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Review: 『大辻 清司 の写真 —— 出会いとコラボレーション』 @ 松濤美術館
嶋田 丈裕 (Takehiro Shimada; aka TFJ)
2007/06/23
松濤美術館
2007/6/5-7/16 (6/11,6/18,6/25,7/2,7/9休), 9:00-17:00

日本の戦後のコンセプチャルな写真のルーツの一人といえる写真家 大辻 清司 の回顧展だ。東京近辺で 大辻 の写真をまとめて観られる展覧会としては 1999年の『大辻 清司 —— 写真実験室』 (東京国立近代美術館フィルムセンター展示室, 1999; レビュー) 以来だ。 8年近く経ってかなりその時の記憶もあやふやになっていた。 当時はちゃんと観るのも初めてでよく知らないことも多く、 その文脈等を十分理解していたとは言えず、 後でもっとちゃんと観ておけば良かったと思うことも多かった。 久々にこの回顧展でまとめて観て、 彼の写真作品の全体像や多様な面白さがやっと判った気がした。

構成はほぼ年代順に、「I.オブジェと造形」「II.コラボレーションズ」「III.「もの」の存在と日常のあいだ」「IV. コンセプト・フォトへ」「V. 写真の自由へ」の5章立てだ。 中でも特に興味深く観ることができたのは、第III章と第IV章だった。 また、展覧会図録には、 1975年に『アサヒカメラ』誌に連載された「大辻清司写真実験室」全12回が 若干縮小されたサイズながら完全収録されているうえ、 その他、エッセーが29編も収録されている。 ISBNを付けて普通の書籍として流通させてもよいのではないかと思うほどの、 とてもお薦めの内容だ。

「I.オブジェと造形」は、戦後すぐの1940年代末から1950年代にかけての シュールな演出写真やオブジェを撮った写真や、 「氷紋」シリーズ (1956) や「航空機」シリーズ (1957) など 物体のテクスチャや幾何的形状のみを捉えた抽象的な写真がメインだ。 「氷紋」や「航空機」のような写真もけっこう好きではあるのだが、 後の写真と比較すると習作っぽく感じてしまうのも確か。 むしろ、黒いベール状のものをかぶった女性を 工場を背景にした河原やガスタンクの足元に立たせた「無言歌」シリーズ (1957) が、 シュールな演出と後の「首都高速」や「開発 (梓川)」に繋がる構図が競合し、興味深い。

「II.コラボレーションズ」は、1953年に大辻が参加した実験工房と、 同1953年に設立に参加した「グラフィック集団」という名前のデザイナ/アーティストの集団での活動に焦点を当てた1960年代前半までの展示だ。 実験工房のオブジェやパフォーマンスを撮った写真はよく観る機会があったが、 グラフィック集団というのは、この展覧会で初めて知った。 しかし、この章で最も興味を引いたのは、手作りカメラや模型の展示。 実験工房のオブジェの写真も、他の作家が作ったオブジェをただ撮るのではなく、 オブジェ制作から積極的に関わっていたよう。 手先が器用というか、立体造形の人というか、そういうセンスが写真にも 現れているのかもしれないと思わせるような所もあった。

「III.「もの」の存在と日常のあいだ」は、1960年代後半から1970年代にかけての写真だ。 この展覧会でも展示されている「開発 (梓川)」シリーズ (1968) は、 やはり、後に続くグラフィックスのような風景写真のマスターピースだ。 (自分はこのシリーズが最も好きなのだと再確認した。) 同様の「首都高速」シリーズが出ていなかったのは残念。 この展覧会で興味を引かれたのは、一見、それとは違う、 1968年に登場した『プロヴォーグ』 (中平 卓馬, 森山 大道, etc) に対する 大辻 からの回答とでもいう感じの写真だ。 近所の日常の風景を捉えた「隣り近所」シリーズ (1971) など、 それをあえて自作カメラで撮っている。 会場で投影されていた16ミリの短編映画も、 スナップ写真的な街中の風景を捉えているようで、 端正な構図で固定カメラで撮り続けることが、その主題を裏切っているような感もある。 日常を撮っているようでメタでコンセプチュアルな所が 大辻 らしくてとても面白かった。 また、図録に収録されたエッセーの一つ 「主義の時代は遠ざかって」(『カメラ毎日』1968年6年) は、 その時代の写真 (特にコンポラ写真を) を大辻がどう見ていたのかが伺え、 写真と併せて、とても面白く読むことができた。

「IV. コンセプト・フォトへ」は、 1975年に『アサヒカメラ』誌に連載された「大辻清司写真実験室」と、 それに続く1980年初頭にかけての一連の写真を撮った写真からなる展示だ。 「大辻清司写真実験室」は以前にも見たことがあるような気もするのだが、 そのときはあまり興味を持てなかったのか、ほとんど記憶に残っていない。 しかし、今回は、『プロヴォーグ』以降の私的で偶然性を重視した写真に対する 大辻からの回答のようにも読めるようで、興味深く感じられた。 もちろん、それだけではなく、 頭の中で検討していた写真についての考え方と 実際に撮る写真の間の違い、というテーマ設定自体が、メタで面白いというのもあるのだが。 そして、これは、写真を写真に撮るという作品にも繋がってる。 しかし、この展覧会では言及されていないが、 この1970年代末というのは、アメリカ (US) で Sherrie Levine や Louise Lawler、そして Richard Prince といったアーティストが、 写真を写真に撮ることにより 既成のイメージを流用 (appropriation) して社会的な制度を切出し可視化するような 作品を作り出した頃でもある。 そういったものと方向性が違うあたり、 大辻はあくまでモダニストというかフォルマリストだったのかなぁ、と思ったりした。

最後の「V. 写真の自由へ」は1980年代の写真だ。 斎藤 重義 の立体作品を撮った作品をはじめ、悪くはないが、 それまでの4章に比べて強い方向性はもはや感じられない。

このように、大辻の写真のコンセプチャルな面なだけでなく、 特に1960年代末以降のより私的な写真に対する彼なりのアプローチを 垣間見ることができたのが、とても興味深く感じられた展覧会だった。

ちなみに、この展覧会に合わせて、大辻の流れを汲むような戦後の写真を集めた 『《写真》見えるもの 見えないもの』 (東京藝術大学大学美術館陳列館, 2007; レビュー) も開催されていた。

[sources]