久々の読書メモ、って一ヶ月ほど前に読んだものですが。 橘木 俊詔 『家計からみる日本経済』 (岩波新書, 新赤版873, ISBN4-00-430873-9, 2004) は、2000年頃から論壇を賑わせた不平等社会化にかかわる議論に先駆けて 日本における経済格差拡大を指摘した 『日本の経済格差』 (岩波新書, 新赤版590, ISBN4-00-430590-X, 1998) (この本も大変お薦め) の著者による新書新刊です。 家計という面から日本経済を分析し政策提言まで含んだ内容になっています。 第五章に書かれたワークシェアリングを含む政策提言の方は、ちょっと違うんじゃないかなぁ、と思うところもありますが。 それでも、現状の分析はかなりショッキングで示唆に富む内容です。 フリーターまで含めて見ると日本の最低賃金は国際比較でも下位にあること、 福祉は企業・家庭頼りで年金・失業・医療・介護などの社会保障が世界最低水準だということが、 データに基づいて指摘されています。 特に、日本における最低賃金についてはかなりショッキングな内容で、以下のように指摘されています (p.124)。
表4-3 (引用者註:ここでは省略) でわかることは、わが国の最低賃金は、OECD諸国の中でそのレベルに関して、相当の下位にある点である。 最低賃金額については九か国の中で下から三番目、最低賃金が平均賃金との比較でどの程度に定められているかに関しては最下位、最低賃金以下にいる労働者の比率では上から二番目である。 三つの基準において、相当な劣位であることが明白だ。
最低賃金額では最高レベルのベルギーの約半額、平均賃金との相対比較では最高レベルを誇るフランスの約五四%、最低賃金以下の労働者の比率は一〇%も存在している。 日本では最低賃金額の設定が相当抑えられており、むしろ低すぎるといってよい。 しかも、低すぎるにもかかわらず、最低賃金以下の賃金しか受けていない人が約一割も存在する。 この一割の数字は、そもそも最低賃金法が規則通り機能していないことを意味しており、最低賃金法はザル法といわれても仕方ない。
もう一つ衝撃的な数字は表4-4 (引用者註:ここでは省略) によって示される。 これは生活保護制度による支給額と、最低賃金法から計算される月額の賃金額とを比較したものである。 この表によると一九八〇年あたりから最低賃金額の方が、生活保護制度による支給額よりも低くなっていることがわかる。
この本の第五章「社会保障制度改革と家計の対応策」で主張されている政策提言については違和感の感じるものもあります。 しかし、この最低賃金の問題を受けての「最低賃金額の引き上げを図ることは緊急を要する課題である」(p.127) いう主張は、かなり切実なものだと僕は感じます。
先日、TV番組 『NHKスペシャル』 (NHK総合, 土日21:00〜) で 『21世紀 日本の課題 フリーター417万人の衝撃』 (3/7放送) という特集を組んでいました。 フリーターの問題はそれなりに本でフォローしてきていることもあるのか、 それほど目新しい内容は無かったという感想を持ったのですが。 『家計からみる日本経済』を読んだ後にこの番組を観たせいか、 番組が最低賃金の問題に触れなかったことに大きな違和感を感じたました。 「フリーターでは食べていけない」というようなエピソードがよく出てきたわけですが、 フリーターでもある程度の生活ができるような最低賃金であればここまで社会問題にならないだろうに、 とツッコミ入れながら観ていました。 そんな違和感を持った人は僕以外にもいたようで、 『プレジデント』誌のウェブサイトの 編集者コラム「aiai今週の喜℃"愛"楽」 第73回「フリーター問題の核心」 で、このTV番組に触れた後、 「私自身、かねてよりフリーターについては、社会現象として関心があったが、フリーター問題の核心は賃金問題であるということに気づいたのは最近のことである」と言っています (というか、この記事を読んで、やっぱり『家計からみる日本経済』も読書メモしておこうかと思ったわけですが)。 コラム記事「フリーター問題の核心」の最後に、 「よりよい未来にしてくための処方箋」として番組で挙げられた 「より高い賃金を払うような仕事を創出するための規制緩和」と 「これ以上フリーターを増やさないよう、経営、労働、政治を含めて考えるべき」 が紹介されています。 しかし、『家計からみる日本経済』 で示される日本における最低賃金の現状が本当であるならば、処方箋はそんなことではなく、 フリーター問題を賃金問題だと捉えて「最低賃金額の引き上げを図ること」に取り組むことではないのか、と僕は思ってしまいます。 このコラムの筆者がフリーター問題が賃金問題だと気付いたきっかけという エリック・シュローサー 『巨大化するアメリカの地下経済』 (草思社, ISBN4-7942-1277-1, 2004) も、未読ですが興味深そうですね。ふむふむ。
ところで、「フリーター問題の核心」というコラム記事に気付いたのは、 実は、仲俣 暁生 のはてなダイアリー 『陸這記』の 「フリーランス、フリーター、プータロー」という記事ででした。 小説については僕は詳しくないので 加藤 典洋 に対する批判の是非とかは判らないのですが。 『陸這記』の基調の一つとも言える 日本国内だけの文脈ではなく世界の文脈の中に日本のサブカルチャーの歴史を位置付ける話 (たとえば、「パンク/オタク/ハッカーの共時性」とか。 最近では「大塚英志には語れなかったもう一つの「80年代」」や 「「脱領域」「ニューウェーヴ」という気分」とか) に今後どう接続していくつもりなのかなぁ、と思うところがあります。 世界の文脈の中に日本のサブカルチャーの歴史を位置付けようという話はとても興味深いと思っているのですが、 ただ、『陸這記』での論調はあまりにも共時性に拘泥り過ぎているようにも僕は思っています。
僕は、欧米と日本の間である程度のタイムラグを想定した方が良いと考えています。 フリーターの話にも関係することですが、去年8月、談話室への読書メモ (過去の発言を発掘しておきました) でとりあげた2冊、 三浦 展 『「家族」と「幸福」の戦後史』 (講談社現代新書, 1482, ISBN4-06-149482-1, 1999) と 宮本 みち子 『若者が《社会的弱者》に転落する』 (洋泉社 新書y, Y720, ISBN4-89691-678-6, 2002) が示唆することは、 フリーターやパラサイトシングルという問題も含め消費、産業、就業という点から見たライフスタイルの変化がアメリカより20〜30年遅れで進行しているということだと思います。 郊外文化のようなものを含め経済と文化との関係を見た場合、 同時代的というより20年前の英米での状況の方が比較対象として適切な場合が多いのではないかと、僕は考えています。 以前に、『陸這記』の「パンク/オタク/ハッカーの共時性」に対して、 この談話室で否定的なコメント (過去の発言を発掘しておきました) を書いたわけですが、 単に「インディーズはポストパンクだけじゃない」ということだけでなくこのタイムラグの問題意識も、 それを書いたとき頭の中にあったように思います。
話は逸れますが。 レーガノミックス/サッチャリズムが20年遅れて今やっと日本に来ている、 日本にとってのイラク戦争はイギリスにおけるフォークランド戦争に相当するものなのかもしれない、と思うときがあります。 そして、そういう20年後の今こそ、 かっては単なるネオアコ青春歌として日本では消費されてしまった Aztec Camera, "Walk Out To Winter" を 就職難・失業に打ちひしがれる若者への応援歌として再評価し直し、 かつては仕事に着くことをモラトリアム的に拒否している若者の歌と日本では勘違いされて受容された感もある The Smiths, "Still Ill" を 明日の仕事のあてもなく失業保険で食っている若者の焦燥感を歌った歌として再評価し直す時ではないか、 2000s の日本で 1980s の UK New Wave を再評価する意義の少なくとも一つはそこにあるのではないか、と僕は思っています。 あまりそういう視点での再評価が行なわれていないように思われるのが、僕としては不思議なのですが……。
「ごくたまーに放つ社会評論ちっく(笑)なコメント」ですか(笑)。うーん。 ごくたまーに、ですみません。生産的だと読めるレベルになっていればいいのですが。 って、ここでは社会評論ちっくなことをするつもりはあまりないんですけど(笑)。 したくても、そんなにネタも無いし。あくまで、自分の趣味をとりまく表象文化関連の雑談というか。 今回の話題も文化の下部構造に関る話という意味で取り上げたんですけどね……。 しかし、ここ1年くらい以前にも増してアクセス数がジリ貧になっていたこともあって、増田さんの所からリンクでアクセス数倍増。ひー。 「儀礼的無関心対象サイト」を名乗るつもりは全くないですが (笑)、 いつものように常連読者にひっそり読まれるだけだろうと思っていたところもあったので、 リンクされてちょっとドキドキです。 と、まずは、増田さんのところから来てここを初めて読む人への逃げ口上を。
で、「コピーレフト的「運動」の着地点」の 話とどう繋げられるんでしょうか……。うーむ、今はアイデアが浮かばないのでそれ以上はコメントできません……。 しかし、そこで紹介している「無事の記」の(2004・3・10)は読んでいて興味深かったです。 岩木 秀夫 『ゆとり教育から個性浪費社会へ』 (ちくま新書, ISBN4-480-06151-7, 2004) はちょっと気になっていましたが未読でした。さっそく、今日の仕事帰りに買ってみました。 まだ、第一章の世紀末学力論争の所までしか読んでいませんが。そこにこんな既述があります (pp.29-30)。
わが国でサッチャー、レーガンと同時期に首相になった中曾根康弘は、彼らの新自由主義思想の影響のものに行財政改革をすすめ、さらに教育改革をめざして臨時教育審議会(一九八四〜八七年)を設置しました。 それが結果的に、現在にいたるまでの「ゆとり改革」のひき金となりました。 そのことを考えれば、日本の教育改革は、約二〇年の周回おくれで、サッチャー、レーガンの流儀にもどったともいえます。 しかし、九〇年代以降の「ゆとり改革」と、第二グループの議論に集約されているようなその基本思想は、まったく無意味だったというわけではありません。
二〇年間のまわり道をしたというその事実は、中曾根の臨教審がサッチャー、レーガンなみの新自由主義から出発しながら、現実には能力主義的教育改革から大きくそれていかざるをえなかったという逆説をさし示し、その解明をせまっているのです。 そして、第二グループ(ゆとり改革派)の議論には、それを解明するための鍵が隠されています。 第三・四章はそれを解説する一つのこころみです。
教育制度改革の文脈でも英米から20年遅れが指摘されているのですね。へー。 この本では、新自由主義的な産業競争力再建のための能力主義教育の徹底化ではなく「ゆとり改革」に回り道するようになった理由に、英米からの貿易黒字削減の圧力を挙げています。
一方、 宮本 みち子 『若者が《社会的弱者》に転落する』 (洋泉社 新書y, Y720, ISBN4-89691-678-6, 2002) で、 フリーターやパラサイトシングルのような若者の社会的地位の転換が生じたという認識は欧米では八〇年代に生じたと指摘しています。 そしてその認識が20年遅れた理由として、日本の若年労働市場が少し前まで欧米諸国ほど悪くなかったことを挙げています。 この理由は教育制度改革の20年の遅れとは別のものです。
確かに問題ごとにそれ固有の事情はあるとは思いますし、 教育制度改革の20年遅れと、若者の社会的地位の転換の20年遅れは、 単なる偶然の一致かもしれません。 しかし、三浦 展 『「家族」と「幸福」の戦後史』 (講談社現代新書, 1482, ISBN4-06-149482-1, 1999) で指摘されている 消費、産業、就業という点から見た戦後のライフスタイルの変化がアメリカより20〜30年遅れで進行していることの延長として、 現在の教育改革やフリーター、パラサイトシングルの現象も捉えられるのではないかと、僕は感じています。
先日の発言で触れた 岩木 秀夫 『ゆとり教育から個性浪費社会へ』 (ちくま新書, ISBN4-480-06151-7, 2004) を読了。 第4章までは欧米と比較しての日本戦後教育政策史のまとめという感じの内容です。 自分にとって疎い分野ですが、だいたいの歴史的経緯が掴めたような気がしました。 というか、現在の新自由主義的な教育政策に至る前の日本の教育制度と欧米の教育制度はかなり異なるので、 単純に「欧米の20年遅れ」という話ではないということが判りました。
最後の第5章「脱近代能力主義 (ポストモダン・メトリクラシー) の近未来」は、 やはり米国での事例・議論を基に今後の社会について予想を描いていてこの本の中で最も興味深く思われた一方、 特にこれといった提案がなされているわけでもなくかなり暗澹たる気分になる内容でした。 特に興味深く思われたのは、 ダニエル・ピンク 『フリーエージェント社会の到来』 (ダイヤモンド社, 2002) の描くフリーエージェント社会と、 リチャード・セネット 『それでも新資本主義についていくか』 (ダイヤモンド社, 1999) でのそれに対する批判に相当する議論の紹介です。
フリーエージェントはフリーランサー (法律上は独立契約者と定義される)、臨時社員 (人材派遣会社を通じて働く)、ミニ起業家からなり、 アメリカの労働者の約 25% がフリーエ−ジェントになっているといいます。 特に増えているのが臨時社員で、正社員より良い待遇の者もいますが、 ほとんどが劣悪な条件で働く「テンプスレーブ (臨時社員奴隷)」であり、 正社員になりたいと考えている者が 63% に達しているという調査もあるそうです。 しかし、ピンクはフリーエージェントの生き方を礼讃しており、 「テンプスレーブ」問題に基づく批判に対しては、ほとんどはテンプスレーブではなく、 また、テンプスレーブの劣悪な条件は臨時社員だからではなく技能・交渉力の欠如のせいだと反論しているそうです (『ゆとり教育から個性浪費社会へ』 pp.182-183)。
しかし、フリーエージェント社会への批判は 「テンプスレーブ」問題のような賃金問題に関わるものだけではありません。 セネットが『それでも新資本主義についていくか』で描いているのは、 「テンプスレーブ」のような負け組ではなくむしろ勝ち組の側なのだそうです。 そして、その本では、 新資本主義、新自由主義などと呼ばれる社会での働き方では、 親世代がその親世代から受け継いだ目的意識、決意、忠誠心、献身などの伝統的な人格的美徳を子世代に受けわたすことを困難しているということを指摘しているそうです (『ゆとり教育から個性浪費社会へ』 pp.184-186)。
『ゆとり教育から個性浪費社会へ』での紹介だけでは、 新自由主義的な働き方と子世代への人格的美徳の継承困難さの因果関係がよくわからないので、 その主張の妥当性は保留しますが。 先日の読書メモで「フリーター問題の核心は賃金問題である」ということを書いたわけですが。 確かに賃金問題が最も重要な問題だとは本を読み終わった今でも思っていますが、 それだけでは済まされない問題への想像力を欠いていたかもしれない、とちょっと反省。
このフリーエージェント社会と並んで自我同一的な人格を維持するのを困難にしている原因として、 サ−ビス業の合理化と生活への浸透としてのマクドナルド化 (ジョ−ジ・リッツァ 『マクドナルド化する社会』, 早稲田大学出版部, 1995) と、 感情労働 (A. R. ホックシールド 『管理される心』, 世界思想社, 2000) も岩本は挙げています。 そうして、このような状況を受けて、われわれの社会は お互いの人格より生理・心理的個性を珍重する個性浪費社会 (イディオシンクラシ−社会) に突入している、と岩本は主張しています (p.205)。 さらに、個性浪費社会では人格をじぶんで管理する能力が失われるため、 法律家や心理家のようなサ−ビス業・専門職が発達し、 住民基本台帳ネットワ−クや監視カメラなどの国家の司法的同一性技術が発達する、とも 指摘しています (p.208)。 ここらの議論は、フリ−タ−問題と関連して考えたことが無かったので、 正直に言って追いきれていない (大風呂敷広げすぎに感じられる) ところもあるのですが。
と、『ゆとり教育から個性浪費社会へ』を読んでいて、 「欧米の20年遅れ」とか「フリーター問題は賃金問題」というのはいささか話を矮小化し過ぎたと思うところもあったし、 やっぱり他にもいくつかイシュ−がありそうと思ったので、備忘録的なメモを。 特にセネットの議論 (って元の本は読んでませんが) は、 『陸這記』の 「「フリー」であるとはどういうことか」 の議論ともちょっと関係するかもしれない、とも思いましたし。 紹介されている本を必ずしもいますぐというわけにはいかなくてもフォロ−していこうかなぁ、と思う本ではありました。 こういう話題に興味があるならそんな本ではなくこの本を読めというのがありましたら、 すぐに読んでレスポンスするのは無理かもしれませんが教えてもらえるとありがたいです