クールな、お言葉 1997.12〜.

ちょっとカッコイイと思った言葉を拾ってきて説明すんだけ。
ホントは、実際に使えたらいいんだけど、そんな人いませんよねエ。
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「私には何もないわ。」
「失くさずにすむ。」



『1973年のピンボール』からクールなハルキワールドしてるコトバ。ゲーデル的決定不能性がポイントになってる典型的な例ですね。これをトートロジーと受けとめる感性の人とはGood-bye!…するのがドーナツ的宇宙のイデオロギーですよん。言葉の展開(論理)を決定不能性に追い込むことによって何を表現してるか? クールで、文学的哲学的芸術的(つまり意味がないとゆーこと)な修辞ではニヒルとか虚無的とかなんとかカッコつけた感じでしょーが、実際の意味はゼーンゼーン違います。言葉(非現実)の決定不能性を明らかにすることで現実(非言葉)をフォーカスし、まず、その現実の全面肯定からスタートすることを表明してるんですね。どっても前向きですよ、コレ。現実やマテリアルな状況、そういったTPOからスタートしなくて、いったいどっからはじめられるんでショーねえ。印象や観念といった色メガネや先入観とかレッテルや夢想からフリーな、とても力強い現実の肯定から起動するタフな人生観・世界観を見出したいですね、こーゆーコトバに。


「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか。」


シブイ、哲学的、で、ちょっとキツイ言葉でもあります。マンガの『孔雀王』にもこんなセリフがあったなあ。『風の歌を聴け』でハートフイールドの墓碑に引用されてるとかいうニーチェの言葉らしいけど。文学的な拒絶の言葉つーとこでしょーか。相手にこんな風に言われたら絶句するしかないですもんね。えー、逆に絶句させたい時には効くこと間違いなし! あくまでクールに静かにモゴモゴと口にしましょー。機会があったら、だけど。


見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった。


『1973年のピンボール』最初の1行。思わず引き込まれそうな一言で、なんかワンダーランドへの誘いコピー風。期待して入っていくと“郊外の惨めな駅の犬”の話しだったりします。しかし、そこでガクッときたりしないですね、全然、逆。もっとなぜか物語に引き込まれていきます。まあ、ここでつまんないと感じた人は、それこそつまんないでしょう。そして、たぶん、そーゆー人そのものが、ボクにとってもつまんない人なのかもしれません、なんて思ったりします。アナタにとってはどーですか?

何かどっかに物語があって、何かどっかに面白いことがあって、もっと楽しいことがあって、もっと夢があって、とゆー人はいるでしょう。きっと、たくさんいます。それはそれでいいんだけど、“今、ここ”に対してどんなスタンスでいるのか考えると、つまらないことが多いんですね、そーゆー人。

村上春樹の“僕”みたいななんでもない日常を生きている人に自分をオーバーラップさせることと、夢に描いたものを喜ぶことなら、日常をとるのがリアルであるのは明らか。疲れたノスタルジックでもなく、夢想された可能性でもなく、リアルな日常とその身体性を噛み締めていくハルキワールドではSFチックな表現でさえリアルなものとして感受できます。それこそ“まったり”とした“僕”の“日常”に“リアル”を覚えて“感動”できるとすれば、それは何なのか? この問いを原点にループするものが永劫回帰なのは当然だけど、それ以外に何かをデッチあげて“脱日常”したつもりが、単なる“電波系”だったり、その日常が「電子の密室に蹲るナルシス」(『逃走論』)でしかなかったりするサンプルはあふれてます。日常という現実をそれこそリアルとして亮受できる感覚とブレインはどこにあるのか? 春樹やばななの示した問いの解は、それこそ読者それぞれの中にしかないもの。そして表現が“問い方”そのものでもある作品性こそハルキワールドのアウラでしょー。
読者を問うことでもリアルなのがハルキワールドだと言えるのが、今必要な認識かもしれません。φ(..)メモメモ


「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」


村上春樹の原点にしてスタート、『風の歌を聴け』の最初の1行の言葉。学生に頃に知り合った作家が僕に向かって言った、ということになってます。もちろん、ホントにハルキワールドのコンセプトですね、これは。テキストで表現しようとしてる本人がそのテキストの不完全性を最初に自覚(自らの表現能力も含めて)しながら、しかもその不完全性に対しても絶望しないことをそれそのものにおいて同時に表現しているというある種見事なテキスト表現です。自己言及であり自己充足であり、絶対矛盾の自己同一てな感じ。ニヒルなよーでいて、実はもっとあたたかいものを持ちながら、でもあくまでクールに言い放ってみせるとこは、スタイリッシュでカッコイイもんです。この言葉がどんなシーンで使えるかより、この言葉を使えることが目的になっちゃうよーな魅力があって、不意に思わずつぶやいたりしそーな気がします。(^^;)


限りのないデジャ・ヴュ、繰り返すたびに悪くなっていく。


真っ暗です。最高に真っ暗。真夜中の絵を画くのに黒のクレヨンを塗りたくってもここまで暗くはなりません、きっと。1973年5月、犬を見るために訪れた郊外の惨めな駅のベンチに腰を下してうんざりした気分で煙草を一本吸った時の気分を表した言葉。『1973年のピンボール』ですね。このシーシュポスの神話みたいなコンセプトは、もちろんマテリアルなモダンとして「終わりなき日常」と定義するのがこのWEBですけど。でも、こんな言葉、どこでどう使うんでしょうね。などと言いつつ、けっこう使える言葉だよなあ、とか思ってます。初夏の晴天の下で、なんとなく失われた時を求めての気分の時なんか、ピタっときそうな言葉ですね。当時の八高線北八王子駅なんか思い浮べるのはボクだけでしょうか。


文明とは伝達である、と彼は言った。
もし何かを表現できないなら、それは存在しないのも同じだ。いいかい、ゼロだ。



『風の歌を聴け』で主人公の「僕」が小さい頃「ひどく無口」なのを心配した両親が精神科医の家へ連れていき、そこで医者が「僕」に向かって言った言葉。治療の一環として「表現」することの大切さを説明したシーンですね。もちろん村上春樹・全作品を通底するテーマでありイデオロギーのラディカルな表明でしょ。この
第一作からアンダーグラウンドまで一貫したパースペクティブはリアル≦現実の構図の中で、どこまで表現が伝達されるか、というところにあって、それが個々の物語である以上、できる限り個とその現実への近似値を取るために作家→ライターへのシフトとも理解できるスタンスのコントロールを、村上は試してもいます。とにかく、いきなり結論のような言葉「文明とは伝達である」と「表現できないなら」「ゼロだ」の示すものほどリアルな現実はないですね。気持ちが伝わらない恋愛なんて、人の数だけあるんだろうけど、あなたは誰に何を伝えたいですかア? 少なくとも、この言葉は恋愛には使えそうにありませんね。あくまでアイロニカル。(^^;)


「遠くから見れば、」と僕は海老を呑み込みながら言った。
「大抵のものは綺麗に見える。」



いきなり哲学ちっく。とゆーかそのものですね。ココのポリシーでもありましょー。友人と2人で翻訳事務所を営む「僕」が事務所の女の子に「ねえ、少し相談していいかしら?」と食事に誘われ、「本当に寂しくないの?」という14回目のクエスチョンを最期にそれぞれが帰途につくまでの会話の柱となるお言葉がコレ。女の子の14回の?にこめられた2回の「寂しくないの?」と1回の「恋人はいるの?」の質問ににじむ想いと、それを、あくまで遠ざける「僕」のスタンス。でも、単に遠ざけるんじゃなくて自分の関係性を含めて遠隔対象化するところに、哲学が見えるのがさすが春樹ワールドです。『1973年のピンボール』を読んだ時、最初にノックアウトされた言葉でした。


「殆んど誰とも友だちになんかなれない。」
それが僕の一九七〇年代におけるライフ・スタイルであった。ドストエフスキーが予言し、僕が固めた。



誰とも友だちになれないんなら、まあ、セイシュンの悩み風だけど、それがライフ・スタイルで、しかもドストエフスキーが予言したことで、自分がそれを実証した、みたいなこの展開にはオドロキました。こりゃ、哲学者の言葉じゃんねえ、と思ったもんです。誰とも友だちになれないクラさを、僕が固めたってゆー強固な自己確認でそれこそ固めちゃうスゴサ。力強い暗さだったりしますね、もう、こりゃ。ニーチェかあ? 『1973年のピンボール』のお言葉。どんな時使えるかなあ?


ハヴ・ア・ナイス・ゲーム/良きゲームを祈る。


『1973年のピンボール』(村上春樹)の言葉。<ピンボール研究書「ボーナス・ライト」の序文・・・>として書かれてます。まあ、この人はこーゆー作(策)が好きですねえ。傘さしてエンパイアステートビルから飛び降りたり。グッバイの代わりに使いたい気がちょっとします。こーゆー言葉は、誰に対してでも使ってあげたい。ゴッド・ブレス・ユア・ヘッドって使ったら怒った人がいたなあ。昔のこと。アハハハ