現代的な風俗を捉えた (良くも悪くもサブカルっぽい) 写真がほとんどなく、 コンセプチャルで画面の色、造形の面白さを楽しむような写真作品を中心とした写真展だ。 この手の写真展というと、例えば、 『サイト・グラフィックス——風景写真の変貌』 (川崎市民ミュージアム, 2005) (レビュー) のような風景写真を中心にしたものはよく見るように思うが、 この展覧会はコンセプチャルな肖像写真や、シュルレアリズム写真の流れを汲むようなものも多かった。 作家年代も、実験工房の 大辻 清司 のような戦後すぐの世代から、 現在まだ大学院生という世代まで。 大辻に始まる日本戦後の写真の一つの流れを観る感すらあった。 この手の写真が好きということもあるが、 写真というメディアに対する批判性 (それも社会的なものではなく、形式的なもの) も感じられ その点も興味深く見られた展覧会だった。 ちなみに、展覧会パンフレットの 佐藤 時啓 のテキストによると、 この展覧会の前身として、『写真で語る』 (東京藝術大学大学美術館陳列館, 1988) という展覧会があるとのこと。 さすがに、約20年前のこの展覧会は観ていないが。
観ていてやはり良いと思ったのは、 やはり、大辻 清司 や 柴田 敏雄 の写真。 この手のジャンルでは、日本では彼らの写真はマスターピースの感すらあるように思う。 柴田は『日本典型』の写真だったし、 大辻も『首都高速』 (関連レビュー) あたりも出ていればよかったのに、とも思った。 あと、大辻、柴田、とくれば、 どうして 畠山 直哉 (レビュー) は無いのだろう、とも思ったりした。
他に印象に残った作品としては、右曲りのカーブと左曲りのカーブとの道を捉えた写真を組み合わせた 中里 和人 の『R』シリーズ (2006)。 道の部分が対象になる構図を揃えることによって、左右の対比、一連の作品の対比が促され、 道や側壁、周囲の立木なのどテクスチャが際立って来るような面白さがあった。 1990年代に男湯と女湯を対称な構図で撮って組み合わせた 屋代 敏博 の『SENTO』シリーズ (レビュー) を ちょっと連想させられるところもあったが、 銭湯のような社会的文脈を感じさせる空間ではない所を撮影していることにより、 抽象度がぐっと増して、その面白さは、 むしろ、杉本 博司 の『海景』シリーズ (レビュー) に近いようにも感じた。 しかし、これも風景写真か。 やはり自分はこういう風景写真寄りのが好きなのだと思う。
風景写真以外で印象に残ったのは、 ほとんど真黒の画面にうっすらと顔が浮かびあがるポートレイトの 田口 和奈。 プリントの質感そのものに意味があって、 印刷による写真集にしても、 もしくはデジタル画像としてモニタやプロジェクタで投影しても 意味が無いと思わせるほどの、微妙な陰影が面白かった。 あと、内田 有里 の『Adiós』は、 女性の立裸体の粘土の塑像と生身を対比させたような写真で、 メディアそのものというよりアートの制度に対する批判も感じる作品だった。 Louise Lawler の写真作品 "She Wasn't Always A Statue" (1996-97) の ことを思い出させられたり。 展示の仕方も写真展示というより立体作品という感じだったが、 すっきりした感じに仕上がっていたのも良かった。
ちなみに、この展覧会と関連して、渋谷区立松濤美術館で 『大辻清司 の写真 出会いとコラボレーション』 という展覧会も開催されている (7/16まで)。