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ポルトガルの旅

発見のモニュメント

ポルトガルといえば、15世紀バスコ・ダ・ガマやマゼランなどの大航海時代、海外進出で栄えた国として知られていますが、日本では1543年種子島に初めてポルトガル人がやってきて、鉄砲、キリスト教、はじめ様々な西洋文化が入ってきました。現在でも「カステラ」、「ボーロ」、「てんぷら」、「コンペイトウ」、「ブランコ」、「カルタ」などポルトガル語が日本の言葉となって残っているものもあり、馴染みがあります。

しかし、大航海時代の繁栄は長く続かず、その後、帝国衰退、王政復古、ナポレオン軍の侵攻、サラザール独裁、と苦難の歴史を歩みますが、1974年遂に無血革命(カーネーション革命)が起こり、民主化が進められることになります。1986年にEC加盟国となり(現在はEU)、1998年には万国博を開催するまでに復興し、20世紀末に劇的な発展を遂げた国として注目されています。
(詳しいポルトガルの歴史は地図下にまとめています。)



①リスボン、シントラ、ロカ岬    ②トマール、バターリャ、オビドス
③コインブラ、ポルト  ④サンチャゴ・デ・コンポステーラ (スペイン)

ポルトガルの歴史
紀元前10世紀頃 地中海沿岸諸国の影響を受ける。フェニキア人、ギリシャ人の植民地が築かれる。
紀元前2~1世紀 ローマが支配。ポルトガル語が話されるようになる。
イスラムの支配から
独立へ
  
711年 モーロ人がジブラルタル海峡を渡ってきて、5年でイベリア半島ほぼ全域を征服。コルドバ・カリフ帝国
イスラム教徒のモーロ人はカトリックも認め、産業、司法・行政は進歩する。
   異民族による支配を受け入れないキリスト教徒たちは、レコンキスタ(イスラム教徒排撃)を進めていった。
1096年 レコンキスタを支援したフランス貴族アンリ・ド・ブルゴーニュカスティーリャ王女「テレサ」と結婚、
ポルトガリア伯爵を名乗る。
     伯爵の死後、領地をめぐり、テレサ(カスティーリャ王国側)と息子のエンリケス(領内貴族側)との間で
戦いが始まる。 エンリケスの勝利。(サン・マメーデの戦い
「オウリッケの戦い」で、イスラム軍に勝利し、エンリケスが国王となる。(首都ギマランイス)、ポルト
コインブラを領土に含む。
カスティーリャ王国はポルトガル支配を諦め、独立を承認。
初代国王エンリケスはリスボンベージャを征服し、国土を2倍に広げる。
1249年 モーロ人の最後の砦ファーロを陥落、ポルトガルはレコンキスタを完了。 (スペインより早い)
1297年 カスティーリャ王国と条約結び、ほぼ現在の国境となる。
大航海時代   
1415年 国王ジョアン1世 北アフリカのセウタ攻略。
   エンリケ航海王子、積極的に海外進出を計画。
1498年 バスコ・ダ・ガマインド航路を見つける。
新大陸ブラジルを併合。インド ゴア占領。マラッカ海峡を掌握。世界から富が集められた。
その繁栄は長くは続かなかった。
帝国の衰退と王政復古   
1578年 ドン・セバスティアン王はモロッコ進軍。途中で王が姿を消す。ポルトガル軍の壊滅
   王に皇太子がいなかった為、スペイン王が王位継承。ポルトガルはスペイン領となる。
   マラッカがオランダ領となる。
1640年 ブラガンサ公爵がスペインに反旗を翻し国王に即位し、独立。しかし、国民は貧窮のまま。
   ブラジルで、金・ダイヤが発見されたが、国内産業に投資されず、宮殿建設などに浪費された。
   ポンパル候が、体制の大改革。学校の建設、奴隷制の廃止。産業の奨励。大復興を遂げる。
ナポレオン軍侵攻   
19世紀 ナポレオン軍侵攻。
1807 ジョアン6世、ブラジルに逃亡。ポルトガルの産業の芽はつまれ、植民地からの富は流入が止まる。
     ポルトガルは英国の支援でナポレオン軍を撃退するものの、王はブラジルから帰国しなかった。
   ブラジルの経済力はポルトガルを上回る。
1821 王は帰国するが、翌年皇太子ドン・ペドロを皇帝にしてブラジルは独立を宣言。(英国が関わる)
サラザール独裁   
1910 王政への不満から海軍将校中心に反乱。王制は倒れ、ポルトガル共和国となる。
     財政は赤字続き、英国からの巨額借款。
1919~1925 政権交代とクーデター頻発。国内は混乱状態。
1925 クーデターによりカルモナ将軍が大統領となり、強権行使で2年で国内秩序を回復。
     コインブラ大学教授サラザール蔵相に就き、1年で財政を立て直し。
1932 サラザールが国民の圧倒的な支持を得て首相に就く。新憲法公布。
     しかし独伊西らの独裁政権に影響され、国は独裁制に傾いていく。
     第2次世界大戦中、中立を守ったポルトガルは参戦せず、独裁制のまま終戦を迎える。
     戦後の民主化の潮流のなか、サラザールは独裁制を強め、植民地独立運動の中、搾取を続ける。
1968 サラザールの死後、カエターノ首相が体制内改革案「国の発展、植民地解放、民主化」をうたったが、
矛盾する政策で、国はいよいよ行き詰まる。
現代   
1974.4.25 軍部左派が反乱を起こし、無血革命「カーネーション革命」が成功。新政府は民主化を進め、翌年にはマカオを除く全ての植民地独立を承認。 準備不足の解放は、植民地からの70万人もの引揚者問題等も残る。
1986 ポルトガルはEC加盟国となり(現在はEU)、後進地域援助融資を得て、経済は活気を取り戻し、政治も安定してきた。
1998 万国博を開催。


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リスボン、シントラ、ロカ岬


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リスボン、シントラ、ロカ岬 Page1
トマール、バターリャ、オビドス           Page2
コインブラ、ポル                 Page3
サンチャゴ・デ・コンポステーラ (スペイン Page4


リスボン、シントラ、ロカ岬
「ベレンの塔」(世界遺産)、「発見のモニュメント」

ベレンの塔
(世界遺産)
ベレンの塔
1515年、マヌエル1世の命により、建築家フランシスコ・デ・アルーダが指揮を取り、1520年に完成。元はテージョ川を行き交う船を監視、河口を守る要塞として造られたが、後に船の通関手続きを行う税関や灯台としても使われた。司馬遼太郎は、マヌエル様式の優雅なテラスをもつこの塔を貴婦人がドレスの裾を広げている姿にたとえ、「テージョ川の貴婦人」と表現している。

発見のモニュメント
1960年、エンリケ航海王子の500回忌を記念して造られた。帆船をモチーフとしていて、先頭から
 ①カラベル船を手に持つエンリケ王子
 ②アフリカ・ポルトガル帝国を作った
   アルフォンソ5世
 ③インド航路を開拓したバスコ・ダ・ガマ
 ④ブラジルに到着したペドロ・アルヴァレス・
   カブラル
 ⑤初の世界一周を達成したマゼラン
 ⑭日本で布教活動を行ったイエズス会宣教師
   フランシスコ・ザビエル(後ろから2番目)

その他、天文学者、文学者、船乗り、地学者など、この時代に活躍した人々が彫られている。

テージョ川に向かって建つ
「発見のモニュメント」

発見のモニュメント(左側面)

発見のモニュメント(右側面)


発見のモニュメントの前には大理石で世界地図が描かれている。こちらは1541年に発見された日本の地図。写真では北海道が切れてしまったが、当時の技術力の高さに驚くとともに、大航海時代の世界進出のパワーを感じる。


1922年、リスボンからブラジルのリオ・デジャネイロまで、8383Kmの単独飛行に成功した飛行士の功績を称えて造られた。



4月25日橋

「発見のモニュメント」から見える
「4月25日橋」
1966年、リスボンとアルマダを結ぶ橋が開通。
当時、「サラサール橋」(独裁者の名)と呼ばれていたが、1974年4月25日(カーネーション革命)の後、革命の日にちなんで、改称された。
  
ジェロニモス修道院 (世界遺産)
1502年、マヌエル1世が、エンリケ航海王子とバスコ・ダ・ガマの偉業を称え、新天地開拓への航海の安全を祈願して着工。約1世紀かけて完成。マヌエル様式を代表する壮麗な修道院。

画像右は、1518年スペイン人建築家ジョアン・デ・カスティーリョによって造られた南門。
南門には聖母マリア像を中心に24人の聖人、聖職者の像、門の中央(画像下)には
エンリケ航海王子の像が彫られている。


では、ジェロニモス修道院内部をご紹介していきます。
  
<サンタ・マリア教会>
(ジェロニモス修道院の東端に位置する。上記左写真の右端が教会。)
王家やバスコ・ダ・ガマ、詩人カモンイスの霊廟となっている。

王家の霊廟としての主祭殿。祭壇飾りの絵は宮廷画家ローレンソの作。
柱はヤシの木を模している。ガウディのサグラダ・ファミリアの柱に少し似ていますね。

祭壇を中心として、左側面にマヌエル1世と王妃マリアの棺、
右側面に息子ジョアン3世と王妃カタリナの棺が安置されている。

祭壇中央のキリストの生涯を描いた5枚の絵。宮廷画家ローレンソ作。

縄の様な形が特徴の「マヌエル様式」の柱
ヒトデ等、大航海時代の海に関する物や
植物が彫られている。

「マヌエル様式」 
壁のレリーフには天球儀や十字架


インド航路を発見した「バスコ・ダ・ガマの棺」
棺にはカラベル船が彫られている。

反対側にはガマの偉業を叙事詩にした詩人
「ルイス・デ・カモンイスの棺」

棺には筆と竪琴が彫られている。

回廊から2階に上がると、聖歌隊席があり、
そこには磔刑のキリストが掲げられている。
あまりにリアルで、衝撃的!

南側壁のステンドグラス
キリストを抱くマリア

美しい回廊と中庭 (中庭は55m四方)

降り注ぐ光と回廊

修道院の食堂
聖ジェロニモスを描いたタイル(アズレージョ)の
壁画が飾られている。壁画は18世紀のもの。

回廊に修道士の部屋が並ぶ。
「エッグタルト」はジェロニモス修道院の修道僧が余った卵で作ったのが始まりといわれて
います。甘さも控えめ、卵の旨みたっぷりの本当に美味しいタルトです。後でご紹介します。
リスボン市街

テージョ川河口に架かるバスコ・ダ・ガマ橋(ヨーロッパで最長の橋)から見たリスボン市街

馬蹄形の入口が美しい「ロシオ駅」
ケルース、シントラ方面行きの列車が発着。
ロシオ広場とレスタウラドーレス広場の間にある。

ポンバル侯爵広場
ライオンを従えたポンバル侯爵の像。
ポンバル侯爵(1699~1782年)はジョゼ1世の宰相。1755年の大地震後のリスボン再建計画はじめ、政治・経済・教育などで改革を行い、近代ポルトガルの礎を築いた。



ロシオ広場
正式名は「ドン・ペドロ4世広場」。
ロシオ(公共の広場という意味)の愛称で親しまれている。
中央は初代ブラジル国王となったドン・ペドロ4世のブロンズ像。

レスタウラドーレス広場
1640年、スペインからのポルトガル再独立を記念する。
レスタウラドーレスとは「復興者たち」の意味。
中央に勝利と独立を表すオベリスクが立っている。

ロシオ広場の噴水

リスボンの敷石
リスボンの通りや広場は殆どが石畳が敷き詰められている。石畳の白黒の模様は、リスボンの守護聖人サン・ヴィセンテが1173年に2羽のカラスに守られてリスボンに運ばれたことに基づく。 死とカラスを意味する黒、サン・ヴィセンテの純粋性を象徴する白はリスボンのシンボルカラー。

サンタ・ジュスタのエレベーター
(通称 「カルモのリフト」
1900~1902年、エッフェルの弟子(仏人建築家)によって建設。高さ45m。頂上は展望台で、リスボンの街が一望できる。
細い通りにエレベーターだけが建っているのかと思ったら、カルモ広場の登り坂で、バイシャ・ボンバリーナの通りの建物とつながっていました。


リスボンのお菓子屋さん
左下がリスボン名物「エッグタルト」
(パステル・デ・ナタ)

エッグタルトを作っているところ。タルト型
に丸い団子状のパイ生地を入れ、
指でのばしていました。

リスボンの水道橋 「アグアス・リブレス水道橋」
ローマ時代ではなく、17、8世紀に造られたもの。
*リスボンの昼食*

サルディーニャス・アサーダス
(イワシの塩焼き)
リスボンはイワシが美味しい。イワシは特産のアズレージョ(タイル)やコルク製品等
にもイワシの絵が描かれているくらい有名。新鮮で、身がふっくらとしてとても美味しい。
デザートに頂いたポルトガル名物「エッグタルト」がまた、最高のお味でした。
甘過ぎず、卵の旨みたっぷり。
シントラ (世界遺産)

リスボンから西へ約28Km、イギリス詩人バイロンが「この世のエデン」と称えた、風光明媚な王家の避暑地。
王宮を中心として、宮殿や貴族の別荘が点在する。美味しい湧水でも知られている。現在ではポルトガル有数の観光地。

シントラ宮殿
王宮はイスラム教徒が残した建物をディニス王(1279~1325年)が居城とし、14世紀にはジョアン1世が増改築を行った。シンボルの2本の煙突はその時代のもの。その後、マヌエル1世時代にも増築された。
ムハデル、ゴシック、マヌエル、ルネッサンスなど多彩な建築様式が見られる。ポルトガルで最も保存状態の良い王宮。

第一印象はスペインのアルハンブラ宮殿(ムハデル様式)に似ていてると思いましたが、アルハンブラ宮殿に感銘を受けたマヌエル1世がシントラ宮殿にも採り入れたと言われています。特にアズレージョと呼ばれる青白のタイルはとても美しく、注目です。

王宮前。山の頂にはムーアの城跡が見える。


では、王宮に入って行きましょう。


室内に噴水がある。


重厚な調度品


美しい大シャンデリア


タペストリーの部屋


「白鳥の間」


天井には27羽の違ったポーズの白鳥が
描かれている。

「カササギの間」
王の執務室。 天井を見ると ⇒

「カササギの間」の天井
一面にカササギの絵が描かれている。

「紋章の間」



「紋章の間」の天井
ドーム型の天井から壁にかけて
王の紋章を中心に、王族・貴族
の紋章が描かれている。
狩猟の光景を描いた 美しい
アズレージョ(タイル)の壁






船底型の天井には船の絵が描かれている。

幾何学模様の船底天井

厨房
肉を刺して焼く道具と鍋

厨房の煙突(33m)
煙が抜けるようになっている。

中庭 (パティオ)から 「水浴びの間」へ

「水浴びの間」
まるでステージの様な「水浴びの間」
壁から水が出て、暑さを凌ぐ。
アズレージョが美しい。


「水浴びの間」の天井
もしかしたら、イギリスのウェッジ・ウッド? ジョアン1世がイギリスからフィリパを妃として迎えたことから、紅茶はじめイギリスからの物資・文化が入ってきたのでしょう。
シントラで有名なお菓子

ケイジャーダ (チーズタルト)
地方によって微妙に味が違うが、シントラのものが有名。店は王宮前の路地に
入ってすぐ左。エッグタルトは生地がパイだが、このケイジャーダの生地は餃子
の皮の様で、丁寧にチーズの臭みを抜いているので、あっさりと滋味深いお味。
ロ カ 岬
Cabo da Roca (カボ・ダ・ロカ)
ユーラシア大陸最西端の地。

この海の向こうには???
大航海時代、新大陸を求めて冒険家たちは大西洋へ飛び出した。

「ここに地果て、海始まる」 詩人カモンイス
の詩を刻んだ碑が建っている。

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参考:地球の歩き方、ポルトガル[小さな街物語]

     

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