『パタパタ飛行船の冒険』とジュール・ヴェルヌの世界

清瀬 六朗


『ラ・ペルーズの大航海』

― ヴェルヌの小説を読む  5. ―

 【ものがたり】(実録) 1785年、(アメリカ合衆国独立をめぐって)イギリスとの和平がなったフランスは太平洋に探検隊を送った。当時はイギリスのキャプテン・クックが探検を行った直後で、フランスはあらゆる面でイギリスと張り合っていたため、この探検が企画されたのである。指揮官に選ばれたのは海軍軍人のラ・ペルーズだった。ラ・ペルーズは、南アメリカ大陸南端を回って太平洋を北上し、ベーリング海峡近くの北アメリカ海岸に到達した。ここでの探険でラ・ペルーズは隊員を事故で失う。ラ・ペルーズは太平洋を横断してマニラとマカオに向かい、その後、台湾海峡・朝鮮海峡を経て日本海に入る。鬱陵島・能登岬・舳倉島の沖を通過して宗谷海峡(ラ・ペルーズ海峡)を抜け、サハリンが島であることを確認し、現地の原住民とも接触した。カムチャツカ半島から一転して南下し、サモア諸島に到達したラ・ペルーズ隊は、ここで原住民に襲撃され、何人もの隊員を失った。ラ・ペルーズはオーストラリア方面に向かい、探険をつづけたが、途中で消息を絶ってしまう。その後、フランス革命のさなかであったにもかかわらず、ダントルカストーの率いる捜索隊がラ・ペルーズの遭難したと思われる海域に向かう。しかし、ダントルカストーは任務に不熱心で、当時はまだ生存していた可能性のある探険隊員とも接触しないまま探査は不首尾に終わった。




 この作品は小説ではなく、実際の海洋探検を描いた実録文学(ノンフィクション)である。ここに紹介したラ・ペルーズの航海記のほかに、ラ・ペルーズに先立つフランス人航海家の事跡も紹介されている(翻訳では抄訳)。訳者榊原晃三さんの解題によるとヴェルヌにはほかにも何編か実録作品があるそうだが、これまであまり訳されていない。

 さすがに海洋冒険小説の名手ヴェルヌが書いたものだけあって、読んで胸躍る実録に仕上がっている――と言いたいところだが、読んでみた印象ではやはり小説ほどおもしろいとは感じない。

 それは、一つには、ヴェルヌが想定している読者が当時のフランス人だからだろう。たとえば、ラ・ペルーズ探検隊は航海の途中でオーストラリアのボタニー湾に立ち寄った後、遭難して行方不明になる。フランスの読者はその概略ぐらいは知っていたのだろう。しかし私たちはそれを知らない。だから、ラ・ペルーズの手紙にすぐにつづいていきなり「行方不明になったラ・ペルーズ遠征隊」(81ページ)ということばが出てくるので読んでいてとまどう。また、途中でラ・ペルーズ探検隊がポルトガル領マデイラ群島の山の高さを測量するエピソードが出てくる。しかしその測量結果が「フランスにつたわることは決してなかった」(8ページ)とある。これがなぜかも、ラ・ペルーズ隊が後に遭難することがわかっていればすぐに理解できることなのだが、私たちにはそれがわからない。

 やっぱり実録では奇想天外な事件は起こらないということもある。でもヴェルヌの小説は奇想天外な事件や状況が息もつかせず連発するという型の小説ではない。実際にあり得るような事件がつづき、そのところどころに読者の考えもしなかった展開が起こるというのがヴェルヌの小説の構成である。たとえば、ノーチラス号は驚異だが、ノーチラス号がその長い航海で立ち寄る先は当時のヨーロッパ人がすでに知っていた場所が多い。『月世界旅行』でも、人間を砲弾に乗せて月へ打ち上げるということ自体は驚異だが、乗組員が見ている月の情景は地上から観測された事実に基づいている。潜水船や砲弾宇宙船も驚異だし、その旅で立ち寄る先も人類が見たことのない場所ばかりというような構成はヴェルヌはとらない。

 訪れたそれぞれの地方の自然や原住民の生活、在住ヨーロッパ人の生活などを詳しく描いていくという描きかたはヴェルヌの海洋冒険小説にも共通している。そのような航海者の記録を読んでヴェルヌは自分の小説の素材にしていたのだろう。描写はさすがに手慣れている。

 では、小説と何が違うかというと、やはり語り口だろう。ヴェルヌの小説では、ある一人の人物の視点で物語が進んでいくことも多いし、登場人物どうしの会話も多い。登場人物が何を考えているかがいつも伝わってくる。しかし、この実録では、ラ・ペルーズ探検隊の報告書やラ・ペルーズの手紙が主に引用されていて、会話のおもしろさがない。それぞれの登場人物の考えも、わかる範囲や十分に推測できる範囲でしか記していない。ヴェルヌの小説の登場人物の会話から感じられるユーモアもない。ヴェルヌの小説は、物語が緊迫し急に展開する「小説らしい」部分と、自然景観や都市の情景、これまでのヨーロッパ人による探検の成果などを延々と描写する部分が交互に出てくる。それが独特の緩急感を生んでいる。ところが、この実録はその「緩」の部分がずっとつづく感じなのだ。これが実録と小説の差であり、また、ヴェルヌの小説のどこがおもしろいのかを逆によく表しているようにも感じる。


 ラ・ペルーズが日本海を縦断したのは1787年5月末から6月上旬のことである。で、このころ(正確に換算してはいないが旧暦では4〜5月にあたるだろう)に日本で何があったかを年表で調べてみると「江戸・大坂など各地で打ちこわしがおこる」、「この年、諸国大飢饉(ききん)」(歴史学研究会『日本史年表』第四版)……あ、そうですか……。

 前年に将軍家治(いえはる)が亡くなり、それに伴う権力闘争で田沼意次(おきつぐ)が失脚、ラ・ペルーズが日本近海に向かっていたころに新たに家斉(いえなり)が将軍に就任し、松平定信が寛政の改革を始める。

 この家斉は1837年まで将軍職をつづける。この家斉一代のあいだに、ラ・ペルーズの国フランスではフランス大革命が勃発し、ブルボン王朝が倒れて共和制政府が成立し、ジャコバン派独裁から熱月(テルミドール)反動とジロンド派の支配を経てナポレオンのボナパルト王朝が開かれ、いったんボナパルト王朝が倒れてブルボン家が復活し、ふたたびボナパルト王朝が復活したが「百日天下」に終わり、三たびブルボン家の支配が始まり、そしてさらに1830年の七月革命でブルボン家にかわってオルレアン家の王政が始まる。これだけの時代の最高権力者の地位を一人で務めた家斉もたいしたものだが、フランス革命の展開のめまぐるしさもたいしたものである。天皇は光格天皇の時代で、1817年、仁孝天皇に譲位しているが、その後も院政を行っている。天皇と朝廷の権威の復活に力を傾注した天皇だった。この光格天皇が現在の天皇家の直接の祖である(光格天皇自身は閑院宮(かんいんのみや)家から天皇位を継いだ)。なお、ヴェルヌが生まれたのも日本で家斉が将軍職にあった時代である。

 一方で、ラ・ペルーズがサハリンに到達する前年には近藤重蔵が千島を探検しウルップ島まで到達している。間宮林蔵が樺太=サハリンが島であると証明するのはラ・ペルーズのサハリン到達からほぼ20年後の1808年である。1783年には大黒屋光太夫がカムチャツカに漂着し、ラ・ペルーズのサハリン滞在をはさんで1792年にロシアのラクスマンがその光太夫らを連れて日本に来航している。幕府もこのころから盛んに日本近海に姿を現すようになった欧米船への対応に追われるようになる。蝦夷地への支配は強化され、日本自身もしきりに北方に探検隊を派遣している。

 クック船長の太平洋探検はヨーロッパの探検史上一つの時代を画する事件だった。それにつづいてフランスを含む各国が探検隊や使節を東アジアにまで派遣するようになった。イギリスと北アメリカ北東部沿岸地帯(ニュー・イングランド)では産業革命が始まっている。それを日本の政治史や日本自体の探検史に重ね合わせてみると、ヨーロッパが、また太平洋・東アジア地域がどんな時代を迎えつつあったかが理解できる。

 それは日本が何度も激しい曲折を経験しながら近代へと進み始める時代であった。また、ヨーロッパにとっては、ヨーロッパ諸国の世界支配の本格化の始まる時代であり、産業と科学技術が社会をリードする時代の始まりであった。そのヨーロッパ諸国の世界支配の本格化と産業と科学技術の時代を背景に物語を書きつづけたのがヴェルヌ自身である。もしかすると、その時代の黎明期に大西洋から太平洋全域を探検した航海家ラ・ペルーズにヴェルヌは特別な愛着を感じていたのかも知れない。

― おわり ―

榊原晃三 訳、「気球の本 AROUND THE WORLD LIBRARY」NTT出版、1997年(訳)

原書:1879年発表「ラ・ペルーズとフランスの航海家たち」