ヴァギナ (女性器) についての記憶やイメージについての女性へのインタヴューに基づく モノローグ芝居の公演を観てきた。 手話を用いたパフォーミング・アーツのカンパニー Sign Arts Project.AZN の企画・制作で、 3人の手話を使う女優と、3人の声のセリフを女優の6人からなる舞台作品だ。 演出の 平松 れい子 は「聞く演劇」をモットーとするカンパニー ミズノオト・シアターカンパニー (Ms. NO TONE Theater Company) を主催しているとのこと。 Sign Arts Project.AZN も ミズノオト・シアターカンパニー も観たことは無かったが、 「聞く演劇」の人が手話を使った演劇を演出するという、取り合わせの妙が気になって観に行った。 ここ2年余の間に Rimini Protokoll [レビュー] や Rabih Mroué [レビュー] による ドキュメンタリー的な舞台作品を観る機会が何回かあったので、 このインタビューに基づく作品も同様のものとしてのどう舞台作品化しているのか、 という興味もあった。 もちろん、作品の主題そのものへの興味も無いわけではなかったが。 ちなみに、作の Eve Ensler は、この作品の発表後、 女性に対する暴力の根絶を訴えるキャンペーン V-Day を始めている。
舞台はほぼむき出し。いくつか椅子やソファが並べられ、 ニットを巨大化したようなものがいくつか天井から吊るされ、床に広げられているという程度だった。 舞台はほとんどの場合、手話と声の2人で進行した。残る4人は多くの場合はソファに並んで座り、 巨大なニットを編むような仕草で待機していた。 手話でモノローグするのに合わせて声のセリフが添えられるのだが、 自分が手話を解しないせいか、ジェスチャーのみの演技の舞台に アフレコ的にセリフが付けられているように感じられた。 正直、途中から手話を使った舞台ということを、ほとんど忘れてしまった程だ。 演技する物とセリフを喋る物の分離は 劇団 ク・ナウカ のムーバーとスピーカーの二人一役などを連想させられる所もあったが、 もう少し有機的に結びついて、スピーカーの介入もあるという感じだろうか。 動きとセリフの間に食い違いを生じさせ互いを異化するような所は無かったけれども、 二人一役によって、自分探しのナルシスティックな独白のくどさを和らげていたような気もした。 これが一人芝居だったら、ちょっときつかったかもしれない。 音楽や音響についてはほどんど印象に残らず、「聞く演劇」と思われる要素を ほとんど感じられなかったのは、少々残念。
200人以上のインタビューに基づいているとのことだが、200人をほぼ平等に扱うのではなく、 むしろ、数人の際立って面白いエピソードを軸に構成されていた。 特に印象に残ったのは、 「洪水」の話や、ボーイフレンドによってヴァギナに良いイメージを持ったという話、 レズビアンのセックスワーカーの話、ボスニア内戦におけるレイプの話など。 しかし、ほどんどの人の回答は、匂いについての一言とか、その程度しか採用されなかったのではないかと思う。 インタビューの数で連想したのは、 ドキュメンタリー演劇で知られるドイツのカンパニー Rimini Protokoll の Karl Marx: Das Kapital, Erster Band [レビュー] がNHK『芸術劇場』で取り上げられた際に紹介された制作エピソードだ。 ドイツバージョンでは、最終的に舞台に上げたのは8人だが、 リサーチとして100人以上にインタビューとしたという。 The Vagina Monologues での200人以上というのも、 そのような人数なのだろう。
今まで観たドキュメンタリー的な演劇の中では、啓発的な要素を強く感じた舞台だった。 例えば、 Rabih Mroué: How Nancy Wished That Everything Was An April Fool's Joke [レビュー] による でのレバノン内戦での死者の話は、他の3つの立場によって常に相対化され、かなり即物的に感じられた。 しかし、The Vagina Monologues では、 その質問もあって、比喩を多用したイメージ語りが中心。 ボスニア内戦におけるレイプの話ですらそうだ。 そのイメージの肯定/否定の度合いや自己陶酔の度合にはばらつきがあったけれども。 途中に、ヴァギナ・ワークショップ参加の体験談の話があったせいか、 具体的にどのようなイメージを持たれているのか、という問題を扱っているというより、 この演劇自体がそのワークショップの拡大版というか、 自分 (のヴァギナ) 探しの啓発という印象すら受けた。 そしてこの舞台の自己啓発ぽさというのは、アメリカ的なものなのかもしれない、 と思うところもあった。
そういう意味では、女性の置かれている状況に理解が深まった、という 読後感 (というか観後感) のあるような舞台作品ではなかった。 男一人で女性向け自己発見のワークショップに来てしまったような 場違い感というか居心地の悪さを感じることが全く無かったわけではない。 しかし、それほどの疎外感を感じることなく最後まで観るとこが出来たのは、 手話と声の二人一役的な手法のおかげかもしれない、と、思う所もあった。