「私には何もないわ。」
「失くさずにすむ。」
『1973年のピンボール』からクールなハルキワールドしてるコトバ。ゲーデル的決定不能性がポイントになってる典型的な例ですね。これをトートロジーと受けとめる感性の人とはGood-bye!…するのがドーナツ的宇宙のイデオロギーですよん。言葉の展開(論理)を決定不能性に追い込むことによって何を表現してるか? クールで、文学的哲学的芸術的(つまり意味がないとゆーこと)な修辞ではニヒルとか虚無的とかなんとかカッコつけた感じでしょーが、実際の意味はゼーンゼーン違います。言葉(非現実)の決定不能性を明らかにすることで現実(非言葉)をフォーカスし、まず、その現実の全面肯定からスタートすることを表明してるんですね。どっても前向きですよ、コレ。現実やマテリアルな状況、そういったTPOからスタートしなくて、いったいどっからはじめられるんでショーねえ。印象や観念といった色メガネや先入観とかレッテルや夢想からフリーな、とても力強い現実の肯定から起動するタフな人生観・世界観を見出したいですね、こーゆーコトバに。
「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか。」
シブイ、哲学的、で、ちょっとキツイ言葉でもあります。マンガの『孔雀王』にもこんなセリフがあったなあ。『風の歌を聴け』でハートフイールドの墓碑に引用されてるとかいうニーチェの言葉らしいけど。文学的な拒絶の言葉つーとこでしょーか。相手にこんな風に言われたら絶句するしかないですもんね。えー、逆に絶句させたい時には効くこと間違いなし! あくまでクールに静かにモゴモゴと口にしましょー。機会があったら、だけど。
見知らぬ土地の話を聞くのが病的に好きだった。
『1973年のピンボール』最初の1行。思わず引き込まれそうな一言で、なんかワンダーランドへの誘いコピー風。期待して入っていくと“郊外の惨めな駅の犬”の話しだったりします。しかし、そこでガクッときたりしないですね、全然、逆。もっとなぜか物語に引き込まれていきます。まあ、ここでつまんないと感じた人は、それこそつまんないでしょう。そして、たぶん、そーゆー人そのものが、ボクにとってもつまんない人なのかもしれません、なんて思ったりします。アナタにとってはどーですか?
何かどっかに物語があって、何かどっかに面白いことがあって、もっと楽しいことがあって、もっと夢があって、とゆー人はいるでしょう。きっと、たくさんいます。それはそれでいいんだけど、“今、ここ”に対してどんなスタンスでいるのか考えると、つまらないことが多いんですね、そーゆー人。
村上春樹の“僕”みたいななんでもない日常を生きている人に自分をオーバーラップさせることと、夢に描いたものを喜ぶことなら、日常をとるのがリアルであるのは明らか。疲れたノスタルジックでもなく、夢想された可能性でもなく、リアルな日常とその身体性を噛み締めていくハルキワールドではSFチックな表現でさえリアルなものとして感受できます。それこそ“まったり”とした“僕”の“日常”に“リアル”を覚えて“感動”できるとすれば、それは何なのか? この問いを原点にループするものが永劫回帰なのは当然だけど、それ以外に何かをデッチあげて“脱日常”したつもりが、単なる“電波系”だったり、その日常が「電子の密室に蹲るナルシス」(『逃走論』)でしかなかったりするサンプルはあふれてます。日常という現実をそれこそリアルとして亮受できる感覚とブレインはどこにあるのか? 春樹やばななの示した問いの解は、それこそ読者それぞれの中にしかないもの。そして表現が“問い方”そのものでもある作品性こそハルキワールドのアウラでしょー。読者を問うことでもリアルなのがハルキワールドだと言えるのが、今必要な認識かもしれません。φ(..)メモメモ
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
村上春樹の原点にしてスタート、『風の歌を聴け』の最初の1行の言葉。学生に頃に知り合った作家が僕に向かって言った、ということになってます。もちろん、ホントにハルキワールドのコンセプトですね、これは。テキストで表現しようとしてる本人がそのテキストの不完全性を最初に自覚(自らの表現能力も含めて)しながら、しかもその不完全性に対しても絶望しないことをそれそのものにおいて同時に表現しているというある種見事なテキスト表現です。自己言及であり自己充足であり、絶対矛盾の自己同一てな感じ。ニヒルなよーでいて、実はもっとあたたかいものを持ちながら、でもあくまでクールに言い放ってみせるとこは、スタイリッシュでカッコイイもんです。この言葉がどんなシーンで使えるかより、この言葉を使えることが目的になっちゃうよーな魅力があって、不意に思わずつぶやいたりしそーな気がします。(^^;)