TK批評 by秀作



TK肯定派はフツーの人が多く、
TK否定派はプロが多いの、知ってますかあ?
立場上TKに近い人ほどTKを否定します。
ミュージシャンや音楽関係者、放送関係者なんかですね。
しかもアート志向が強いと自他共に言われている人ほど、そー。
そして、TK批評でまともな分析は音楽の関係の学者の一部を除いては、
シロウトやフツーの人によるものがあるだけ。
TKを肯定的に分析批評する人はTKファンではない場合が多く、
これも特徴です。

大手BBSで時々書込みをしている小林秀作さんの批評や分析はノンジャンルで透明。
固定ファンがいるのが肯ける視点と分析は、
フツーの人の確かさのよーな安定感と可能性があります。

♪ 羊通信
♪ ハルキワールド
♪ クールな、お言葉
● LDP・スクラッチ
▲ 東京トウガラシ
♪ ひつじ・わーるど




■小室哲哉、小林武史ら仕掛人 1・・・   99/2/15
■小室哲哉、小林武史ら仕掛人 2・・・   99/2/15



◇小室哲哉、小林武史ら仕掛人 1 by 秀作            BBS(97/1/19)


今、音楽界にはちょっとしたムーブメントが起きている。
各テレビ局がトップ10式の歌番組をならべていた1980年代の歌の流行とは違った動きだ。
今日の「ザ・スクープ」でその特集をやっていたが、非常に興味深い。

まず、ミリオンセラーというのが連発しているのはかつてなかったことである。
これまでは、あっても年に5本前後で、それが1980年半ばを過ぎる頃、つまり日本がバブルを迎えていた頃にはミリオンセラーの出ない年が続いた。
その後、1991年を境にミリオンが続発。
しかもこれまでなかった10本、20本というものすごいブレークぶりを見せた。

その原因を「ザ・スクープ」でいくつか挙げていた。

まず、詩で使われる言葉の変化。
それまでの思いつめたような言葉や形式を重視したものと違い、普段の何気ない言葉をそのまま詩にするスタイルが出た。例としてKANの「愛は勝つ」、槙原敬之の「どんなときも」を紹介していた。つまり文語体から口語体へという変化だ。これが若い層を引き付けた。

カラオケも重要な要素だ。
CDを買って曲を練習し、それをカラオケで歌う。あのシングルCDにある「オリジナルカラオケバージョン」はCD業界とカラオケ業界との共同戦略だそうだ。
カラオケボックスの登場によりカラオケ利用者が激増し、今やコミュニケーション手段の一つとして欠かせなくなったのが大きい。

そしてCMやドラマとのタイアップ。
「東京ラブストーリー」の主題歌がその先駆的なものだという。
ドラマのストーリーに合わせて曲を作る。
布袋の作った「プライド」も、布袋自身がドラマ「ドク」の内容をよく理解した上で作詞、作曲をしたという話は聞いたことがあるが、こういうのが結構多いらしい。

一番驚いたのはPuffyの2曲目、「これが私の生きる道」。資生堂の化粧品のイメージに合わせて曲を作ってもらったそうだ。
まず先にどんなCMにするかというものが作られる。絵コンテなんかも先にできてる。そしてフルーティーな製品のイメージから、「果実」という言葉が資生堂の要望として取り入れられたらしい。しかもその曲名の漢字を拾うと「私生道」=シセイドウとなる。奥田民生はここまで考えていた・・・。

さて、ここからはいくつか私見を述べさせていただきたい。
私の考える最近のミュージックシーンが出来上がった背景、理由は次の3点だ。


1) 消費者層の可処分所得の増加

ようするに、日本の経済を世界第2位にのし上げたのは「団塊世代」。そしてその裕福さを幼い頃から享受する事になった「団塊ジュニア」、つまり今の高校生を中心とする学生達が、豊富な小遣い源をもとに大胆な買い物をする、ということである。
以前に「女子高生が日本を救う」(96.9.20)という掲示をした事があったが、そのことだ。
お年玉をはじめとし、子供たちの懐は以前とは比べようも無いほど裕福になっている。
それは日本がちょうど高度経済成長を遂げた時期に生まれ育ったということと、日本の家庭に核家族が増えたことが原因だ。
こども一人当たりの可処分所得、つまり処分可能な所得は急上昇した。そしてもっとも流行に敏感な年代でもある。
別に住宅ローンだとか将来のためにとか、そんなことを考える必要もなく、所得=消費で、得た金はそのまま消費に向けられる。ここに、所得=消費+貯蓄という教科書通りの方程式は当てはまらないのだ。


2) 消費者の感性の変化

カラオケ有線チャートというのは音楽業界に携わる人間にとって重要な意味を持つらしい。
小室哲哉も「カラオケでみんな楽しく歌える曲がそれまでなかった」からそこに目をつけたといっていた。

これは、以前の掲示「小室哲哉と佐藤雅彦の成功の秘密」(96.7.21)で書いたことだが、友人同士でその場が盛り上がるような、体に心地よい曲がよく売れている。
そこで歌われるものは、詩の内容よりも響きとか曲のアップテンポなノリが意味をもっていて、シチュエーションの雰囲気がどうなるかがポイントとなる。
だから、同じ曲が名曲として長く歌われるという感じではなく、常に新しいノリの曲が提供され続けることになる。
小室の曲の入れ替わり立ち替わりの速さを見ればよくわかることだ。

***少し長くなりそうなので、続きは一つしたの掲示に改めます。興味のある方は読んで下さい。




◇小室哲哉、小林武史ら仕掛人 2 by 秀作            BBS(97/1/19)


3) プロデュースブーム

1980年代の歌番組はアイドルが支えていた部分が大きかった。
イメージ先行で、清く正しく美しく、かっこよく、多少歌唱力がなくてもイメージでカバーできた。
しかし、ちょうどそんな歌番組が下火になる頃、水面下で新たな動きが出てきた。バンドブームである。そう、イカ天は番組欄のホント下の方(深夜)だった。
でも、そこから次の新たなミュージックシーンは形成されはじめた。
バンドでは自分で歌う曲を自分たちで作り、アレンジする。小室もTM時代はほとんどすべて自分で曲を作っていたし、奥田民生、布袋寅泰もバンド時代を経ている。もちろん、小室哲哉や小林武史は現役のバンドセッションメンバーだ。
シャ乱Qのつんく、ウルフルズのトータス松本も、あれらのヒット曲は自分で作詞作曲をしている。
それまで、イメージを強く売り、事務所の用意した曲を歌ったアイドルとは違い、バンドでは自分で作った曲をステージで演奏し、その反応を直に体験することができるようになる。
それによってオーディエンスの欲しているものがよく分かるようになるし、それに応えることのできる曲が作れるようになる。このことが、1980年代半ばのミリオンなしという音楽業界の危機を救った要因になったと考える。

以上が思い付く点であるが、これらを総合してもう少し。
最近のヒット曲というのは、ここに見たようにそれ自体でというより、CMとかドラマとかとのシンクロによって売れるパターンが多くなっている。
以前のヒット曲はたしかに今のに比べると、どこかねちっこいというか、はっきりしないような、ためこんだような雰囲気があるようにみえる。
でも、ロングランヒットを続けていたのも事実だ。いわゆる名曲というのが多く生まれた。
以前の曲にのせられた詩は、その中に含んだイメージがあった。秘められたメッセージや思いがいっぱいつめられていた。

今の曲が以前のと違うところは、これまで詩の中に込められていたメッセージが、曲から離れて外に出たということだ。
そのことによって詩は内容よりもニュアンスに重点を置くようになり、詩のみを読んでみるとよく意味が分からなかったりする。
Puffyの「アジアの純真」はその典型だろう。
曲から離れたメッセージは、CMやドラマの力を借りてイメージを作り上げる。 歌にのせられた詩からではなく、その曲のかかっていたドラマやCMを思い浮かべて曲のメッセージやイメージを増幅するのである。
これはよくいわれる活字離れというのと似ている。本にやたらと絵や写真をともなって活字を使い、見るものはそれら活字以外の力を借りてイメージを獲得する。

基本的に歌は歌う人本人が作った歌の方が好きだ。
その声に伝えたいものが感じ取れるし、説得力もある。聞いていて素直に共感もできる。伝えようとするものがあり、それを歌という手段で伝えようとするスタイルが好きだ。歌というのは本来そういうものだと思っている。
その意味で、曲がCMやドラマとのタイアップで作られ、それが今の売れ筋のほとんどを占めているというのは、歌がマーケティングに完全に取り込まれてしまったようで少し残念な気もする。

このことが思考力の退行を招いたり、歌の表現形態自体を変えて行くのか、その辺りはよく分からない。けれど、だからといってあまり批判的になるのも好きではないし、ここまで書いたことも批判的に書く事が主眼であった分けではない。
世代ごとによって感性は変わるものだし、今の曲だって詩やメロディーのいいものが多くある。
今井美樹の「プライド」やドリカムの「LOVE」だってドラマとのタイアップ曲だが、その曲の主張するところはあるし、それを聞いてる人だってそのメッセージはしっかり受け止めていると思う。

言葉にしても、その昔日本の文学界に同じ事があった。
明治時代、人間の感情をありのままに小説に書き記す事が大切なのだ、という写実主義を具体化した二葉亭四迷の「浮雲」という小説があった。
これは「言文一致体」小説と言われ、書き言葉と話し言葉を一致させた小説で、当時は大変な衝撃を世間にもたらし、「くたばってしまえ!」と言われたから「フタバッテシメエ(二葉亭四迷)」という名前で世に出したほどだ。

話しことば(口語)と書きことば(文語)のあいだにギャップができるのは当然で、それを近づけようとした運動は過去にもあったのだ。
だから、今の詩はなっとらん、と言って簡単に片づける事はしたくない。
思ってもみてください。「アジアの純真」の詩は、あの井上陽水が書いているのです。
数々の名曲を作ったあの人が時代の先端をになっているのですから。

つまりは、受け手の問題だと思う。
今のティーン達が何も考えていないわけではないと思うし、感じるものはしっかりと受け止めているのだと思う。だから、彼らの欲しているものを提供して成功を収めた音楽業界の仕掛け人達を誉めるべきなのではないでしょうか。