本来の再生方法とは異なるレコードの演奏で1970年代末から知られる Christian Marclay の回顧展です。 自分が Christian Marclay を知ったのは1980年代にやはりそんな jazz/improv の音楽の文脈でしたが、 合わせてレコードやジャケットを物としてコラージュした美術作品も知る機会はありました。 そんな1980年代の音、ビデオ、美術作品をグループ展の中で観る機会は度々ありましたが、これだけまとまった形で観るのは初めて。 複数のレコードをはぎ合わせた Recycle Records (1979-1986) にしても、 写真や単品で観る機会はこれまでにもありましたが、 はぎ合わせのパターンの複雑さやそのバリエーション、複雑な曲線パターンを切り出してはぎ合わせる丁寧さに気づかされたりもしました。
今回の展覧会では、むしろ、2000年代に入ってからのビデオ作品の良さを実感しました。 Marclay のビデオ作品の良さに気付いたのは『ヨコハマトリエンナーレ2011 世界はどこまで知ることができるか?』で観た The Clock (2010) で [鑑賞メモ]。 この展覧会でも、映画中で登場人物が演奏する音楽や歌う歌、立てる物音にまつわる場面を4チャネルビデオ作品にした Vidoe Quartet (2002) が展示されていました。 映画中の場面の音を継ぎ合わせて Marclay 流の音楽を作っているような感もあり、 コンセプチャルな The Clock よりもとっつき易く、その原点を観るようでした。 その一方で、音楽に題を採っていたせいか、日本や中国の映画も含まれているものの、やはり欧米の映画が中心で、 東アジア以外のアジアや中東、アフリカと言ったエリアの外され具合にも気付かされてしまいました。
マンガで使われているオノマトペの文字をコラージュした作品も、オーソドックスなコラージュや巻物や掛軸にした作品にはあまりピンとこなかったのですが、 多くの文字を四方の壁に動かしつつ投影する Surround Sounds (2014-2015) では、 視覚的な強弱やうるささを実感することができました。 音楽レビュー文のコラージュを展示の都度に翻訳して展示する Mixed Reviews (2021) も、 会場の最後に展示されていた手話の動画のバージョンが、手話が理解できないだけに抽象的なダンスのように感じられました。
1960年代からハイレッド・センター、そして渡米後に Fluxus などの芸術運動に参加し、 1970年代後半以降は立体作品中にビデオ作品を組み込む「ビデオ彫刻」の作品で知られる 久保田 成子 (1937-2015) の回顧展です。 Fluxus の展覧会 [鑑賞メモ] やコレクション展中での「ビデオ彫刻」など、観る機会はそれなりにありましたが、 回顧展という形でまとめて観たのは初めてです。 Fluxus 時代や、その後の David Behrman / Sonic Arts Union 界隈の資料も、 時代が感じられて感慨深いものがありました。
しかし、白 南準 [Nam June Paik] のパートナーとなって以降、 1970年代後半のビデオ彫刻以降が良かったでしょうか。 今でこそビデオインスタレーションとして一般的になっていますし、 小型カメラや液晶ディスプレイ、プロジェクタなどの扱いやすい装置が多くありますが、 ブラウン管の物としての大きさをどう扱うかの試行錯誤が面白く感じられました。 例えば、下向きに吊るしてその反射を観るような作品は、プロジェクタでは意味ないですし、 薄く軽い液晶ディスプレイを使って雰囲気が出ないと思われる、 体積と重量のあるブラウン管らしい展示方法に感じられました。
アメリカ生まれで日本を拠点に活動する 寒川 裕人 [Eugene Samukawa] によるアーティストスタジオ Eugene Studio の2010年代以降の作品からなる個展です。 グループ展などで観たことはありますが、最近の現代アートをほとんど追えていないので、まとめて観る良い機会だったでしょうか。 といっても、2000年代以降の現代アートらしく、コンセプト重視で絵画、立体、写真、ビデオ、大規模インスタレーション、写真、ビデオなど様々なスタイルの作品を作っています。 確かに、四方をガラス張りし底に白砂を敷いた広い空間に水を張った「海庭」など力技の美しさでした。 しかし、まるでグループ展を観ているような多様な作風で、こだわりのポイントの捉え所なさが、漠とした印象となってしまった一因かもしれません。