TFJ's Sidewalk Cafe > Dustbin Of History >
Review: Anne Teresa De Keersmaeker / Jérôme Bel / Ictus: 3Abschied @ 彩の国さいたま芸術劇場 (ダンス)
嶋田 丈裕 (Takehiro Shimada; aka TFJ)
2010/11/06
彩の国さいたま芸術劇場
2010/11/06. 15:00-17:00.
Premier: Le Théâtre de la Monnaie, 2010-02-16.
Concept: Anne Teresa De Keersmaeker & Jérôme Bel.
Music: Gustav Mahler: Der Abschied / Das Lied von der Erde. Transcription: Arnold Schoenberg.
Dance: Anne Teresa De Keersmaeker.
Conductor: Georges-Elie Octors.
Sara Fulgoni (mezzo); Jean-Luc Fafchamps (piano); Ictus: George van Dam (violin I), Igor Semenoff (violin II), Aurelie Entringer (viola), François Deppe (violincello), Gery Cambier (contrabass), Michael Schmid (flute), Kristien Ceuppens (oboe), Dirk Descheemaeker (clarinet), 児玉 光生 [Mitsuo Kodama] (fagot), Kristina Mascher (horn), Gerrit Nulens (timpani, percussion), Nico Declerck (harmonium, celesta).

ダンス・カンパニー Rosas を主宰する Anne Teresa De Keersmaeker 自身が出演する新作は、 Gustav Mahler の声楽を伴う交響曲 Das Lied von der Erde (1908) の 第六 (最終) 楽章 Der Abschied を用いたもの。 といっても、巨大オーケストラによるオリジナルではなく Arnold Schoenberg 編曲による室内楽版を用いている。 さらに、ダンスを見せるというより ダンスのクリエイションの試行錯誤の現場を見せるメタ作品的な枠組みを使い、 ロマン派音楽の辿り着いた最終形態の一つとも言えるこの曲を ロマンチックなままダンス作品にすることはできない、ということを示すかのような作品だった。

舞台の上には特に踊るためのスペースは設けられておらず、 まるで室内楽の公演かのように、しかし、リハーサルのような普段着姿で演奏家は配置に付いた。 そして、上手に置かれた操作テーブルで Keesmaeker が 交響曲版の Der Abschied をかけ、 舞台上のミュージシャンと観客が共にそのCDに耳を傾ける。そんな形でこの作品は始まった。 続いて、この曲とCDに収録された演奏にまつわる話 —— 詩の内容、作曲家、歌手それぞれについての死の受容の話を Keersmaeker は語り始めた。 詩の内容をちゃんと知って欲しいと、観客に詩を読む時間を取らせる程。 さらに、この曲を使ったダンスを創作しようと考えて以来の話、 例えば交響曲版の生演奏を使うのは経済的に不可能なため室内楽版にしたことや、 自分で歌いたいと歌の先生を探したけれども無理だと言われたこと、 Daniel Barenboim に話を持ちかけたら反対されたこと、などを語った。

そんな長めの前口上の後、Ictus の演奏と Keersmaeker のダンスが始った。 Keersmaeker の動きは、死の受容という主題に基づくものというよりむしろ演奏家や指揮者の動きに着想したもので、 アンサンブルの間を動き回り時に演奏家や指揮者に触れるように寄り添い、 ときに奥に遠く離れて動き回る様子は、シリアスというよりユーモラスに感じられる時すらあった。 アンサンブルやその動きの構造を意識したダンスは Keersmaeker らしいとも思ったけれど、 これでは前口上で強調していた死そしてそれを受容することの表現になっていないのでは、と、 判然としない気分になった。

Keersmaeker が上手袖でうずくまったまま曲が終ると、客席下手から Bel がステージに上がってきて、 「ミュージシャンに触れたりする所など良いけど、主題をちゃんと表現できていないね」のような内容のダメ出しをした。 そのダメ出しの内容が、観ていて自分が感じていたことにとても近いものだったので、ウケてしまった。 そして、なるほどそういう作品なのかと腑に落ちただけでなく、 それ以降の舞台上がとても身近なものに感じられるようになった。

続いて、Bel が、F. J. Haydn の Synphony No. 45 の一人一人演奏を止めて立ち去って行くというやりかたをやってみることを提案。 告別交響曲と呼ばれていることからの連想に過ぎないのだけどと Bel は言うのだが、 その言葉を聞いた時点で Keersmaeker が前口上で述べていた死の受容という主題にどう取り組むか、 というシリアスさから遠く離れてしまったように感じた。 実際、最初の演奏者が立ち去るバージョンはそれなりにシリアスに感じる所もあったけれども、 続いて行われた演奏者が席で死を演じて崩れ落ちるバージョンはむしろ笑いを誘うようなものだった。

そして、最後、3つめの Der Abschied の解釈は、 ピアノ伴奏のみで Keersmaeker が一人がらんとした舞台を歌い踊るというもの。 黒いジャージのパーカーを被って歌い踊る姿は、 確かに、3つの中で最もシリアスに死を思わせるものだったが、 踊りながら歌う Keersmaeker の歌は不安定で classical な歌唱からは程遠い。 歌いながら踊る Keersmaeker といえば、 Once での “We Shall Overcome” [レビュー] だが、 そこでの凛々しい歌とダンスとは対称的だった。 そして、Keersmaeker のこの歌唱は、歌の先生に無理だと言われたという前口上での話に符合していた。 同様に、この作品全体が Barenboim にダンスにすることは無理だと言われていたことに符合するようにも感じられた。

公演後のトークも聞いたのだが、 作品中にも作品解説や演出意図のようなセリフがあったこともあり、まるで作品の自然な延長のよう。 作品中では室内楽版にしたのは経済的な理由と言っていたが、 Mahlar の交響曲版は過剰に感じ過ぎて分析的な Schoenberg の室内楽版の方が好きとも言っていた。 ロマン派が嫌いなわけではない、自分はとてもロマンチック、と言っていたが、その一方で、 舞台上の誰も座っていない椅子の意味を問われて「椅子は椅子」ととても即物的な応えをしたり。 そんなトークのニュアンスから作品中のセリフには微妙に虚実が混じっていそうという印象も受けた。 ただ、ロマン主義にどう向き合うかがこの作品の主要なテーマになっていることは強く感じられた。

トークの中で最も印象に残ったキーワードが「脱崇高化」。 Mahler の曲の崇高に感じさせるようなような所 (ロマン派の特徴でもあるが) を「脱崇高化」するというだけでなく、 Keersmaeker をも「脱崇高化」することを意図していたようだ。 たしかに、Bel にダメ出しされた Keersmaeker を見て身近に感じたりもした。 しかし、トークでそんな事が言われている端から 「感動しました」「素敵でした」のようなコメントを質問の代わりにする典型的なまでにロマン主義的な観客が続出しているのを見て、 この作品での「脱崇高化」の企ては完全に失敗しているな、と苦笑してしまった。

Webern の編曲に倣って J. S. Bach の曲を編曲するようにダンスを付けているかのような作品 Zeitung [レビュー] を観たばかりということもあって、 最終的には Schoenberg の編曲に倣って Mahler の曲を編曲するようにダンスを付けるのだろうか、 と予想した所もあった。 最後のピアノとダンスだけのミニマルな編成は、 交響曲の室内楽化をさらに押し進めて結果なのだろうかと考えたりもした。 しかし、Keersmaeker の不安定な歌はそういう形式的な所から外れるようにも思う。 いや、巨大な交響楽団どころか室内楽団すら排し、 classical な歌唱法で本格的に歌うのではなく普通に口ずさみ、 巨大な交響楽団や歌唱法が創り出す崇高さのオーラを剥ぎ取とってこそ、 Keersmaeker がこの歌に感じていていた美しさが表現できる、と考えていたのかもしれない。 むしろ、前口上の中で Keersmaeker が述べていた Schoenberg 編曲の意図 —— 生演奏でしか音楽を聴くことが出来なかった時代、 小編成の室内楽に編曲するということは、広く演奏され聴かれるようにするという政治的な意図があったということ —— に、この 3Abschied は倣おうとしていたのかもしれない。 これを「脱崇高化」の最初の一歩と看做して。 (下線部 は2010-11-08追記。)