午後遅目の時間に家を出て、外神田は末広町へ。
現代アートの見本市アートフェア、
101TOKYO を覗いてきました。
あちこち画廊巡りするのはまだキツいので、ここでまとめて観てしまおうと。
新人チェックも甘くなってるしオルタナティヴな方をチェックしようというのが
表向きの理由ですが、
有楽町の方に比べて
空いてるだろうという期待が本音だったり。
しかし、そうでもありませんでした。やっぱり、まだバブルは続いてるのかなー。
イベント・スケジュールをチェックせずに行ったら、
Gao Brothers
のパフォーマンスがちょうど終った時でした。見逃し残念。
ブースの方も観ましたが、やっぱり、絵画が流行ってるんでしょうか。
アートフェアなので売り易い絵画が多くなりがちというのもあると思いますし、
そういうのは大手が出ている有楽町の方なのかもしれないのですが。
インスタレーションやコンセプチャルなプロジェクト作品の
プレゼンテーションようなものがほとんど見当たらなかったのは、残念。
絵画も、サブカルっぽい作品が主流で、
フォーマルにカッコよさを狙ったものは少なめという印象。
自分の美的関心とは違う方向にシーンは進んでるのかな……。
というわけで、これといった見付け物が無くて残念。ま、そんなものか。
(以上、談話室への発言として書かれたものの抜粋です。)
以下は、関連する談話室への発言の抜粋です。
アート床屋談義。
小山 登美夫 『現代アートビジネス』 (アスキー新書, 2008) の 栗原 裕一郎 による 書評 @ NBonline を読んで、この程度なら買って読むほどでもないかな、と思ったりしつつ。 その?B経由で、 「インタビュー 平川 典俊 × 岡部 あおみ」 (『Culture Power』 2006-06-14) という記事を知りました。これ、面白いです。 というか、このインタビュー記事で 2000年代のニューヨークにアートシーンについて書いていることが、 そのまま自分が最近の東京の現代アートシーンに感じていることのように読めて、 そうだよなあ、と。
4月にアートフェアー 101TOKYO へ行ったとき、 絵画ばかりでインスタレーションやコンセプチャルなプロジェクト作品の プレゼンテーションようなものがほとんど見当たらなかったと 嘆息したわけですが。 インタビューで 平川 がアートフェアーについて、 「要するに楽して儲けようというやつですよ。それで必然的にペインティングが流通した。」 「アートフェアーでもコンセプチュアルアートはほとんど出てこない。」 と言っていて、2000年代のアメリカでもそうなのか、と。 ということは、有楽町の方へ行っても変わらなかったのかな、と……。
あと、岡部 あおみ が 「壁にかけるものが主流な感じがしますね。 オークションでは、ラディカルな作家には、お金は流れにくい。 社会的なメッセージ性が強いとか、意味のあるものは売れにくい。 色彩にメリハリがあって、内容的に分かりやすい人物、花鳥風月的なモチーフというか、美しい日本画を出したら売れるかもしれないですね(笑)。」 と言っているわけですが、 それってもはやアートというよりキッチュじゃないかと。ラッセンというか。 先日、 『thinking on the borderland: art talk session vol.1』の 読書メモで呟いた 「ここ最近の中国バブルマネーに沸く東京の現代アート文脈のドローイングの少からずが 1980年代の日本のバブルにおけるラッセンのようなものなのではないのか」 というのは、まさにそういうことなんですけどね。 ラッセンとキッチュについては、日本最強のラッセン評論家 栗原 裕一郎 による 「アールビバン系がキッチュなのに、村上隆がアートなのはなぜ?」 (『おまえにハートブレイク☆オーバードライブ』 2008-05-23) をどうぞ。
アート床屋談義の補足というか続き。
小山 登美夫 『現代アートビジネス』 (アスキー新書, 2008) の 栗原 裕一郎 による 書評 @ NBonline で、 「村上がくだらないとしたら、それは、現代アートというシステム自体がくだらないということだ」 と書いてるわけですが、タイアップしてる曲がひしめいているヒットチャート上位、みたいな所だけ見て、 「そこに上がってくる曲がくだらないとしたら、ポピュラー音楽のシステムがつまらないからだ」 と言ってるのに近いなあ、と思ってしまいました。 この手の議論って、ポピュラー音楽の文脈でさんざんされてきたことですよね。 Momus 「日本の自販機から資本主義の本質を考える」 (『WIRED VISION』 2005-08-26) みたいに。
サイモン・フリス (Simon Frith) は『サウンドの力』 (1991; Sound Effects, 1983) の最後で、 「資本の力はロックの使い道をコントロールし続けるかもしれないしそうでないかもしれないが、その意味を決定することはできない。」と主張します。 同様に、アートフェアーやギャラリスト、キュレータからなる文化産業的な制度の力は 現代アートの使い道をコントロールし続けるかもしれないですが、 その意味を決定することはできない、と、僕は思っています。 それにしても、現代アートが、今まで隠然とさせてきた文化産業の論理を隠さなくなってきた (隠せなくなってきた?) のは、 それはそれで興味深いですが。