリアンとイギリス人の少年ドノヴァンの関係に似ている。物語を語る中心人物が主人公から少し距離を置いた「博士」だというのは『海底二万里』と同じだ。ハテラスは、桁はずれの報酬で乗組員たちを北極への困難な旅に引きずりこんで行く。その強引さと、どんな困難でもカネと交換できるとする割り切りのよさは、『八十日間世界一周』のイギリス紳士フォッグ氏を思わせるところがある。

 なお、ヴェルヌが氷海探検を描くのはこれが最初ではなく、「驚異の旅」より前に「氷のなかの冬ごもり」という作品を書いている(こちらのほうは翻訳はいくつか出ている)


 『ハテラス船長の冒険』を読み終えてから、20世紀の探検家シャクルトンの南極での遭難を描いた『エンデュアランス号漂流』(アルフレッド・ランシング、山本光伸(訳)、新潮文庫)を買ってきた。こちらは実話である。まだ最初のほう50ページほどを読んだだけだが、シャクルトンとハテラス船長、フォワード号とエンデュアランス号の同じような特徴につぎつぎに出会う。

 シャクルトンは1915年に南極大陸横断を果たそうとして失敗し、乗組員を率いて帰還することに成功したイギリス人だ。ハテラス船長もイギリス人である。ハテラスは裕福な実業家の息子で、シャクルトンもハテラスほどではないがまずまず裕福な家に生まれた。二人とも情熱的で癇癪(かんしゃく)持ちで、冒険家精神にあふれていた。実在のシャクルトンも架空のハテラスも、ともに何か「普通の生業」には収まりきらないような魂の持ち主だったようだ。

 ハテラスの北極行きは3回めだったし、エンデュアランス号の漂流もシャクルトンにとっては3回めの南極探検の際のできごとだった。シャクルトンは探検に使う船を自分で選び、「エンデュアランス号」と自分で命名した。エンデュアランス号は三本マストの機帆船で(ただし帆の形式がフォワード号と異なる)、極地探検に適した頑丈な船だった。ハテラスは自ら指示して極地探検のための独自設計の船として三本マストの機帆船フォワード号を新造した。船の名も自分でつけている。どちらも「努力、忍耐(endurance)」と「前進、前衛(forward)」という冒険旅行のテーマになるような名を選んでいる。不運が重なって極地の短い夏の間に船を順調に進めることができなかったのも同じだ。もしハテラスが途中で北極行きに見切りをつけて乗組員を率いて帰還に成功していれば、シャクルトンのように統率者としての才能を讃えられることになったかも知れない。


 ヴェルヌが書いた極地探検物語が現実味を感じさせるのは、ヴェルヌの時代にすでにフランクリンやマクリントックの極地探検が行われていたからだろう。ヴェルヌはその記録を読むことができた。『ハテラス船長の冒険』では、第一部(「北極のイギリス人たち」、翻訳では上巻)25章「ジェームズ・ロスの老狐」のように、現実の探検旅行のできごとを物語のなかに取りこんだりもしている。この臨場感はこれまでの探検の記録をよく調べていることで生まれているのだろう。

 物語は、最初は「船長は乗船していないのに、船長からの指示は確実に船に届く」というミステリアスな状況から始まる。ハテラス船長という名まえも物語のなかの人物には明らかになっていない(読者は知っているわけだが)。しかも、船長がいないのに、船長の犬だけが船に乗っているので、さらに謎めいた雰囲気が物語をつつんでいく。

 物語は、いつも楽天的で冒険家精神を解し、冒険への情熱に共感することができ、同時にしっかりした常識人でもあるクロボニー医師に視点を置いてつづいていく。航海の最初から乗組員たちは北への航海に不安を感じ始めるが、読者はまだこの先にどんな冒険が待っているかを楽しみにしながら読みすすめることができる。

 北極海の奇異な現象の描写も巧みだ。もっとも、光の屈折現象の話にはちょっと実際には起こらないのではないかというような極端な描写もある(起こらないかどうかは自分で行っていないので知らないけれど)

 ハテラス船長が姿を現してから、北極圏の環境は厳しさを増す。航海はハテラス船長の計画どおりには進まず、季節は冬に向かい、やがてずっと日の昇らない北極の長い夜に入ってしまう。フォワード号は冬の極地探検の困難につぎつぎに遭遇し、乗組員を寒気と病が襲う。乗組員の士気と連帯感は失われていく。このあたりがいちばん現実の極地探検の感覚に近いのだろうけれども、この極限状況は読んでいてつらい。


 第二部「氷の荒野」(翻訳では下巻)に入り、ハテラス船長らの一行がアメリカの遭難船の船長アルタモントに出会ってから、物語は明るさを取り戻す。クロボニー医師が電池を使って北極の闇夜に設置した灯台の光がその明るさを表しているようだ。

 アルタモントと出会ったおかげでこれまでの絶望的な状況は好転する。そしてやがて長い夜が明け、春がめぐってくる。ここでも、白熊と戦ったり、あいかわらず光の屈折が見せる幻影に惑わされたりという冒険はつづくけれども、第一部の後半のような絶望的な雰囲気に戻ることがない。

 これは、一つには、ヴェルヌが「北極」と「寒極」を分けていて、北極点に近づくほどかえって寒さは緩むという想定で物語を書いているからでもある。また、第一部と違って、第二部の舞台は当時はまだ実際にはだれも行ったことのない場所だ。こういう場所の描写でヴェルヌの想像力は豊かに発揮される。その描写の豊かさは、『海底二万里』の海中世界をはじめ、『地底旅行』(原題は『地球中心への旅』)の地下の「失われた世界」などにも通じている。

 最後に一行は北極点周辺に到達する。そこは、現実の世界の事物できっちり裏打ちしつつ描かれたヴェルヌらしい幻想世界だ。現実に根拠を持っているほど幻想は美しく魅力的に描ける。それをヴェルヌの筆は教えてくれる。  この海からさらに一行は北極点をめざして進んでいく。


 ハテラス船長は、『海底二万里』のネモ船長のような厳しさと優しさをあわせ持つリーダーではない。『征服者ロビュール』のロビュールのような突き放した冷たさを持つリーダーでもない。逆に、『八十日間世界一周』のフォッグ氏のような人間味にあふれたリーダーでもない。ネモにしてもロビュールにしてもフォッグにしても、自分に強い自信を持って行動するという点では共通している(ネモ船長にその自信を疑わせることができたのは「全能の神」だけなのだ)

 ところがハテラス船長はそういうキャラクターではない。冒険心を抑えきれず、それと自分にできることとのあいだで悩み、挫折し、それでも冒険をあきらめきることのできない。ハテラスの精神は、いつも、向こう見ずな冒険心と、その冒険に耐えられない身体を持った人間への思いやりの二つの「極」のあいだで揺れつづける。そしていつも北極に到達したいという冒険心の「極」で人間への思いやりを抑えつけてしまう。まちがった選択も繰り返すし、妙な意地も張る。実際にいそうなタイプのリーダーである。シャクルトンと違って、まちがっても「困難な時代のリーダーシップ」として讃えられるリーダーではない。

 この物語は百パーセントのハッピーエンドとは言えない終わりかたをする。しかし、晩年のヴェルヌの「ペシミズム」が描くアンハッピーな終わりかたとは、少しおもむきが違っているようにも感じるのだ。それにしても、この初期作品『ハテラス船長の冒険』を読めば、「初期のヴェルヌは科学の未来を楽天的に見ていた」と言い切ることはけっこう難しいと思う。


 私たちの世界はすでに人類が北極点にも南極点にも到達している世界である。ペンギンさんはご近所の動物園にもいるし(「水」のクロウカードはいないと思われるので安心である)、南極からペンギンと人間が並んでいる中継映像が入ってきて、エアコンで暖房をつけた部屋でそのテレビ映像を見ることができる。そんな世のなかなのだ。

 だが、私たちは、ハテラスの精神的なさまよいから解き放たれたのだろうか?

 だれもなし遂げたことがないことを自分でなし遂げたいという願望と、その願望を実現するには弱すぎる身体を持った人間への思いやりと、その二つの「極」のあいだをさまようことは、もういまの人間には無縁の精神状態になったのだろうか?

 私はそうではないように思う。

 人類は北極点にも南極点にも到達した。

 そして、そのハテラス船長の精神的な「さまよい」は、むしろ私たちの日常のなかにあふれ出てきてしまったのではないか。

 私はそんな妄想にとらわれてみたりもするのである。




 ヴェルヌの小説はだいたい科学小説と地理的な冒険小説の二分野に分けられるという。この『ハテラス船長の冒険』は地理的な冒険小説のほうだろう。しかし、クロボニー医師(博士)を中心とする乗組員の雑談のようなかたちで、地球科学についての考察もところどころに出てくる。

 ここで語られていることは現在の地球科学から見ると不十分な点が多い。でも、地球の形成期に地球がマグマの大洋で覆われた時期があるとか、プレートテクトニクスとかいう知識がまったくなかった時期に書かれた作品だということを意識すれば、1866年に書かれたこの作品の地球科学的な考察がけっこういい線行っていると感じる。ヴェルヌはたしかに鋭い科学的な感覚を持った作家だったのだ。

 第二部24章で、クロボニー医師が、過去に地球上で極点が大きく移動したという説があると紹介している。ここを読んでいて私は感心し、また苦笑してしまった。

 その説は極点の移動の原動力は彗星の衝突で説明しているとクロボニー医師は言う。そしてつづけてこんなことを言っている。

 彗星ってのはね、「機械仕掛けの神様(デウス・エクス・マキーナ)」みたいなもんさ。宇宙形状誌では、説明がつかないことが起きるたびに、彗星に救いを求めるのだ。こんなに親切な星は他に知らないよ。学者がちょっと合図を送ると、さっと降りてきて、万事片をつけてくれるのだからね!

 ……おっしゃるとおりです、先生。

 中生代‐新生代境界事件(K/T境界事件)、つまり恐竜やアンモナイトが絶滅したできごとを天体衝突で証明できそうだと見通しが出てくると、こんどはそれに較べてはるかに大規模な絶滅事件だった古生代‐中生代境界事件(P/T境界事件)まで天体衝突で説明しようという機運が高まっている。現代の宇宙・地球科学(「宇宙形状誌」)でもあいかわらず彗星を「機械仕掛けの神様」に使う傾向があるのだ。

 また、実際、天王星の自転軸がどうして横倒しになっているのかとか、金星の自転がどうして他の惑星とは逆の向きなのかとかいうことは、やっぱり天体の衝突で説明する説が有力なようだ。ヴェルヌが『月世界旅行』→評で十分に説明できなかった月の成因まで天体衝突で説明するジャイアント・インパクト説が出てきて、これは説明に成功してしまった。

 科学者の発想には19世紀から大きく変わっていないところもある。それは、逆に言えば19世紀の科学がそこまで進んでいたということでもある。しかも、専業の科学者でないヴェルヌがその知識を得るぐらいにはその科学的知識は一般化していたのだ。

 20世紀の科学が相対性理論と量子力学を生み出したからと言って、ヴェルヌが生きた19世紀の科学が「たいしたことのないもの」だったと考えてはいけないようだ。

― おわり ―

調(しらべ)佳智雄(かちお) 訳、パシフィカ「空と海の大ロマン」(プレジデント社発売)、1979年(訳)

原書:1866年刊