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スポーツ文化について

スポーツ文化に関する 嶋田 TFJ 丈裕 の発言の抜粋です。 順番は新しいものほど上になっています。 リンク先のURLの維持更新は行っていませんので、 古い発言ではリンク先が失われている場合もありますが、ご了承ください。 コメントは談話室へお願いします。

- 弦巻, 東京, Wed Dec 25 23:44:02 2002

教科書の話、といえば、まだ、面白そうな章をつまみ食いしている状態ですが。 井上 俊 + 亀山 佳明 (編) 『スポーツ文化を学ぶ人のために』 (世界思想社, ISBN4-7907-0771-7, 1999) を読んでいます。 スポーツ文化について、 あまりナイーヴな話を続けているのもアレなので、読み始めたんですが。 紹介している研究の網羅性や位置付けの妥当性など判断はしかねますので、 その点での良し悪しの判断は保留しますが。 文化論のようなものを体系的に学んだことがなかったので、 どんなイシューがあって、どういうアプローチが取り得るのか、 そのリストアップと整理という点で、とても参考になっています。

で、今のところ、個人的に、もっとも参考になったのは、 第16章の「理論的アプローチ」。 スポーツ文化に限らず、一般に文化について論じる際の アプローチの取り方についての見取り図を得たようで、 とても有り難かったです。 ちなみに、この章では、理論的アプローチを 「機能主義的アプローチ」 「マルクス主義的アプローチ」 「カルチュアル・スタディーズ」 「歴史主義的アプローチ」 の4つに分類してます。この章の説明を読んでいて、 文化について論じた本で今の自分が面白く感じているのは、 どうやら「歴史主義的なアプローチ」をしている本らしい、ということが判りました。 それも、単純な近代化論ではなくて、 「フランス現代思想の影響を受けた感性の社会史」 「CSの考え方に影響を受けた伝統の発明と翻訳の歴史的な文化構成主義」 に近いあたりなのかしらん、と。

それから、具体的な部分はなかなかうまくはいかないですが、 「スポーツ」を「ポピュラー音楽」もしくは「ロック」に置き換えて読んでも 通じるところがけっこうあって、 同じようなイシューを抱えているんだなぁ、とつくづく思いました。 目次の言葉を置き換えて、 そのままポピュラー音楽の入門書の目次が作れそう、とか思ったりしてしまいました。 序論 文化としてのポピュラー音楽 // I ポピュラー音楽文化のとらえ方 / 第1章 現代のポピュラー音楽の社会性 / 第2章 ナショナリズムとポピュラー音楽 / 第3章 ポピュラー音楽とメディア / 第4章 ポピュラー音楽と暴力 / 第5章 ポピュラー音楽する身体とドラッグ // II 現代のポピュラー音楽文化 / 第6章 ポピュラー音楽とジェンダー / 第7章 ポピュラー音楽のヒロイン / 第8章 ポピュラー音楽ファンの文化 / 第9章 ポピュラー音楽と賭け / 第10章 音楽教育とポピュラー音楽 // III ポピュラー音楽と現代社会 / 第11章 ポピュラー音楽のグローバリゼーション / 第12章 文化の中のポピュラー音楽 / 第13章 ポストモダンのポピュラー音楽 / 第14章 ポピュラー音楽と環境・開発 / 第15章 ポピュラー音楽と福祉社会 // IV ポピュラー音楽研究の方法と成果 / 第16章 理論的アプローチ / 第17章 実証的アプローチ // なんて感じで。あー、こういうポピュラー音楽の入門書あったら読みたいかも。 「ポピュラー音楽と賭け」「ポピュラー音楽と環境・開発」「ポピュラー音楽と福祉社会」 あたりは、ちょっと無理があるかしらん。 こうやって置き換えてみると、うまく置きかえられないようなところに、 スポーツとポピュラー音楽の社会の中で占める位置の違いが現れているようで、 面白いですね。ま、単にイシューとして表面化してないかもしれないですが。 「スポーツ文化」を「ポピュラー音楽」じゃなくて 例えば「建築文化」に置き換えると、「建築文化と賭け」は厳しいけど、 「建築文化と環境・開発」「建築文化と福祉社会」とかはしっくりきますし。 「映画」におきかえようとすると、「ポピュラー音楽」より もっとしっくりしない項目が多くなりそうです。 ふむふむ、こういう考察してみるというのも、面白いなぁ。 ジャンル (スポーツ文化, ポピュラー音楽, 建築文化, 映画, etc) × イシュー × アプローチ みたいなテーブルを頭に入れておくと、 いろんな論を読む際の他の論との関係付けとかしやすくて良さそうだなぁ、 とか思いました。

そんな感じで、スポーツ文化に限らず他にも応用が効きそうなところが、 『スポーツ文化を学ぶ人のために』 を読んでいて、とても面白く感じているところだったりします。

- 弦巻, 東京, Mon Aug 5 23:44:18 2002

もう一週間も経ってしまったことですが…。 先週の月曜にPPな友と呑んだときに 話したことを文章にしようと思ったんですが、 ちゃんと書くのがおっくうになったので簡単なメモを。そのときの話というのは、 「『Number』は、スポーツ雑誌の『rockin' on』だ」 というものなんですが。

ま、内容的には、Tue Jul 2 0:18:24 2002 の発言と重なるところもあるんですが。 FIFA World Cup Korea/Japan 2002 のときって、 最初のうちは国内メディアでニュースを追いかけていたのですが、 次第に海外の英語メディアを中心に追いかけるようになったんですよ。 日本やその隣国での出来事のニュースを、 海外のサイトで追いかけるなんて、なんか変なことではあるんですが。 もちろん誤審に関する報道、というのもその理由の一つではあるんですが。 それ以上に、メディアの論調というかイデオロギーの幅の広さ、 というのもあったように思います。

メインは BBC News を読んでたんですが、 そういう堅めのニュース記事だけでなく、 タブロイド紙のサイトとかも笑えて面白かったんですよ。 フランス語とかスペイン語とか読めたら、 もっといろんな国の記事も読めて、面白かったんだろーなぁ、と思ったりしました。 「Beckham は England では「マンチェの三大バカ(ップル)」」 (Tigerlily23/06/02) とかそういう話も、日本のメディアだけ追っていると判り辛かったりするわけですし。 England だけじゃなく、Germany の Bild のようなタブロイド紙 (UKの Sun みたいなものでしょーか) もよくチェックしたりしてたのですが 中心選手の Ballack なんかも「バカ」キャラって感じだったりで、 けっこういろんな選手がネタにされていて面白かったり。 (ドイツ語が大学時代の第二外国語だったこともあり、タブロイド紙程度なら、 ちゃんと文章読めなくても、写真と断片的な単語の意味から漠然とノリが判るので、 楽しめたということもありますが。)

日本でも、プロ野球選手だと長嶋とか新庄のような選手だと笑いのネタとかにもされるわけですが。 そういう「余裕」というものが FIFA World Cup の国内の報道に感じられなかったように思います。 そして、その報道の論調の多様性の無さというか単調さがつまらなかったです。 どうも、プロ野球とプロレスを除くスポーツの報道って、 報道する側に「おちゃらけ」を加える場合はあれど、 スポーツ自体のエンターティンメント性、 スポーツ選手のエンターテナー性みたいな観点の報道が 抑圧されがちのように感じられます。 アマチュアリズム的な近代スポーツの理念を (エンターテナー的でなく) 職人的な意味でのプロフェショナリズムに接合して、 ナショナリズム的なものを加えたような論調 (今までの Olympic の報道で培ったんだろーなぁ) の報道ばっかり、というか…。

で、そういうスポーツ・メディアの論調の多様性の話を呑みながらしていたら、 日本の『Number』みたいなスポーツ雑誌って何なんだろうねぇ、という話になって、 あれは『rockin' on』みたいなものではないか、と。

しかし、「『GA』は建築雑誌の『rockin' on』」 とかあるし、 「『××』は○○雑誌の『rockin' on』」って、便利な言い回しだよなー。濫用しないよう注意せねば。

- 弦巻, 東京, Mon Jul 15 23:24:30 2002

2002 FIFA World Cup Korea/Japan に関連して、 というほどではないですが、 INAS-FID World Football Championsships Japan 2002 なんていうものが開催されることに気付いてしまいました。 Olympic に対する Paralympic みたいなものですが、 サッカーにも同様の動きがあったんですね。 始ったのは1994年と、Paralympic の1960年に比べて大きく遅れていますが。 こういう障碍者スポーツって、ポスト近代なスポーツとみなされがちですが、 もはや、近代的なスポーツの制度の中にほぼ取り込まれている感が あるように思います。

って、いいかげん、サッカー・ネタをひきずってばかりいても…。

- 弦巻, 東京, Thu Jul 4 0:25:04 2002

おや、アクセスに変化があったと思ったら、 増田 論座 からリンクが。 たいしたこと書いてないと、がっかりして去って行く人も多いような気がしますが…。

ところで、学術的な関心は手薄なんでしょうか? 日本スポーツ社会学会 っていうのもあるようですが。 僕からすると、スポーツをとりまく様々なイデオロギーについては、 中村 敏雄 『スポーツルールの社会学』 (朝日選書, ISBN4-02-259523-X, 1991) に教わるところが多かったですよ。 杉本 厚夫 (編) 『スポーツファンの社会学』 (世界思想社, ISBN4-7907-0642-7, 1997) のような本もありますし。 他にもスポーツ文化関連でお薦めの本があったら、教えていただけると嬉しいです。

スポーツ純粋主義者がいちばんたちが悪いか、と言われると、 それが突出してたち悪いようには、僕は思わないんですが。 確かに、普通のスポーツ関係の雑誌記事や掲示板への発言とかを読んでいると、 ポピュラー音楽に関するものに比べ、 スボーツを巡る言説が妥協のない主義を主張するものが多い、というのは、 確かにそうかなぁという気がします。 これって、理系/文系の住み分けみたいな感じで、 文化系/体育系みたいな住み分けがあるからかなぁ、と思っているところがあります。 ポピュラー音楽の言説って、興味を持つ人の重なりが大きいせいか、 良かれ悪かれ文学や美術などの分野での言説の影響を受け易いし、 イデオロギー性にあまりナイーヴでいられないところがあるように思うのですが。 スポーツって、音楽や文学、美術と別物として扱われがちなため、 ナイーヴさが保たれているような気もします。

- 弦巻, 東京, Tue Jul 2 0:18:24 2002

2002 FIFA World Cup, Korea/Japan が終わりましたね。誤審で興醒め、とか言いつつ、 結局、ベスト4以降の4試合も全てTV観戦してしまいました。 逆に、海外のニュースサイトや掲示板とかも覗き始めてしまったこともあり、 サイトを更新するところじゃなくなってしまいました。うむー。 パブとかカフェとかビアホールとかで、ビールを呷りながらTV観戦してたことが 多かったので、この6月の酒量はいつもの何倍という感じでしたね。いけません…。

で、結局、最も印象に残った試合は、今大会一番の名勝負ともいえる、 Spain vs Ireland でした。ネガティヴに印象に残った試合は (以下略)。 印象に残ったチームは、Germany、Spain と名勝負を繰り広げた、 Ireland は言うまでもないとして。 vs 日本 は最後の20分しか観てませんが、残りの決勝トーナメントの3試合を観て、 Turkey がとても気に入ってしまいました。 どちらも、とても巧いとか、強いとか、そういうわけじゃないんですが。 UEFA EURO 2004 でも、この2チームの活躍を期待したいものです。 最も印象に残った選手は、やっぱり、 Oliver Kahn (Germany / Bayern Munich)。 他にも、Fernando Ruiz Hierro (Spain / Real Madrid) とか、 ディフェンスの要となるような選手が印象に残ってるような気がします。

ところで、 The Other Final こと Bhutan vs Montserrat のFIFA 国際Aマッチの 様子を伝える日本語サイト がありました。素晴らしい。試合中、野良犬乱入が2回あったそうですが、 それに先立つ Montserrat と Bhutan の Ranukha 学生チームの練習試合では、 牛が乱入 していたようです…。ほのぼの。 だだ、FIFA World Cup のアンチテーゼ的な取り上げられ方をしているような 面もあるように思いますが、 この試合だって、FIFA World Cup で批判されているような 興行主義・商業主義やナショナリズムと無縁じゃないわけです。 例えば、商業主義に関していえば、 この試合は、完全に自腹持ち出しでやっているわけではなく、 ドキュメンタリー映画の収益を充てることになっているわけで、 これは、TV放映権と同じようなものと言えるでしょう。 むしろ、ドキュメンタリー映画化して興行化する前提があってはじめて、 このような試合が可能になったという面もあるように思います。 そして、それが悪いことだとは思いません。 FIFA World Cup と The Other Final を比べて見るにつれ、 この手の「良し悪し」って、程度やその時々の文脈に依存する、 かなり微妙な問題なんだなぁ、と思います。

ただ、FIFA World Cup と The Other Final を対比して見ると、 そして、Olympic Games と World Games を対比して見たことを思い出すと、 サッカーに限らず、スポーツにおける商業主義やナショナリズムは、 競技中心主義と合い入れないものではなく、互いに微妙に矛盾しながら、 スポーツをとりまくもろもろを動かしているんだなぁ、とつくづく思います。 そして、それは、ポピュラー音楽における 「ポップ」「フォーク」「アート」の3つのイデオロギー (Simon Frith, Performing Rites) と相同だなぁ、と思うのでした。 というわけで、談話室でスポーツ文化の話題はあまり取り上げてきていないのですが、 関係しそうな過去の発言を発掘してみました。 断片的に言及したものがもっとあるような気がしますが、 とりあえず見つかったまとまった発言だけですが。

- 弦巻, 東京, Thu Aug 30 0:02:52 2001

最近、サイトの更新・談話室への自分の発言が我ながら低調だなぁ、と。 ま、マクロに見た場合、音楽も美術も映画もいまいち楽しめなくてネタがあまりない、 という理由もあったりしますが。 ミクロに見た場合、先週とかは、いつも更新に充てている晩の一時間を、 ワールドゲームズ秋田2001 のTV放送を観るのに使ってしまっていたから、というのもあります。 オリンピックスポーツ以外の競技・種目 という、なかなか目にすることのない競技を観ることができることもあって、 とても興味深く観ることができました。 しかし、放送時間が一日一時間ということで、紹介される競技も限られていて、 観ていてかなり不完全燃焼しましたが。

観ていて興味深かったのは、 オリンピックとの違い。 例えば、開催にあたって施設は既存のものを用いるとか、 国家色を排する (秋田大会から国家色を導入たと言われていたけれど、 それでも、開会式は国別ではなく競技別の入場でした。) とか。 ここらは、オリンピックにおける過度の大規模イベント化 (興行主義) や 国際政治化 (国家主義) への批判というか反省が感じられるわけです。 こういう特徴は、いわゆる「ニュースポーツ」の特徴でもあったりしますが (「ニュースポーツ」というのは、 中村 敏雄 『スポーツルールの社会学』 (朝日選書, ISBN4-02-259523-X, 1991) で使われている用語です。ここらへんどの議論は、この本に詳しくてお薦めです。)。 しかし、ワールドゲームズがオリンピックのアンチとして存在しているわけではなく、 国際オリンピック委員会の後援も受けていますし、 各競技にとってはオリンピック競技になる足がかり的な場となっているわけです。 メジャーに対する批判的存在でありながら、その予備軍である、というところが、 音楽におけるメジャーとインディーズの関係に近いというか。 このような周縁的な動きを、中心を新陳代謝していく原動力として利用していく、 というか、そういうことすらシステム化していくとこって、 実はとても近代的なことなんだろうなぁ、と思ったり。

もちろん、各競技においても、典型的なオリンピック競技から外れる 「ニュースポーツ」的な要素があって、興味深かったです。 例えば、フライングディスクを使った アメリカン・フットボールもしくはバスケット・ボール、と言われる アルティメット では、審判を置かずに試合が行われるわけですが、 そこに見られるフェアプレー精神の強調というか信頼、というのも、 オリンピックにおける過度の勝利至上主義と (それに伴うフェアプレー精神の低下) への批判というか アンチテーゼとでもいえるものを感じるわけです。 もちろん、それは絶対的なものではなく、 ワールドゲームズが秋田大会から国家色を導入したように、 今後、競技の普及にともない審判を導入するようにルール改正される 可能性もあると思いますが。
アルティメットもそうですが、バスケットボールに似た、 コーフボール にしても、男女混合チームで競技を行うわけですが、これにしても、 男女別にチームを編成する従来のスポーツのアンチテーゼ的なものも感じます。 もちろん、競技が普及しその技術が高度化するに従い、 男女別のチーム編成による試合も公式化されるかもしれませんし。 逆に、アルティメットやコーフボールのような「ニュースポーツ」に影響を受けて、 従来男女別にチームを編成して行われていたオリンピック競技においても、 男女混成チームによる試合も可能なようにルールの追加・改正が行われるかもしれません。

ここまで挙げたのは、多分に理念的な違いでしたが、技術的な違いという点では、 スカイダイビング。 この競技は、空中の演技の採点をビデオ映像を用いて行うのです。 それも、カメラマンも選手の一人であり、どのような映像を撮るのか、 そのカメラによる演出も採点の対象になっているのです。 近代スポーツは、それを映像化する技術と共に歩んできたところがあると思いますが、 ついに、映像化する技術そのものが競技に取り込まれはじめたのかぁ、と、感慨深かったです。 今後、映像も採点対象となるような競技も増えてくるのかなぁ、と思ったり。 ちなみに、ヘルメットに小さなDVビデオカメラを固定して撮影しているようでした。 カメラマンは首を固定するのが大変だとか。うみゅー。

なんて、競技を観ている最中、ずっとそんなことばかり考えてたわけではなく。 アルティメットやコーフボールにしても、サッカーの試合を観るように楽しみましたし。 スポーツアクロ体操トランポリンタンブリング をサーカスを観るかのように楽しんだり、とかもしましたし。 素直にチームや人の動きの美しさや面白さを楽しんでいましたが。

嶋田 TFJ 丈裕 <tfj(at)kt.rim.or.jp>
- 弦巻, 東京, Tue Oct 3 23:36:17 2000

さて、この前の週末で Sydney 五輪 が終わりましたが。今回は、 久しぶりにTV中継を観まくったオリンピック大会だったと思います。 スポーツ観戦自体は、最近でこそあまり生では観なくなりましたが、 TV観戦も含めてそれなりに好きだということもあるんですけど。 5月に弦巻に転居してから BS が観られるようになったため、 家に居るときは NHK BS1 がBGV状態でした。 最近、スポーツ番組から遠ざかっていたのは、最近の大きなスポーツ大会でも、 地上波では日本が出場しているような競技しか放送されず、 それも、選手へのインタヴューなどを多用したドラマ的、ワイドショー的な 放送が増えたからだったのかしらん、と、 様々な競技を淡々と放送し続ける BS1 を観ていて思いました。 というわけで、TVで観ていて特に興味深かったことについて、いくつかコメント。

前回の Atlanta 大会から正式種目になっていた、 マウンテンバイクのクロスカントリー種目。 初めてTV中継を観たのですが、記録見て「ふうん」と思っていた以上に凄いです。 自分も自転車で山道を走ったりしたことがあるだけに…。 (関係する記録 1, 2) 高低差もあるし斜度や路面の荒れ具合からして自分なら下車して押して歩くと判断する ところがかなりあるコースを、平均20km/h近い速度で走り続けているというのは、人間技とは思えません。 オリンピックのトップクラスの選手と自分を単純に比べちゃいけない、とは思いますが、やっぱり凄いです。 時々写る下車して押して歩いている下位の選手に思わず感情移入してしまいましたよ。
TV中継のやりかたは、基本的にクロスカントリー・スキーと同じで、 ポイントに据えたカメラの映像と、ヘリコプターを使った上空からの映像がメイン。 しかし、選手を横から追い続ける映像がいくつかありました。 車道とかあるわけではないので、コースのいくつかのポイントに 撮影用のレールでもひいてあるのかしらん、と、最初のうちは思っていました。 が、上空からの映像で、砂煙を上げてコース脇を自転車に並走するバイクが 写っているのを観て驚愕。比較的平坦で開けている場所とはいえオフロードですし、 そういうポイントでは自転車も 30km/h 近く出しているはずです。 そんな所をタンデムで、片方はカメラを抱えて乗っているわけです…。 トライアスロンの比じゃないですよ、ホリイさん

それから、陸上競技の走り高跳びや三段跳びを観ていて気づいたのですが、 助走を始める前に観客に手拍子を促す選手がけっこういたのが興味深かったです。 (陸上競技観戦愛好者にとっては今更な話なのかもしれないですが。) まるで、大道芸人が難しい技をする前に手拍子を要求するように。 確かに、体操や新体操、シンクロナイズド・スイミングや飛び込みなどの競技に、 サーカスにおけるアクロバット芸との共通点を見出すのは容易だとは思いますし、 (実際、サーカスの人をコーチに付けていると紹介された シンクロナイズド・スイミングの選手もいましたし)、 僕が観ているときは、そういう楽しみ方をしていることが多いわけですが。 陸上競技のような種目でもそういう面があったのだなぁ、と、気付いて、ちょっと感慨深かったです。 そうやって観ると、単に記録や勝負だけでなく、身体の動きの面白さに気付かされたり。 なんだかんだ言って記録や勝負に引きずられた見方をすることが多かった (それはそれで楽しいのですが。) だけに、 陸上競技観戦の楽しみ方が増えたように思いました。 オリンピックというのは、近代スポーツのイデオロギーとその実践が、 最も極端な形で現れている場所だと思っていますが、 そういう近代スポーツのイデオロギーを括弧に入れて観ると、 オリンピック大会全体が、世界中の超ハイテク芸人を集めたサーカスというか 前近代的なフェアのようなものに見えたりする瞬間があったりするんですよね。
そういえば、体操競技のエキシビジョン (「ガラ」と呼ばれていましたが。) というのを、初めて観ました。 フィギュアスケートの競技会にエキシビジョンがあるのはよく知られていますが、体操競技にもあるんですね。 解説によると、一時中断されていたこともあるけれど、コマネチ選手がいた頃から行われていたとか。 確かに、見世物化に過ぎる、という批判もあるかもしれないですが、 記録や勝負の結果への注目を緩和するという点でも、こういうものもあった方が良いと、僕は思っています。

選手へのインタビューなどは、選手のキャラクター的に面白いと思うことはあっても、 発言の内容自体は従来の様々な近代スポーツの様々なイデオロギー (勝利主義、鍛錬主義、禁欲主義、科学主義、国家/民族主義、etc) の変奏と組み合わせ以上のものは無かったように思います。 (別にそれ自体が悪いとは思わないですが。) しかし、選手へのインタヴューやアナウンサーのコメントから、 支配的なイデオロギーの変遷を辿ると面白いだろうな、とか、 今年の8月の頭にこの談話室で紹介した 中村 敏雄 『スポーツルールの社会学』 (朝日新聞社 / 朝日選書423, ISBN4-02-259523-X, 1991) に書かれていたことを思い出しつつ、考えてしまいました。

そうそう、オリンピックの開会式を観ていて、いろいろ気になってしまったので、 まずは基本的なところの確認ということで、 吉見 俊哉 『博覧会の政治学 ― まなざしの近代』 (中公新書, ISBN4-12-101090-6, 1992) を読んでいます。 あ、博覧会の開催にあって働く政治的な力学に関する本ではなくて、 社会的テクストとしての博覧会とその読者である大衆の間の関係に関する本です。 もちろん、五輪を含むスポーツ大会も射程に入っています。 乃村工芸社を事例に挙げた「ランカイ屋」の話で、 オリンピックの開会式を手がけている Ric Birch / SPEKTAK を連想させられたり。 しかし、TVの放送で、まるで作家 (auteur) のように、 開会式や閉会式を手がけた人として、 制作の Ric Birch の名前や、 そのコメントが紹介されたりしているのを観ていると、 このようなテクストにおける作家性、作品性について考えさせられてしまう わけですが (って、それほど詰めて考えてはいませんが)、 そういう点に関する手がかりはあまり無かったですね。うむ。
しかし、この本を読んでいると、 Sydney 五輪 に比べて影が薄い、というか 入場者数が惨憺だという噂も聞く Hanover 万博 のことをふと思い出してしまったりするわけです。 こういう万博の状況を指して、万博の不可能性が言われたりするわけですが、 それを近代の終焉とかに絡められると、一方にオリンピックの盛り上がりがあるだけに、 それはちょっと違うんじゃないか、とも思うわけですが。 BGV のようにしてTVでオリンピックを観てしまった自分を振り返ってみても、 この本の最終章に述べられているように、 むしろ、TVのような電子的な情報メディアへの親和度の問題のように思うのでした。

嶋田 TFJ 丈裕 <tfj(at)kt.rim.or.jp>
- 弦巻, 東京, Mon Aug 7 23:48:35 2000

中村 敏雄 『スポーツルールの社会学』 (朝日新聞社 / 朝日選書423, ISBN4-02-259523-X, 1991)、なかなか、良かったです。 いわゆる、スポーツ文化の近代化について論じた本です。 以前に読んだ 中村 敏雄 『オフサイドはなぜ反則か』 (三省堂選書) は、フットボールを通してスポーツの近代化を概覧できる 軽い目の良い本だったように思うのですが、 この話をスポーツ文化一般に広げた感じです。 こんな本も出ていたのですね。気付いていませんでした。 勝利主義を鍛練主義の面から批判したり、 鍛練主義や禁欲主義を科学的トレーニング法の面から批判したり、と、 ちょっとギクシャクした論理展開が気になったのですが。 この本の終わりのほう179〜180頁に、 「行き過ぎ」を批判しているのであって全面否定するものではない、 というようなことが書かれているわけ、 そういうスタンスを早めに示した方が、読みやすいように思いました。
この本の序章「近代スポーツにおける自然と人工」は、 『現代思想』誌1986年5月号に掲載されたものだそうです。 この界隈で文化のモダニズムについて語られるときって、 芸術やその近傍のデザインやエンターテインメントが題材にされることが多いけれど、 スポーツ文化って省みられることが少ないように感じていたのですが、 実際のとところそれほどでもないのかしらん、と思ったり。

嶋田 TFJ 丈裕 <tfj(at)kt.rim.or.jp>
- 馬込, 東京, Mon Jan 18 1:10:52 1999

昨晩の近代スポーツの話がちょっと気になったので、 久しぶりに図書館のスポーツの棚をチェックしてきました。
アンジェイ・ヴォール 『近代スポーツの社会史 ― ブルジョワ・スポーツの社会的・歴史的基礎』 (ベースボール・マガジン社, 1980) (原書は、Andrzej Wohl, _Die Gesellschaftlich-Historischen Grundlagen Des Burgerlichen Sports_ 2nd ed., 1973) は、編者序文に、

わたしたちが本書を出版するねらいは、 スポーツが現実の社会運動や経済領域、イデオロギー・文化領域での抗争と 歴史的、現実的につながりをもっている、という認識をうながすことにある。
この観点から見るならば、 スポーツは資本主義的生産様式の発展の結果であり、発展のあらわれである。 つまりスポーツは資本主義的生産様式の発展途上においてできあがり、 現代見られるような多様な形式をとっているわけであり、 わたしたちが日頃お目にかかっているのはこうした形式のスポーツなのである。

なんて書かれています。 もともと1960年代にポーランドで書かれた本で、 1960年代末の (西ドイツの) 学生運動における 体育教師養成制度批判の中でドイツ語版が作られた、という経緯の本だそうです。 ざっと読んだ限り、大筋では悪くないと思うんですが、 唯物史観入り過ぎていささかげんなりするところもありますね。うむ。 しかし、この図書館、こんな本、あったのかー。気付かなかった。
比較的最近に図書館に入ったと思われる 稲垣 正浩『スポーツの後近代』 (三省堂, ISBN4-385-35675-0, 1995) の「後近代」というのはポストモダンのことです。 けど、ポストモダンとして「霊的世界へ接近するスポーツに注目」というのは、 いくらなんでも、ちょっと怪しすぎるような…。 そもそも、近代スポーツを競技スポーツとするのは狭く捉えすぎではないかなあ。 Jリーグのサポーターのような観客の現象や 競技的ではないリクリエーション的なスポーツ (確かに、「競技スポーツ」中心主義的な近代スポーツの中では 周縁にあったものだとは思いますが。) も「後近代」として捉えているようなのですが、 スポーツの近代 (modernity) の諸相でしかないように僕には思えます。 「上昇志向」から「下降志向」のスポーツへ、というあたりは、 「老人力」っぽくて (実際、「生涯スポーツ」の問題と関係するのだけど。)、 「後近代」かという問題とは別に興味深いものはあるんですが。
以前にこの図書館で、中村 敏雄『オフサイドはなぜ反則か』 (三省堂選書) を借りて読んだ覚えがあるのですが、今日はみかけませんでした。 フットボールを通してスポーツの近代化を概覧できる 軽い目の良い本だったように思います。 しかし、『スポーツの社会学』みたいな本は、やはり無かったですね。 あったら、以前に借りていたような気もしますが。
しかし、僕がこの手のスポーツ史の本を読んでいて違和感を感じるのは、 スポーツ文化における実践を「競技すること」と捉えているところです。 「観戦すること」だってスポーツ文化における実践だと思うし、 大衆文化としては、むしろそちらの方が主になっていると思われるのに。 その点で、僕は 杉本 厚夫 氏 の web site が興味深く思うのですが。 やはり、地元の図書館には本はありませんでした。しくしく。

しかし、中村 敏雄『オフサイドはなぜ反則か』は Jリーグ・ブームの中で注目された本のように思いますし、 Jリーグ・ブーム以降、 文化としてのスポーツ、といった観点の本をよくみかけるようになったと思います。 思えば、Jリーグほどその理念 ― それも典型的な近代スポーツの理念 ― が、 ファンのレベルに至るまで語られているスポーツは無いように思いますし、 それがとても興味深く思います。 Jリーグの理念にあからさまに反対してみせる某オーナーの発言なんかは、 単にスポンサーが口を出す是非とかそういうレベルの問題ではなく、 スポーツの近代主義に対する新保守主義的な反動なのかしらん。 と思ってみたり。 Jリーグが結局のところ根づかなかったのは、 しょせん、近代スポーツという舶来のイデオロギーを 日本の社会的文脈に接合しようとしたところ (「日本の近代の 競技スポーツは、市民スポーツ、大衆スポーツが 洗練されて生まれたボトムアップではなく、 全国組織ないし官僚機構からのトップダウンの形態をとって振興した。」 のように。) に無理があったからかもしれない、と思ってみたり。 ま、ここらは深く考えないで言っていますが。

嶋田 TFJ 丈裕 <tfj(at)kt.rim.or.jp>
- 馬込, 東京, Sun Jan 17 4:41:42 1999

近代麻雀』という雑誌もあるんですね、江口さん。
麻雀やプレイング・カードにおける近代、というと馴染みないですが、 近代スポーツ として捉えれば、わかりやすいように思います。 麻雀の歴史は知らないので、プレイング・カードで話しますが、 スーツがスペード、ハート、ダイヤ、クラブ、 各スーツがA, 2, 3, …, 10, J, Q, K、 あと Joker が1枚、という構成が成立した18世紀くらいところから 近代化が少しずつ進行しているのでしょうか。 プレイング・カードにおける典型的な近代化といえば、 ホイストから国際的なルールや競技団体がある コントラクト・ブリッジ が成立するあたりでしょうか。 入門書にもよく書いてある 「コントラクト・ブリッジは紳士・淑女のたしなみ」 みたいな言説も、いかにもスポーツマンシップというか、 近代スポーツのイデオロギーって感じですよね。
近代スポーツについては、 京都大学の 杉本 厚夫 氏 の web site が興味深くて、以前から 『スポーツ文化の変容』 とか 『スポーツファンの社会学』 をちゃんと読んでみたいと思いつつ、なかなか手が回らないんですが。うむ。